■本土の人は知らないもう一つの「慰霊の日」
沖縄を代表する音楽家・歌手の海勢頭豊(うみせどゆたか)さんは、沖縄戦や戦後の反基地闘争などをテーマにした楽曲を手がけてきた。昨年は、米軍機の墜落によって児童含む17人が犠牲になった痛ましい事件から65年の節目に、鎮魂歌を届けた。改めて事故の実態と今日なお続く課題を検証したい。
沖縄の6月には、もう一つの「慰霊の日」がある。1959年6月30日に起きた「宮森小学校米軍ジェット機墜落事件」である。
午前10時40分ごろ、石川市(現・うるま市)の上空を飛行していた米軍嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が突然、エンジン火災を起こし、危険を知らせる警告ランプが点灯した。搭載していた25ポンド爆弾4発を南西の海に投棄し、基地へ引き返そうとした。だが、制御不能になり、パイロットはパラシュートで脱出。機体は、家屋などをなぎ倒しながら宮森小学校近くの住宅地に墜落、大破し、炎上した。
事故当時、小学校はミルク給食の時間で多くの児童は校舎内にいた。機首部分が6年生などのクラスが入るコンクリート校舎に激突している。
■「宮森の子は永久に 平和の使徒になる」
当時の地元紙の記事を見ると、焼け落ちた校舎や、安置所となった教室で子どもの遺体に取りすがって泣く遺族の写真が掲載されている。戦後からまだ14年。米軍機は、沖縄戦を何とか生き継いできた人々の命を奪ったのである。
事故から65年目の昨年、宮森小学校で遺族や事故体験者、在校生ら300人が参列して慰霊祭が行われた。学校敷地内にある「仲よし地蔵の碑」で献花や焼香を行った後、式典の冒頭で海勢頭さんが作詞・作曲した「630の誓い」を歌った。
フクギの花散り香る季節は過ぎて
「慰霊の日」に祈り 630に誓うよ
奪われた平和の島を取り戻すと誓う
宮森の子は永久(とこしえ)に 平和の使徒になる
戦後復興いち早く石川の街は
笑いあふれていたけれど 630に泣いたよ
返らない命の証 忘れないと誓う
宮森の子は永久に 平和の使徒になる
(全歌詞は写真を参照)
■米軍に占領され、復興の出発地となった街
海勢頭さんはこう話す。
「慰霊のための歌にはしない。みんなで平和を誓う歌にしたい。誓いを立てないと亡くなった人に対する慰霊にはならない。二度と戦(いくさ)のない世にするために、誓いを立てることが祈りなんだよ。
父親を戦争で亡くした海勢頭さんは、幼いころから石川に住む叔父の家によく遊びに行ったという。高校も石川市に隣接する具志川市(現・うるま市)の前原高校に入学した。そのため、石川が発展していく様子をよく知っていた。事故が起きたのは高校1年生の時だ。数日後に現場を見て、強いショックを受けた。
2番の歌詞の冒頭にあるように、石川は戦後の沖縄復興の出発地となった。
石川は、戦前は美里村(現・沖縄市)の一部で、人口1800人ほどの集落だった。45年4月1日、沖縄本島中部に上陸した米軍は、3日には石川を占領して、上陸地の読谷(よみたん)や北谷(ちゃたん)の避難民を収容し始める。
■収容所から解放され、再建が始まった矢先に
米軍は巨大な「石川民間人収容所」を設置し、日々、増加する避難民を収容していく。最大時で石川の人口は3万人を超えるほどだった。沖縄戦で家や家族を失い、失意の底にあった人々の前に現れたのが「沖縄のチャップリン」と呼ばれた小那覇舞天(おなはぶーてん)だった。カンカラ三線(さんしん)をかき鳴らし、歌や踊り、笑いを披露して人々を元気づけた。
5月7日には、収容所内に石川学園(現在の城前小学校)が設立される。後に、その分校としてスタートするのが宮森小学校だ。
8月15日、戦後沖縄の行政が石川で胎動する。米軍は沖縄統治の模索を始め、石川収容所において住民代表者会議が開かれた。20日には、収容所の人々の要望や苦情などを聞くための諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)会(琉球政府の前身)」が発足する。日本で天皇の玉音放送があった日に、戦後沖縄の行政は石川を中心に第一歩を踏み出す。米軍が占領した各地域が解放されると、収容された人々は元の居住地に戻っていったが、収容所にいる間に土地を米軍基地に接収された人も多く、そのまま石川に残って生活を再建し始めた。
そこへ、米軍ジェット機墜落事件は起きたのである。
■事故の衝撃で記憶が消えてしまった
今回、事件を記録し、啓蒙活動などを行うNPO法人「石川・宮森630会」の会長を務める久高政治(くだかせいじ)さんにインタビューした。久高さんは海勢頭さんの友人で、曲作りを依頼した一人だ。事件当時は、宮森小学校の5年生だった。
