プロ野球の歴史で、首位打者と最優秀防御率のタイトルを同時に獲得したのは一人しかいない。大阪タイガースの景浦将(かげうら・まさる)選手だ。
ライターの栗下直也さんは「戦前のプロ野球で二刀流として大活躍していた彼は、2度戦地に赴いた」という――。(第2回)
■大谷翔平の活躍より先にいた阪神の「元祖二刀流」
今年もまた、甲子園で球児たちが白球を追う中、8月15日がやってくる。80回目の終戦の日である。
甲子園球場の歴史館に訪れると、「景浦」という名の選手が使用したバットや首位打者の盾が展示されている。
「プロ野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった」
東京巨人軍のエース沢村栄治が剛速球を投じれば、大阪タイガースの景浦将が豪快なスイングで応じた。戦前の日本野球界を代表する二人の対決は、多くのファンを魅了した。
この二人の偉才は、ともに戦争によって輝かしい未来を断たれた。だが、沢村が「戦争の犠牲になった悲劇のエース」として毎夏のように語られるのに比べ、景浦が話題に上ることは近年めっきり少なくなった印象がある。
景浦は大阪タイガースで強打者でありながら投手も務め、首位打者、打点王、最優秀防御率、最高勝率の投打のタイトルを獲得している。もちろん、首位打者と最優秀防御率のタイトルを記録した選手は長いプロ野球の歴史でも景浦だけだ。
最近は大谷翔平選手の活躍により、「二刀流」という言葉が野球界で注目を集めているが、景浦こそ「元祖二刀流」といえるだろう。
■剣道少年の転機
1915年7月20日、景浦将は愛媛県松山市の製材業を営む家の長男として生まれた。
瀬戸内の穏やかな海を望む城下町で育った少年は、体が小さく、後に野球と縁が生まれるようには誰の目にも見えなかった。
「伯父は子どもの頃から木材を担いで父親を助けていました。それでバランス感覚や体幹を養い、剣道で手首を鍛えました」
社会人野球で活躍した甥の景浦隆男が語っていたように、将の体づくりは家業の手伝いから始まった。重い製材を担ぐことで自然と鍛えられた体幹、剣道場での厳しい鍛錬が築いた強靭な手首。これらが後の豪快なスイングの基礎となった。
剣道の稽古帰りには、松山名物のひぎりやき(大判焼き)を毎日20個以上平らげた。次第に体も大きくなり、華奢な少年の面影はなくなっていた。
松山商業3年時に景浦の人生は大きく変わる。部員不足に悩む野球部の監督に勧誘されたのだ。それまで剣道部一筋だった経歴を考えれば無謀な挑戦に映ったが、景浦は元剣道部とは思えない打球を入部直後から飛ばした。
剣道で鍛えた肉体は競技を問わなかった。おまけに父の手製の素振り用バットを日夜振り続けることで、もともと強靭な手首と下半身はさらに力強さを増し、打撃が開花した。

■夏の甲子園での死闘
1932年の春の選抜大会で、チームは7年ぶり2度目の優勝を果たす。三塁手のレギュラーとして甲子園の土を踏んだ景浦にとって、それは夢のような舞台だった。
試練は夏にやってきた。春夏連覇を狙う松山商業の前に立ちはだかったのは、前年王者の中京商業だった。決勝戦には超満員の観客が詰めかけ、球場は異様な熱気に包まれた。
試合は息詰まる投手戦となった。松山商業は六回までに3点を失い、劣勢に立たされる。そこでエースを救援したのが景浦だった。
その後、力投した景浦はそのまま3点を追う展開の九回表一死一、二塁で打席に立つ。土俵際で景浦のバットは火を噴いた。左中間を破る強烈な二点三塁打を放つ。続く打者の安打で同点のホームを踏み、甲子園は大歓声に包まれた。

