「怒り」は存在しないほうがいいのか。東洋大学文学部哲学科の稲垣諭教授は「必ずしも否定すべきものではない。
歴史をふりかえれば、ときにこうした感情が世の中をよくする原動力になってきた。むしろ問題なのは、度を超えた懲罰感情だ」というーー。
※本稿は、稲垣諭『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)の一部を抜粋・再編集したものです。
■このクイズに正解できますか?
次のクイズに答えてみてください。
これは心理学の実験で世界的にも有名な「4枚カード問題」といわれるものです。
図1にあるように、「A」、「K」、「4」、「5」という4枚のカードが並んでいます。
それぞれのカードの片面にはアルファベットが、その裏面には数字が書いてあります。問題は何かというと、これら4枚のカードを見て、「母音のカードの裏はいつも偶数」という規則が正しいことを確認するには最低どのカードを何枚めくればいいか、というものです。
少し考えてみてください。あなたはどのカードを何枚めくる必要があると思いますか。
もちろん全部のカードをめくれば答えは明らかですから、全部めくるのではなく、不必要なカードはめくらないようにしてほしいというものです。どうですか。
わかりましたか?
正解は……「A」と「4」の2枚
ではなく、「A」と「5」の2枚です。どうでしょうか、あっていましたか?
■なぜ4をめくりたくなってしまうのか
私はこの問題をいろいろな大学の講義で実施していますが、本当に多くの大学生が「A」と「4」と答えることで間違ってしまう光景を見てきました。
このクイズは世界各国で行われていて、同じような結果になりますので、たとえあなたが間違ってしまっても落ち込む必要はありません。むしろ重要なのは、そのような思考になってしまう私たちの脳のメカニズムのほうです。
「A」は母音ですから、その裏に奇数が書かれていたら規則違反になります。ですからこれはめくってみないといけません。そこまではいいのです。
では、「4」はどうなのでしょうか。もしこの裏に「母音」が書かれていたとすれば、規則通りなので問題ありません。では、その裏に「子音」が書かれていた場合はどうでしょう。「子音のカードの裏に偶数」が書かれていても、特に問題はありませんよね。そもそも子音のカードは問題になっていないのですから、どちらでもいいということになります。

つまり、「4」のカードは、母音であろうと子音であろうと正しいことからめくる必要がないものです。それなのに私たちは「4」をめくりたくなってしまうようです。
そして、本稿の悪意にかかわる問題は、この先にあります。
■人物情報×飲み物のカード問題ならどうか
では次に、次の4枚のカードを見てみてください(図2)。
こちらのカードのそれぞれには、片面には人物名と年齢が、その裏面にはその人が飲んでいるものの品名が書かれています。
今回の問題は何かというと、「未成年の人がアルコールを飲んでいない」ことが正しいことを知るためには、どのカードを何枚めくればいいかというものです(未成年者が飲酒していないことを特定する)。
こちらもまた、少し考えてみてください。
どうでしょうか? 正解は……「花子」と「ビール」のカードの2枚ですよね。
こちらの問題で間違う人は少ないと思います。しかもあまりにも素早く、当然のように正解がひらめくのではないでしょうか。
もうお気づきかもしれませんが、先ほどのアルファベットと数の4枚カードの問題と、今回のものは同型の問題です。最初のカード問題で間違ってめくってしまったカードの「4」は、今回は「コーラ」になっています。

