■日本本土に迫る米軍との「天王山」の戦い
昭和19年10月、日本本土に肉薄する米軍に対し、日本軍はフィリピンでの決戦を決断。この戦いを「捷(しょう)一号作戦」と名付け、「天王山」と位置付けた。「捷」とは「戦いに勝つ」という意味である。
フィリピンが米軍の手に落ちれば、次は沖縄が攻撃の対象に入る。さらに、南方資源の輸送路が断たれるのも必至だった。日本側としては、フィリピンは全力で堅守すべき要衝だった。米軍に強烈な一撃を加え、有利な講和に結びつけたいという思惑もあった。
一方、3年前に日本軍によってフィリピンを追われたダグラス・マッカーサー陸軍大将(後、陸軍元帥)にとって、同地の奪還は個人的な悲願でもあった。
この決戦に際し、日本海軍は「大和」や「武蔵」を中心とする第一遊撃部隊を編成。「妙高」はこれに属する第五戦隊の旗艦となった。第一遊撃部隊を率いるのは、栗田健男中将である。
■連合軍約20万人がレイテ島に上陸
「大和」と「武蔵」は姉妹艦(同型艦)であり、共に日本海軍が誇る世界最大級の戦艦だった。
「どこでだったか忘れましたが、『大和』か『武蔵』のどちらかに乗せてもらったことがあります。甲板がとにかく広くて驚きました。『キャッチボールできるな』と思ったのを覚えています」
10月20日、米軍とオーストラリア軍から成る連合軍は、フィリピン中央部に位置するレイテ島への上陸作戦を開始。その兵力は延べ約20万人にも及んだ。連合軍は島内の各地で優勢に戦闘を進め、同日の内にマッカーサーも上陸に成功。「アイ・シャル・リターン」は実現された。
対する日本軍は、第一遊撃部隊などの主力艦隊をレイテ島東岸のレイテ湾に突入させ、米軍の上陸部隊や湾内に集結する船団を一挙に殲滅(せんめつ)する作戦を採った。
■「最強の水上部隊」と称された栗田艦隊
スマトラ島のリンガ泊地に集結していた第一遊撃部隊は、まずボルネオ島のブルネイ泊地に前進。その後のレイテ湾までの航路は、主隊(第一部隊と第二部隊から成る)と支隊に分かれることになった。栗田中将が指揮する主隊が北の航路、西村祥治中将率いる支隊が南の航路を進み、10月25日の黎明(れいめい)を期して、協同してレイテ湾に突入する作戦である。
一方、ウィリアム・ハルゼー提督率いる第三艦隊は、無線の傍受など、緻密な情報収集を重ねながら、日本側の動静を探っていた。
同月22日の午前8時、「栗田艦隊」と称された主隊が、いよいよ抜錨(ばつびょう)して出撃。総勢32隻の大艦隊が北東に進んだ。「妙高」もこれに含まれていたが、この主隊は「大東亜戦争における最強の水上部隊」とも称され、多くの戦記物には「将兵たちは皆、決死の覚悟だった」といった旨が記される。
■末端の兵士は何も聞かされていなかった
だが、吉井さんはこう語る。
「レイテ湾に突入するとかということも、全く知りませんでした。そういったことは末端の私たちは何も聞かされていませんでした。そもそも艦長の顔だって滅多に見ませんから。私の場合は、戦争に勝てるとか負けるとか、そういったこともあまり考えていなかったように思います。いや、負けるとは思っていなかったのかな。故郷に帰りたいというのもなかったですね。遺書を書くということもありませんでした。父に『一生懸命、頑張っています』くらいの葉書を出したことはありますけど」
大仰(おおぎょう)でない等身大の淡々とした証言が、むしろ戦争の現実を身近に感じさせる。
一方、戦艦「山城」などから成る「西村艦隊」は、同日の午後に出航した。
栗田艦隊は警戒を厳にして進んだ。レイテ湾までの距離は約1200浬(かいり)(約2200キロ)。敵の機動部隊(空母部隊)の航空攻撃圏内にはまだ入っていないため、脅威は潜水艦の魚雷攻撃だった。厳重な対潜警戒の下、各艦は進んだ。
潜水艦対策として用いられるのが「之字(のじ)運動」である。魚雷攻撃を避けるため、「之」の字を描くようにジグザグに進む航法である。
■大きな戦力を失い、出鼻をくじかれる
果たして魚雷攻撃が始まったのは23日午前6時半頃、パラワン水道においてであった。2列縦隊の左側先頭を航行していた重巡洋艦「愛宕」は、4本もの魚雷を被弾。「愛宕」は同艦隊の旗艦であり、栗田中将が乗艦していた。
同じく、重巡洋艦「高雄」も被雷。「高雄」は二隻の駆逐艦の護衛のもと、ブルネイへの帰投を余儀なくされた。さらに、重巡洋艦「摩耶」も魚雷により轟沈。生存者は駆逐艦「秋霜」に救助された。漂流者の救助は駆逐艦の重要な任務の一つだが、日本海軍は敵軍が感心するほど、律儀に救助活動を行った。
「妙高」は縦隊の右側先頭を航行していたが、懸命の回避行動により難を逃れた。
「発電機室にいる私たちには、上の戦況なんて何も分かりません」
このパラワン水道での雷撃により、栗田艦隊はいきなり大きな戦力を失ったことになる。
