■「悲劇の甲子園優勝投手」の最期
毎年夏、甲子園球場で繰り広げられる熱戦を見るとき、私は86年前に同じグラウンドで伝説を作り、戦地で散った一人の青年がいたことを思い出す。
1939年8月19日、海草中学(現・和歌山県立向陽高校)の左腕・嶋清一は、第25回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の決勝戦で9回を投げ抜き、下関商を相手にノーヒットノーランを達成した。決勝でのノーヒットノーランは59年後に松坂大輔が成し遂げるまで誰も並ぶことのない大記録だった。
驚くべきことに、嶋は決勝のみならず、準決勝の島田商戦でもノーヒットノーランを達成していた。全国大会の頂点を決める最も重要な2試合で、相手打者を完全に封じ込めたのである。準決勝・決勝での2試合連続ノーヒットノーランは「甲子園で永遠に破られない記録」として今も語り継がれている。
この前人未到の大記録を打ち立てた6年後の1945年3月29日、嶋は南シナ海で24歳の若さで戦死する。
■MAX155キロの速球と縦に落ちるカーブ
嶋は1920年12月15日、和歌山市で生まれた。日本通運で馬力引きとして働く父のもと、貧しくも温かい家庭で育った。小学生時代から野球に熱中し、海草中学入学後は一塁手として活躍していた。
1936年、監督のすすめで投手に転向する。
投手として甲子園には1937年夏、1938年春、夏、1939年春と出場していたが、37年夏のベスト4が最高だった。OBや後援会からは「もう嶋に投げさえるな」という声も出た。
繊細で押しに弱い性格だった嶋は先輩捕手とのコミュニケーションに周囲が思う以上に苦しんでいた。ボールを投げたり、フォアボールを出したりすると、先輩の捕手が露骨に嫌な顔をするため、ますますストライクが入らなくなる悪循環に陥っていた。萎縮して、自分の投球を見失ってしまっていた。
実際、1939年に最上級生となると、先輩に気兼ねすることがなくなり、嶋は躍動する。春の甲子園は敗れたが、大会前から苦しんでいた神経痛と試合中にできた血豆が原因だった。突如、乱れる悪癖は見られなかった。
もともと身体能力は抜群だった。100メートル11秒で走る俊足と、1メートル65センチの跳躍力。その肉体から放たれる最速155キロといわれた速球と、「懸河(けんが)のドロップ」と呼ばれた縦に落ちるカーブはまともに投げさえすれば誰にも打てなかった。
■嶋が抱いていた意外な夢
「そんなにすごかったのか」と疑問を抱く人もいるだろう。正直、本当に漫画のような超人的な運動能力を誇り、現代でも通じるような球を投げていたかはわからない。当時の100メートルの世界記録は「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳が記録した10秒3だ。11秒はかなり速い。
また、甲子園で高校球児が155キロを正式に記録するのは2007年の佐藤由規(仙台育英)まで待たなければいけない。
早世した人の偉業は大きく伝わる傾向もあり、実際に嶋がどれほどすごかったかを正確には把握できないが、1939年夏の甲子園で残した記録は確かに超人的である。
準決勝と決勝で連続ノーヒットノーランを達成したことはすでに述べたが、実は嶋の記録はそれだけでない。その夏に登板した5試合すべて完封で45イニング連続無失点という驚異的な記録を打ち立てている。これは1948年の福島一雄(小倉高校)と並ぶ記録である。
嶋は甲子園での活躍により一躍全国的な知名度を得たが、彼には野球以外にも大きな夢があった。それは新聞記者になることだった。新聞記者、特に朝日新聞の記者として高校野球を取材したいという具体的な目標を持っていた。
■進学した明治大学にあった壁
この夢は決して突飛なものではなかった。嶋は文学を愛する青年でもあった。文章を書くことが好きで、甲子園の優勝後には朝日新聞に手記を寄せている。また、ファンから届く手紙には必ず返事を書いていた。甲子園での活躍後、全国から数多くのファンレターが届いたが、嶋はその一通一通に丁寧に返事を書き続けた。どんなに疲れている時でも日記を欠かすこともなかった。
「甲子園の優勝投手ならプロになれば」と思われるかもしれないが、当時、職業野球は今ほどの人気はなかった。
