■母親からの性被害を受けた息子
家族間の性加害において、最もタブー視されていると言っても過言ではないのが、母親による息子への性加害である。母親に加害性の認識がなく、息子もまたその当時は被害を受けている認識がなかったという報告が実に多かった。ところが、時間の経過に伴って歪んだ母子関係が、成長した息子の人生に多大な悪影響を及ぼすケースがある。
本稿では、母親から性被害を受けていた杉本亮(仮名・50代)氏の体験を紹介したい。登場人物はすべて仮名で個人が特定されないよう修正を加えている。
■「母親と寝る男」とあだ名をつけられ…
「マザーファッカー」
中学生の頃の僕のあだ名です。どういう意味だろうって、調べたら、男を最も侮蔑する単語なんですね……。
どうして僕がそんなあだ名で呼ばれるようになったかというと、中学3年生の頃、クラスメートがいたずらをして僕のカバンにエロ本を入れたんです。家に帰ると母親がそれを見つけて大騒ぎになったことがありました。
「これはどうやって手に入れたの? 正直に言いなさい!」
母は鬼の形相で僕に詰め寄りました。
「知らないよ。鞄を開けたら入ってたんだ。
「いたずらって……。こんな破廉恥なこと、絶対に許さない!」
母は翌日学校に乗り込み、担任に僕のカバンに雑誌を入れた犯人を捜すよう詰め寄りました。先生は皆に対して「イタズラは止めなさい」と一般的な注意を行ったのですが、母は納得がいかず、連日、僕に心当たりがあるクラスメートの名前を教えるよう迫り、片っ端から電話を掛けて誰がやったのか問い詰めていったのです。結局、犯人は見つからず、母の異常な行動にクラスメートたちは完全に引いていました。
それ以来、僕は生徒たちから馬鹿にされ、陰口を言われるようになったのです。そして、つけられたあだ名が「マザーファッカー」。母親と寝る最低な男という意味ですね。しかし、僕は本当に一時期母親と寝ていたのです。僕は人類史上最低のクズ男なんです。
■ポルノ収集癖のある父を持つ複雑な家庭環境
中学校2年生の夏休み。僕が塾から帰ってくると、家の前には知らない車が2台とまっていました。玄関には沢山の靴があり、中から知らない男性が出てきたのです。
「あの、母は?」
「息子さんだね? お母さんはこっちだよ」
男性に連れられて台所に行くと、母が真っ青な顔をして座っていました。母は茫然自失で、僕が何を尋ねても答えてくれませんでした。
この日は、父が違法なわいせつ画像を保持している嫌疑がかかったため、警察による家宅捜索が入ったのです。ところが、父の部屋からは違法なものは発見されず、父は逮捕されることはありませんでした。
父の部屋には、おびただしい数のポルノ映像が蓄積されていました。違法なものがあったとしても不思議ではありません。
■「性犯罪者は死刑でいい」と母は言っていたが…
家宅捜索が入ってから母は寝込み、しばらく外出できなくなっていました。ところが父はまったく平気な様子でいつものように遅くまで飲み歩いていたのです。
「お父さんは甘やかされて育った本当に腐った人間。親のコネで生きているだけで学歴も低いし馬鹿の極致よ」
僕は、物心ついた頃から、母から父の罵詈雑言を聞かされて育ちました。絶対に父親のようになってはいけないというのが母の口癖です。
母は幼い頃から勉強がよくできる子どもでした。
父のおかげで、僕たちは何不自由なく生活してきましたが、母は父を軽蔑していて、家の中では目を合わせることさえしませんでした。それにもかかわらず、人前に出ると急に仲の良い夫婦を演じ始めるのです。僕は幼い頃からこの光景を不思議に眺めていました。
「性犯罪者は死刑でいいのよ」
母にとって、この世で最も汚らわしい存在が性犯罪者であり、性犯罪者の家族になることを異常に怖れていました。怖れるということは、その可能性を感じていたからでしょう。家宅捜索があってから、以前より父や僕に対する監視が厳しくなりました。
「お父さんのことはもう諦めてるから、犯罪にならないことなら何したっていいわよ。でも、亮君には立派になってほしい。あんな汚らわしい父親に似ては駄目よ」
母はそう言って、僕の性器に触れるようになりました。声変りをして、ちょうど身体が大人になってきた頃でした。
■母との関係を異常だと思っていなかった
母は、僕が幼い頃から暴力や性的な表現に敏感で、テレビ番組やアニメ、漫画などは、母のチェックを通ったものしか見せてもらうことができませんでした。僕は幼い頃から高校に入るまでずっと母親と一緒に風呂に入っていました。母から、
「性的欲求を感じたらお母さんにいいなさい」
と言われており、僕は母の言うとおりにしていたのです。他の女性とセックスしていいのは結婚してからで、それまでは母としなければならないと言われていました。僕には何でも話せる友達はなく、母との関係は珍しいことではないのかもしれないと思っていました。
■「母親と寝た自分」が軽蔑されているように感じた
