事業承継トラブルをかかえる中小企業は多い。『ルポ M&A仲介の罠』(朝日新聞出版)を上梓した新聞記者の藤田知也さんは「経営者がひとりで主な権限を握り、『もしも』の備えを何もせずに亡くなった場合、株の行方次第で会社が奪われたり倒産したりするリスクがある」という――。

■中堅出版社創業者の予期せぬ死
御茶ノ水駅からほど近い順天堂大学病院で、ひとりの老人が静かに息を引き取った。2023年4月24日の月曜日、日が昇る前の午前2時14分。朝日出版社の創業者、87歳の原雅久(まさひさ)だった。
死因は低栄養と胸椎(きょうつい)圧迫骨折による循環血液量減少性ショックと診断された。6年ほど前から腎不全を患い、透析治療などで闘病した末の最期だった。
朝日出版社の2代目社長、小川洋一郎(よういちろう)は、朝7時ごろに連絡を受け、信じられずにいた。週末を挟んだ3日前の金曜日に入院中の原と電話で会社の会議室をつなぎ、代わる代わる受話器を握る各部署の担当者らが「まだやってねぇのかよ」「頼むよ」などと1時間ほど檄を飛ばされたばかりだった。体が痛むと言って少し前に自ら入院したものの、すぐに戻るだろうと予想していた。
小川は会社で原に付き添っていた担当役員と合流し、これからすべきことを整理した。小川は会社の代表取締役社長であると同時に、原の弟の長男にあたる親族でもあった。甥の立場で真っ先にすべきことは、原の妻と娘に訃報を届けることだった。
■夫の訃報に「葬儀には関わらない」と言い切る妻
小川は担当役員を連れて、都内にある木造戸建てへ向かった。
原が若い頃に暮らしたと思しき築50年の2階建てで、朝日出版社が保有する不動産物件でもあった。
小川は伯母である原の妻、いとこにあたる原の娘には、一度も会ったことがなかった。伯父を失った衝撃とは別に、縁戚に初めて会う淡い思いも抱きながら、おそるおそる呼び鈴を鳴らした。
ところが、出てきた原の妻は、小川の正体を知るなり態度を硬くし、夫の訃報にきっぱりと言い返した。
「葬儀には一切関わりません」
初めて会う伯母から出た言葉に小川は動揺し、「お嬢様にもお伝えください」「葬儀はこちらで進めさせていただきます」と絞り出し、その場を後にした。
原が長く家族と別居し、他の女性と暮らしていたことを思えば、無理もなかった。ただ、これほど憎悪が強いとは思っていなかった。
甥として、経営者として、やるべきことが無数にあった。
葬儀は4日後、7人きょうだいだった原の親族を中心に執り行った。2カ月余りが過ぎた7月3日には、仕事仲間や友人も集めたお別れの会を日本出版クラブで開いた。
会社の命運を左右する株式の行方については、まだ考える余裕もなかった。
■インテリのワンマン経営者だった
1962年に設立された朝日出版社は、大学などで使われる語学教材で大きなシェアを持つ中堅の出版社だ。

月刊『CNN ENGLISH EXPRESS』を発行し、哲学や科学から料理などの実用まで幅広いジャンルの書籍を手がける。1991年発売の宮沢りえの写真集『Santa Fe』が大ブレーク。東大教授・加藤陽子の高校生向けの講義をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2009年)も小林秀雄賞を受賞するなど話題を集めた。
従業員はアルバイトを含めて約70人で、売り上げは年間十数億円。社名は創業者の出身高校や大学時代の恩師にあやかって付けたもので、朝日新聞社や朝日新聞出版との資本関係はない。
創業者の原は岡山県出身の両親のもと、7人きょうだいの4番目の次男として台湾で生まれ、6歳になる1941年に母親の親戚である原家へ養子に出された。そこは畳の卸しで一財をなした岡山県早島町の裕福な商家で、原は茶室付きの日本庭園や洋風の応接間を備えた豪邸で育つ。跡継ぎのない養父母が家庭教師をつけ、演舞も習わせた。恵まれた環境で培った見識が社会への関心を広げ、出版の道へと歩む礎にもなった。
■新卒入社で2代目社長となった甥
県立岡山朝日高校に通った頃から批評家の小林秀雄や角川書店創業者の角川源義(げんよし)の活躍に惹かれ、上京して進んだ学習院大学文学部独文学科で出版の世界に生きると決意。大学を卒業して間もなく、アルバイトでためた資金で創業した。生前の原は、リュックに語学教材を詰め込んで売り歩いた体験を周囲によく語っていた。