「事故の時、私は運動場で遊んでいました。ものすごい爆音に驚いて、走って家に逃げ帰りました。どこもケガはしなかったのですが、全身が真っ黒に汚れていたそうです。ですから、悲惨な現場を見ていませんが、事故の衝撃が大きかったのか、1年生から5年生までクラスが何組だったのか、担任の先生が誰だったのか、名前もまったく覚えていないんです」
久高さんは浦添市役所に勤めていたため、仕事や社会活動、交友関係も浦添が中心だった。定年退職後は、地元の石川で落ち着いて暮らそうと考えた。小学校の同級生たちが行っている模合(もあい=頼母子講(たのもしこう)の一つ。地域や職場の仲間がお金を出し合って、飲み会や旅行など親睦に役立てる)にも参加した。
「その時に『5年1組だったよ』とか担任の先生の名前を教えてもらっても、全然覚えていない。いろいろと教えてもらいながら、ゆっくりと断片的に思い出すんですが、私と同じような人が何人もいるらしいんです」
■「目の前に座っていて、3人ともタイヤにやられた」
米軍機の機首部分が突っ込んだのは、コンクリート校舎2階にあった6年3組の教室だった。ミルク給食の時間だったので、ミルクが嫌いな男子児童は廊下に出ていた。ジェット機が住宅地に墜落するのを見て、すぐに2階から飛び降りて、自宅に逃げ帰った。家に着くと父親が「おまえの頭はどうしたか」と驚いている。
「事故のことは思い出したくない、語りたくないという方も多いので、私たちは慎重に聞き取り調査をしています。6年3組では男児1人、女児2人が亡くなっていますが、機首部分の鉄の塊がコンクリートをぶち破って教室の中に入っていますから、それが原因で3人の子たちは亡くなったと考えていました。ですが、一昨年になって、教室にいた当時の女子児童に話を聞く機会がありました。この女性は『ちがうよ。タイヤだよ』と言うのです。『亡くなった3人はいつも休み時間に遊んでいた子たちだった。私の目の前に座っていて、3人ともタイヤにやられたんだよ』と話してくれたのです。ずっと後になって新しい事実がわかることがあるのです」
この女子児童も2階から飛び降りて逃げようとしたが、向こう側から米兵が何かを叫びながら走ってきた。踵を返して逆方向に走り出したがすぐに捕まった。その時、自分の両腕が骨折していることに初めて気づいたという。それほど気が動転していたのだ。
■2年生の子たちは生きながら燃やされた
沖縄は小学校に幼稚園を併設しているが、幼稚園前のブランコで遊んでいた3年生の男児は爆風に吹き飛ばされ、ブロック塀に打ちつけられて死亡した。4年生の男児はおなかをこわして学校を休んでいたが、自宅の水道で水を飲んでいる時に飛行機の残骸が直撃し、その場で即死している。
2年生の木造校舎は、米軍機が墜落した住宅地のすぐ前に建っていた。トタン屋根にジェットエンジンが降り注いで燃え、屋根から火が滝のように流れていたのを6年生の先生が目撃している。2年3組では、女児4人、男児2人の6人が死亡している。久高さんが声を詰まらせながら語る。
「担任の先生の話では、飛行機が墜落した側の窓から炎が入り込んで、教室はいっぺんに火の海になった、と。2年生の子たちは生きながら燃やされているわけです。この校舎は全焼し、焼け跡から見つかった2人の女児の遺体は、性別さえわからないほどだったのです」
詩人の中屋幸吉氏は琉球大学1年の時に、小学2年生だった姪の死に立ち会い、大きなショックを受ける。「祖国復帰運動」に邁進するが、基地撤去など望めないと失望する。大学卒業から2カ月後の66年6月に自死している。あまりにも重たい告発である。
■〈われわれには、パラシュートはない!〉
琉球新報が2017年に発行した『沖縄戦後新聞』は、記者が戦後史の現場を訪ねて、当時の報道に新たな証言と事実を加えて再構成するという企画だ。その第1号で宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を詳報している。その中で、琉球大の学生が警察と押し問答の末、マスコミを装って現場に潜入した記事が掲載されている。後に山之口貘賞詩人となる中里友豪氏(故人)で、そのルポ「恐怖と血の代償―石川ジェット機墜落事故の現場」を『琉大文学』(第二巻第七号、1959年7月6日、初七日)に寄せた。6年生の教室に向かった時の惨状をこう綴る。
〈二階に上がる。廊下に穴が開いている。机や腰掛けが散乱して、爆発の物凄さを物語っている。血のついた教科書やノートなどが、散らばっていて、その上に血の足跡が鮮やかだ。飲みかけの真っ白いミルク、なま臭い血が、周囲に飛び散って、異様な空気を孕(はら)み、呼吸が苦しくなる。人間の血とは思えない、しかし明らかに小学生である、小さな生命の血が、コンクリートの床一面にこびりついている〉
