※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■軽市場に再参入したホンダ
1974年に乗用の軽自動車生産を休止したホンダが、「トゥデイ」を発売したのは1985年。最初は「アルト」と同じく商用で、88年には乗用も発売した。
実質的に一般ユーザー向け軽自動車への再参入だった。
ホンダの元幹部は言う。
「(本田宗一郎と並びホンダを創業した)藤沢武夫さんから、『お客様の顔を見て売れ』と我々は言われた。スズキが得意とする業販ではなく、ホンダのディーラーとして売れという意味でした」
こうして、85年に立ち上がった販売チャネルがホンダプリモ店(ベルノ店、さらにクリオ店とともにHonda Cars店に2006年に統一された)。
■スズキとホンダの決定プロセスの違い
社長だった本田宗一郎と副社長だった藤沢武夫は、1973年10月に一緒に引退していた。
藤沢武夫著『経営に終わりはない』(文春文庫)には、次のようにある。
《私は本田の隣に行きました。
「まあまあだな」
「そう、まあまあさ」
しかし、実際のところは、私が考えていたよりも、ホンダは悪い状態でした。もう少し良くなったところで引き渡したかったのですが。
「ここでいいということにするか」
「そうしましょう」
すると本田はいいました。
「幸せだったな」
「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ、良い人生だったよ」
それで引退の話は終わった》
美しい話として、藤沢は自著で二人の創業者の引退シーンを描いている。しかし、現実はきれい事で表現されるものではなかった。
ホンダ元幹部はいう。
「生涯エンジニアだった宗一郎さんは引退できました。しかし、ホンダの経営を担っていた藤沢さんは引退などできなかった。
二人が引退を発表した後、残された経営陣はみなサラリーマン。創業者とは違い、どうしても、決定ができないのです。このため、藤沢さんにお伺いをたてに行き、決断を仰いでいた。軽への再参入のときもそうだったのです」
重要案件を含めて鈴木修がすべてを1人で決するスズキとは、ホンダは決定プロセスが違っていたのだ。
■50代でガン罹患
それはともかく、ホンダ元幹部は次のように解説する。
「日本の自動車販売は、昭和30年代に神谷正太郎トヨタ自動車販売(現在はトヨタ)社長がGMを模して整備した系列ディーラー方式が基本。藤沢武夫さんも、業販一辺倒ではなく、ホンダの名前を冠して軽自動車を売れ、とばかりに指示し、プリモをホンダは立ち上げました。
これに対し、強固な業販網を全国に築いたのが鈴木修さんでした。インセンティブ(販売奨励金)などの金の力ではなく、鈴木修さんと業販店の家族との人間関係が強さを支えています」
鈴木修は、50代で前立腺ガンに罹患し放射線治療により完治していた。病院は地元の浜松を避けて、沼津方面を選ぶ。
「僕は養子だから、陽子線で治した」
治った後だが、親しい人には軽口を叩いていた。
ガンにも負けず、50代の働き盛りだった鈴木修は躍動を続ける。
バブル経済が始まっていた1987年、晴海で開催された東京モーターショー。来場者が溢れる会場で、鈴木修はマツダ副社長だった渡辺守之をスズキの展示車両に乗せる。
バタン、とドアを閉めた次の瞬間、鈴木修はいきなり、強烈なセールスマンに変身する。
「ウチはマツダさんに軽自動車を供給できますが、いかがでしょう。マツダさんは小型車をたくさん売ったらいい」
車内という密閉された空間で、口調はアグレッシブだが眼差しは包み込むような柔らかさを放つ。
■スズキ初のOEM
軽自動車需要が落ち込んでいた1977年、マツダは軽自動車の生産販売から撤退していた。ホンダは74年に軽自動車の乗用から一時撤退したのに対し、マツダは商用も含めて軽そのものから撤退していたのだ。
鈴木修のセールスは成功。スズキにとっての最初のOEMとなる。社内や代理店から「自社の軽が売れなくなる」と反対があったのを、押し切ってしまう。
金余りのバブル時代、クルマは飛ぶように売れた。3ナンバー車の日産「シーマ」、女子大生から好まれたホンダ「プレリュード」(3代目)、三菱自工の「パジェロ」など、登録車は多目的で売れた。85年に約403万台だった登録車の国内販売台数は90年には約598万台に。引っ張られるように軽市場も拡大し、85年の約153万台が90年には約180万台に達していた。
