稀代の経営者、稲盛和夫さんの思想の源流はどこにあるのか。長年取材をしていたジャーナリストの井上裕さんは「鹿児島に残っていた『郷中教育』と呼ぶ独自の教育文化と、母親の影響を強く受けた子供時代だった」という――。

※本稿は、井上裕『稲盛和夫と二宮尊徳 稀代の経営者は「努力の天才」から何を学んだか』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■鹿児島に残っていた独特の教育文化「郷中教育」
錦江湾を挟み桜島を望む鹿児島市の高台、城山。郷土の偉人、西郷隆盛終焉の地だ。そこを下った甲突川のほとり、薬師町(今の鹿児島市城西)に稲盛和夫は生まれた。西郷の死から55年しか経っていない1932(昭和7)年1月21日。3月に満州国が建国され、5月に五・一五事件が起き、軍靴の足音が高く聞こえてきた頃だった。
父・畩市、母・キミの次男で、長男の利則は3つ上。尊徳に3歳下の弟がいたのとは真逆である。一家を背負った尊徳が生涯、堅物だったのに対し、稲盛は両親と利則に守られ、すくすくと育った。後年、稲盛は兄を振り返り、こんな思い出を語っている。兄は親の世話をしながら自分にはやりたいことをやらせてくれた。家計が苦しいからお前は大学は諦めろと父に言われた時、「せめて和夫だけは行かせてやってくれ」と懇願してくれた。

鹿児島には当時、「郷中教育」と呼ぶ独特の教育文化が残っていた。「郷中」には地域(郷)に住む子供たちが互い(中)に切磋琢磨し、高め合うとの意味がある。江戸時代の薩摩藩(1600~1871年)に生まれた子弟教育のやり方で、維新後は武士色を薄め、純粋に郷土の道徳思想を伝える市井の教育システムとして戦後まで続いた。
■アメーバ経営の原型はここにあった
稲盛は今も薬師二丁目にある市立西田小学校に通っていた。当時は学校以外にも寺子屋のような「学舎」と呼ぶ学び舎が鹿児島のあちこちにあった。稲盛が郷中を学んだのは小学校か市井の施設かは判然としない。だが、稲盛は「弱虫がまともに育ったのは鹿児島独特の郷中教育で鍛えられた面がある」と自著『ガキの自叙伝』(日本経済新聞社刊、2002年)で吐露している。
負けるな。噓を言うな。弱い者いじめをするな。郷中教育が特に尊ぶ3つの戒めである。
これはそのまま負けん気人一倍、誠実、優しさ無限の稲盛の人生そのものとなっていく。

郷中では子供たちは数人から十数人のグループに分けられ、その中で議論をし、解決策を探る。今でいうグループ学習かもしれない。だが、郷中は同じクラスのグループではなく、学年もクラスも違うグループでそれを行う。なれ合いなし。借りてきた猫も許されない。全員参加で年の差を超えた積極性、責任ある発言が求められる。
現代の日本のどこかに郷中に似た組織はなかったか。そう、稲盛が京セラで編み出した「アメーバ経営」だ。
職場を年齢の違う少人数のグループに分け、品質、収益を管理し、互いに学び、高め合う。稲盛はいくつものアメーバに向かって「全員が経営者たれ」と号令をかけ、高収益、高いモチベーションの会社に育てた。困難と思われた日本航空(JAL)の再建を成し遂げた時、稲盛がいみじくも言ったのは「自分がやったのは京セラフィロソフィーとアメーバ経営をJALに持ち込んだだけだった」。自身が編み上げた経営哲学と経営実務に自信を持っての発言だろう。
アメーバ経営の原型は戦前、鹿児島の郷中教育にあったのだ。
■子供を正直で不屈な子に育てよという教え
稲盛が自分の人生にとても大きな影響を与えたと語り、自著に書いてきたのは同郷の西郷隆盛と母・キミ、そして尊徳である。まずはキミがどう稲盛を育てたかを見てみよう。
キミを語るにもやはり郷中教育に触れざるを得ない。
キミの実家は現在の鹿児島市天保山町、甲突川が錦江湾に流れ込む河口付近にある。1863(文久3)年、天保山に設置された11門の砲台から錦江湾に停泊中の英国艦隊に向け砲撃し、始まったのが薩英戦争だ。戦後、英国と友好関係を築いた薩摩藩は一気に武装強化し、5年後には西郷隆盛による江戸城の無血開城へと突き進む。城山が西南戦争で薩摩の夢が露と消えた地であれば、天保山は武勇と維新の象徴の地といえる。
キミはその天保山で1910(明治43)年に生まれた。郷中は1871(明治4)年の廃藩置県で武士の子弟教育から郷土の青少年教育に姿を変えていた。女子にも、負けるな、噓を言うなの教えを叩き込み、妻になればよく夫を支え、子供を正直で不屈な子に育てるよう教えた。実際、若くして結婚したキミはその通りの女性だった。

