太平洋戦争で日本軍は特攻を行い、多くの若者たちが犠牲となった。日本海軍の特攻兵器「桜花」の搭乗員だった浅野昭典さんは「戦時中は無謀な作戦とは思っていなかった」と語る。
取材したノンフィクション作家・早坂隆さんの著書『戦争の肖像 最後の証言』(ワニ・プラス)より、一部を紹介する――。
■日本海軍の切り札、異名は「人間爆弾」
大東亜戦争末期、日本軍が断行した特攻(特別攻撃)には、様々な形態があった。
爆装した零戦(ゼロせん)(零式艦上戦闘機)による特攻は広く知られているが、その他にも人間魚雷「回天」や、モーターボート型の「震洋」といった「海の特攻」もあった。
「空の特攻」の中で、最も特殊とも言える兵器が「桜花」である。爆弾に翼と操縦席が付けられた滑空機。その機体にはエンジンすらない。日本海軍が「戦況打開の切り札」として極秘裏に製造したこの兵器の異名は「人間爆弾」。知る人ぞ知る幻の兵器として、その実態は歴史の影に埋没している。
開発計画が動き出したのは、昭和19年7月。海軍内の下級将校たちからの発案によるという。
機首に備えられているのは、およそ1200キロもの大型爆弾。特攻用の零戦が抱えていたのが250キロや500キロの爆弾だったことを考えれば、その強力さが分かるであろう。
桜花一機の特攻で、戦艦や空母さえ撃沈できるとされた。
■生きて帰ることを想定していない仕組み
最初に製造された「一一型」の全長は約6メートル、全幅は約5メートル。1人乗りである。魚雷よりも小さいその灰色の機体の前方側面には、桜の花の意匠が描かれていた。
戦闘時には、母機となる一式陸攻(一式陸上攻撃機)に懸吊(けんちょう)されて敵艦の近くまで運ばれ、そこで切り離される。
その後、グライダーのように滑空して、敵艦への接近を試みる。航続可能な距離は約37キロメートル。操縦者は操縦桿(そうじゅうかん)と足踏桿(そくとうかん)(フットバー)を使って目標を目指す。高度計や速度計など、最低限の計器は設けられている。尾部には3本の火薬ロケットが備えられており、これを噴射して加速することもできる。火薬ロケット1本につき、10秒ほど推進力を得られた。
最高速度は時速600キロ以上。
そしてそのまま搭乗員ごと、敵艦に体当たりするのである。
車輪もない。すなわち戦闘機による特攻ならば故障などで帰投したり不時着する可能性もあるが、着陸装置のない桜花にはそれもできない。全く生還を想定していない仕組みである。出撃は絶対の死。特攻機ですらなく「人間爆弾」と呼称される所以だ。
■零戦への憧れから、海軍の航空隊へ
そんな桜花の元搭乗員の方にお話をうかがうことが叶った。
「桜花の仲間たちも皆、亡くなってしまいました。私が最後の1人です」
昭和3年11月生まれの浅野昭典さん(取材時、95歳)は、神奈川県横浜市の出身。父親は鉄工所を営んでいた。浅野さんは次男である。
小さい頃から野球が好きだった浅野さんは、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)に進んで甲子園を目指したが、戦局の悪化に伴い大会は中止に。
夢を絶たれた浅野さんは3年時に学校を中退し、予科練(海軍飛行予科練習生)を志願した。
「野球部の先輩で予科練に進んだ方がおりまして。その方が母校を訪問したことがあったのですが、それが格好良くて。予科練と言えば『七つボタン』ですが、深い感銘を受けました。特に零戦への憧れは強くありました」
浅野さんは難関試験を突破し、甲種飛行予科練習生の第十三期(前期)となった。満14歳の時である。
昭和18年10月、愛媛県の松山海軍航空隊で海軍生活が始まった。念願の「操縦」に選ばれた浅野さんは昭和19年5月、長崎県の諫早海軍航空隊に進み、「赤とんぼ」と呼ばれた九三式中間練習機による飛行訓練に明け暮れた。中学(旧制)5年生での志願者が多い中、3年で志願した浅野さんは身長が150センチほどと小柄だったため、ペダルを踏むのにも苦労した。
■戦争に勝つため、特攻部隊を「熱望」
12月末、上官から「特攻部隊を希望するか」との旨を確認する用紙を渡された。長男や1人っ子は対象外だった。浅野さんが選んだのは「熱望」だった。

