■冷凍食品を変えた「遅咲きのヒット商品」
「どうぞ、試してみてください」
切り分けられた牛肉を口に入れた途端、思考が止まった。噛めば噛むほど旨味がじわりと溢れてくる。フライパンで焼いたあと、ハーブソルトをかけただけのシンプルな肉は、ごまかしが利かない。これがまさか、調理直前に3度も冷凍と解凍を繰り返されたものだとは、到底思えなかった。
この日、筆者がいただいたのは国産牛のロース肉だ。基本的に、肉は再冷凍すると水分が抜け、パサパサした食感になる。けれど、その牛肉は驚くほどジューシーで、新鮮そのものだった。
「冷凍で大事なのは、温度だと思うでしょう? でもね、そうじゃなくて一番はスピードなんですよ、スピード。うちの機械は冷凍する過程で細胞を壊さないから、旨味成分が出ていかない。
たまに、『国産牛だから美味しいんでしょ』って言う人もいるから、次はオーストラリア産の肉を焼きましょうか――」
冷凍庫とキッチンの間を行ったり来たりし、せっせと肉を焼いて食べさせてくれる温和な男性。この人こそ、常識破りの冷凍技術を開発した、テクニカン社長の山田義夫さんだ。
■名だたる企業が採用
彼が生み出した液体凍結機「凍眠」は、マイナス30度のアルコール(エタノール)を用いて、パックした食品を凍結するものだ。
従来の空気凍結と比べると、熱伝導率が20倍にもなるため、ものすごい早さで食材を凍らせることができる。調理前に牛肉を凍結させるところを見せてもらうと、みるみるうちに表面が白く変化していき、ものの数十秒でカチンコチンになった。
テクニカンはここ10年ほどで売上高が約3倍へと伸長し、2022年には過去最高売上高である23億円を叩き出した。機器の導入先は「伊藤ハム」や「叙々苑」、「銀座千疋屋」に「DEAN&DELUCA」など名だたる企業ばかりだが、この画期的な冷凍システムは、売れるまで実に長い時間がかかっている。「凍眠」が生まれたのは1984年、今から約40年も前のことだ。
なぜ、令和になってこの凍結技術が注目されるようになったのか。世界でも類を見ない、革新的な装置を生み出した、山田社長の足跡を辿る。
■ヒントになったダイビングの経験
1947年、食肉卸店の三男として生まれた山田社長は、少年時代の大半を海や山で過ごした。
その後も仕事の合間を縫って趣味に没頭していたが、1980年代に入ると外食産業が急成長し、顧客からの発注が増加。食肉は24時間かけて冷凍して出荷していたが、工場の冷凍機では大量の注文を捌けなくなってしまった。「もっと早く冷凍する方法はないのか」。そのとき考えついたのが、空気ではなく、液体で凍結させる方法だった。
一般的な冷凍機は、家庭用でもおなじみの空気凍結タイプである。しかし、ダイビングの際に、「同じ温度でも空気より海水のほうが早く体が冷える」と実感していたことから、クーラーボックスに氷点下でも凍らないアルコールとドライアイスを入れ、肉を投入してみた。すると、冷凍機よりもはるかに早く凍り始めたのだと言う。
■鮮度が落ちない…「この技術があれば、すごいことになる」
「これだ!」と翌日から本業のかたわらで液体凍結機の開発をスタート。実際に自分で使いながら、「どのような方法で肉を漬けるか」「どの部分を改善するか」など、毎日試行錯誤を繰り返した。その結果、わずか1年後の1984年には「凍眠」1号機が完成。
さらに、食品の成分を分析してみると、凍結前の品質が保たれたままであることがわかった。従来の空気凍結の場合、食品が凍るときに内部には100~200ミクロンの氷の結晶ができる。これが食品の細胞膜を破って穴を作るのだが、解凍時にそこから旨味や栄養素がドリップとして流れ出てしまう課題があった。だが、液体凍結の場合は結晶が5ミクロンと小さいために、細胞膜が傷付けられず、ドリップが約10分の1に抑えられていたのだ。
ドリップで失われる質量を仕入れ単価で換算すると、多くて数百万円を損している場合がある。それを考えると、当時1台1500万円程度だった「凍眠」は、長い目で見れば十分初期費用が回収できる機械だった。
「この凍結機ができ上がったとき、日本の水産も畜産も変わると思ったんですよ。『この技術があれば、すごいことになる』と」
こうして「冷凍の文化を変える」液体凍結機が誕生した。
■10年間で20~30台しか売れなかった
1989年、42歳のときにテクニカンを設立すると、早速「凍眠」の販売に乗り出した。最初に導入してくれたのは、都内の大手食肉卸会社だ。
というのも、食肉は時期によって売れやすい部位とそうでない部位がある。