私たちは、この問題では「コーラ」をめくる必要がないことは即座にわかります。なのに、どうして私たちは「4」のカードをめくろうとしたのでしょうか。
ここからわかるのは、問題が抽象的な数字や記号になると、私たちの脳は判断を間違ってしまう可能性が高くなるということです。そこには私たちの生活にかかわる実感がほとんどないからです。
その逆に、同じ問題が人物の年齢と飲み物という、私たちの日常に近い出来事に置き換えられるだけで、私たちの思考はとたんに冴え始めます。
この2つのカードの問題への、私たちの応答の差は何に由来するのでしょうか。
■「違反者を罰したい」気持ちの強さ
前節の飲酒にかかわる4枚カードの問題は、社会心理学や認知心理学の分野で「裏切り者検知(cheater detection)」課題といわれています。
未成年の人がアルコールを飲んでいるのか、いないのかという課題は、一見、たんなる事実確認の問題のように見えますが、同時に、社会規範に違反している人がいるかどうかを見極める問題でもあるからです。
興味深いことに、アマゾンの奥地で暮らし、学校教育を受けることなく狩猟採集の暮らしをしているシウィアー族にもこの2つの問題を解いてもらったところ、抽象的な問題の正答率は0%でしたが、裏切り者検知課題であれば、その正答率は83%になったそうです(※)。
※ダグラス・T・ケンリック、ヴラダス・グリスケヴィシウス『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉』(熊谷淳子訳、講談社、2015)。
さらに日常実感にもとづいてはいても「裏切り者検知」ではない4枚カードの問題でも実験は行われているのですが、それと比較しても、未成年の飲酒問題のような違反者を探し出す課題のほうが正答率が上がることがわかっています。
前節におけるカード問題が、未成年の飲酒問題になると簡単に答えられる理由のひとつとして、誰が違反を犯しているかを見つけ出したい私たちの欲望があるからだと考えられそうです。

未成年なのにアルコールを飲んでいる人は誰かと見つけ出し、その人には罰を与えなければなりません。こういうときに私たちの思考は抜け目なく、鋭利になるのです。
■「タダ乗り」が許せない
すでに、拙著『やさしいがつづかない』の1章で、私たちにはフリーライダーを許せない特性があると述べました。ここでの年齢と飲酒の問題は、フリーライド(=タダ乗り)の話とは直接つながらないように思えますが、そうではありません。
誰もが規則を守っているのが当然なのに、その規則に反する行動をとっている人は、規則を免れているという意味で社会にフリーライドしていることと同じだからです。
どうやら私たちの脳の中には、違反者を見つけ出し、罰を与えるためにスピーディーかつ正確に働く思考のための機能があるようです。
すでに3~4歳の子どもでも違反者を見つけ出すのは得意なようですし、進化論的にそのような欲望や思考を駆動させる脳のメカニズムがあると想定されてもいます(※)。
※Van Lier J., Revlin R., De Neys W.,Detecting Cheaters without Thinking: Testing the Automaticity of the Cheater Detection Module, PLoS ONE 8(1), 2013, e53827.
そしてもし、違反をしている人がいれば、怒りが湧いて、その人をどうすれば最も効果的に罰することができるかを考える「悪意」が浮かび上がってくるのです。
そしてこの「違反」は、事実である必要はありません。
あなたが日々生きる中で「ズルい」と感じる場面を思い出してみてください。自分のコントロール権が奪われたときは当然そう感じるでしょう。
しかしそうではなく、実際にはあなたのコントロール権は奪われていなくても、「まるでコントロール権が奪われるかのように感じる」ときにも「ズルい」という強い想いは生じます。