僕は、都内の私立大学に合格し、実家を出てひとり暮らしをすることになりました。期待を胸に入学した大学でしたが、早くもホームシックになってしまったのです。中学や高校では僕に親友と呼べる友達はいませんでしたが、孤独になることはありませんでした。ところが、自分から輪に入っていかなければならない大学生になると、急に孤独を感じるようになったのです。
「マザーファッカー」
僕に与えられた名前の本当の意味を理解したのは、この時かもしれません。僕の生まれ育った町にはない美しい景色、物、成功、そのすべてが僕には決して手に入らないことを思い知らされたのです。
キャンパスを歩いている可愛らしい女性が、僕みたいな最低男に振り向いてくれるわけがない。
僕は居たたまれなくなり、ひと月足らずで実家に戻ることにしました。そして仮面浪人をして地元の国立大学に入り直したのです。
母との性交渉は高校1年くらいまでありました。大学に入ると、昔のように部屋のものをチェックされたり、マスターベーションのことを聞かれたりすることはなくなりました。両親は遅くに結婚しているので、母は60、父は70を超え、父はペットの猫や植物の世話に没頭するようになっていました。母もそんな父を暖かく見守り、昔のような夫婦ではなくなっていました。
■「早くお嫁さん見つけて」と急かす母を…
私がちょうど30歳になった時、父が亡くなりました。それから数カ月後、母は脳梗塞で倒れました。
一命は取りとめ、リハビリでだいぶ身体もよくなっていたのですが、若干認知症のような症状が出て、何回も同じことを言ったり、難しい話が通じないようなことが度々起きていました。
「亮君お嫁さんは? 母さん、そろそろ孫の顔が見たいよ」
いつの頃からか、母は度々僕にそんなことを言うようになりました。僕は大学院に進学した後、母親の知人の会社で働かせてもらっていましたが、やはり女性と交際することはできませんでした。僕は結婚など諦めていたし、母はてっきり僕とふたりでいたほうがいいと思っているのだと思っていたのです。ところが、
「亮君、早くいい人見つけて!」
母は急かすようになりました。母親からは絶対聞きたくない言葉でした。誰のせいで、誰のせいで僕は女性と関係を持つことができなくなったのか……。どうしようもなく怒りが込み上げる瞬間が続いていました。
私はこの頃、母に食事を用意しなければなりませんでした。仕事が遅くなる時もあり、お惣菜を買って済ませることもありました。それがきっと母には気に食わなかったのでしょう。
「亮君、いい加減、美味しい料理作ってくれるお嫁さん早く連れておいで!」
仕事で疲れている僕に母はそう言いました。
「もういい加減にしてくれよ」
「いつお嫁さん来てくれるの? いつ? ねえ、いつなの?」
母の言葉に、すっかり頭に血が上って正確には覚えていませんが、気が付くと母は倒れていました。
私が殺したのです。
■大人になった今も昔の性暴力が頭をよぎる
本件は、今から約十年前に関東地方で起きた殺人事件の加害者による告白である。表向きは息子の介護疲れによる犯行として片付けられていた。杉本さんは、母子性交の事実について男性の弁護人にカミングアウトしたが、嘲笑され真剣に話を聞いてもらえなかったのだという。
「人生が上手くいかない、躓いてしまう原因を辿ると、必ず母からの性暴力に行きつくんです……。でも、誰にどこで相談していいのかわからない、笑われるのが怖い……」
杉本さんは、母から性暴力を受けた息子も「性被害者」だと社会に認識してほしいと訴える。「マザーファッカー」という侮蔑用語が存在するように、加害者が母親の場合、カミングアウトには屈辱を伴う。しかし、親子関係下において、たとえ行為時に抵抗しなかったとしても加害性が否定されるものではなく、恥ずべきは加害者であり、被害者には何の落ち度もないはずである。
母親による性暴力の実態について、社会における問題の共有が課題である。
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阿部 恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長
東北大学大学院法学研究科博士課程前期修了(法学修士)。2008年大学院在籍中に、社会的差別と自殺の調査・研究を目的とした任意団体World Open Heartを設立。宮城県仙台市を拠点として、全国で初めて犯罪加害者家族を対象とした各種相談業務や同行支援などの直接的支援と啓発活動を開始、全国の加害者家族からの相談に対応している。著書に『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)、『加害者家族を支援する』(岩波書店)、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)、『高学歴難民』(講談社現代新書)がある。
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(NPO法人World Open Heart理事長 阿部 恭子)