しかし、野球の神様は残酷だった。九回裏、マウンドに立った景浦の足に打球が直撃する。後に骨折と判明する重傷だった。景浦は降板後も、最後まで三塁でプレーを続けたが相手打線は手負いの景浦を狙って、三塁側へのバント攻めを徹底した。延長十一回、力尽きた松山商業は3対4で涙を呑んだ。
■大学をやめてプロにいったワケ
甲子園から引き揚げる写真には、チームメートに担がれる景浦の姿がうつっている。その表情に悔しさはにじんでいたが、どこか晴れやかな笑みも浮かべていた。甲子園で戦い抜いた充実感が、痛みを和らげていたのかもしれない。
立教大学に進学した景浦は、1年生からレギュラーの座を掴んだ。東京六大学野球の黄金期、強豪ひしめくリーグ戦でも存在感を示した。特に打撃では驚異的な飛距離を記録し、後に長嶋茂雄が入部した時も、飛距離では景浦にはかなわなかったという。
独特の打法が注目を集めた。
バットの先を投手の方に向けてリズムを取り、テークバックに入って豪快に振り抜く。その様子を甥の隆男は「眠狂四郎の円月殺法みたい」と表現している。
だが、景浦の大学生活は長くは続かなかった。松山商業の先輩である森茂雄に誘われ、大学を中退してプロ野球の世界に飛び込む。家業が傾いていた実家を助けたいという思いからだった。
「実家が傾いて、オヤジは苦労している。ワシはタイガースの契約金で親を助けたい」
友人に吐露したこの言葉に、景浦の人柄がよく表れている。学生服のまま大阪に向かった景浦の胸には、家族への愛情と野球への情熱が宿っていた。
■巨人のエース沢村栄治との関係
1936年、プロ野球元年に大阪タイガースに入団した景浦は、背番号6の縦縞のユニフォームに袖を通した。投手兼4番打者として、名実ともにチームの看板選手となる。
その年の秋(当時は春秋2リーグ制)、景浦は史上初の勝率10割投手となった。6勝0敗という完璧な成績で、防御率も0.79という驚異的な数字を残す。
1937年春には打者として打点王、同年秋には首位打者に輝き、投打二刀流の先駆者として野球史に名を刻んだ。
守備も魅せた。強肩だった。外野守備についたときのライトからのバックホームは人気だった。松山商業と阪神でチームメートだった伊賀上潤伍は語っている。
「投手が捕手に投げつけるような投げおろしの球がぐんぐんと伸び、ワンバウンドかノーバウンドでストライクの位置に突き刺さり、クロスプレーでアウトにしていた。5回のうち少なくとも4回はアウトにしていた」
強靭な肉体を支えたのは並外れた食欲だった。すき焼きでは肉を4キロ、焼き鳥なら100本以上を平らげ、周囲を驚愕させた。相撲取りの前田山との焼き鳥対決では、160本を食べて勝利した。
プロ野球最初の名勝負は、1936年12月9日の洲崎球場で生まれた。巨人とタイガースの優勝決定戦、沢村栄治と景浦将の直接対決だった。
四回表、無死二、三塁で景浦が打席に入る。
カウント1対3(当時)から、沢村が自信のドロップを投じた。少し真ん中に入ったその球を、景浦は完璧に捉えた。
■「おれの目は縦についているからな」
「景浦の打球はものすごく高く上がる。放物線を描くようにね。打たれた瞬間、『やられた』と思った。ものすごい当たりだった」
ライトを守っていた前川八郎の証言通り、打球は高い放物線を描いてレフトスタンドを越え、東京湾に消えていった。沢村が最も自信を持っていたドロップを、景浦は豪快にホームランにしたのである。
「おれの目は縦についているからな」
ホームランを打った景浦は、周囲にそう言ってけむに巻いたという。縦のカーブを得意とする投手への、これ以上ない挑発だった。
試合は巨人が5対3で逃げ切った。沢村は11三振を奪ったが、景浦だけは、ホームラン、二塁打を含む3安打3打点と沢村をめった打ちにした。
■2度の出征、そして
1939年、景浦にも赤紙が届いた。中国戦線への出征だった。野球選手として脂の乗り切った24歳だった。
