なぜ、夫の定年後に夫婦関係は危機に陥るのか。朝日新聞取材班は「長年、夫が不在だった家庭では、妻の生活のペースができてしまっている」という――。

※本稿は、朝日新聞取材班『ルポ 熟年離婚 「人生100年時代」の正念場』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■退職後「週3日は外へ」はきつい
「昼ご飯、作りたくない」
滋賀県に住む70代の男性は、妻の言葉に驚いた。
60歳で定年を迎えた後、雇用延長で66歳まで働き、退職してから間もないころだった。
専業主婦の妻は、自身の昼ご飯を前夜の残り物やパンで済ませることが多かった。3食分を作るのは、めんどくさいのだろう。「しょうがない」。そう思った。
妻は、続けて言った。「週に3日は外に出てほしい」
こちらは「きつい話だ」と思った。
でも、けんかをしても仕方がない。できるだけ外に出るようにした。
コンビニで昼食用のおにぎりを2個買い、電車で京都へ。
京都御苑や植物園、寺や公園のベンチで昼食をとった。電車賃がかかるから、昼食代は節約せざるを得なかった。
現役時代は昼ご飯を一人で食べることがよくあった。寂しさは感じなかった。
でも同世代の高齢者が孫を連れて一緒に食事をする姿を見ると、うらやましく思うこともあった。孫は二人いるものの、いま食べている自分は一人だ。思い描いた「退職後」とは違った。
■一駅分の電車賃でつぶす3時間
「週3日のノルマ」はきつかった。
地域活動や仕事を探しても、趣味に合わなかったり、場所が遠かったり。活動回数が少ないものもあった。
最低週1回は活動しないと予定は埋まらない。次第に探す気持ちさえ起きなくなった。

そのうち、お金をあまりかけず、外で時間をつぶすことができる方法を見つけた。
最寄りのJRの駅から電車に乗り、琵琶湖を一周ぐるりと回って、最寄りの手前の駅で降りる。鉄道ファンに親しまれる「大回り」という乗り方だ。
おにぎりとお茶、小説などを持参し、3時間以上かけて回った。料金は一駅分だけ。「何をして過ごせばいいか、分からなかった。電車はちょうどいい書斎だった」
福井県出身。大阪の大学を卒業後、京都の機械メーカーに勤めた。20代で結婚し、娘が二人いる。長い会社員生活で、いま暮らす街をよく知らないままだった。
■妻から「私の年金は私が全部使うから」
退職前は、県外での単身赴任が10年以上続いた。妻は時折来て家事をしてくれた。
ただ、思えば、単身赴任の間に妻のことが分からなくなっていったのかもしれない。
退職後、「テレビを見ようか」と声をかけたら、「好みが違う」と断られた。今後の暮らしについて話したとき、妻は言った。「私の年金は私が全部使うから」。
アカンやろ。普通は夫婦の年金で生活するだろう。そう思い、自分の年金の額や今後の生活を説明した。でも妻は年金を共有の口座に入れなかった。
とはいえ、日ごろの生活費は一人分の年金では足りない。口座には入れなくても、妻が年金の一部で補っているようだ。
退職後、妻や友人らと各地を旅行した。でも普段は「どこに行こうか」と考える毎日だった。
弱音を吐く姿を妻や一緒に暮らす娘には見せなかった。「お父さんは何でもできる」というイメージが変わってしまう。しんどくないように演じたほうが楽でいい。
■定年退職前に準備すべきだったこと
「お前、暇やろ?」。退職から1年半が過ぎるころ、元同僚から声をかけられた。
「うん、暇」と返すと、地域の歴史を学ぶ会を紹介された。定年後の男性らが集う団体にも誘われ、入った。勧められてシニア世代が学ぶ「大学」にも通い始めた。
いま、月の半分ほどが予定で埋まる。努力しなくても「週3日のノルマ」をこなせるようになった。日々、自分で行き先を考えないといけなかったころと違い、いまは予定された行き先が多く、やらないといけないことがある。
なんと楽で、幸せなことか。
もしも元同僚の「暇やろ?」の声がけがなかったら、「きつかったやろうな」。
会社であれ、地域であれ、「ちょっと声をかけよう」と思ってもらえる、そんな状況を退職までに作っておくのが一番だと感じる。
人間関係の準備ができなかったのと同じように、妻と定年退職後の暮らしのすりあわせもできていなかったのだと思う。長年、夫が不在だった妻には、妻の生活のペースができてしまっていた。
退職後の生活も数年たった。お互いに少し楽になり、妻は多少、優しくなったようにも感じる。それでも、そのほうが妻が喜ぶから、いまもできるだけ外に出て昼食を食べるように心がけている。
■高齢男性は会話の頻度が少ない
定年後の男性たちの「孤立」や「孤独」を表すようなデータがある。
国立社会保障・人口問題研究所の2017年「生活と支え合いに関する調査」(有効回答1万9千人超)では、年齢階級別の会話頻度を調査している。
「毎日」会話している人の割合は、50代までは男女とも90%以上だが、男性は60代で87.5%(女性89.2%)、70代で83.2%(同86.8%)。男性のほうが女性よりも会話が少ない傾向にあった。
会話が「2週間に1回以下」の割合は、男性が60代3.7%(女性2.2%)、70代4.9%(同1.9%)と、男性のほうが高かった。

内閣府の19年度「高齢者の経済生活に関する調査」(有効回答1700人超)によると、「社会的な活動を行っていますか」(複数回答可)の問いに対して、65歳以上の男性の63.3%、同じく女性の64.0%が「特に活動はしていない」と答え、その理由(同)として「活動をする意思がない」を選んだ人は男性で34.3%にのぼり、女性の25.4%を上回った。
■離婚できない熟年妻の“実績”作り
介護をめぐり、バトルになっても離婚できない熟年夫婦もいる。
「夫を介護するのも嫌だし、夫に介護されるのも嫌だから離婚したい」
中部地方で資産家として知られる男性(68歳)の妻(66歳)は3年前、こう離婚を切り出した。
暴力を振るわれたり、浮気されたりしたわけではないが、言葉でネチネチと責め立てるモラハラに耐えかねての決断だった。
だが、男性や成人した子ども三人が離婚に猛反対し、果たせずにいる。
資産家なので離婚すれば、配偶者控除が使えなくなり、相続税の額が億単位で跳ね上がり、一族の財産が目減りするからだという。
弁護士と相談した上で、妻は自宅を出てマンションに移った。裁判所に離婚が認められやすくなる条件の一つでもある「5年以上の別居」という実績作りのためだ。妻は弁護士を介し、「別居中、互いの介護は一切、しない」「別居中、自分が死亡しても夫の墓には入らない」などの念書を男性と交わしているという。
厚生労働省の介護保険事業状況報告(2024年)によると、要介護(要支援)認定者数は約723万人。うち在宅で介護サービスを利用している人は約435万人に上る。ピークを迎える2040年に約465万人になると推計され、不足する介護人材は約57万人に上るとされる。
同省の国民生活基礎調査(22年)によると、介護者の続き柄を見ると、同居人が45.9%で、女性が68.9%と男性(31.1%)の倍以上となっている。

(朝日新聞取材班)
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