たとえば、ゴミ拾いのような善行を知人と二人で行っていて、自分のほうが一生懸命やっていたと自負できるのに、ひょんなことで知人だけが周囲の人から褒められたら? 「私のほうが時間と労力をかけてがんばったのに……」これはなかなかつらい場面です。
私は損をしているのではないか、フェアではないのではないか、だから損失を埋めあわさないと気が済まない。
■「怒りは存在しない方がいい」のか
こうした感覚を起点にしても悪意は生じてきます。
ヴェイユはこの感覚を「重力」と表現したのでした。
また別の心理学的な実験になりますが、怒りの最中では不正行為が多くなる一方で、難しいゲームをクリアしやすくなったり、文字の並び替えのようなアナグラム問題の正答率が上がり、粘り強くなったりもします(※)。
※Lench, H. C., Reed, N. T., George, T., Kaiser, K. A., & North, S. G.,Anger has benefits for attaining goals, Journal of Personality and Social Psychology, 126(4), 2024, p.587-602.
私たちの思考は、怒りや憎しみといった強い感情が起こる局面、たとえば規則に違反している人がいたり、自分に危害や損害が生じそうになったりすると、冴え渡り、強化されます。
だからこそ悪意も怒りも、人類の進化的な歴史において淘汰されることなく、何らかのメリットをもつものとして、私たちの脳にいまなお刻まれつづけているのでしょう。
不正を告発することそれ自体に問題があるわけではありません。むしろそれは社会を安定させ、よりよくするために必要なことです。1章で私はそのことを「不正義の感覚」だと述べていました。
むしろ問題は、その告発が相手を度を超えて罰するところまで進んでしまうことにありました。
■半沢直樹の「倍返し」は正しいのか
小説家の池井戸潤さんの「半沢直樹シリーズ」はテレビドラマ化され、爆発的なヒットとなりました。
主人公の半沢を演じたのが堺雅人さんですが、彼の有名なセリフは「やられたらやりかえす。倍返しだ!」でした。
ドラマの中に出てくる一癖も二癖もある登場人物の悪意に翻弄され、半沢はもがき苦しみながら、最後にはやりかえします。しかも、自分がやられたこと以上の苦しみを相手に与えることでそうするのです。視聴者はそれを見てスッキリとするし、勧善懲悪の世界が維持されることでホッとしたりもします。
ここで気になるのは、半沢直樹にも「悪意」はあったのかどうかです。悪意のある人物に立ち向かうとき、人は悪意をもたずにいられるのか、これはとても難しい問題です。
半沢直樹は、その直向(ひたむ)きな努力と周囲のやさしい人々に助けられながら、自分を陥れた相手の不正を暴き出します。そこまでは「悪意」というより「社会正義」に基づいていることのように思います。
しかし問題はその相手の不正を暴き、懲らしめるさいの「倍返し」です。
本当に倍にして仕返しをしなくてはならないものなのでしょうか。
ドラマの中のセリフでは、「10倍返し」「100倍返し」というものもあったと思います。たしかに視聴している私たちにも蓄積している苦々しい思いがありますので、それを帳消しにしてくれる半沢のセリフは心地よいものです。快楽を感じます。
しかし私は、そうした半沢の行動の中にも行きすぎた「悪意」があることは否定できないのではないかと思っています。あの懲罰の場面では、半沢のやさしさはおそらくどこかに消えてしまっています。表情も、ふるまいも、緊張の度合いもそうです。
おそらく、半沢の復讐を受けた相手は、その後もずっとその恨みを忘れることはないでしょう。
さらに、そのそばで立ち会っていた人たちも、半沢は手痛い仕返しをしてくる人なので、歯向かわないほうがいいと考えて、多様な意見が抑圧されてしまう可能性もあります。半沢の評判にも悪影響がないとはいえないでしょう。
■世界から戦争がなくならない理由
悪意の発露は、燻(くすぶ)りつづけながら持続的に相手への暗い欲望を刺激します。だからといって、不正を行った者への懲罰が必要ないというわけでもありません。
ここで私たちは、とても難しい社会正義と悪意のはざまの問題に向き合おうとしています。暴力や悪意の連鎖を断ち切るというのは、本当に難しいことです。世界で戦争がなくならない理由でもあります。
哲学者の中には、この困難さを理解したうえで、私たちは受けた損害に対して「赦す」ことも、「怒りを収める」ことも本当は不可能なのだと強調する人たちがいます(※)。
※哲学者のジャック・デリダが、ウラジミール・ジャンケレヴィッチという哲学者が突きつけた「赦しえないものと赦しについて」の問いをさらに深め、展開しています。ジャック・デリダ『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』(守中高明訳、未来社、2015)。
一度受けた損害は、どんなに謝罪や償いを受けたとしても、それ以前の状態に戻ることは決してありません。原状回復はできないのです。それは確かなことです。
その意味でも赦しというのは、決して赦せない事態が存在するからこそ、求められるものです。私たちは「赦すこととは何か」という問いに、実は何度も向き合いつづけなければなりません。
■なぜ、怒り続けてはいけないのか
