細菌兵器を開発していたことで知られている旧日本軍の「七三一部隊」。彼はどのような手法で細菌兵器を開発していたのか。
愛知学院大学文学部歴史学科の広中一成准教授が書いた『七三一部隊の日中戦争』(PHP新書)から一部を再編集してお届けする――。(第2回/全3回)
※本稿は、広中一成『七三一部隊の日中戦争』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■銃を持った警備兵が守る「2階以上」
防疫給水部の任務が、「盾」としての防疫給水と、「矛」としての細菌兵器の開発であったということは前回の記事で解説した。それでは、彼らは具体的にはいかなる組織で、どのような活動をしていたか。栄部隊を例に探っていこう。
まず部隊の人員から見ていく。「中支那防疫給水部編制表」(「中支那防疫給水部ノ編制改正並防疫給水部一部復帰要領」所収)によると、40年11月の段階で、栄部隊は将兵1838人、軍属226人の総勢2064人で構成される。
このうち、半数あまりが衛生兵で、部隊をとりしきる168人の将校の指示を受けてさまざまな業務に当たっていた。組織の構成と業務内容はどうか。40年10月に栄部隊の衛生兵となったとべしゅん(仮名。本名は深野利雄)「戦争詩集 細菌戦部隊を詠む」(『細菌戦部隊』所収)によると、栄部隊の業務は「一課は病理研究と特別作業、二課は伝染病の予防、三課は細菌の検索と研究、それに予防ワクチンの製造、四課は野戦における給水と検水」だった(課は科とも)。
とべは第三課に配属される。
同課は「一棟」または「本部棟」と呼ばれた4階建ての建物の1階と2階の東側にあり、2階側には「コレラ室」・「赤痢室」・「チフス室」・「菌種室」と掲げられた研究室があった。彼はこの中の「菌種室」に勤務し、室内に保管されていた数百種類の細菌に雑菌が入らないように管理するよう命じられる。
また、第三課には「七棟」に事務所と部屋全体を一定温度に保った「孵卵(ふらん)室」、ワクチンの製造に必要な高圧蒸気滅菌機を置いた部屋もあった。
事務所横の階段には銃を腰に下げた警備兵が立ち、関係者以外2階以上に上がらないよう厳重に守られていたという。そこには何があったのか。
■4階には「実験に使う人間」が収容されていた
44年夏に同じく衛生兵として栄部隊に入隊した松本博は「南京でもやっていた人体実験」(同右所収)でこう述べる。
「入隊後私は部隊本部内にある七号棟の建物に連れていかれました。コンクリート造りの四階建ての建物でした。そのとき私に言い渡された仕事は、“マルタ”の監視だったのです」

