※本稿は、澤村修治『日本マンガ全史 「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
■漫画の天才・手塚治虫を生んだ家庭環境
戦後まもなく新人マンガ家は陸続(りくぞく)と世にあらわれてくるが、その兄貴格ともいえる存在こそ手塚治虫であった。
手塚は1928年(昭和3)11月3日、現在の大阪府豊中市に生まれ、5歳で現在の兵庫県宝塚市へ引っ越した。本名は手塚治である。少年時代は昆虫採集とマンガに熱中し、映画をよく見た。これらは両親の影響が大きい。母親はマンガをおもちゃ代わりに買ってきてくれ、しかも、声を出して読んでくれもした。家にはマンガ本が200冊もたまったと回想記にある(『ぼくのマンガ人生』)。少年は小さい頃からマンガに親しむことができ、くりかえし読んだのでセリフや画面を暗記してしまうほどだった。
映画好きのほうは父親の影響である。父は当時珍しかったホーム・ムービー(手回しの映写機)を持っており、映画フィルムもよく買い揃えていた。そのため手塚少年は小学校2年生の頃から、家庭にいながらにして映画を見る機会を得たのである。
■小学生でストーリーテラーの才能を発揮
手塚はデビューまもなくストーリーテラーとして稀有の才能を発揮したが、物語づくりの修練は小学校時代になされた。当時、生活の具体的様子とそのなかで感じたことや思ったことを子ども自身の言葉で表現させる、綴り方教育が普及していたが、この方法を採り入れた先生の指導もあって少年は文章制作に馴染み、執筆の喜びも得るのだった。手塚の作文は大阪でラジオ放送されてもいる。手塚はまた新劇に興味を持ち、関西民衆劇場に所属したこともあった。これらの体験は、のちのマンガ家・手塚治虫の登場にとって重要な役割を果たしたのは間違いない。
マンガに囲まれていた手塚は、小学校低学年の頃から見よう見まねでマンガを描きだす。やってみるとたちまち虜になり、日々描く練習に励んだ。5年生の頃、ノート1冊分のマンガを描いてクラスの友人に回覧、やがて先生にも手塚のマンガ描きは知られるようになった。
■18歳でデビュー後、大阪大学医学部に合格
戦後になってまもない1946年(昭和21)、手塚は『少国民新聞』大阪版(のちの『毎日小学生新聞』関西版)に掲載された4コマまんが「マアチャンの日記帳」)でデビューする。
デビュー翌1947年、酒井七馬原作の長編マンガ(単行本)『新宝島』を刊行、版を重ねて40万部へ達するまでとなる。当時としては驚異的なヒット作に成長し、マンガ家手塚の存在感は一気に上がった。そしてこの年、大阪大学医学部(当時は大阪大学附属医学専門部)へ入学。手塚は医者になるための勉学とマンガ描きという、二足の草鞋を履いていたことになる。
■手塚の『新宝島』が後進のマンガ家を生んだ
『新宝島』は後代のマンガ家に大きな影響を与えた。赤塚不二夫や石ノ森章太郎は『新宝島』との出会いがマンガ家になる縁をつくったと証言しているが、ふたりが『新宝島』に新鮮な驚きを覚えたのは小学生のときである。
藤子不二雄も『新宝島』体験を、マンガ家になるための決定的なきっかけだったと後年、繰り返し証言している。二人はすでにデビュー時の手塚に注目しており、「マアチャンの日記帳」を読みたくて、高校生ながら少国民新聞を購読していた。
この本は<僕たちの宝物になりました。そして同時に、「こういう漫画が描きたい!」と強く思いました>と、藤子不二雄A(安孫子素雄)は回想している(『夢追い漫画家60年』)。一方の藤子・F・不二雄(藤本弘)は、<少年時代のぼくにとって、手塚先生の作品はどれもがバイブル(聖書いちばん大切な本のこと)でした。手に入らないものは、一生懸命にかきうつしたものです。そこで、手塚先生のいろいろな表現法を学んだのです>と記している(『藤子・F・不二雄のまんが技法』)。
■代表作『鉄腕アトム』は初期に路線変更した
デビューを果たし、若くしてヒット作も出した手塚は、1950年代はじめからマンガ家として急成長していく。加藤謙一に見出され「ジャングル大帝」を『漫画少年』に発表した(1950年連載開始)。同時期には、光文社『少年』で「鉄腕アトム」の連載開始(1952)、講談社『少女クラブ』では「リボンの騎士」の連載をはじめている(1953)。さらに1954年、自らライフワークと位置づけた「火の鳥」を『漫画少年』で開始するのだった。
そのどれもが彼の代表作になった。「アトム」は元々、『少年』に連載された「アトム大使」(1951)の脇役だったが、翌年から主人公となり「鉄腕アトム」へ発展したのである。編集部では少年を主人公とした科学マンガを載せたいとの誌面構想があり、手塚が適任とされ依頼となった。手塚はアトムの顔やコスチュームを60種類くらい描き、そのなかから1点が選ばれた。「少年たちが真似ても、そっくりに描けるようなもの」が選定の基準だったという(当時の担当編集者・金井武志の回想「鉄腕アトム」、竹内オサム『手塚治虫』より)。
