ストレスが強い状況下でも、冷静かつ着実に仕事を進める人は、なぜそうできるのか。禅僧の枡野俊明さんは「外部の出来事にいちいち反応しない、人と比べない、自分の人生だけに淡々と集中する……そうした“禅”の精神を身につけられれば、自ずと仕事の質も、人生の満足度も上がっていく」という――。

※本稿は、枡野俊明『あらゆる悩みが消えていく 凛と生きるための禅メンタル』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。
■喜捨(きしゃ)
あなたのその仕事は、「誰かに勝つためのもの」ですか?
小学校のころのテストの順位づけや運動会での徒競走にはじまり、物心ついたときから、私たちは競争社会のなかを生きてきた気がします。
そして大人になって社会に出ると、業績、売上、ポジション、上司からの評価……たとえばこういったものが可視化されます。わかりやすく優劣をつけられているように感じるビジネスパーソンの方も多いことでしょう。
どうせなら自分が一番になれたら気分がいいし、劣勢よりは優勢でいたい。それはとても自然な感情と言えます。
自分がなかなか結果を出せないでいるときに、たとえばあなたの同期が、あるいは後輩がめざましい活躍を遂げたら、内心、穏やかではいられないかもしれません。
そうであっても、「人と比べること」は百害あって一利なしです。比較は悩みや苦しみを生み出すもの。であればこそ、仕事の場でこそ比べられる場面が多いのは承知のうえで、はっきりとお伝えしたいのです。
そもそも仕事というのは社会や人に貢献するためのもの。そしてまた、自分の色を添えることで、心を潤わせるためのものです。

「誰かと比べる」ということに意識を向けた瞬間に、その尊さが失われ、「誰かとの勝ち負けを気にして行う仕事」へと成り下がることになります。
たとえ話として、お花屋さんを例に出してみましょう。
商店街に二つのお花屋さんがあるとします。一つの店舗のお花屋さんは、心から花を愛しています。そして、「どんなふうにしたら、このお花たちがもっと美しさを増すかな。お客様の毎日を素敵に彩れるかな」といったことに心を尽くし、楽しみながら仕事に励んでいます。
そんななか、もう一方のお花屋さんは、このお花屋さんをとにかくライバル視しています。頭を占めているのは、「あのお花屋さんより人気を出して、売り上げを上回るためにはどうしたらいいだろう」といったことばかり。
どちらのお花屋さんからお花を買いたくなるかは、言うまでもないでしょう。
何らかの仕事ができるということは、本来、とても贅沢なことです。自分の能力を生かし、社会や人様のお役に立てるのですから。人との比較に気をとられるということは、その喜びを失わせ、わざわざ自分を苦悶の道に誘うということなのです。