証言のなかの「七号棟」は、おそらくとべの言う「七棟」であろう。そうであれば、この建物の階段を上ると人体実験の被験者である「マルタ」を収容する部屋があったと思われる。警備を厳しくして立ち入りを制限していたのはそのためだったのだ。
松本によると、4階にあったその部屋は、学校の教室ほどの広さで、その中に「ロツ」(中国語で籠を表す籠子〔ロンズ〕のことか)と呼ばれた檻が5、6個あった。
その中には全裸の中国人男性が一人ずつ入れられていた。彼らは憲兵によって連行されてきた捕虜だ。
捕虜の取り扱いについては、1899年に採択(1907年改正)されたハーグ陸戦条約と29年のジュネーヴ条約(「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」)で国際的に規定されている。日本は前者を調印・批准し、後者は調印のみで批准しなかったが、米英側には準用すると答えている。
しかし、実際は捕虜となることを恥とする精神主義や中国蔑視の感情により、中国人捕虜に対しては殺害も辞さない厳しい態度で臨んだ(『餓死した英霊たち』)。松本は捕虜が脱走しないよう一日中部屋の入口に立って見守るだけでなく、毎朝の検温、食事の世話や排泄物の処理などに当たる。
■感染した実験体の血液をすべて抜き取る
どれもつらい任務であったが、とくに彼を苦しめたのが次の作業だった。
「いちばんいやだったのは、細菌感染させた数日後、“マルタ”の体から血を全部抜き取る全採血でした。
採血には、軍医のほかに私ら担当の監視と監視所の者と軍医が連れてきた兵隊が立ち会いました。私は採血される“マルタ”を“ロツ”から出して、目隠しをしました。黒い頭巾のような袋を頭にスッポリとかぶせるのです。服は着ません。
裸のまま隣の処置室に連れていくのです。
それまでもこのようにして連れ出された“マルタ”は一人として部屋に戻りませんでしたから、連れ出される“マルタ”は同室の“マルタ”に「スラー!」(殺される)と呟いていました」(「スラー」は、中国語で死ぬを意味する「死了」──引用者注)。
この作業は、いわゆる強力な細菌を手に入れるための「体内通過法」であり、前述の鎌田が語ったとおり、七三一部隊も行なっていた。つまり、栄部隊も七三一部隊と同じく、細菌兵器製造のための人体実験という非人道行為に手を染めていたのだ。
■マムシ、ムカデ、サソリも実験に使用
ほかの課も見てみよう。
42年8月より軍属として第一課に勤務した石田甚太郎によると、「一科(ママ)とは歴史の陰に埋もれた謀略戦に於ける生物化学兵器、細菌兵器の研究と製作」を任務とし、軍医将校によって、「ペスト、コレラ、チブス、ボッケ(ポックスのことと思われる)から狂犬病、歯槽膿漏(しそうのうろう)等々細菌に関する全て、並に蝮(まむし)、百足(むかで)、サソリ、小動物から毒草に至るまで、人体に及ぼす研究」が行なわれていたという(前掲「元一六四四部隊員の証言」)。
第一課のあった建物は3階建てで、「一科ママの三階には『ロツ』があり、兵隊は銃を持って昼夜三交替で監視、夜は不寝番に立つ」と、ここでも「七棟」と同じく人体実験のための「マルタ」を拘束する「ロツ」のある部屋があった。
室内の隅には細い溝があり、そこを水が絶えず流れている。「ロツ」は部屋の中央に置かれ、そのまわりをたくさんのノミが跳びまわっていた。そして、「ロツの此の部屋(やや外側寄り)には石油缶がいくつもあり、中に白いマウスが動いている。マウスにはペスト菌の注射がしてある。蚤はマウスの活(ママ)血を吸わせて飼育された」。

■効果不明の毒物を人間に注入し…
「マルタ」は、輸送を担当していた第二課よりトラックで運ばれ、第一課に引き渡されていく。そして、実験で「マルタ」が減るとすぐに補充された(同上)。
すなわち、栄部隊の第一課から第三課まですべて「矛」である細菌兵器の開発に関与していたのである。
佐藤俊二栄部隊長によると、栄部隊には石井式培養缶約200個、培養室一室、培養器と蒸気滅菌機それぞれ40-50個などがあり、一製造周期中におよそ10キログラムの細菌を製造できたという(『公判書類』)。
ちなみに、栄部隊は化学兵器の開発を行なう別組織に対しても、実験用として「マルタ」の提供をしていた。伴繁雄(ばんしげお)『陸軍登戸研究所の真実』によると、41年5月上旬、神奈川県川崎市の陸軍科学研究所登戸出張所、通称登戸研究所の第二科長畑尾正央(はたおまさお)中佐ら所員7人が参謀本部の命令で南京に出張し、栄部隊らの協力のもと化学兵器の実験を行なう。
登戸研究所は秘密戦といわれる陸軍の諜報・防諜・謀略・宣伝行為のうち、とくに機密性の高い秘密戦器材の研究開発を担った。そのなかでも力を注いだのが生物化学兵器の開発だ。
■十数人が数時間のうちに命を落とした
彼らは数年間の研究の末、青酸ニトリール(青酸ニトリル。アセトンシアンヒドリン)と称した新たな青酸化合物を製造し、兵器に転用しようと試みる。しかし、効力が不明だったため、石井の承諾を得て、南京で人体実験をすることになった。
実験は畑尾らが見守るなか、栄部隊の軍医が行ない、被験者として「マルタ」15、16人が用意される。
青酸ニトリールの致死量はわずか1グラムで、体内に入ると2、3分で症状が現れ、早くて30分で死に至る。これを注入された「マルタ」もまもなくして苦しみだし、数時間のうちに命を落とした。
これら実験結果は、登戸研究所の研究に利用されただけでなく、七三一部隊や細菌戦部隊にも共有されたのである。

----------

広中 一成(ひろなか・いっせい)

愛知学院大学文学部歴史学科 准教授

1978年生まれ、愛知県出身。2012年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。専門は中国近現代史、日中戦争史、中国傀儡政権史。著書に『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』、『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線II』、『傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史』(いずれも角川新書)、『冀東政権と日中関係』(汲古書院)、『増補新版 通州事件』(志学社選書)などがある。

----------

(愛知学院大学文学部歴史学科 准教授 広中 一成)
編集部おすすめ