当初、「アトム大使」のときのアトムは人間的な感情のないロボットで、争い合う宇宙人と人間をなだめる「大使」として活動したが、人気が出なかったことから路線変更、少年たちの仲間にもなれる人間らしいキャラクターとして再生する。父母やコバルト(マンガでは弟)、ウラン(妹)の設定もこのとき生まれた。
■『リボンの騎士』は手塚による「少女漫画」
「リボンの騎士」は『少女クラブ』編集長の牧野武朗が手塚に依頼してはじまった。宝塚歌劇団の芝居から着想を得ており、加えて、バレエ映画『ホフマン物語』もコスチュームや物語展開のなかで参考にされた。「リボンの騎士」は少女向けストーリーマンガの先駆的作品として名高く、後代への影響も大きい。
連載の仕事が入りだした手塚は1952年に東京へ居を移し、まず四谷に下宿、翌1953年からは都内豊島区の伝説的なアパート「トキワ荘」に暮らした。そこには手塚を慕う新人マンガ家たちが集まってくる。「オバケのQ太郎」「ドラえもん」の藤子不二雄、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫、「仮面ライダー」「サイボーグ009」の石ノ森章太郎など、のちにマンガ・アニメ界を牽引する作者が顔を揃えたのだ。
■他の漫画家をプロデュースし、次々に育成
彼らは新漫画党というグループを結成した。リーダー格は寺田ヒロオ(のち「背番号0」『スポーツマン佐助』)。『漫画少年』で投稿原稿を選評する「漫画つうしんぼ」を担当しており、先輩として「トキワ荘」に暮らす若手マンガ家たちの面倒をよく見た。なお、手塚自身はトキワ荘に1年半ほどしか住んでいない(1954年10月まで)。その間も、関西に居たり、他所で缶詰になっていたりで、寝泊まりしていた期間は意外に短い。
その手塚治虫は、各誌で大作を手がける充実の時期を迎える一方、『漫画少年』で批評担当を任じ、投稿してくる描き手を応援育成した。ほかにも、「兄貴格」として、新人の発掘登用に努めた逸話は数多くある。
うしおそうじは、働いていた東宝を辞めて赤本マンガや少年誌で作品を発表しだしたが、手塚はその才能を早くも見抜き、『漫画少年』の編集者を伴ってうしお宅を訪問、「チョウチョウ交響曲」誕生に一役買った。1952年の掲載となった同作はうしおの代表作となり、『漫画少年』の読者獲得に力をもたらした。
■石ノ森章太郎を宮城から呼び寄せた
また、投稿少年だった石ノ森章太郎を宮城県から呼び寄せ、マンガ家になるきっかけを作ったこともある。のちには、仕事がなくて困っていた石ノ森章太郎を『少女クラブ』の丸山昭に紹介し、プロ第1作「まだらのひも」(コナン・ドイルのミステリー小説原作)の登場に結びつけた。すなわち手塚は、「才能を見出し世に送る」という意味で、すぐれた編集者にしてプロデューサーでもあったのだ。
そして手塚は、自らのスタジオ・虫プロダクションを立ち上げ、1963年に初の国産テレビアニメ「鉄腕アトム」を制作するなど、戦後初期のアニメ制作者としても功績を残した。1967年には劇場用アニメ「ジャングル大帝」(1966)でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞している。戦後初期に登場しマンガ界の巨人となった手塚はまた、初期アニメ界の巨人でもあったのだ。
まさしく多面体といえる手塚は、本業であるマンガでも長年にわたって精力的な活動を展開し、『ブラック・ジャック』(1973~1983。第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞受賞)など多くの傑作を世に送り続けた。
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澤村 修治(さわむら・しゅうじ)
松蔭大学教授
1960年東京生まれ。千葉大学人文学部人文学科卒業後、講談社出身の牧野武朗(『なかよし』『少年マガジン』『少女フレンド』創刊編集長)に編集を学び、中央公論社・中央公論新社などで37年にわたり編集者・編集長をつとめる。20年3月、中央公論新社を定年退社し、淑徳大学教授を経て現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)など。
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(松蔭大学教授 澤村 修治)