※本稿は、清水俊史『お布施のからくり』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ出家者の妻帯が許されているのか
仏教において出家者が尊ばれる理由は、厳しい戒を保ち、人間が本能的に抱く欲望を抑える点にある。
「性欲を満たしたい」「異性と結びつき家庭を築きたい」「苦労を避け楽を追求したい」「嗜好品を手に入れたい」「娯楽を楽しみたい」「贅沢を味わいたい」「美食を堪能したい」といった、在家者が求める世俗的な幸福を犠牲にし、あえてそれとは逆の厳しい修行の道を選ぶ。
よって、妻帯世襲で蓄財し、世間並みの生活を送っているのであれば、それは決して出家者ではない。とりわけ、出家者の妻帯は、出家の意義を喪失させる行為である。そもそも、最も重要な戒である禁欲を守っていない破戒僧が、葬儀のたびに亡くなった檀信徒に戒名を授け、その見返りにお布施を受け取るというのは不思議な光景である。
確かに末法無戒を最も原理的に受け入れている浄土真宗においては、宗祖の親鸞から現代にいたるまで妻帯が当然のように行われてきた。だが、その代わり、浄土真宗では「戒すら保てない自分たちが、戒名を授けることはできない」として戒名ではなく法名を授けるにとどまり、その料金も1万円程度で極めて安く、そこに属する僧侶たちも「お布施するに値する立派な僧侶など存在しない」「自分たち僧侶は、在家者と比べて偉いわけではない」という深い自覚を抱いている。
■仏教学者の考え
妻帯世襲が当然となった現状について、日本仏教内から反省の声があがっている。曹洞宗の碩学・山内舜雄は、「宗侶の妻帯在俗の生活を、なんら宗義上からカバーすることなく今日に至っている。
つまり、もはや妻帯世襲の曹洞宗は、釈尊の教えに反するどころか、宗祖である道元の精神にも反しているというのである。
だが、このように嘆きつつも山内舜雄は、具体的な今後の方針については、「肉系相続化した世襲教団の中で、きびしい出家主義的高祖道が、どこまで生かし得るか」と述べて、妻帯世襲の現状を容認する(「仏教教団の諸問題――宗学と教団の現状とをどう調整するか」『日本仏教学会年報』39、1974)。
■お寺が主催の「寺コン」
このように反省の動きがある一方で、開き直って破戒を促進させる動きも活性化している。曹洞宗や浄土宗などの諸派では、寺院後継者を探す部署を設け、なんとそこでは「配偶者を求め、相手の寺院後継者となることを希望する僧侶」や「寺院後継者となる僧侶を配偶者として求めている寺院息女」を募集している。
また、臨済宗大本山・円覚寺では、2017年に同宗の男性僧侶30人の伴侶となる女性を募集して「寺コン」を開催した(「毎日新聞」2017年9月10日)。
宗門側の言い分としては、「寺院の後継者問題は、現実問題として、妻帯世襲を前提とせざるを得ない」ということになるのだろうが、これは仏教の教理的な原理原則を完全に無視している。
釈尊や宗祖たちの教えを意図的に裏切ってまで寺院を存続させ、檀家のお布施で生活を営むことは、果たして宗教と言えるのだろうか。聖を無視して俗に迎合するこの惨状は、もはや日本仏教が「宗教法人」ではなく「営利法人」にならざるを得ない実情を力強く物語っている。
■妻帯を禁止すべきなのか
僧侶の妻帯世襲について、よりラディカルな解決方法も提示されている。なんと、僧侶の妻帯を禁止すべきであると、仏教学者にして浄土宗の僧侶・平岡聡(京都文教大学教授/元学長)によって主張されている。
すなわち、「妻帯による世襲制度は、すでに指摘したように、『志』のない僧侶を再生産する装置となっている」「段階的に僧侶の妻帯を禁止し、僧侶の数は減っても少数精鋭の出家者集団を形成しないと、日本仏教の未来はない」というのである(『日本仏教に未来はあるか』春秋社、2024)。
2024年の曹洞宗関東管区教化センターの布教講習会でも、平岡聡は、妻帯禁止など戒律の復興を提言し、「布教をしなかったら坊さん失格だ」とこれからの僧侶が進むべき道を語ったという(「仏教タイムス」2024年11月14日記事)。
この平岡聡の提言は、仏教の原理原則に従うなら理にかなったものである。だが、当の平岡聡にそれを言う資格があるのかは甚だ疑わしい。そもそも平岡聡は、浄土宗の僧籍を持ちながらも住職をせず、さらに妻帯者でありかつて自著ではご子息に恵まれた幸せを高らかに語られている(『日本仏教に未来はあるか』、および『ブッダが謎解く三世の物語』下巻、大蔵出版、2007)。
■浄土宗は妻帯世襲を是認
正直なところ、大学教授として裕福な俗人生活を過ごしている僧侶・平岡聡が、自身の破戒については何ら省みることなく、上から目線で現代日本仏教の堕落と未来を憂え、次世代の僧侶に対して妻帯禁止を迫るという構図は、あまり説得力がない。
他方、現代日本仏教の堕落ぶりを是正するために、宗門が所属僧侶に道徳規範を徹底させようとする動きがある。
たとえば、浄土宗では、『浄土宗僧侶生活訓――あるべき僧侶の姿を目指して』(浄土宗総合研究所、2022)という冊子を刊行し、所属僧侶の綱紀粛正を図っているが、そもそも執筆陣は妻帯者がほとんどであり、最大の病巣であるはずの妻帯世襲については、「家族の存在なしに、寺院を円滑に運営することは困難」とむしろ破戒を是認している。
