※本稿は、清水俊史『お布施のからくり』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■妻帯世襲という最大のタブーが許される日本仏教
日本仏教はすでに形骸化している。
釈尊は戒を保つ僧団や出家者にお布施をすれば、大きな果報があると説いた。だが、少なくとも日本仏教において、所属僧侶の清戒を保とうとする宗派は存在せず、とりわけ妻帯世襲という最大のタブーを犯しても僧籍剝奪処分にならないのは、国際的にみても日本仏教だけである。釈尊より続く伝統はすでに日本仏教においては途絶えていると結論せざるを得ない。
そもそも世の中を見渡せば明らかなように、日本仏教は在家とほとんど同じ生活を送り、釈尊の定めた基準に従えば、日本仏教の僧侶はすべて「袈裟を身にまとった在家者」にすぎない。よって、「この宗派なら、所属する僧侶は禁欲や清貧の品位を保っているに違いない」とか、「剃髪して袈裟をまとっている僧侶だから、一般人よりもお布施に値する」といった前提は全く成り立たない。
現代では、「遺産を宗教団体にすべてお布施する」と言えば、周りから「洗脳されているのか」と心配されるのがオチである。だが、もし、「恵まれぬ子供たちのために、遺産を日本ユニセフ協会にすべて寄付する」と言えば、周りから「なんと殊勝な人なのだろう」と尊敬のまなざしを得るに違いない。
このような違いが生じる理由は明白である。仏教教団よりも公益財団法人のほうが、世のため人のために役立つ、立派な存在であると世間において認識されているからである。
■日本仏教の僧侶は特権階級
日本仏教は享受している特権に比して、社会的に有益な組織とはみなされていないきらいがある。日本仏教の僧侶は、宗教法人が持つ非課税などの既得権益を独占する特権階級と言える。
宗教法人の財産については相続税さえ免除され、さらに世襲によって宗教法人の代表役員が継承される現状において、都心の大寺院などはもはや現代の貴族と言っても過言ではないほどの栄華を極めている。そうであるなら、それに応じた“行い”が求められるのは当然だろう。
にもかかわらず、日本仏教の多くの僧侶は俗人と変わらない生活を送り、自ら戒を保たぬ一方で檀家に戒名を授け、お布施を受け取るという矛盾に満ちた存在となっている。
多くの日本国民は世間の慣例に従い、葬儀や法事で僧侶を呼び金銭を支払っているが、それはあくまで出張労働のサービスに対する対価としての意味合いが強い。そのため、「これは高いな」「少しでも安く抑えたい」といった意図が裏で働きやすい。このような気持ちで僧侶に対価を支払う限り、それは純粋なお布施とは言えない。
本書の冒頭でも述べたように、「お布施はお気持ち」である。
■公益財団法人に寄付するほうが意味がある
現代の日本仏教においては、ブッダや宗祖の戒めを堅持する僧侶が稀である以上、お布施に大きな果報をもたらす立派な僧侶もまた稀である。したがって、せめて施主側が「お布施してよかった」と心から感じられなければ、そのお布施が十分な果報をもたらすことは期待できない。
日本仏教が形骸化している現状では、お布施に値するかどうかは、もはや僧俗の差ではなく、その団体や人物が「お布施したい」と思わせるほど尊いかどうかにかかっていると言える。
このような原則を踏まえるなら、いやいや寺院や仏教教団にお布施をするよりも、恵まれない人々を救いたいという高尚な気持ちで公益財団法人に寄付をするほうが、より大きな果報を得られるだろう。日本仏教の諸宗派は、公益財団法人よりも高潔な存在であると世間から認められるよう努力する必要がある。
また、かかる視点からすれば、たとえ教理的な裏付けがなくても、日本仏教の諸宗派が、炊き出しなどの社会事業やボランティア活動を営むことには一定の妥当性がある。
たとえば、江戸時代に篤い信仰を集めた鉄門海上人(1768―1830)は、行者として各地で布教し、鶴岡市加茂坂の新道工事や、遊佐町菅野谷地の新田開発など様々な社会事業を手掛けたと伝えられている(『神と呼ばれた木食行者鉄門海』湯殿山注連寺、2017)。
人々にとっては、必ずしも仏道修行だけが“善”なのではなく、福利のために活動することもまた“善”であることは言を俟たない。とりわけ現代においては、そのような存在にこそ「お布施にふさわしい」と信仰が集まるだろう。