■けんかをして家に帰ると必ずこう問い質した
特に負けん気が際立った。稲盛の自著『ごてやん 私を支えた母の教え』(小学館刊、2015年)にはこんな母の姿が描かれている。
稲盛幼少期の鹿児島。男の子はけんかをしてこそ一人前の風潮が色濃く残っていた。けんかを繰り返して立派な薩摩男に育つことが親の願いであり、子の本望だった。小学校に上がってしばらく経った頃のことだ。けんかをして家に帰ると、キミは必ずこう問い質したという。あなたは自分が正しいと思ってけんかをしたのか、と。
「『自分は正しいと思ってけんかをしたが、負けてしまった』と答えると、『正しいと思うなら、なぜ泣いて帰ってくるのか』とたしなめられた。そして、そのへんの塀に立てかけてある庭ぼうきか何かを私に持たせ、『もう一回行って相手を殴ってこんか』と言って家から追い出そうとした」(『ごてやん』より)
■自ら木刀を手に取り、見栄を切った
別の逸話もある。
稲盛が誰かから聞いた話だ。キミが結婚したばかり、稲盛の生まれる前。
夫・畩市にはまだ小学生だった末弟がおり、キミたちと同居していた。近所で遊んでいたら、うるさくて勉強ができないじゃないかと言って家から出てきた若い男が、いきなりその子の顔を殴ったという。
夫に抗議に行くよう促すが、煮え切らない。ならばとキミは自ら木刀を手に取り、子供の手を引き、市内の旧制第七高等学校に通う男のところに行き、こう見栄を切ったという。
「玄関に入って『おい、出てこい!』と大声を上げ、(中略)『七高という立派な学校に通い、教養も知識も備えた人間が、小さな子供がただ騒いだからという理由で殴ってけがをさせるとはなにごとか! けしからん。私が相手になってやる!』」(『ごてやん』より)
稲盛に言わせると、母は普段はむしろおとなしく優しい性格なのだが、正義感に火がつくといつもこうなったという。
稲盛が生まれた鹿児島市薬師町(当時)は「島津住宅」が通り名の、旧島津藩下級武士が多く住む住宅街だった。「士族」と「平民」の間に厳然とした区別があり、中学受験の願書にはこの区別をあえて書かせていたという。
■郷中教育と母からの教え
印刷業を営む畩市は農家の出身だが、仕事の関係で薬師に居を構えていた。畩市はさほど気にしていなかったようだが、キミと稲盛はなにくそと、この区別に負けじ魂を募らせていた。子供を殴った七高生は士族の出身。キミは驕りを感じ取ったのだろう。
それが、「私が相手になってやる」になった。
思想家にはいくつか大事な素養が必要だ。負けん気、権威に対する不服従、不屈、正義感。そのような気質だ。稲盛はそれを郷中教育で教わり、家では母から教わった。
稲盛がどれほど母を愛していたか。『ごてやん』の序章でこう語っている。
「こんなことを書くのは照れくさいが、私は子供の頃から本当に母親のことが好きだったのだと思う。母は、言葉では表現できないくらい大きな愛情で私を包み込んでくれていた」
「『やさしさ』という言葉を聞くとすぐに母を思いだすくらい、母の存在は今も私の心の中で非常に大きな位置を占めている。母は二十三年前、八十二歳でこの世を去った。そして私は今年八十三になった」
■幼き稲盛の「3時間泣き」
「ごてやん」は鹿児島弁で、ごねて周囲を困らせる子どものことをいう。しょうがなさと愛らしさがない交ぜになった言葉だ。
稲盛自身、自分はごてやんだったと告白して憚らなかった。幼い頃、母について回り、母が見つからないと寂しくてしょうがなくなり、ずっと泣いていたという幼き稲盛の「3時間泣き」。兄1人、妹3人、弟2人の7人兄弟の次男。母を独り占めしようとしたわけでもないだろうが、「とにかく四六時中、母の後を追いかけ回していた。母が着ている着物の裾をつかみ、母が台所へ行けば台所に、お便所に行けばお便所にまでついていく」(『ごてやん』より)。尋常でない「ごてやん」ぶりだ。
母にまつわる話はいくつもの書物に書かれているので、ここでは二宮尊徳につながる逸話をもう1つ記しておく。
■最後の空襲で印刷工場も家も全滅した
稲盛が鹿児島中学に入学した年、1945(昭和20)年の8月。日本は終戦を迎えた。臆病で泣き虫のごてやんも正義感の強いガキ大将に成長。敗戦時には13歳になっていた。
沖縄戦が始まったこの年の3月。米軍は3月から8月にかけて、特攻基地のある本土最南の鹿児島にも8度の空爆を仕掛けた。鹿児島大空襲である。6月17日の焼夷弾による夜間空襲では死者が2316人、負傷者3500人。鹿児島空爆で最大の被害を出した。広島に原爆が投下されたのと同じ8月6日の最後の空襲では稲盛の家があった薬師町など3町が爆撃を受けた。
稲盛は終戦前後のことをよく覚えている。焼夷弾で甲突川の対岸が火の海になったこと。火に包まれ、逃げ惑う市民のこと。校庭に低空飛行で現れ、機銃掃射するグラマンのこと。空襲警報に怯える日々。
大家族の稲盛一家は自警団にいた畩市の案内もあってなんとか生き延びたが、最後の爆撃で印刷工場も家も全滅した。
稲盛は家族9人と叔父、いとこの計11人という大所帯で畩市の実家のある伊敷村小山田(今の鹿児島市小山田町)に身を移す。一家は8月15日の玉音放送をこの小山田で聞いた。
転居先は以前からの疎開先でもあったので、わずかの家財道具は残っていたが、畩市の貯えは46年の「新円切り替え」で紙屑同然になった。事実上の無一文である。

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井上 裕(いのうえ・ゆたか)

ジャーナリスト

1957年東京生まれ。82年早稲田大学第一文学部卒、日本経済新聞社入社。東京社会部、長野県松本支局、産業部、欧州総局(ロンドン)特派員などを経て、2005年『日経ビジネス』編集長。その後、産業部長、証券部長、電波本部長などを歴任し、2013年制作担当としてBSジャパン(現・BSテレビ東京)取締役に就任。テレビ東京メディアネット代表取締役社長、テレビ東京顧問などを歴任。新聞記者時代から稲盛和夫氏を長く取材してきた。

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(ジャーナリスト 井上 裕)
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