ドイツ語の大学生向けテキストを皮切りに、フランス語や英語、中国語などの語学教材で地歩を固め、人文科学の雑誌や書籍も刊行してきた。
甥の小川は1972年生まれで、就職氷河期に突入した1995年に新卒で朝日出版社に入った。両親が暮らした愛媛県で生まれ育ち、一浪で入った松山大学経済学部の4年生のとき、松山市に来た原と父と3人で割烹料理を囲む機会があった。これが面接代わりとなり、卒業前の2月末に上京して働き始めた。
入社1年目で第一編集部英語テキスト課に配属され、英語教材の企画と営業に長く従事した小川。44歳だった2016年10月に取締役に就くときは、事前の相談もなく、新しい役員名簿を見て自らの昇任を知った。18年に常務、20年に専務と階段を上り、22年11月に代表取締役社長となった。原は会社で転ぶなどして車いすに乗り始めていたが、亡くなる日まで代表取締役会長の座に残り、ワンマン経営は変わらなかった。
■重要事項の決定は会長専権のまま
人事や経理、出版企画の採否といった出版社の重要な意思決定は、社長が替わっても原の専権のままだった。
原は出版の仕事に熱中していた。社員のやる気を尊重し、細かい仕事を任せる鷹揚さもあったが、出版物の原稿にはくまなく目を通し、口を挟むことも少なくなかった。料理番組に出ていたタレントのグッチ裕三を見て、レシピ本を発案したこともあった。
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、複数のタイトル候補から原が言葉を拾って組み合わせたものだという。
5階のミーティングルームで企画について議論するときが心底楽しそうだった、と社員らは口をそろえる。中途半端な作品を嫌い、妥協を許さなかった。語学教材で安定した収益を稼ぎながら、一般書の編集には時間と手間をかけて丁寧に作らせた。話題作を出すことで企業価値を高める狙いもあったのではないか。
■権限を握りしめたまま鬼籍に
子どものように死を怖がった、と振り返る編集者もいた。
原にとっては親友で銀座の高級クラブの飲み仲間でもある、みのもんたの「終活本」を企画してつくり始めたときのこと。原が最終的に決めたタイトルは、「終活なんかするもんか」になった。新型コロナの感染に怯え、銀座からも足が遠のいていた時期だ。
みのの著書には、父親から受け継いだ家業の水道メーター製造販売会社の社長を77歳で退き、若い息子ふたりが経営者として育つまでの道筋が説かれている。
「人間、欲がなければ生きてはいけませんが、身内のあいだで出す欲には、いい結果は待っていません。だからこそ、争いごとになりそうな種は、生きているうちにすべて整理するなり、寄付をすること。
それが、最後に残された親の責任のような気がしています」
親友の言葉は、すでに85歳になっていた原に響くところはなかったのか。
小川によると、原との間で会社の承継について話題に出ることは何度かあった。ただ、「お前にはお金がないしな」などとはぐらかされて終わるのがたいていで、どこまで真剣だったかはよくわからない。専属の運転手には「3年かけて甥に引き継ぐ」と亡くなる前年に語っていたとの証言もあるが、結局は主要な権限を握りしめたまま鬼籍に入り、承継に向けた準備をした形跡は見当たらない。
■遺族が経営陣を解任し法廷闘争へ
創業者がひとりで持っていた株式は、妻と娘に相続された。
経営陣が株の買い受けを検討したこともあるが、銀行の試算で10億円は必要だと見込まれ、資金調達が難しいと判断して棚上げしていた。
朝日出版社のM&A(企業合併・買収)がにわかに動き出すのは、その矢先のことだ。
遺族が金融アドバイザーを介し、都内の合同会社に全株を売る契約を2024年夏に交わした。経営陣は買い手としてふさわしくない相手だと考え、対抗馬を探すなどして抵抗したが、遺族は経営陣を解任し、自ら役員に就くなどして経営を漂流させた。
解任された小川らは法廷闘争に乗り出し、従業員も労働組合でスト権を確立するなどして対抗した。銀行口座の争奪戦も激しさを極めた。
結果的には2025年2月、旧経営陣も納得する新たな買い手が10億円超で朝日出版社を買収し、騒動は鎮(しず)まった。
解任された役員も復帰し、新たな企業集団の一員として再スタートを切った。
ただ、偶然がいくつも折り重なってたどり着いた決着でもあった。納得のいかない買い手による買収や資金ショートによる破綻とは紙一重の綱渡りだった。
どこの会社にもわき起こりかねないM&Aトラブル。具体的な事例から浮かぶ教訓は、生々しくて切実だ。

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藤田 知也(ふじた・ともや)

朝日新聞記者

早稲田大学大学院修了後、2000年に朝日新聞社入社。盛岡支局を経て、2002~2012年に「週刊朝日」記者。経済部に移り、2018年から特別報道部、2019年から経済部に所属。著書に『郵政腐敗 日本型組織の失敗学』(光文社新書)、『郵便局の裏組織 「全特」――権力と支配構造』(光文社)など。

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(朝日新聞記者 藤田 知也)
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