市場の拡大基調を受け、マツダは89年に販売網をトヨタと同じ5チャンネル体制とする。5チャンネルの一つ「オートザム店」にて、「アルト」をベースにした「キャロル」として軽自動車を販売していった。5チャンネルを構築するのに、商品としての軽自動車は求められたのだ。
■バブル崩壊後にも経営は安定
1990年代に入ると、バブル経済は崩壊していく。大蔵省(現・財務省)が金融機関に対し、不動産融資総量規制を通達したのは同年4月だった。ここから、“失われた時代”は始まっていく。“イケイケどんどん”とばかりに前のめりになっていた、自動車メーカーの多くは厳しい時代に突入する。5チャンネルを構築したマツダは、やがて経営危機を迎えていく。日産や三菱自工も同様に危機を経験する。
バブル崩壊後の90年代から2000年代半ばにかけて、スズキが比較的安定した経営を維持できたのは、軽トップに君臨できていたからだ。登録車の販売が落ち込んでいくのと異なり、安価な軽の販売台数は落ち込まなかった。安価な軽自動車は、景気が後退し「失われた時代」にあって、生活者にとって必要とされる商品として光を放ち続ける。
スズキの国内販売を支えたのは、全国に点在する業販店だった。スズキとは資本関係はなく、鈴木修が彼らとの人間関係を紡いでいた。
なお、鈴木修は50代でタバコをやめている。
■あるダイハツの技術者が考えた鈴木修
それは1987年のことだった。30歳になったばかりの田中裕久は、仏像の発祥地として知られているパキスタン・ガンダーラ地方のタキシラという村にいた。
東大阪市出身の彼は、国立京都工芸繊維大学で材料工学を学びセラミックメーカーに就職。ところが、29歳のときにドロップアウトする。
「このまま、自分はサラリーマンで終わっていいのか。(傾倒している)仏教では『人間本来無一物』と、ものなど持たない方がいいと教えている。なのに、自分はものをつくる開発の仕事をしている。一度、人生をリセットしてみよう」
会社をあっさりと辞めてしまう。退職金や餞別、そして貯金をリュックサックに仕舞い、世界を放浪する旅に出る。このとき、高級クリーニング店を経営する父親からは、勘当されてしまう。
大好きなビートルズの故郷、リバプールからスタート。
■「スズキ」と呼ばれる乗り合いタクシー
村には端から端までをつなぐ緩やかにカーブした一本道があり、数台の軽トラックが乗り合いタクシーとして往復していて、人々の生活を支えていた。道沿いのどこからでも乗降できる便利なこの乗り物は、一般のタクシーとは区別されて「スズキ」と呼ばれていた。スズキ以外のメーカーの小さなトラックは、ロゴを消されてペンキで「SUZUKI」と手書きされていた。
現地で仏像を彫って、毎日を過ごしていた田中は、乗り合いタクシーを利用する度に考えるようになっていく。
「こんな小さな村でも、固有名詞になるほど、スズキの軽トラックは人々に愛され利用されている。すごいことだ。社長である鈴木修さんの意志が、村人に伝わっている。やはり、僕はモノづくりに再び挑戦しよう。裕福な人向けの大きくて贅沢なクルマではなく、世界中にある貧しい村の人たちを支える小さくて環境に優しいクルマを、僕は作りたい。乗り合いタクシー『スズキ』のような。
そもそもインドやパキスタンのような貧しい国で、現地生産する自動車会社は世界中でスズキだけだ。大きなリスクを背負いながらも立派に経営をしている鈴木修社長のもとで、できたら働きたい」
■モノづくりは人を幸せにする
ガンダーラを離れると田中は、インドを長期間旅する。その後、ネパールで追い剥ぎに遭い無一文に。しかたなく1年に及ぶ放浪を終え、帰国し、すぐに結婚。一時中小企業に勤務するが、89年2月にたまたま求人があったダイハツに入社する。スズキへの入社を希望していたが、スズキの求人はこの時期にはなかった。
「タキシラにはトヨタもソニーもなく、日本の工業製品はスズキの軽トラックしかなかった。自動車会社に就職したのは、鈴木修さんがきっかけでした。
モノづくりは人を幸せにする、という仮説を帰国してから僕は立てた。軽自動車づくりで、インドをはじめ、世界じゅうに無数にいる貧しい人々を幸せにしたい」
ダイハツに入社した田中は、ある技術開発を成し遂げる。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)