■29歳で役員に抜擢された「広告営業のエース」
自身のことを、「何者でもない人が機会を与えられてジャンプアップした例」と語る河合典子さん。プレイヤー気質で決してリーダーキャラではなかった自分に、会社が「こいつなら何とかしてくれる」と期待してくれた、だからそれに120%応えたくて小さな成果を積み上げてきただけだと。
27歳で営業局長に、29歳で執行役員に就任。入社時から一貫してインターネット広告事業の営業畑を歩み、若手の抜擢に定評のあるサイバーエージェントの中でも異例の早さでキャリアの階段を駆け上がった。
現在は総勢200人ほどの組織を率いる立場だが、とっつきにくさはまったく感じさせない。よく笑いよく喋る“元気な関西女子”という印象で、失礼ながらまるで長年の女友だちのような親しみやすさだ。その人柄と実績から、彼女を憧れの上司と慕う女性社員も多いという。
京都の立命館大学を卒業後、2011年にサイバーエージェントに入社し、大阪支社に配属。リーマンショックの真っただ中とあって、就活では100通以上もエントリーシートを送り、面接も片っぱしから受けまくった。
小学校から高校まで陸上競技に打ち込み、大学ではスポーツ学を専攻した。ただ、入学後はスポーツ関係のボランティア活動を除けば遊びとバイトに明け暮れる日々を過ごした。
「超一流大学の出身でもないし、留学もインターンも経験していない。就活の武器になるようなものは何もない大学生活でした(笑)」
■「子どももほしいし仕事も続けたい」という思い
そこで、漫然と就活しても優秀な学生には太刀打ちできないと考え、大好きなスポーツ関連か、なりたい自分像を評価してくれそうな会社に狙いを定める。なりたい自分像として、「子どももほしいし仕事もバリバリしたい」と考えていた河合さん。将来設計として、そんなライフイベントが始まる前の若いうちにできる限り多くの経験をさせてくれる会社に入りたい――。
そんな思いからベンチャーも視野に入れて就活。いくつもの社を受ける中で、最終的にはサイバーエージェントの文化や、社員が楽しそうに働く姿に惹かれて入社を決めた。
最初に配属されたのはインターネット広告事業本部だった。営業担当になり、望んでいた通り多くの仕事を与えられて、仲間たちとともに毎日遅くまで夢中で働いた。「毎日が文化祭のようで本当に楽しかった。青春でした」と懐かしそうに振り返る。
■入社1年目にベンチャーの洗礼を受ける
しかし、入社した年の10月、社内に一大旋風が吹き荒れる。藤田晋社長の号令で社内のリソースをスマホ向けにソーシャルゲームやコミュニティサービスを開発するメディア事業に集中することになり、インターネット広告事業本部の社員がエース級も含めて一斉にそちらに異動したのだ。
「あのときは急に人数が減って、時代の変化に柔軟に対応するってこういうことかと、衝撃を受けましたね」
入社早々にベンチャーの洗礼を受けたわけだが、同年、河合さんは担当するクライアントからの受注金額が大きく伸びたことから社内で新人賞を獲得し、いきなりマネージャーに抜擢される。
とはいえ、当時はまだ入社1年目。せっかく引き上げてもらったのだからとマネジメントに挑戦してはみたものの、現場でもっと色々な経験をしたいという思いは募るばかりだった。
2年後、河合さんは希望してマネージャー職を降り、再びプレイヤーに戻る。そしてそれ以降、自らマネジメント職への昇進を望むことはなかった。
「この経験で、自分はプレイヤー気質なんだと思うようになりました。思えば大学時代もサークルでは副代表。もともと、人を引っ張るよりもリーダーの下で実務をやるのが得意なタイプなんですよね」
■入社5年目で局長になり多くの部下を束ねる
ところが、入社5年目に思わぬ形でキャリアの岐路に立たされる。そのとき会社は、大阪支社が持つ通販分野のノウハウを関東の顧客にも提供するため、東京に新たなチームを立ち上げようとしていた。
チームを率いる営業局長には、河合さんの当時の上司が就任。部署のエースに成長していた河合さんも、「プレイヤーでいいから来てくれ」と要請されて東京に転勤したが、その直後、局長は新たな子会社の設立という役割を与えられて異動することになってしまった。
立ち上がったばかりなのに、チームは突然リーダー不在の状況に。そこで局長が白羽の矢を立てたのが河合さんだった。
「君がやりたいと思ってくれるならチームを託したい、でもプレイヤーを続けたいならその思いを尊重する」。自分がプレイヤー志向だということを十分に理解した上での言葉に、心を動かされた。ずっとNo.2として実務をやり続けてきた自負もあった。