しかし、「凍眠」を使えばこの課題が解決できた。冷凍して販売時期をずらすことで、仕入れた肉の廃棄ロスを減らし、さらに牛や豚が安いときには、一括して仕入れられるようになったのである。それから食肉やハムを扱う企業から依頼が入るようになったが、その後10年間で20~30台しか売れなかった。
なぜ売れなかったのか。それは、「あまりにも新しすぎる技術だったために、製品の良さを十分に理解してもらえなかったから」だ。
「今までにないものを見ると、人間は拒否反応を起こすものなんですよ」
■新工場を作って大誤算
液体凍結の理論は独自に発見したもので、当時の学会には関連する文献がなかった。そのため、デモンストレーションをして「すごい」と驚かれても、大手企業の担当者は決断に悩む様子で、結局導入には至らなかったのだ。
それでも、当時は従業員が2~3人しかいなかったため、ポツポツと売れるだけでも生活には困らなかった。そこへ、液体凍結技術に惹かれた大手産業機器メーカーから、「代理店として販売させてほしい」とオファーが届く。
「うちみたいな小さな会社が、先方の要望に対応できるのだろうか……」。
先方は700人の営業部隊を準備し、大規模な拡販計画を立てた。これを受け、会社では量産に向けて新しく工場を建設。ここから「凍眠」が一気に広がる……と思いきや、これはとんだ大誤算だった。
■工場建設・代理店販売で失敗、1億6000万円の借金ができた
代理店販売を始めると、工場には日に日に在庫が積み上がっていった。スタートから4年半で、先方の営業部隊は実質2台しか販売できなかったからだ。
「簡単に2億5000万円損しましたよ。借金は1億6000万円まで膨らんで……。思わずうちのカミさんに、『こんなもん作ったから貧乏しちゃったんだよな』と愚痴をこぼしました」
しかし、妻・由紀子さんは、この状況をまったく気にしていなかったと言う。あとでご本人に伺うと、あっさりとこう答えられた。
「主人はこのままでは潰れない。ここから絶対に這い上がる人だと思っていたから、そういう意味での安心感は持ってましたね。
そう夫に目配せすると、先ほどまで饒舌だった山田社長は、気まずそうに黙りこんでしまった。
由紀子さんの目論見通り、しばらくすると気力を持ち直し、「ここで諦めるわけにはいかない」と再び動き出した。従業員には経営状況を説明し、やむなく辞めてもらうことにした。そして47歳のとき、ワゴン車の後部座席に「凍眠」を乗せ、たった一人で全国行脚を始めたのである。
■「売らない」営業で全国を巡る
営業先ではひたすら凍結テストを行った。相手先の商品を凍らせ、「あとで解凍してみてください」と置いて帰る。自社商品で試せば自ずと違いがわかるから、「買ってください」と頼んだことは一度もない。「この凍結を見てほしい。こういう機械が今後広がっていくから」――ただただ「凍眠」を知ってほしいという一心で、年間10万キロを営業車で走った。
はじめは20社回って1社導入したら大成功、という打率だった。導入まで至らずとも反響は良く、営業先が知人や取引先などに紹介してくれたことで、凍結テストの依頼が入ることもあった。このときの経験から、今でも社員に対して「売ってこい」とは決して言わないそうだ。
だが、全国を巡っている最中、「自ら営業に出向かなくなったお店が一つだけある」と言う。それがマグロ問屋だった。
「凍結テストに行って、『マイナス30度のアルコールで凍らせます』と伝えると、『30度じゃダメだ。うちにはマイナス60度の冷凍機があるからいいよ』って断られちゃうんです。従来の冷凍は温度が基準でしたからね。『凍結で重要なのは温度じゃなくて、スピードなんです』といくら説明しても、なかなか理解を得られなくて……」
■「絶対にこの機械は普及する」と信じて
1億超の借金を抱えながら、全国を飛び回る生活は辛くなかったのだろうか。山田社長に尋ねると、「苦労じゃなかったですね。だから、僕は今まで苦労した経験がないんです」とけろりとした顔で返された。
「あ、でも熱中症にかかって、営業先で倒れたことがあったな。あと、僕はお酒が飲めないから、冬は大変だったんですよ。昔は移動中に機械からアルコールがこぼれることがあって、暖房のせいで車内にアルコールが充満しちゃって。そのうち目が真っ赤っかになるもんだから、それがきつかった(笑)」
なんとも手応えのない答えに困惑していると、「簡単に諦められるような機械じゃなかったからね」と言葉が漏れた。
「自分で作ったものには愛情がありますから。それに、今までよりいい冷凍ができるんだから、絶対にこの機械は普及するだろうと思ってました。『凍眠』は僕しか作っていないんだから、うちが辞めたら誰も作れない。だから、悩む理由はなかったんです」
北海道から九州まで巡る営業活動は、それから60歳まで続けたそうだ。
■食品メーカー・飲食店へ広がる
