火山が活発化している現在、過去の災害から学べることは何か。作家の濱田浩一郎さんは「大河『べらぼう』にも出てくるように、天明の浅間山大噴火は江戸に灰を降らせただけでなく、江戸川には群馬方面から犠牲者の体がバラバラになって流れてきた」という――。

■蔦屋重三郎は「こりゃあ恵みの灰だろ」と言ったが…
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)では第25回「灰の雨降る日本橋」において、浅間山(長野県と群馬県境の山)の天明大噴火が描かれます。横浜流星さん演じる版元の蔦屋重三郎(1750~1797年)は、吉原から日本橋への出店を狙っており、噴火による降灰をなんらかのビジネスチャンスにするようです。
実際の天明大噴火は当時の史料に記録されていますが、その様子をドラマなどで直接描くことはおそらくできません。あまりにも凄惨だからです。
しかし文章ではそれができると筆者は感じています。先の大戦や大災害でもそうですが、その悲惨さなどを後世に伝えることにより、教訓を得て、教訓を活用することが良き未来につながると思います。それでは天明の大噴火の詳しい様を見ていきましょう。
蔦屋重三郎が33歳だった天明3年(1783)4月8日、突如として煙が四方を覆い、大地が鳴り響きます。浅間山の噴火が始まったのです。現在の群馬県嬬恋村など、近隣の家の戸障子も振動し、それはまるで地震のようでした(噴火は8日ではなく、9日に始まったとする説もあります)。「雷電か地震か」と感じる人もいましたが、浅間山から煙が立ち上るのを見て人々は噴火だと気が付きます。
■浅間山の噴火はだんだん激しくなり、7月6日に大噴火
4月の噴火は「中規模」と言われており、それほど大したものではありませんでした。
5月26日には2度目の爆発(噴火)がありますが、それは前回とは異なり、天まで届くかと思われるほどの噴煙が上がります。地震のごとき鳴動も再びありました。噴煙は各地に灰を降らせることになります。そのせいで草木が白くなりました。草を馬に与えるのにも灰を洗い落とさねばならず、難儀したようです。
6月18日には3度目の噴火が起こります。嬬恋村には小石が降り積もりました。その10日後にはまたしても噴火が起こり、大地はしきりに鳴動します。火口からの黒煙はより強くなり、山中からは赤い雷が走り出ました。その不気味な光景に地元の人々の身の毛はよだち、冷や汗を流し気絶するかと思われるほどの精神状態となります。
それ以降も噴火は続き、7月に入ると信州・上州・相州・武州・野州・常州など関東諸国に灰が降ってきました。灰のみならず軽石も多く降り注ぎます。

以上、記してきた内容でも当時の人々の恐怖は十分想像できますが、事態はそれで収まりません。7月6、7、8日にはそれまでとは比べものにならない大爆発が起こるのです。その爆発のすさまじさと鳴動の激しさに往来の人々は、ただ呆れ果て、空を眺めて「胸をひやす」(冷やす)のみだったと言います。自然の猛威に呆然とする人々の様がうかがえます。神棚に燈明を上げて祈る人もおりました。
■火口から流れ出た溶岩流で、草木は焼け、鹿や犬も焼死
7月6日午後2時頃、激しい噴火が始まり大量の軽石が落下。それが終わると、火口から灼熱の溶岩流が流出してくるのです(6日の夜から7日)。8日の朝にも浅間山は大爆発。火煙が噴き上がり、火口からはまたもや溶岩流が流れ出します。
溶岩流は土砂や岩石を呑み込むようにして、鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原地区)に迫ります。そして火口から約15キロも北にあった同村を埋め尽くしてしまうのでした。ちなみに鎌原村を襲った土石なだれは火砕流ではなく「冷たい土砂の流れだった」とする報告もあります(早川由紀夫「鎌原村を襲った土石なだれは、鬼押出し溶岩から発生した」『地理』62ー8、2017年)。