「そのとき初めて、この組織を大きくするなら誰かに任せるより自分でやりたいと思ったんです。今、手を挙げなかったら私は後悔するんじゃないかなって」
■仲のよかった先輩の女性に反発され…
サイバーエージェントでは、局長は子会社の経営者に匹敵するほどの権限を持つ。若手の抜擢を積極的にしてきた同社だが、当時、20代でその立場になる人は珍しかった。自分は経営者レベルの仕事ができるのか、部下になる優秀な先輩たちをリーダーとして統率できるのか――。そんな不安が渦巻き「めちゃくちゃ怖かった」という。
「局長時代は、特にピープルマネジメントの面でたくさん失敗しました。あのころの私は、リーダーはこうあるべきだという思い込みが強すぎて、個人に寄り添う姿勢が全然なかったんです」
数ある失敗の中でも一番きつかったのが、部下の一人との間に起こったある出来事だ。
営業局長に就任後、河合さんは皆を引っ張るいいリーダーになろうと懸命に取り組んだ。このころ思っていたいいリーダーとは、手段や道筋を決めて皆に行くぞと声をかけ、目標に向かって全員を引っ張っていける人。そうなろうと思うあまり、やがて河合さんは部下に任せることができず、自分で仕事を進めてしまうことが増えていく。
この姿勢に、あるとき部下の一人が不満を爆発させた。
「あなたに査定されたくない」
■年下部下との関係がぎくしゃくして窮地に
その人は3歳年上で、かつては先輩として自分を教え育ててくれた女性。しかも公私ともに仲がよく、河合さんにとっては何でも本音で言い合える“戦友”でもあった。それだけに彼女の言葉は胸に突き刺さったという。その後、2人の関係はぎくしゃくしてしまった。
「本当に悲しかったです。考えてみれば彼女の不満は当然で、誰だって急に後輩が上司になったら嫌だし、そのうえ勝手に決めたことを押し付けられたり、『私がやるから』って言われたりしたらもっと嫌ですよね。個々のメンバーに寄り添った話し合いもできないまま、その意思を無視して仕事を進めていた自分を反省しました」
このときはかなり苦しい思いをしたそうだが、自分と同じように若くして管理職に抜擢された先輩たちのアドバイスが助けになった。少しずつ立ち直り、自分らしいマネジメントのありかたが分かり始めたころ、河合さんは女性に謝ろうと勇気をふるってランチに誘った。
「しんどい思いをさせてすみません」
「こちらこそごめんね」
■「仲直りランチ」で和解、マネジメントを変える
そんな会話の後、自分の過ちに気づいたこと、その後変わろうとしていること、互いの近況などたくさんの話をした。傷つけ合ってしまったとはいえ元々は親友。相手も、若手を抜擢する会社の文化に深く共感していたことから、河合さんの心情に寄り添ってくれたという。
それからほどなくして、その人は河合さんが率いる部署に戻り、半年後には優秀な成績を収めた社員に贈られるベストプレイヤー賞に輝いた。
「人って、リーダーの姿勢や環境しだいでこんなにも変わるんだと痛感しました。個の力や組織の力をどれだけ引き上げられるかは自分しだいなんだなと」
ここまではすべて、営業局長になってからわずか1年の間に起きたことだ。その間に河合さんは、「リーダーはこうあるべき」という固定観念を打ち払って名実ともにプレイヤーからの脱皮を遂げ、2年連続目標達成で500%成長を実現。当時の事業部で前人未踏の記録をつくった。
この時点でまだ28歳。若いうちにできる限り多くの経験ができる職場を自ら望んだとはいえ、これほどのスピード感は想像もしていなかっただろう。
もちろん、河合さんのキャリアストーリーはここでは終わらない。次に待っていたのは執行役員への就任、そして結婚・出産を経て、仕事と家庭を両立する難しさという壁だった。
(後編に続く)
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辻村 洋子(つじむら・ようこ)
フリーランスライター
岡山大学法学部卒業。証券システム会社のプログラマーを経てライターにジョブチェンジ。複数の制作会社に計20年勤めたのちフリーランスに。各界のビジネスマンやビジネスウーマン、専門家のインタビュー記事を多数担当。趣味は音楽制作、レコード収集。
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(フリーランスライター 辻村 洋子 取材・文=辻村 洋子)