この冊子では、なんと法然が僧侶の妻帯を認めていたという根拠なるものを引用しながら、次のように僧侶が結婚する意義を述べている。
始法然上人は結婚について、次のように仰せになっている。現世を過ぐべき様は念仏の申されん様に過ぐべし。念仏の妨になりぬべくば、何なりとも万を厭い捨ててこれを止むべし。いわく、聖で申されずば妻を設けて申すべし。
浄土宗僧侶が結婚することの意味は、ここにある。ならば、念仏信仰の中に僧侶、家族が仲良く暮らし、檀信徒がお寺に足を向けやすい雰囲気を作りたいものである。(*太字筆者)
■もはや出家者ではなく在家者の集団
しかし、これは法然の言葉を誤解している。妻帯世襲の現状を開祖の言葉で擁護するために、先の太字を「妻を持ったほうが念仏できるなら、僧侶(聖)でも妻帯するべきである」という意味で読み込んでしまっている。
この太字を正しく読めば、「もし僧侶の身分(聖)で念仏を唱えることができないのであれば、妻を持つ在家の身分で念仏を唱えるべきである。逆に、妻を持つ在家の身分で唱えられないなら、僧侶(聖)となって念仏を唱えるべきである」という意味でしかない。当たり前であるが、法然にしてみれば、妻帯世襲している現在の浄土宗は、もはや出家者ではなく在家者の集団にすぎないのである。
■破戒したい放題の現状
なるほど、確かに浄土宗の法然は、弟子の親鸞に妻帯を許したとされるから、教理的に僧侶の妻帯を許す余地はあるかもしれない。とはいえ、法然は妻帯せず戒を守ったわけであるし、明治5年に入り「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事)の太政官布告が出されるまでは、浄土宗において妻帯世襲は禁じられていた。
このような歴史的事実を踏まえるならば、現代の浄土宗において僧侶の妻帯世襲が教理的に認められる余地はない。法然の言葉の通り、妻帯世襲して念仏をしている以上、それは出家者ではなく在家者なのである。
このように、浄土真宗を唯一の例外として、日本仏教の諸派は僧侶の妻帯世襲を正当化することができない。その浄土真宗においては、妻帯世襲を教理的に容認する代わりに、「お布施するに値する立派な僧侶など存在しない」という自覚がある。もし、日本仏教にこの自覚がないならば、破戒したい放題の現状に反省していないと言えるだろう。
■性加害を行った住職を僧侶として容認した天台宗
日本仏教の破戒容認は、僧侶の妻帯世襲のみならず、ついには性加害すらも容認するに至っている。
2024年、天台宗の尼僧が、2009年から約14年間にわたり、四国の寺の住職から性暴力を受け続けたとして、加害者の僧籍剝奪を天台宗に求めた。この住職は、自身の性加害を認める「念書」に署名している。にもかかわらず、2025年3月24日、天台宗の審理局は、住職資格の剝奪(罷免)には踏み切ったものの、僧籍の維持を認めるという、常識では到底理解し難い軽い処分を下した(朝日新聞「天台宗の審判「受け入れることできない」性被害訴える尼僧が会見」2025年4月5日)。
本来、このような性暴力は、ブッダ以来の伝統である出家戒と律に照らして処分されるべきものであり、当然ながら僧籍の剝奪が妥当である。
天台宗の宗祖・最澄は、出家戒を捨てて菩薩戒による出家を導入したが、その菩薩戒においても性暴力は「菩薩の資格を失う最重罪」とされている。すなわち、性加害を行った住職を僧侶として容認する天台宗の決定は、ブッダの精神にも、最澄の精神にも、明確に反していると言わざるを得ない。
■自ら「お布施に値しない集団」と告白している
さらに、ブッダの教えによれば、このような破戒僧の跋扈する教団へのお布施は、得られる功徳が乏しいという(『中部』一四二経「施分別経」)。
天台宗が僧籍剝奪に踏み切り、教団としての品位を保つことこそが、檀信徒のためである。
このように、天台宗の破戒容認は、教理の観点から見ても、お布施の意義そのものを無化する行為であり、自ら「お布施に値しない集団です」と告白しているに等しい。今回の性暴力問題については、天台宗内部で緘口令が敷かれており、被害者を擁護する発言を公に行うと、甚大な圧力がかかる状況にあるという。
しかし、そのような厳しい状況下においても、本件をSNSなどで取り上げ、教団側の対応を批判する天台宗僧侶が存在することも事実である。
このような僧侶は、困難を乗り越えて仏法を守ろうとする姿勢において菩薩戒(不挙教懺戒、破法戒)を堅持しているので、教理的にも「お布施により値する」という点は明白である。
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清水 俊史(しみず・としふみ)
仏教学者
2013年、佛教大学大学院博士課程修了、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などを務める。著書に『阿毘達磨仏教における業論の研究 説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』『初期仏典の解釈学 パーリ三蔵と上座部註釈家たち』(いずれも大蔵出版)、『ブッダという男 初期仏典を読みとく』(ちくま新書)がある。
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(仏教学者 清水 俊史)