※本稿は、榎本博明『なぜあの人は同じミスを何度もするのか』(日経プレミアシリーズ)の一部を再編集したものです。
■「今、自分が不満だから」ネガティブな記憶を引っ張り出す
記憶というのは過去を映し出すものと思うかもしれない。たしかに過去の出来事の記憶は、過去を映し出しているはずである。だが、よく調べてみると、その過去の出来事の記憶には、過去だけでなく「今」が映し出されているのだ。
どういうことか。わかりにくいと思うので、もう少し具体的に説明しよう。
ある大がかりな調査では、幼児を対象にして、親子関係がしっかり築かれ子どもの情緒が安定しているか、それとも親子関係がうまく築かれておらず子どもが情緒不安定気味であるかが測定された。そして、その子たちが大学生になったときに、自分の幼児期を回想してもらった。
その結果、自分の幼児期を良い時代だったというように思い出すか、それとも不安定で不幸な時代だったというように思い出すかは、実際の幼児期の状態によるのではなく、今の大学生活に適応しているかどうかによることがわかったのである。
つまり、今の大学生活にうまく適応している者は自分の幼児期を良い時代だったというように回想し、今の学生生活に不適応気味である者は自分の幼児期を良くない時代だったと回想する傾向がみられたのだった。
幼児期が良い時代だったか良くない時代だったかは、現在の自分の適応状態に沿って評価されるというわけである。
ここから言えるのは、愚痴っぽい人は今の生活に不満が多いということである。本書の気分一致効果のところでみてきたことに符合するものだが、理不尽な目に遭ってきたから愚痴が多いのではなく、今の生活に満足できないために過去のネガティブな記憶をわざわざ引っ張り出して嘆くのである。
■人生の中で「記憶の薄い時期」がある理由
私に相談に来たある経営者は、幼い子どもの頃は楽しい思い出が多く、けっこういろんなことを覚えているという。それなのに、もっと新しい記憶であるはずの思春期から青年期の思い出がまったくないという。何だか暗い毎日だったというような漠然としたイメージはあるのだが、具体的なエピソードがほとんど思い浮かばないというのである。
ここには精神分析でいうところの「抑圧」という心理メカニズムが働いていると思われる。思い出したくない出来事が含まれる時期についての記憶は、全般に薄れているものである。
とくに嫌な出来事でなくても、むしろ良い出来事だったとしても、その時期の何かを思い出せば、連想が働いて別の出来事がつぎつぎに思い出され、そうした連鎖の果てに、思い出したくない出来事まで思い出してしまう可能性がある。ゆえに、その時期全般の記憶が抑圧される。
■カウンセリングで気づく「見逃していたこと」
カウンセリングやそれに類する語りの場を通して、嫌な時期をどんより覆っている黒い雲が払いのけられると、その時期の具体的なエピソードがつぎつぎに蘇ってくるものである。
たとえば、それが母親との確執で、母親に対する嫌悪感と世話になっている母親を憎む自分に対する自己嫌悪が黒い雲となって中学生・高校生時代の記憶を覆っているとする。その頃のことを思い出すのは苦痛なため、抑圧が働き、その時期の良い出来事も含めて具体的なエピソードをあまり思い出せなくなっている。
そんな人がカウンセリングやそれに類する語りの場で自分の成育史について語っているときに、当時の自分がうっかり見逃していたことに気づく。あの頃の自分たち家族の経済的基盤はどうなっていたんだろうということだ。父親が病気で突然退職することになり、母親が急遽働きに出たのだが、働きながら父親や自分たち子どもの世話をするのは容易でなかっただろう。いつもイライラしており、ちょっとしたことで怒鳴られ、口論になった。当時はそんな母親が嫌でたまらなかったが、今改めて振り返ってみると、それも仕方ないことと思える。自身も親になり、働きながら子育てしているので、そうした立場から振り返ったため、気づきが得られたのだろう。それによって母親に対する印象が一変する。
こうして思春期を覆っていた黒い雲が払いのけられると、母親との日常的な口論も懐かしく思い出され、それと共に中学や高校でのさまざまなエピソードの記憶が蘇ってきた。
■ポジティブな気分で過ごせば愚痴は少なくなる
このように、今の心理状態が変わると、思い出されることも変わるのである。
愚痴の多い人は、愚痴るべき嫌な出来事を他の人たちより必ずしも多く経験しているというわけではなく、自分の現状に満足できないために嫌な出来事ばかりを記憶に刻み、また記憶の貯蔵庫から引き出しているのである。
ゆえに、愚痴っぽい人に対する処方箋は、今の自分の生活を見直し、納得のいく生活にすべく一歩を踏み出すことである。そして、日頃からポジティブな気分で過ごせるように心がけることである。
■普段からポジティブな気分で過ごせば思い出す記憶も変わる
普段からポジティブな気分で過ごせるようになれば、思い出す記憶もポジティブなものが増えていき、愚痴っぽい心の状態が変わっていくはずである。
ゆえに、愚痴っぽい人に対しては、過去の楽しい出来事や嬉しかったことに目を向けるように促すことができれば、徐々に愚痴も減ってゆくことが期待できる。それが従業員であれば、研修や面接などで、失敗体験よりも成功体験に目を向けさせたり、充実感や達成感を感じた経験について語らせたりするのも効果的である。また、気分の良いときに過去を振り返るようにアドバイスするのもよいだろう。
反対に、大変な目に遭っているのに愚痴っぽくないどころか、いつも機嫌よく過ごしているような人の場合、日頃の気分のコントロールがうまくいっているとみなすことができる。
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榎本 博明(えのもと・ ひろあき)
心理学博士
1955年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。東芝市場調査課勤務の後、東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て、現在、MP人間科学研究所代表、産業能率大学兼任講師。おもな著書に『〈ほんとうの自分〉のつくり方』(講談社現代新書)、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)、『「おもてなし」という残酷社会』『自己実現という罠』『教育現場は困ってる』『思考停止という病理』(以上、平凡社新書)など著書多数。
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(心理学博士 榎本 博明)