日本経済を代表する三菱グループはどのようにしてできたのか。歴史家の安藤優一郎さんは「祖である岩崎弥太郎の功績は言うまでもないが、兄を引き継ぎ事業の多角化を図った弟・弥之助の仕事ぶりによって、三菱の基礎が築かれた」という――。
(第2回)
※本稿は、安藤優一郎『日本史のなかの兄弟たち』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■海運業の三菱は戦争で急成長した
明治6年3月、岩崎弥太郎は社名を「三菱商会」に改称する。7年4月には本店を大阪から東京日本橋の南茅場町(みなみかやばちょう)に移した。その後、社名を「三菱蒸汽船会社」に再び変更し、海運業の会社であることを社名でも明示した。
海運業に参入した三菱は急成長を遂げる。その理由として、政府からの手厚い保護は外せない。戦時に大量の兵員や軍需物資を目的地まで迅速に輸送するため、政府は国内の海運業の育成を急いでいた。そこで白羽の矢が立ったのが弥太郎率いる三菱であった。
明治7年(1874)の台湾出兵時、弥太郎は政府の要請に応えて兵員と軍需物資の輸送にあたった。自社の汽船に加え、運用が委託された政府の蒸汽船をもってその任務を果たし、政府の信頼を獲得する。
同8年9月には、政府肝煎りで創設された日本国郵便蒸汽船会社の汽船などを無償で下げ渡された。三菱に対する援助にほかならない。
その際、「郵便汽船三菱会社」に社名が改称される。以後、三菱は国内や海外への航路を次々と開設し、日本に進出していた外国の汽船会社を政府援助のもと駆逐していく。
同10年の西南戦争でも軍事輸送の大任を果たした三菱は、政府の勝利に大きく貢献する。莫大な利益も得た。
■ライバル会社との激しい争い
政府内で三菱の海運業を保護・支援していたのは薩摩藩出身の大久保利通である。大久保が暗殺された後は、佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)が弥太郎の後ろ盾となった。
ところが、いわゆる明治14年の政変で大隈が失脚すると、弥太郎に逆風が吹きはじめる。
大隈の政敵であった薩摩・長州藩出身の政府要人たちは、下野した大隈を戴く政党・改進党の動きを危険視した。そして、弥太郎が大隈や反政府活動の資金源となっているのではないかと疑い、反三菱のキャンペーンを張る。大隈を後ろ盾に三菱が急成長を遂げたことが仇となった。後には、改進党のライバル自由党が反大隈・反三菱キャンペーンの急先鋒となる。
弥太郎にはさらなる逆風が吹く。

同16年1月、三菱のライバル会社という立ち位置で、共同運輸会社が政府肝煎りで開業した。三菱が国内の海運業を牛耳ったことへの危惧が政府内で高まっていたのである。
運賃の引き下げ、安全性よりも速さを重視した運航など、両社は激しい乗客獲得合戦を展開する。果てしない消耗合戦は2年以上も続いた。行き付く先は両社共倒れであることは明らかだった。国内海運業の育成という政府方針に逆行するものでしかなかった。
■岩崎弥太郎が弟に残した遺言
政府は両社の和解を試みるが、そうしたなか、かねてより胃癌を煩っていた弥太郎は下谷茅町(したやかやちょう)の岩崎邸で波乱に満ちた50年の生涯を終える。同18年2月7日のことであった。
いまわの際、弥太郎は弥之助に次のように言い遺す。
久弥(ひさや)(弥太郎長男)を岩崎家の嫡流とし、弥之助は久弥を補佐し、小早川隆景が毛利輝元を補佐したようにせよ。弥之助は隆景を慕って久弥を補佐せよ。自分の志を継ぎ、事業が落ち込まないようにせよ。