「死の覚悟はしていましたからね。怖さというのは感じませんでした。他の人たちの気持ちまでは分かりませんが、私の場合、強制という感覚はありませんでした。戦後、多くの人たちから『無理矢理、行かされたんじゃないか』と言われましたが、私は自分で決めて志願したんです。あくまでも志願です」
強制性を否定する浅野さんだが、かといって「家族のために」「国のために」といった言葉を簡単に口にするようなこともしない。
「戦争なんだから、勝たなきゃいけない。それだけですよ」
澱(よど)みなくそう言って、淡く微笑むのみである。私はその表情に異様なほどのリアリティを感じた。
昭和20年1月、茨城県の鹿島にある海軍神之池航空基地に移動。所属は第七二一海軍航空隊である。
別称は「神雷部隊」。特攻を専門とする部隊であった。
浅野さんの「熱望」はこうして叶った。
■「死ぬのは嫌だ」と涙を流した搭乗員も
移動して間もなく、掩体壕(えんたいごう)内の格納庫で上官からこう言われた。
「お前たちが乗るのはこれだぞ」
それが初めて桜花を見た瞬間だった。聞けば「前部が爆弾になっている」という。零戦に憧れた少年が乗ることになったのは人間爆弾だった。
「でもね、ガッカリしたとか、そういうことはありませんでした。とにかく、やってやろうという思いでしたね」
無論、搭乗員によってその受け止め方は様々だった。桜花を見た日の晩に「人知れず寝床の中で泣いた」という旨を手記に残した搭乗員もいる。寝床の中で彼は「死ぬのは嫌だ、怖い」と涙を流したという。
千の搭乗員がいれば、千の思いがあったであろう。それらすべてが歴史の大事な一片である。波打つ鼓動である。