また、私たちの社会では、たとえ怒りを発露してしまっても、その後は、怒りを収めるのがいいことだと信じられています。でも、どんなに相手に謝罪されても、胸の内に納得できない苦い思いが残りつづけることはあるはずです。
どうして私たちは怒りをいずれは宥(なだ)め、収めなければならないのでしょうか。私が被った傷は完全に癒えることはないにもかかわらずです。
手厚い謝罪や償いをされても、怒りつづけることはどうしていけないのか、そうした問いをアグネス・カラードという哲学者が提起しています。
怒りとは結局のところ、『何かを修復したい』という欲求ではなく、その『何かが壊れている』という事実を理解するための手段なのだ
アグネス・カラードほか『怒りの哲学 正しい「怒り」は存在するか』(小川仁志監訳、森山文那生訳、NEWTON PRESS、2021)16頁。
一度怒る理由が生じると永遠に怒る理由をもち続けることになる
アグネス・カラードほか『怒りの哲学 正しい「怒り」は存在するか』(小川仁志監訳、森山文那生訳、NEWTON PRESS、2021)16頁。
カラードは、怒りがどこまでも「血の味」を求めてしまう「道徳の暗黒面」であることをしっかりと理解しています。
誰もが怒りつづける社会をイメージしてみればわかるように、それは社会全体を蝕む可能性が高い。にもかかわらず、彼女は、「怒りを特定の人物等へと向けつづけることは悪いことで、社会をより良いものにするための前向きな怒りだけを用いるべきだ」と説得してくる風潮の嘘を暴き出そうともしています。
■とはいえ、怒りが必要な局面はある
こうした主張や議論からわかるのは、私たちの中に湧き起こる暗い感情はどこまでも私たちを追いかけてくるということです。それは根深く、執拗に私たちを捉えて離しません。社会が平穏でやさしさに溢れた場所となることを阻もうとします。
とはいえ、社会を平穏でやさしい場所にするためにも、私たちは本当の不正に対しては怒りをもって立ち向かわなければならないことがあるのも確かです。やさしくないことが、やさしい社会を作り出すために必要な局面も必ずあるのです。
だからといって社会が延々とつづく暗い感情の応酬だけの場所になることを望む人もいないでしょう。
やさしいがつづかないという問題は、実はこうした暗い感情との向き合い方を深く考えさせるものです。悩み、葛藤する苦しい気持ちは、私たちに思考することを促しつづけます。
私たちは、「やさしいがつづかないこと」と「暗い感情がつづいてしまうこと」という2つのとても困難な課題の間に立っています。
それでも目指すべき方向性は、次こそは「やさしいがつづく」世界が到来するように、あなたの日常生活を見つめ直しながら生きることです。マイクロ・カインドネスという希望をたずさえて。
■「他人に向けた悪意」はどこに向かうのか
やさしいをつづけられないと悩んでいる人は、他人に対する悪意ばかりもってしまう場合もあれば、他人に悪意はないけれど、自分に対しての悪意を増幅させてしまう場合もあるでしょう。他人を罵るように、自分を罵って罰してしまおうとします。このどちらも健全なものとはいえません。
セルフコントロールが重視される社会というのは、その裏側にいつでも「自己責任」として問い質される怖さがあります。「あなたがコントロールし、選択した結果なのでしょ」、とミスや失敗はあなたの責任なのだと強く思い込まされる社会だということです。
そしてそう思えば思うほど、「自分への悪意」は強くなり、その刃が自分に向けられることになります。
他人に向けられた悪意も怖いですが、やさしくなれない自分に向ける悪意も同じくらい怖いものです。
悪意の定義として述べたように、それは「たとえ自分が損をしてでも、他人に危害を加える」ものでした。
であるとすれば、自分自身へと向けられた悪意とは、自分を傷つけるだけでなく、その傷口に塩を塗るように、より深く自分を傷つけるものになりうるものです。自分をバカと罵ることで、罵っている自分にさらに絶望するようなことです。
他人に対してであれ、自分に対してであれ、悪意をもってしまった自分に気づいたときには、その悪意が回り回ってあなた自身を深く傷つけるものであることをしっかりと意識するようにしてください。

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稲垣 諭(いながき・さとし)

東洋大学 文学部哲学科教授

1974年、北海道生。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。文学博士。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て現職。専門は現象学・環境哲学・リハビリテーションの科学哲学。著書に『大丈夫、死ぬには及ばない 今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社)『壊れながら立ち上がり続ける 個の変容の哲学』(青土社)、『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)など。

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(東洋大学 文学部哲学科教授 稲垣 諭)
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