栗田艦隊は混乱した陣形を整えつつ、速力を上げて尚もレイテ湾を目指して進んだ。
栗田中将は「岸波」から「大和」に移乗し、改めて将旗を掲げた。
■敵機が来襲、海上から反撃するも…
日付が24日に変わる頃、栗田艦隊はミンドロ海峡の北西の入り口付近まで到達。
栗田艦隊は対空配備の輪形陣を敷いた。第一部隊は「大和」を中心として、その2キロほど外側に6隻から成る輪を形成。「武蔵」や戦艦「長門」、軽巡洋艦「能代」などだが、「妙高」もその一角を担った。「大和」の右前方、「武蔵」の前方の位置である。
この輪からさらに1.5キロほど外側に、「岸波」や「島風」など7隻の駆逐艦から成るもう一つの輪がつくられた。
この二重の輪の12キロ後方に、第二部隊が戦艦「金剛」を中心として同様の輪形陣をつくって続いた。多くの索敵機も出撃した。
午前10時8分、「能代」が敵の攻撃隊らしき編隊を探知。「大和」も大編隊の接近を認識した。
程なくして、大量の艦載機がついに来襲。場所はレイテ島の北西に広がるシブヤン海である。
戦艦の主砲として世界最大の威力を誇る「大和」の46センチ砲が火を噴いた。他の艦艇も、敵の戦闘機や急降下爆撃機などによる猛攻撃に対し、懸命の対空砲火を開始した。
だが、肝心な航空兵力の掩護(えんご)がない。米軍がレイテ島上陸作戦への布石として事前に実施した台湾沖航空戦において、すでに多くの機体を消耗していた結果である。まさに米軍の狙い通りであった。
■大本営の予測を上回る連合軍の戦力
さらに、台湾沖航空戦の戦果を現実よりも過大に評価していた大本営は、敵戦力に関する正確な情報の把握に失敗していた。レイテ沖海戦に投入された連合軍の戦力は、大本営の予測を上回っていた。
「日本は大艦巨砲主義に固執し、航空戦への変革が遅れた」ともよく指摘される。そういった面があったのは確かだが、ただし米国もノースカロライナ級戦艦2隻など、大型戦艦は造り続けていた。「巨大戦艦はとっくに無用の長物と化していた」といった表現は、いかにも過剰である。
日本海軍内では、戦艦と航空機のどちらに重点を置くべきかで激しい論争があったが、日本も当然、航空兵力の重要性については理解しており、その充実には努力を払っていた。
そもそも航空戦の優位を世界で初めて示したのは、日本海軍が実行した真珠湾攻撃である。レイテ沖海戦において航空兵力が不十分であったのは、前述の台湾沖航空戦など、それまでの戦闘で多くの機体を喪失していたからにほかならない。さらに言うならば、元々の国力と生産能力の差ということになる。
そんな苦しい状況の中でも、最前線の将兵たちは奮戦した。吉井さんはその激戦をこう回顧する。
「上で砲撃している音が、発電機室まで聞こえてきました。こんなに響いてくるのかと驚くほどの大きさでしたが、私たちはとにかく必死で発電機を回し続けました。『怖い』といった感情はありません。そういった感情にならないために海兵団での厳しい訓練があったのだと思います」
■魚雷が命中し、大量の海水が流れ込んだ
米軍は潜水艦による魚雷攻撃も広く展開したが、この餌食となってしまったのが、ほかならぬ「妙高」であった。
『戦史叢書(そうしょ)』によれば、午前10時29分、「妙高」は右舷方面から3本の魚雷攻撃を受けた。艦首方向に近接してきた2本は回避することができたが、残りの1本が右舷の後部に命中したとされる。
「ドーンという音が聞こえました。被弾したのは機械室。私がいた後部発電機室とはほんの数メートルの距離です。少しでもずれていたら、私は即死だったでしょう」
だが、命の危機は尚も去っていなかった。
「あっという間に大量の海水が流れ込んできました。ものすごい水圧でした」
みるみる内に、腰の辺りまで海水に浸かった。それ以上の浸水を防ぐため、ハッチを固く締めながら、階段を駆け上って上甲板まで逃げた。
「船体は右舷を下にして、すぐに傾き始めました。速力も落ちていくのが分かりました」
記録によれば、「妙高」は被雷からわずか6分後には傾斜が12.5度になり、33ノット(時速約61キロ)出るはずの速力は20ノット以下にまで落ちていったとされる。
■沈まないはずだった「武蔵」の最期
上甲板にあがった吉井さんが目撃したのは、戦艦「武蔵」の傷ついた姿だった。
「『武蔵』が魚雷にやられたということでした。小さな船ならばすぐに沈んだでしょうが、『武蔵』はさすがに大きな戦艦ですから、なかなか沈みませんでした」
「武蔵」はその高度な防御構造から「不沈艦」と呼ばれていた。その「武蔵」が喘いでいた。
「私が見た時は、そんなに炎上しているという感じではなかったように記憶していますが、周囲の海面に重油が漂っていて、そこに火が付いて激しく燃えていました」
その後、「妙高」はやむなく艦隊から離脱。「大和」に座乗していた第一戦隊司令官の宇垣纏まとめ中将の日記『戦藻録』(PHP研究所)には、以下のような文章がある。