どうか、「意味のない比較」からは金輪際、手を引いてください。
あなたの仕事は、誰かに勝って優越感を得るためのものでも、あるいは負けて劣等感を抱くためのものでもありません。
もし勝手にあなたをライバル認定し、何かと張り合ってくる人がいても、惑わされてはいけません。「本質が見えていない人なんだな」と、相手にせず放っておきましょう。反応さえしなければ、自分の心の平穏は自分で守ることができるのです。
もし周りに差をつけられてしまったなと感じることがあっても、気にする必要はありません。チャンスは平等に巡ってくるものであり、花開くタイミングは人それぞれ。焦る必要はないのです。
それでもどうしても勝敗が気になるというのなら、「気にしたら負け」の精神を持ってみましょう。つい人と比べてしまう、そんな自分との戦いに打ち勝つつもりで、意地でも勝敗を気にしないようにしてみてください。
「喜んで捨てる」という意味の禅語、「喜捨(きしゃ)」とは、もともとはお賽銭やご奉納に対して使われていた言葉ですが、ぜひ、このような「優劣をつけたがる」心も喜捨してみるのです。
比較ばかりの周囲に惑わされず、自分がなすべきことに淡々と集中する。
その仕事によって実現したいものだけを見据え、そこから目を逸らさない。それはあなたが仕事とともに励む、心地よい「禅の修行」です。
■青山元不動 白雲自去来(せいざんもとうごかずして はくうんおのずからきょらいす)
ストイックさと柔らかさを、自分の中に併せ持つ
「私は黙々と一人、私のやるべきことに集中する」という強い気迫か、「みんなで一緒にいい仕事をしましょうね」という柔らかな仲間意識。
あるいは、
「絶対にこの会社で働き続けたい」という確かな決意か、「今の会社が合わなくなったら、辞めるのもありかな」という気軽な感覚。
仕事において大切にすべきなのは、それぞれ、どちらのスタンスだと思いますか? 正解は、「どちらも」です。どちらの姿勢も、仕事に限らず、人生全般において持っておきたい大事なあり方なのです。
「青山元不動 白雲自去来」という禅語があります。
青い山は、風にも雨にも動じることなく、そこに堂々と鎮座しています。一方、白い雲は、風に乗ってふわり、軽やかに流れていきます。つまりこの言葉は、山のような動じなさと雲のような柔軟さ、どちらも併せ持つことの大切さを説いたものなのです。
仕事で信念を持つのはとても大切なことです。
自分が達成したい目標があり、実現したい世界観があるからこそ、人は命を燃やせるのでしょう。
自分の使命を全うするために、それを侵す外野の声を遮断し、ストイックに励むのは素晴らしいことだと思います。
そうではありますが、行き過ぎた信念の強さは、結果的に自分自身を追い詰めることになります。自分の意見だけが絶対的なものだと思うことで、「執着」と「とらわれ」が生まれるからです。
また、頑なさは、自分の可能性を狭め、自ずと限界値を設定してしまうことにつながります。
ほかにもっとよい案や進め方があったとしても、自分のやり方にこだわるあまり、それらに目を向けることができなくなるからです。こうして、自らチャンスを逃してしまうことになっていきます。
たとえば、当初は「絶対こういうコンセプトを目指したい!」と思っていたけれど、上司や同僚からの意見を聞いた結果、速やかに方向性を変える。
または、「このプロジェクトを成功させるために死力を尽くす!」という気概は持ちつつも、同時に「うまくいかなかったら、まあ、そういうご縁だったということだな」と、どこかで気楽さも持ち合わせておく。
こんなふうに、「柔」も「剛」も自分のなかに併せ持つのが、心地よく働き、仕事の質も、自分のスキルも高めていくための秘訣だと思います。
白い雲は、風に乗って自在に空を流れていきます。その柔軟さがあるからこそ、知らなかった世界にたどりつき、見たこともなかった景色を見られるのでしょう。
実は私自身も、自ら「こういう仕事をしたい」と手を挙げることはほとんどありません。
ご提案いただいたお仕事のなかから、自分のスケジュールや技能に合ったものをお受けしています。
それらが合わなければ、ご縁がなかったということでお断りするようにしています。このような仕事の受け方をしていると、自分では思いつかなかったようなプロジェクトに参加できることも多々あり、とても楽しいのです。
想いが強くなってきたなと感じたときこそ、柔らかさを意識してみましょう。流れる雲のように、柔らかに、しなやかに。それがあなたの凛々しさをかたちづくります。
■一行三昧(いちぎょうざんまい)
徹底した没入力を持つ人は、水面に輝く月のよう
禅的なメンタルで生きられるのは、「没入力」を持ち合わせた人だと言えるでしょう。人生で大切なことは、実はそんなに多くはありません。それにも関わらず多くの人は、それ以外の些末なことに日々振り回され、煩わされてしまうのです。