戦地では過酷な現実が待っていた。硬球より3倍重い手榴弾を投げ続け、肩を痛めた。視力も落ち、野球勘も鈍った。それでも、景浦は生き抜いた。
1943年、景浦は球界に復帰する。敵性語ということで、大阪タイガースは阪神軍と改名していた。ファンは景浦の復帰を熱狂的に歓迎したが、かつての輝きは失われていた。
10打席連続安打を記録してファンを沸かせたものの、打率は2割1分6厘に終わった。マウンドに上がることもなかった。
「球もよく見えないんだよ。勘がまるっきり駄目になってしまっている」
景浦の告白が、戦争の残酷さを物語っている。
1944年、景浦に再び召集令状が届いた。今度の行き先はフィリピンだった。同郷の友人である大関の前田山が慰問で現地を訪れた時、景浦と再会していた。そこにいたのは痩せこけ、歯も抜け落ちた別人のような景浦だった。旧友は彼を見て、何を思ったか。
フィリピンの山中で飢餓とマラリアと闘いながら、景浦は食料調達の任務に就いた。ある日、元気な仲間が「代わってやる」と申し出たが、景浦はこれを断った。そして、二度と帰ってくることはなかった。
■変わり果てた姿
1945年5月20日、ルソン島のカラングランで戦死した。享年29歳だった。戦後、松山の実家に届いた骨壺には、石ころが3つ入っているだけだった。親族は号泣した。
松山市の西法寺には、「故陸軍曹長景浦将之墓」と刻まれた墓がある。石ころ3つしか入っていない骨壺が眠るその墓を、今も多くの人が訪れる。
戦後、阪神タイガースの監督となった松木謙治郎は、巨人に勝てない辛い日々が続いた時、景浦がたびたび夢に現れたと語っている。
「お前、生きとったのか!」と驚く松木に、「オウ、この通り元気だ」と笑って試合に出場してくれたという。「激励に来たのか、それとも戦死したくなかったという思いを訴えに来たのか。もし帰還していたら、主力打者として活躍し、タイガースの歴史も大きく変わっていただろう」
松木のこの言葉は、当時の野球ファン共通の思いでもあった。
もちろん、今もなお、景浦の魂は生き続けている。水島新司の人気漫画『あぶさん』の主人公景浦安武のモデルの一人として、野球殿堂のレリーフとして、そして熱烈な野球ファンの記憶の中に。
■妻に残した最後の言葉
景浦には豪気な逸話がある。球団人事への抗議として、守備範囲に飛んだ打球をあえて全く追わなかったのである。豪快なエピソードとして語り継がれているが、そこには権力に屈しない強い意志が感じられる。
もし景浦が生きていたら、その不屈の闘志で戦後復興期にどのような活躍を見せただろうか。きっと阪神の監督になっていたに違いない。長嶋茂雄や王貞治とはどう戦っただろうか。そんな想像をするとき、平和の尊さを改めて実感する。
出征の日、景浦は妻にこう言い残していた。
「戦争は終わらにゃならん。もう一度野球を楽しみたいもんだ」
この言葉が、家族が知る景浦の最後の言葉となった。
豪快なスイングで時代を駆け抜けた男が最後に願ったのは、ただ純粋に野球を楽しむことだった。その願いは今、甲子園で躍動する球児たちによって実現されている。

参考文献

「【競う ライバル物語】(1)プロ野球を創った男達」産経新聞2003年4月1日朝刊6面

「<デイリー 何でも50選>阪神タイガース歴代4番列伝(2)第2代 景浦将」デイリースポーツ2023年4月5日20面

「<五感紀行>二刀流・景浦将」北海道新聞2021年8月15日朝刊日曜版2面

「高校野球 四国100年物語:11 戦争と球児たち 永遠の豪快スイング」朝日新聞2015年3月31日 朝刊31面

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栗下 直也(くりした・なおや)

ライター

1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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