次のような会話のくだりもある。
〈――操縦士は、パラシュートで助かったらしいですね。
めがねの男 そうらしいですね。操縦士も人間です。助かりたい気持ちはわかります。彼にはパラシュートがあった。だが、子供たちには何があったでしょう? 何もなかった。子供たちにはパラシュートはなかった〉
理不尽この上ない。この言葉で文末を締めくくる著者の強い怒りが伝わってくる。
〈われわれには、パラシュートはない!〉
■事故を生き延び、県トップのランナーになったのに
事故から15年後、やけどの後遺症のため亡くなった新垣晃さん(享年23)は2年3組だった。髪についた火を担任の先生が手で払い消しながら、安全な場所まで連れ出した。全身の45%にやけどを負い、昏睡状態が続いたが一命を取りとめた。
久高さんが説明する。
「やけどが落ち着くまでは皮膚が赤く、ケロイドにもなっていたので、中学でいじめを受けた時期もあったようです。ですが、新垣さんは体格がよくて、走るのが早かった。石川高校では駅伝部に入部します。ここで頭角を現して、3年生の時に800メートル走では沖縄で1、2位を争うほどのランナーになった。体育の教員になることを志望し、琉球大学教育学部保健体育学科に進んで、1年の時に県体育大会の800メートル走で優勝します」
その後も飛躍が期待されたが、2年になると伸び悩んだ。やけど痕の皮膚がつるつるしていて汗がかけないため、運動すればするほど腎臓に負担をかけていった。体育の教員になることは断念し、社会教育学科に移って、治療にも専念したという。
■墜落した機体はとんでもない欠陥機だった
久高さんが続ける。
「新垣さんは自分の得意な分野を見つけて、自信を取り戻した。沖縄のトップランナーとして誇りを持ち、みんなに感動を与えるくらい成長していきました。しかし、事故で負った後遺症が元で、多臓器不全のため23歳で亡くなったのです」
多くの人の人生を狂わせたジェット機墜落事件は、なぜ起きたのか。
米軍は事故発生直後、F100戦闘機の墜落は「エンジントラブルによる不可抗力の事故」と説明していた。しかし、米軍資料によって、整備上の人為ミスが重なっていたことも判明した。
しかも、F100戦闘機は機体が大破したり、死者が出たりするなどの「クラスA」の重大事故が、宮森小学校での事故の前年に168件(機体大破116件、パイロット死者数47人)も発生していたのである。同機が飛行していた54年~90年では1161件(機体大破889件、パイロット死者数324人)に上っている(「琉球新報」16年6月30日付)。
とんでもない欠陥機というほかない。現在、自衛隊にも配備され、日本各地の上空を飛ぶV22オスプレイを想起するが、それ以上だ。F100戦闘機は、宮森小墜落事件の2年後の61年12月7日には具志川市に墜落し、死者2人、重軽傷者6人を出している。
■「美ら海水族館」へ行く途中に石川は見える
沖縄における米軍機墜落事故は、04年8月13日、米軍のCH53D大型輸送ヘリが宜野湾市の沖縄国際大学に墜落した事故のイメージが強いが、その後も、民有地を含め何度も墜落・不時着事故をくり返している。米軍機からの落下物は頻繁で、17年12月には宜野湾市の普天間第二小学校に米軍ヘリの窓、緑ヶ丘保育園には部品が落ち、関係者に衝撃を与えた。
宮森小の墜落事件は過去の悲惨な出来事などではなく、現在もいつ起きても不思議ではない脅威なのだ。東京上空でも米軍機は自由勝手な低空飛行を続けており、これは沖縄に限った問題ではないのだ。
久高さんがこう訴える。
「私たちは、資料集や証言集をつくってきましたし、いろいろな機会に講話もしています。毎年、大阪の中学校が私たちの話を熱心に聞きにきてくれますし、修学旅行の宿泊先に出向いてお話することもあります。けれども、この宮森小の事故のことは全国的にはなかなか広がっていきません。海勢頭さんの『630の誓い』は子どもたちでも歌えますから、特に学校の先生方に知っていただきたいと思っています」
石川へは、那覇市から「美ら海水族館」へ行く途中で立ち寄ることができる。米軍基地があるために、命を落とした人々に思いを馳せたい。
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亀井 洋志(かめい・ひろし)
ジャーナリスト
1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。
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(ジャーナリスト 亀井 洋志)