小早川隆景は兄毛利隆元の遺児輝元を補佐した知将として喧伝された戦国武将である。弥太郎は歴史書を読むのを好んだため、隆景がどんな人物かはよくわかっていた。もちろん、弥之助も分かっていただろう。よって、弥太郎は隆景を模範として久弥を補佐するよう弥之助に遺言したのである。
弥太郎の死を受け、三菱の社長は副社長の弥之助が継いだ。久弥は嫡流であるから自分亡き後は社長の座に就かせ、弥之助に補佐させたいと弥太郎は願ったが、慶応元年(1865)生まれの久弥は20歳になったばかりであった。
■兄と弟・弥之助の性格の違い
その上、三菱は共同運輸との消耗合戦で存亡の危機に陥っていた。そんな状況では荷が重過ぎるということで、弥之助が久弥に代わって社長を務めることになったのだろう。
弥太郎は豪胆な人物だったが、弥之助は温厚で品行方正な性格であった。要するに、二人の性格は正反対であったものの、弥之助は弥太郎によく仕え、その信頼も厚かった。
明治5年(1872)に弥太郎の勧めでアメリカに留学し、帰国後は副社長として弥太郎を補佐する。正反対の性格だったことで互いに足りない部分を補い合う効果を生み、会社経営にもプラスに働いた。

共同運輸会社との乗客獲得合戦では、弥太郎が病に倒れると、代わって陣頭指揮を執る。政府が両社に和解を勧告した際には、三菱側代表として共同運輸との交渉にあたった。弥太郎の死の直後にあたる明治18年(1885)3月に、弥之助は和解協定を結ぶも、共同運輸側に違約行為があったとして、6月に入ると戦いを再開する。
しかし、共同運輸との競争を続ける限り、両者共倒れは必至の状況だった。国内の海運業にとってはマイナスでしかないという大局的な見地から、合併により事態の収拾をはかる。
それは海運業からの撤退を意味した。弥太郎の遺言に背くことでもあった。
■海運業から事業の多角化
同9月、両社は合併して日本郵船会社が誕生する。ここに郵便汽船三菱会社は消滅し、弥之助は三菱の海運業を日本郵船に譲渡した。
国家のため、弥太郎の遺言に背いて主力の海運業から撤退した弥之助だが、翌19年3月、新たに三菱社を起こす。弥太郎は海運業以外の事業、すなわち鉱山業や造船業などを幅広く手掛けており、弥之助はこれらの事業を継承するため三菱社を設立したのである。鉱山業では高島炭鉱、造船業では長崎造船所の事業などを継承した。

弥之助は海運業から撤退したのを機に、事業の柱を海から陸に移す。弥太郎から継承した事業をもとに、経営の多角化を推し進めた。鉱山業では尾去沢(おさりざわ)鉱山など各地の鉱山を次々と買収し、あるいは政府から佐渡・生野(いくの)鉱山などの払い下げを受けた。弥之助の時代、三菱の金属鉱山部門は飛躍的に発展する。
20年には、政府から貸与されていた長崎造船所の払い下げを受ける。近代的設備を整え、併せて造船技術を向上させることで、数多くの艦船を建造した。そのほか、保険業、倉庫業、銀行業、そして農場経営にも乗り出す。
経営の多角化で言えば、現在の丸の内オフィス街につながる土地買収、すなわち不動産業も外せない。23年に弥之助は政府の要請を受けて、官有地だった丸の内と神田三崎町の土地、合わせて約10万7千坪を買収する。三菱第一号館などの英国風の建物を次々と建設し、「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれた洋風建築の一大ビジネスセンターを誕生させた。
■守った遺言、やぶった遺言
こうして、弥之助は後の三菱財閥の骨格を作り上げる。弥之助は海運業については弥太郎の遺言を守れなかったが、それ以外の事業に手を広げて成功させることで、三菱の躍進に成功する。
弥太郎の遺言を固守することなく、経営の多角化という柔軟さによって三菱は危機を乗り切り、飛躍を遂げた。
明治26年(1893)の商法会社編の施行を受けて、弥之助は甥の久弥と資本を半分ずつ出資し、三菱合資会社を設立する。これを機に、久弥に岩崎家の嫡流を継がせよという弥太郎の遺言を果たそうとした。
社長職を久弥に譲り、自身は多角化した経営を監督する「監務」の役職に就く。社長の久弥を補佐する立場となった。それは名実ともに小早川隆景となることを意味した。
トップの座を退いたとはいえ、新社長の久弥は29歳であり、弥之助の役割は大きかった。久弥は経営の多角化をさらに推し進めるが、その陰には叔父弥之助のアドバイスがあったことは想像に難くない。弥之助補佐のもと、三菱財閥の基盤を固める。弥之助がこの世を去ったのは、それから15年後の明治41年のことだった。享年57。
弟として兄弥太郎を補佐し、叔父として兄の遺児久弥を補佐し続けることで、三菱は士族の商法の轍を踏むことなく、現在も続く三菱グループへと成長したのである。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)
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