■推し活こそ真の意味でのお布施
このような原理原則を踏まえると、破戒僧に渋々お布施をするよりも、アイドルに対して純粋な気持ちで“推し活”をするほうが、よほどお布施として果報が大きいと言えるだろう。
そもそも“推し活”には、理論を超えた宗教的衝動の側面がある。たとえば、CDが発売されれば、それを聴くわけでもないのに大量購入したり、動画配信があれば見返りを求めることなく投げ銭をしたりする。このような“推し活”こそ、交換やサービスの対価を超越した真の意味でのお布施と言える。
その際の施主(ファン)の気持ちは、散財しながらも「応援したい」「応援できてよかった」という極めて強い満足感に満ちていると推認される。このように施主(ファン)の気持ちが強まるのは、巷の破戒僧たちよりも、アイドルのほうが出家者としての資質をより備えていると判断されるからである。
なぜ、出家者は尊いのか――それは、厳しい戒を保ち、「性欲を満たしたい」「異性と付き合い結婚したい」「苦労せず楽をしたい」「嗜好品が欲しい」「娯楽を楽しみたい」「贅沢をしたい」「美味しいものを食べたい」といった、人間に自然と湧き起こる欲求を抑え、世俗的価値観からすればあえて不幸な境遇に身を置き、修行に励みながら、世俗社会の安寧と幸福を願っているからである。
■アイドルとは現代の出家者
では、なぜアイドルは尊いのか――それは、恋愛という人間の本能を抑止し、安い給料にもかかわらず、ファンのために日々厳しいレッスンに励む姿が、まさに現代の出家者と言えるからである。
恋愛禁止が戒として機能し、もし恋愛が発覚すればグループから“卒業”や“活動自粛”を余儀なくされるという厳格さは、日本仏教が世襲妻帯を黙認している現状よりも厳しい。このことを考えると、仏教教理に照らし合わせても、アイドルと破戒僧のどちらにお布施をするべきかは明白である。
ここで、「アイドルだって、表に出さないだけで裏では恋愛しているに決まっている」と主張する人も現れるだろう。確かに、そうかもしれない。たびたび騒がれる熱愛報道は、その可能性を強く示唆している。
しかし、少なくとも公に「私には恋人がいます」と宣言しているアイドルはいなく、ファンは「恋人などいない」と信じて“推し活”に励んでいる。せめて裏で破戒している僧侶もまたこれにならい、世間に対しては常に清貧であることをアピールして、お布施にふさわしいと思われる努力をするべきであろう。そのような努力は檀家の気持ちを高め、結果としてお布施の果報をより実り多いものにする。
■僧侶はアイドルよりも尊い存在であるべき
以上より、日本仏教の僧侶はアイドルよりも尊い存在であるべきであり、そうでなければ施主から「お布施するにふさわしい」と認められることは困難である。苦しみを終極させることが仏教の目標であるのに、お布施が仏教徒を悩ませ苦しめているようでは本末転倒である。
逆に言えば、お布施は施主の気持ちを表すものである以上、僧侶がアイドルよりも尊いと評価されていれば、多くの人々が「お布施してよかった」「立派な本堂が建てられてよかった」と喜んでお布施を行うことになる。結果として、仏教は興隆し、施主は大きな果報を享受するであろう。また施主となる在家者も、先祖のためにも、自分自身のためにも、そして仏教界のためにも、「お布施してよかった」と思える相手を探すことがなにより求められる。
そのようなお布施こそ、在家者と出家者のあいだに相互利益的な関係を形成し、健全な社会の基盤を支えるものとなると結論づけられる。
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清水 俊史(しみず・としふみ)
仏教学者
2013年、佛教大学大学院博士課程修了、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などを務める。著書に『阿毘達磨仏教における業論の研究 説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』『初期仏典の解釈学 パーリ三蔵と上座部註釈家たち』(いずれも大蔵出版)、『ブッダという男 初期仏典を読みとく』(ちくま新書)がある。
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(仏教学者 清水 俊史)