〈矢張り妙高は魚雷一命中落伍、第五戦隊は羽黒に旗艦変更、駆逐艦一を附し妙高は西に下る。〉
「妙高」の護衛に付いたのは駆逐艦「長波」であった。
「ゆっくりとゆっくりと、島伝いに後退していきました」
同じく隊列から落伍した「武蔵」は、最後は二度の水中爆発を起こし、艦首から海底へと沈んでいった。乗組員2399人の内、猪口敏平艦長以下、1000人以上もの命が失われたとされる。
■決死の特攻隊で形勢逆転を狙う
「武蔵」や「妙高」を失った栗田艦隊だが、それでも残存艦によるレイテ湾への突入を諦めていなかった。「大和」はいまだ健在だった。途中、一時的に空襲圏外に退避したことから予定の時刻よりも遅れていたが、前進を続けていた。
だが、別働の西村艦隊は栗田艦隊を待つことなく、単独でレイテ湾へと進んだ。その結果、レイテ湾に通じるスリガオ海峡で待ち伏せしていた駆逐艦からの魚雷攻撃などに遭い壊滅。西村艦隊と呼応すべく、別働で後を追っていた志摩清英中将率いる第二遊撃部隊も退却を余儀なくされた。
それでも日本から南下してきた「おとり部隊」である小沢治三郎中将率いる「小沢機動部隊」が、作戦通り連合軍の主力艦船を北方におびき寄せ、レイテ湾から遠ざけることに成功。栗田艦隊が突入する態勢を整えた。
栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するため、初めて組織されたのが「神風(しんぷう)特別攻撃隊」である。世界史上においても他に類を見ない「爆装した航空機による体当たり攻撃」の実施により、護衛空母1隻を撃沈、2隻を中小破するという大きな戦果をあげた。
敵空母の飛行甲板を特攻で破壊すれば、艦載機すべてを一挙に無力化できる。艦載機の猛攻撃がなければ、「大和」など栗田艦隊は必ずレイテ湾に突入できる。さすればレイテ島を奪還できる。そう信じた。
■栗田中将が命じた「謎の反転」
小沢機動部隊や特攻隊のかかる献身もあり、栗田艦隊は激戦を重ねながらもレイテ湾との距離を縮めていた。総勢32隻だった艦隊は半分の16隻にまで減っていたが、作戦成功の曙光(しょこう)は確かに見えた。
かくて迎えた25日の午後0時26分、大東亜戦争史における一つのミステリーとも言える驚くべき決断が栗田中将より幹部らに下令された。
それは「反転」の命令だった。10分後の午後0時36分、以下の電信が発せられている。
〈第一遊撃部隊ハ「レイテ」泊地突入ヲ止メ「サマール」東岸ヲ北上シ 敵機動部隊ヲ求メ決戦〉
栗田艦隊は小沢機動部隊の陽動作戦によって敵の戦力が低下していたレイテ湾を目前にして、背を向けたのだった。これが世に言う「謎の反転」「栗田ターン」である。
栗田中将の本意はいまだ不明である。諸説あるが、現場の情報が著しく錯綜(さくそう)していたことは間違いない。その中で「陽動作戦の成功」という最も重要な情報さえ、充分に伝わっていなかったとされる。
日本海軍、痛恨の一事であった。だが、吉井さんはこう話す。
「『妙高』はすでに離脱していましたし、『謎の反転』とか、そういったことは私は何も知りません。繰り返しになりますが、私たち末端の兵には、作戦のことなど分からないんですよ」
■「将棋の駒」を動かす「東京の偉い人」
吉井さんが続ける。
「私たちが命懸けで戦っている時でも、東京の偉い人たちは美味しい物でも食べながら『ああしろ、こうしろ』でしょう? 犠牲になるのはいつも我々のような下っ端。私たちは将棋の駒でしたね」
実体験から生まれた吉井さんの大切な本音であろう。まさに貴重な「叫び」である。
その上で付言すると、私は上層部には上層部の困難と重圧もあっただろうとも思う。指揮官の中には、他者の命を預かる辛さに耐えかね、宗教に助けを求める者たちもいた。戦後に自決を選んだ者もいた。それぞれの階級によって、それぞれの苦労があったであろう。
それでも吉井さんの言葉は極めて重い。「将棋の駒」という表現には、戦争の真実が確かに含まれている。耳を傾けるべき肉声である。
栗田艦隊は追撃を受けながらも、ブルネイ泊地まで帰投。日本海軍が全力を注いだレイテ沖海戦は、こうして敗北に終わった。多くの艦船を失った挙句、レイテ湾突入は叶わず、日本側の戦死者数は約7500人から1万人とされる。
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早坂 隆(はやさか・たかし)
ノンフィクション作家
1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。
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(ノンフィクション作家 早坂 隆)