数年後、「売らない」営業活動が功を奏し、3社提案すればそのうち1社は導入してもらえるくらいにまで、契約率が高まった。また、全国行脚を始めてから毎年5000万円の利益を出せたことで、1998年には借金を完済。
並行して力を入れ始めたのが、ブランディングだ。最初は機械の特許登録をしたのだが、日本は存続期間が20年しかなく、特許が切れればコピー商品が出てくるのは目に見えている。そこで、「凍眠」自体をブランドにするべく、商標登録を行った。
さらに、ユーザーの商品にはロゴマークを印字した上で、販売してもらうようにした。「ローソン」では冷凍の刺身に、横浜中華街の名店「萬珍樓」では、中華惣菜それぞれにロゴマークが印字されている。なお、現在は「伊藤忠食品」とも提携し、「凍眠」を使った商品を「凍眠市場」というブランド名で売り出してもいる。
「ロゴマークを使う際に、いくらか手数料はもらうんですよね?」と聞くと、「そんなものはもらってない」と即答された。ここでも「新しい凍結技術を知ってもらいたい」という想いの方が勝っているようだ。
■「味が落ちる」「手抜き」根強い冷凍へのイメージ
2003年以降は、これまでにまいた種が一斉に芽吹き、安定して受注が取れるようになった。新規導入を後押ししたのは、既存ユーザーの口コミだ。百戦錬磨のプロが語る言葉は、自社社員の営業よりも100倍効く。
さらに、「いい加減なものが嫌い」という山田社長のこだわりで、機械自体には後々サビが出るような素材を一切使っていない。その結果、20年使用しても故障せず、過去にクレームが出たことは一度もないそうだ。
凍結時間を短縮させながら、高品質の商品を生み出し、メンテナンスの心配が少ない凍結機。この認知が広がったタイミングで、風向きが変わった。
「『おたくの機械を使ったら商品の人気が上がったから、もう1セット持ってきてくれ』と、8000万円の商談が電話1本で完結したこともありましたね(笑)」
こうして「凍眠」は一次産業へじわじわと浸透していった。しかし、当時は冷凍というと「味が落ちる」「添加物が多い」「手抜きをしている」など世間のイメージはあまり良くなかった。そのため、ユーザー各社はその存在を、影武者のようにひっそりと隠していたのである。
思いがけずスポットライトを浴びるようになったのは、飲食業界が大打撃を受けたコロナ禍のことだ。
■「凍眠ミニ」が200社待ちの大ヒット
2019年、テクニカンは飲食店・ECサイト販売向けの小型機、「凍眠ミニ」を発売した。個人店でも導入しやすいよう、価格は78万円に設定(現在は95万円~)。しかし、飲食店への販路がなかったためになかなか売れず、またもや社内には在庫が溢れた。
だが、翌年にコロナによる緊急事態宣言が発出されると、5月頃から発注数がうなぎ上りに増加。外出自粛の影響で、買ってきた弁当や惣菜を家で食べる「中食」需要が高まったほか、生き残り策として飲食店がECサイト販売を開始するなど、対応に追われた結果だった。
一次産業と違ったのは、ユーザーが「こんないいものがあるぞ」と飲食店仲間に「凍眠ミニ」を積極的に紹介したことだ。その結果、すぐに人気に火がつき、一時は200社待ちの状態になった。
さらに、ここで予想外のことが起こった。高品質の凍結を知ったユーザーは、仕入れ先にも同じクオリティを求めるようになったのだ。
「液体凍結を知った人は、空気凍結の食材を仕入れなくなるんですよ。すると今度は、『凍眠』を使っている卸先をわざわざ探して、仕入れるようになる。一次産業側と飲食店側で『凍眠、凍眠』と言い出したのは、この頃からですね」
一つの機械を媒介に、これまでにない「凍眠経済圏」が生まれた瞬間だった。
■食品を一気に凍らせるマイナス30度の液体
いつの間にか、取材開始から2時間が経っていた。予定していた終了時間はとうに過ぎ、「さすがにおいとました方がいいのでは」と腰を浮かせるタイミングを見計らっていると、「そろそろデモンストレーションを見ませんか?」と右手のラボを示された。
そこには3台の凍結機が並べられ、奥には調理スペースが広がっている。お言葉に甘えて「凍眠ミニ」を見せてもらうと、中には無色透明の液体が入っており、アルコールの匂いは少しも感じられない。「マイナス30度だと揮発しないから、匂いもない」らしい。
低温火傷を心配して離れて観察していると、「手を入れても大丈夫ですよ」と促される。恐る恐る人差し指を浸すと、確かに冷たいがなんともない。まるでマジックのようだ。
冒頭で述べた牛肉のほかに、マグロも解凍したところ、ドリップは確認できなかった。食べると旨味も舌触りも生のマグロそのもので、仕組みがわかっていても頭が追いついてこない。取材に同席した編集者をちらりと見ると、瞳は平静を装っていたが、口元がほころぶのを抑えきれないようだった。