むしろ、花形は六大学野球だった。甲子園で圧倒的な成績を残した嶋は明治大学に進んだ。映画スターさながらの人気だった。
どれほどの成績を残すのか。誰もが期待したが、明大では藤本英雄(卒業後に巨人に入団。1950年にプロ野球初の完全試合。プロ通算防御率1.90は日本記録)、林義一(1952年にパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成)という先輩エースの陰に隠れ、思うような活躍ができなかった。いじめの標的にされたのだ。
■一度はプロ入りも考えたが
「期待の新人」は妬みの対象になる。嶋も例外ではなかった。
誰もが球の速さは認めていたが、緊張で自滅する。高校時代と同じだ。先輩の藤本は、嶋が練習で凄い球を投げるから、いざ投げさせてみると、制球が悪くなる以前に、球の速さも出なくなることに驚いたと振り返っている。嶋は悩みに悩み、「大学を中退し、職業野球に転身しよう」とも考えた。南海と交渉が成立し、退学届を書き、入団寸前までいったが、関係者の説得で翻意した。
結局、大学時代に甲子園での輝きは取り戻せなかったが、それでも最後は主将を務めた。捕手に後輩を指名することで復活の兆しを見せた。
1943年5月23日の立教大学との非公式戦が、彼の最後の登板となった。この一戦には後に「青バット」で知られるようになる大下弘(明治大学、戦後にプロで首位打者、本塁打王いずれも3度)、西本幸雄(立教大学、戦後に阪急、近鉄の監督で計8度のリーグ優勝)も出場している。
■ベトナム沖で魚雷に
1943年11月20日、海草中学校野球部OBの自宅で「出陣学徒壮行会」が開かれた。この時の写真が現在も残っている。前列に座る6人が戦地に向かったが、嶋の姿もある。6人の中には生き残り、戦後のプロ野球で沢村賞や最多勝に輝く真田重蔵もいた。真田が生き残り、嶋が死ぬ。そこには何の必然もなかった。6人中3人が帰らぬ人となった。
海草中、明大で一緒だった古角俊郎も同じく海軍に入隊し、呉の海軍で一緒に過ごした。しかし、1944年2月、嶋は通信隊として神奈川の横須賀へ、古角は航空隊として茨城の土浦へと配属になった。これが最後の別れとなった。
「海軍では寝る時のハンモックも隣でした。でも、戦争が終わったら野球をやりたいと言うことはできませんでした。みんな死ぬ覚悟でしたから」
嶋は古角に戦争については終始何も語らなかったという。勇ましいこともいわなければ反戦を訴えるわけでもなかった。
1944年12月、嶋は第84号海防艦に乗り組んだ。シンガポールから門司への船団護衛任務に就いた。護送船団の一員として、重要な任務を帯びての航海だった。
そして運命の1945年3月29日早朝、ベトナム沖を航行中にアメリカ軍潜水艦による魚雷攻撃を受け、嶋が乗船していた第84号海防艦は沈没した。乗員191人は「全員戦死」し、嶋をはじめ多くの若い命が海に消えた。嶋は24歳だった。
甲子園で伝説を作り、記者になる夢を抱いていた青年の短い生涯は、ベトナム沖の海で終わりを告げた。遺骨が家族の元に戻ることはなかった。
■永遠に刻まれる「伝説の左腕」
2008年、嶋清一は特別表彰で野球殿堂入りを果たした。甲子園での偉業が評価されたことはもちろんだが、戦争の犠牲となった野球人への鎮魂の意味も込められていた。
現在、東京ドーム近くには「鎮魂の碑」が建立され、戦死したプロ野球選手76人の名前が刻まれている。また、野球殿堂博物館内には「戦没野球人モニュメント」があり、嶋清一をはじめとする167人の名前が記されている。彼らが生きていれば、戦後の日本野球はどう変わっただろうか。
甲子園で輝いた若者が、ペンを握る代わりに銃を持たされ、海の藻屑と消えた。嶋清一の物語は、戦争が奪うものの大きさを静かに、しかし雄弁に語りかける。
そして、夏の甲子園での試合を見るとき、平和の尊さ、夢を追い続けることのありがたさ、そして今の瞬間がいかに貴重であるか。改めて認識できるはずである。
参考文献
『嶋清一 戦火に散った伝統の左腕』山本暢俊、彩流社
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)