山から「熱湯」が湧き出し、それが押し下されたことにより林は焼け、鹿や犬も焼死します。原も「一面の火」に覆われました。「熱湯」の流出により、神社・仏閣・民家・草木が押し流され、その跡は「真黒」となります。もちろん、草木や民家のみならず、人も「流失」してしまいます。
鎌原村の人々は、7月8日になっても灰が降ってくる用心だけをしていたとのこと。天気も良かったとのことで、まさか山が噴火し溶岩流が流出してくるとは考えていなかったのでしょう。村の人々は土蔵に道具をしまい、自分たちも倉に入り昼寝をしていたと言います。
■鎌原村の村民は597人のうち466人が犠牲になった
浅間山の噴火が始まったのは前述のように4月のことでしたが、それ以来、草津温泉(群馬県)は一層の賑わいを見せておりました。浅間山頂から噴き出す噴煙が夜空を染め、美しかったからです。湯治客は「両国の花火を見に行く」と言って浅間山が見える高台まで行き、見物していたのでした。ところが呑気な人々も7月6日頃ともなると見物は止めたそうです。さすがに不穏なものを感じたのでしょう。
人間というものは大事故(大事件)の直前になるまで事態の深刻さに気が付かないものです。
さて、溶岩流の流出により鎌原村の村民が多く亡くなります。597名いた村民のうち466名が犠牲となったのです。当日、他所に行っていた者、小高い場所に逃げていた者だけが助かりました。これは津波と同じと言えます。鎌原村を壊滅させた溶岩流は吾妻川に雪崩(なだれ)こむことになります。浅間山から離れていた江戸でも噴火の影響や惨状が見聞できました。
天明の大噴火の惨状を記しているのが「べらぼう」にも登場している蘭学医・杉田玄白(1733~1817)です。玄白は『後見草』との書物を残していますが、そこに大噴火の凄惨さが記述されているのです。
■溶岩流が土石流、そして洪水となって江戸川に多数の死体が…
ちなみに玄白は当時、江戸に住んでいました。玄白は天明3年(1783)の春から夏は晴れの日はまれであり、ほとんど雨が降っていたと記しています。6月もそうした天気であったので、当然、気温は低下。
よって年寄りは冬の衣服を着ていたとのこと。7月に入っても同じような天気でしたが、4、5日になるとやっと暖かくなってきます。人々は作物の実りがこれで良くなると喜んだようですが、異変は6日に起こりました。夜に西北の方角で鳴動があったのです。
人々は当初、雷かと思ったようですが、そうではありませんでした。夜が明けても空の色は仄暗く、庭には風に誘われて細かい灰が降ってきます。昼頃に一時、降灰は止みました。しかしそれは一時のことで次第に降ってくる灰は大粒となっていきます。それは粟や黍(きび)のような大きさでした。灰かと思い手に取ってみたらそれは焼砂だったとの話もあります。
8日の朝には今までよりも激しい鳴動が発生。人々はもう少し江戸に近い日光か筑波の山が噴火したと考えていたようです。
9日には噴火の被害の惨状がより明らかとなってきます。江戸川の水の色が泥のように変化したとして、不思議に思った者がそれを眺めていると、大木や人家の材木、調度品などが細々に砕け折れた状態で流されてきたのです。
物だけではありません。手足の切れた人や馬の死骸も一緒になって流されてきたのでした。数え切れないほどの人馬の死体が川一面に浮かんだのです。同日、権現堂川・中利根川でも同じような光景が見られました。壊れた材木類、柱、戸障子、調度類……そうした物に混じって、手足が切れ首がない、あるいは身体が半分なくなったような人間の死体が沢山流されてきたのです。地獄絵図とはまさにこのことでしょう。
■火山活動が起きている2025年にも通じる教訓
徳川幕府の正史『徳川実紀』はこの天明の大噴火の被害を「信濃・上野両国の人民流亡し、あまつさへ石にうたれ、砂にうずもれ死するもの二万余人、牛馬はその数を知らず」と書いていますが、玄白の『後見草』の記述の方がより真に迫っているように思います。
さて関東地方に灰を降らせた浅間山の大噴火。それは凶作をもたらし、天明の大飢饉の一因ともなりました。更にはこの大噴火は世界史をも変えたとされます。浅間山から放出されたあまりにも大量の火山灰が、欧州の異常気象・凶作の要因となり、それがフランス革命(1789年)につながったとの見解もあるのです[村山磐「浅間山天明大噴火とフランス革命との関係 火山灰浮遊による異常気象・凶作の例」(『東北学院大学論集』11、1981年)]。
浅間山の天明の大噴火は国内外に大きな影響を与えたのでした。

参考・引用文献

・大石慎三郎『天明三年浅間大噴火』(角川書店、1986年)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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