御年78歳の山田社長が段取り良く動き回る様子を見て、「苦労じゃなかった」という先ほどの言葉が、嘘ではなかったのだと実感した。
■地元の味が全国各地にも、海外にも
2021年、「一般の方にもいい凍結を知ってもらおう」と、冷凍食品専門店「TŌMIN FROZEN(トーミン・フローズン)」をオープンさせた。ここには自社工場で作っているベーコンやお弁当のほか、「萬珍樓」の五目焼きそばや、「人形町今半」のおかずすき焼など、有名店の商品も取り揃えている。
開店直後から多くのメディア取材が入ったことで、すぐに広く知られるようになった。想定外だったのは、視察に訪れるバイヤーが多く、「この商品をうちのスーパーで販売したい」という相談が多く舞い込んだことだ。
「そういうときは、ユーザーさんを紹介する」と語る社長に、「機械を直接販売した方が、もっと儲かるんじゃないですか?」と編集者が切り込むと、「そうですよね。だからちっちゃいんですよ、うち」と小さく笑う。
2023年には、しぼりたての生酒を冷凍した「凍眠生酒」を発売。これまで酒蔵でしか味わえなかった希少な生酒を、全国各地にとどまらず、海外でも楽しめるようにした。名前の通り「凍らせて眠らせる」ことで、距離はまったく問題にならなくなったらしい。「今後はこの技術をワインに転用したい」と山田社長は意気込んでいる。
■液体凍結技術を医療分野に応用する夢
ユーザーを獲得するまでに大変な時間がかかった「凍眠」だが、高品質な商品生産・加工だけでなく、計画的な仕入れやオペレーションの効率化・販路拡大など、今や事業の可能性を広げる要となっている。その証拠に、一次産業で導入されている大型モデル「TL-1」は、1台約2700万円と決して安くはないが、引き合いが絶えない。
図らずもコロナ禍で一気に認知度が高まったが、人口減少に伴う人手不足や地球温暖化による漁獲量の変動など、時代の変化とともに今後さらに必要とされる存在になるのは間違いないだろう。現に、「凍眠」シリーズは国内累計3500台以上、海外35か国に展開されている。(2024年3月時点)
「新しいものを絶えず作ろうとしている」と話す山田社長が今後目指しているのは、液体凍結技術を血液に応用することだ。
「日本では血液を凍結保存してますが、精度が低いので3カ月で処分してるんです。でも、『凍眠』は精度が高いので、恐らく10年はもつんじゃないかと思ってるんですよね。ゆくゆくは血液バンクを作って、自分の病気を治療するのに使ったり、血清を作ったり……」
冷凍の概念を変えた技術が、医療の常識をも変える日がやってくるのは、そう遠くないのかもしれない。
■「逃げたときから不幸はついてくる」
不遇の時代に、人知れず耐え忍んだ時間は思いのほか長かったはずだ。「どうしても諦められなかった」と語る山田社長だが、何を指針にしてここまで歩み続けてきたのだろうか。
「製造って信念を持ってないと続けられないんですよ。だから、自分がそのものに惚れ込まないとダメですね。逃げたときから不幸はついてきます。だから、『いつか必ずこの製品は世に出るんだ』と常に考えていないといけません。
まずは、がんばる方向を見極めること。悪い方向にがんばっても、価値はありませんから。どの方向に進むかは、世の中の情勢をよく見て、把握して、自分で考え出すしかない。どんなに学があっても、使いこなせなければ意味がありません。
そう考えると、事業を起こしたり開発したりするときは、自分の一番得意なことを見つけ出すのが早いんじゃないですかね」
取材を終えようとすると、ちょうど17時の終業ベルが鳴った。オフィスに戻っていた妻・由紀子さんが、心配そうに顔を覗かせる。
「この人、機械のことだったらずーっと話してるから、ご迷惑じゃないかなと思って……」
「迷惑じゃないか」と気にしていたのは、むしろ我々の方だった。山田社長は一度も時計を見ることなく、エントランスの外まで見送ってくれた。
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弓橋 紗耶(ゆみはし・さや)
フリーライター
1987年、神奈川県生まれ。2010年からインフラ企業で営業・営業企画を経験し、2022年に独立。現在は、ストーリーライティングを軸とした取材・記事執筆などを手がける。企業の広報から経営者インタビューまで、営業現場で培った人との対話力を活かし、企業の持つ本当の価値や想いを言葉にして伝えている。
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(フリーライター 弓橋 紗耶)