過去を悔やみ、将来を恐れ、いつもくよくよ、もやもやとした思いにとらわれていては、実体などないはずの「妄想」だけが、どんどん膨らんでいってしまいます。
本当に必要なものだけに心もエネルギーも注げたら、どんなにか気持ちは満たされ、張り合いのある人生を送れるでしょうか。
「一行三昧(いちぎょうざんまい)」という禅語があります。
精神を集中させ、まっすぐに取り組む様子を指す言葉です。まるでそのものと一つに溶け合うかのような没入感で臨む。あらゆる物事に対してこの一行三昧の精神で向き合うのが、禅の生き方です。
たとえば掃除をするときは、雑巾と一つ、あるいは箒と一つになるような意識で力を尽くすのです。
そこには一切の執着も恐れも、怒りも不安もありません。私たち禅僧が毎日、この一行三昧の姿勢で務めに励むのと同じように、人生とは、日々、この雑念を取り払うための修行と言えるのかもしれません。
おびただしい量の情報や出来事が自分を取り巻くなかで、人生に採用すべきもの、そうでないものの取捨選択をきっぱりと行う。そして、それ以外のことにはむやみに関わったり、反応したりしない。他人と比べることなく、他人の顔色をうかがうことなく、自分の使命に没頭する。
毎日は、そのようなトレーニングの繰り返しなのかもしれません。思わしくないことが起きても、「これは禅的なメンタルを磨くチャンスだ」と思えたら、なんだか楽しい気持ちになってくるのではないでしょうか。
たとえば職場やコミュニティに、何かにつけてあなたに張り合ってくる人がいるとします。ことあるごとにあなたにつっかかり、ミスをあげつらってきたり、あるいは成功に水を差す言葉を浴びせてきたりする。
そんな人が身近にいたら、当然、愉快な気持ちはしないことでしょう。ですけれど、そこで相手と同じ土俵に立ってしまっては、一行三昧の精神が損なわれてしまいます。
あなたがすべきなのは、その人を言い負かしたり、やり込めたりすることではありません。その人のことは適当に受け流し、目の前の仕事や、やるべきことと一体化するがごとく、ますます真心を込めて専念することです。
相手の低次元な挑発に乗らず、自分を保ち、そのときすべきことに没入する。そうすれば、静かに、でも確実に、取り巻く世界をますます素敵なものへと昇華させていけるはずです。
ここでもう一つ、禅の言葉をお伝えしましょう。「水急不流月(みずきゅうにしてつきをながさず)」という禅語があります。これは、水面に映る月の姿は、どんなに水が速く流れたとしても、決して流されることはない様子を言い表したもの。なんとも美しい言葉ですよね。
あなたは水面に輝く、美しい月。周りの状況がどれほど入り乱れていようが、さざめいていようが、自分自身を見失わなければ、その輝きが損なわれることはないのです。

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枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)

曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー

1953年、神奈川県横浜市生まれ。禅僧、庭園デザイナー、教育者、文筆家。曹洞宗徳雄山建功寺住職。多摩美術大学名誉教授。大学卒業後、大本山總持寺にて修行。以降、禅の教えと日本の伝統文化を融合させた「禅の庭」の創作を続け、国内外で数多くの作品を手がけている。芸術選奨文部大臣賞(1998年度)を庭園デザイナーとして初受賞。カナダ総督褒章(2005年)、ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章(2006年)なども受賞している。2006年、『ニューズウィーク(日本版)』にて「世界が尊敬する日本人100人」に選出。主な作品はカナダ大使館庭園、セルリアンタワー東急ホテル庭園「閑坐庭」、ベルリン日本庭園「融水苑」など多数。2024年には最新作品集『禅の庭IV 枡野俊明作品集2018~2023』(毎日新聞出版)を刊行。禅の精神と現代人の悩みをつなぐ語り口に、世代を問わず共感の声が寄せられている。教育の現場では、長年にわたり多摩美術大学で後進の指導にあたり、2023年、名誉教授の称号を受ける。

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(曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー 枡野 俊明)
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