■10代の先輩兵と交わした「別れの盃」
2月、海軍二等飛行兵曹に任官。まずは桜花ではなく、零戦を使っての訓練が繰り返された。当初は複座型の零戦で、後席に教官を乗せての飛行。「赤とんぼ」とは計器の数も、速度も大きく異なっていた。
その後、単座の零戦に搭乗。基本的な操縦に慣れると、いよいよ零戦による桜花を想定した訓練が始まった。高度約3000メートルからエンジンを低回転に絞って降下し、滑走路の手前まで来たら再び上昇するのである。
「角度45度以上の急降下ではなく、それ以下の緩降下による訓練でした。憧れの零戦でしたが、桜花で敵艦に突っ込むためだけの訓練ですからね。戦闘訓練ですらないわけです。なので機銃を撃つ練習もしたことがありません」
実際に桜花に乗って訓練するのは、たった一度だけと決められていた。桜花の機体下部にベニアのソリを付けた練習機「K1」で、上空から滑空して滑走路に着陸する訓練である。浅野さんもまずは零戦で訓練を積み、「K1」に乗る日に備えた。
「K1」への搭乗を終えた先輩兵たちから、出撃拠点である鹿児島県の海軍鹿屋航空基地に移動していく。毎晩のように、食堂でお別れの宴会が行われた。焼酎やビールなどを飲みながら、先輩兵らは言う。
「明日、行ってくるよ」
先輩兵と言っても、年齢は浅野さんとさほど違わない。10代の若者がほとんどだった。
お互い難しい話などしない。肩を組んで軍歌を唄った。彼らは終始、笑顔だった。ワイワイと騒いで酒を飲んだ。いまだ16歳の浅野さんは酒が苦手だったため、焼酎にサイダーを入れて飲んだ。そんな甘い酒が「別れの盃(さかずき)」だった。
■出撃すらできず、全機が散った初陣
浅野さんが先輩兵に言う。
「頑張ってください」
先輩兵がこう返す。
「お前も後から来いよ」
そんな時、浅野さんは必ずこう答えるのだった。
「はい、すぐ行きます」
浅野さんは当時をこう回想する。
「他の部隊のことは知りませんが、神雷部隊は特攻専門だからなのか、『いじめ』のようなことはありませんでした。階級なんかも関係ない。絆はとても深かったですよ」
記録によれば、鹿屋基地から桜花隊が初めて出撃したのは3月21日。15機の桜花は一式陸攻に吊るされ、九州沖を遊弋(ゆうよく)する米機動部隊に向けて出撃した。援護の戦闘機は故障などの影響で予定よりも減り、30機だけだった。
それでも一路、攻撃対象を目指して進んだが、敵艦隊群に達する前に、グラマンF6Fなど多数の米艦載機が姿を現した。最新レーダーを駆使した米軍は、桜花隊を待ち伏せしていたのである。桜花を懸吊して速度が極端に落ちている一式陸攻は、米軍機の好餌(こうじ)となった。もとより一式陸攻は防御面に不安を抱えていた。
結句、桜花は母機から出撃することすら叶わず、全機が洋上に散ったとされる。
それが桜花隊の初陣だった。
■大きな犠牲に対し、あまりに小さな戦果
結局、桜花は計10回の出撃により、延べ55人の搭乗員を亡くした。桜花を運ぶ一式陸攻や護衛の戦闘機を含めれば、戦死者の数は400人以上にも及ぶ。その他、訓練中の事故によって殉職した者たちも少なくなかった。
そのような多大な犠牲があったにもかかわらず、桜花が実際にあげた戦果は駆逐艦のみ。しかも撃沈はわずか1隻、その他、数隻の大破、損傷があるだけである。ほとんどの桜花が敵艦に体当たりすることすらできずに撃墜された。
米軍は桜花を「BAKA-BOMB(バカ・ボム)」と呼んだ。日本語の「馬鹿」を用いた「馬鹿爆弾」の意味である。
浅野さんは故郷の横浜に戻ったが、父親が営んでいた鉄工所は空襲で焼け落ちていた。浅野さんはその後、建築や繊維、運送関係など、様々な分野で懸命に働いた。好きな野球も再び始め、社会人野球で都市対抗野球大会にも出場した。「特攻崩れ」と呼ばれるのが一番嫌だった。
「戦後、『無謀な作戦だった』と言われましたが、戦時中はそうは思っていない。そんなことを思っていたらできませんよ」
■特攻した若者たちは「無駄死に」か?
日本軍が繰り広げた一連の特攻作戦に、米軍は深く驚愕した。世界史に類を見ない日本軍の戦いぶりを前にした米軍は、安易な本土上陸作戦に躊躇(ちゅうちょ)するようになった。この対日観の変化は、後の占領政策にも影響を与えた。そういった歴史の文脈において、特攻が全くの無意味だったとは言い得ない。
だが戦後、当の日本国内では特攻隊員を「無駄死に」「狂気」と断ずる風潮が濃くなった。特攻隊員は「戦争協力者」とされ、その墓に石が投げられることさえあった。
無論、特攻という作戦自体への反省は幾重にも重ねて然るべきである。もとより特攻のような作戦にまで踏み切らざるを得ない状況を招いてしまった軍上層部の指導についても、的確な批判がなされて当然である。だが、その上で指摘したいが、現場の搭乗員らの奮戦は、本当に「無駄死に」という表現に沿うようなものだったのだろうか。
特攻は「人命軽視」の戦術と断罪された。確かにその通りであろう。しかし、あえて見方を転じて論ずるならば、特攻も銃後の人々の「人命を重視」した末の結果であったとも言い得る。少なくとも「無駄死に」の一言で片付けてしまうような歴史観は、あまりに残酷ではないか。
■仲間たちの笑顔が、今でも忘れられない
浅野さんの自宅の一室には、零戦や桜花の模型がいくつも並べられていた。戦時中の写真も多く飾られている。
「まだあどけない仲間たちの笑顔が、今でも忘れられないんですよ」
靖國神社には何度も参拝して手を合わせてきた。しかし近年では高齢の故、難しくなってきたという。そう語る浅野さんの横顔は寂しげだ。
浅野さんは一連の取材が終わると、コップに氷を入れて出してくれた。そこにおもむろに注いでくれたのは、焼酎とサイダー。
「当時、飲んだお酒です。今でもやるんですよ」
浅野さんがそう言って口元を緩ませる。
「おいしいですよ。どうぞ」
焼酎のサイダー割り。80年ほど前、浅野さんが「人間爆弾」の仲間たちと共に飲んだ思い出の味である。戸惑いながらゆっくりとその液体を口に含むと、甘い味わいが伸び伸びと口の中に広がった。しかし、その優しい風味の影には、蒸留酒特有の芯の強い直線的な苦味が確かに宿る。それはまさに、出撃を控えた特攻兵らが、穏やかな笑みの背後に強靭(きょうじん)な信念や苦吟を包んで出撃した風景を思い起こさせた。
気泡が生まれては消え、消えては生まれている。私は若者たちの後ろ姿を思った。

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早坂 隆(はやさか・たかし)

ノンフィクション作家

1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。

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(ノンフィクション作家 早坂 隆)
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