■出場待機リストから本大会へ。逆転勝利の連続で決勝へ
テニス四大大会の中で唯一、芝コートで行われ、100年以上の歴史を誇るウィンブルドン選手権。
7月14日(日本時間)に閉幕したその2025年大会の男子ダブルス決勝へ、ノーシードから勝ち上がった急造ペアが進出して注目された。
オーストラリアの24歳、リンキー・ヒジカタと、オランダの34歳、ダビト・ペル。彼らはウィンブルドン開幕直前に初めてコンビを組んでエントリーしたが、当初は本戦への出場待機リストの1番手という扱いだった。
それが運よく欠場ペアが出たおかげで繰り上がって本戦へ代替出場すると、1回戦では第14シードのペアにマッチポイントを握られながら逆転勝ち。さらに2回戦も相手のマッチポイントをしのいで勝利すると勢いに乗り、3回戦は第3シードにストレートで完勝。続く準々決勝でも格上のペアにストレート勝ちし、準決勝は第1シード相手に最終セットでマッチポイントまで追い詰められながら、またも大逆転勝利を収めた。決勝では残念ながら地元イギリスの第5シードペアに敗れてしまったが、初結成のコンビでウィンブルドン準優勝を飾るのは、快挙以外の何物でもない。
ベテランのペルはダブルスを中心に戦っているが、ヒジカタは逆にシングルスの方に重きを置いている選手だ。にもかかわらずヒジカタは2023年の全豪オープンで、21歳にしてダブルスを制した実績を持つ。その時も29歳のオーストラリア人選手と大会直前で初めてペアを組み、ワイルドカード(主催者推薦)で出場権を得た。当然ノーシードだったのだが、シード勢を次々になぎ倒して優勝してしまったのだ。
■日本人の血を引くオーストラリア選手
このヒジカタ、姓から察せられる通り、オーストラリア籍ではあるが日本人の血を引く。彼の誕生前にシドニーへ移住した両親は、ともに日本生まれの日本育ち。息子につけたリンキーの名は英語で綴るとRinkyだが、漢字で『凛輝(りんき)』と書くれっきとした日本名だ。
近年の男子テニス界は選手の大型化、フィジカル重視の傾向がますます強まっている。190cm超の身長がありながらパワーと俊敏性を兼ね備えているプレーヤーも珍しくなく、日本勢は総じて苦戦気味だ。そんな中、178cm、72kgの体格で日本人そのものの風貌をした若きヒジカタの活躍には、我が国のテニス界からも熱い視線を注がれている。
さらに彼の家族についても、驚かされる事実がある。姉は米ハーバード大を、兄は東大を、それぞれ首席で卒業しているのだ。
3人の子供たちは、オーストラリアの地でいったいどのように育ったのか? その30年を父親の土方(ひじかた)誠(まこと)氏【※「土方」の「土」は、土の右上に点】に振り返っていただいたので、ここに紹介したい。
■全米オープンに憧れて硬式テニスに転向
東京生まれの土方氏は、高校までソフトテニス部に所属し、西東京大会で優勝するほどの腕前だった。ところが高2の時、全米オープンのテレビ中継を見てすっかり心を奪われ、硬式テニスに転向する。
「恐れ多いことに、『今から始めても、自分ならあの舞台に立てるんじゃないか』と思っちゃったんですよね」(土方氏、以下同)
プロを目指し進学した日本大学では、セレクションを受けて体育会テニス部に所属。当時の日大は国内屈指の強豪でありながら、高校時代に無名だった選手でもセレクションに合格さえすれば、入部を許された。それを知った土方氏は、ソフトテニス仕込みの強烈なフォアハンドを見せつけてセレクションをパスしたのだ。
だが当然のことながら、1年程度の硬式キャリアでは大学トップクラスの選手と渡り合えるはずもなかった。
「学生テニスでさえ通用しないのにプロ、ましてや世界クラスに行き着くなんて無理だと現実を突き付けられ、目標を失ってしまって体育会は1年ほどで退部しました」
■アルバイトと株の収益を貯めてアメリカへ
その後は、当時盛況だったテニススクールでのコーチのアルバイトに精を出し、月に40万~50万円ほど稼いでいた。さらに彼は、高校生の頃から株式投資も行っていた。
「普通のサラリーマン家庭でしたが、父も祖母も株をやる人だったんです。
大学時代はアルバイトと株の利益で、相当な金額の蓄えがあったという。
卒業後、彼は以前からの夢だったアメリカ遊学を実現させる。学生時代に稼いだ額の一部を費用に充て、それが尽きるまで滞在する算段だった。英語などまったく話せなかったが、行けばなんとかなるさと海を渡り、いくつかの大学の英会話コースを受講して回った。やがて学生ビザが切れたのを機に、ロサンゼルスの日本語フリーペーパー発行元で職を得た土方氏は、新規地域開拓のためニューヨークへ派遣されることとなった。
ある時、現地の日本人コミュニティーのビジネスパーティーに参加した土方氏は、ハーバード大の大学院で教育学の修士号を取ったという同年代の女性を紹介される。お互い惹かれるものがあった二人はほどなく交際を始め、やがて結婚の運びとなった。
となると、式を挙げねばならない。さらに土方氏のビザ切れでアメリカ暮らしの先行きが見えなくなってきたこともあり、二人は日本に帰国して所帯を構えた。結婚するにあたり、土方氏は妻となる純子さんに、ある“宣言”をしている。
■もし能力があったら世界レベルで成功させたい
「自分たちの子供がもし客観的に見て何かの分野で秀でた能力があったなら、世界レベルで大成させてやりたい。それが自分も思い入れのあるテニスならば最高だけど、他のスポーツでも音楽でもなんでもいい、子供の才能を最大限伸ばせるよう育てたいんだ、と伝えました」
こうした考えの根底には、彼が大学時代にプロ選手への道を断念した苦い経験や、その際に味わった〈もし幼い頃から、高い指導レベルで硬式テニスに打ち込める環境に身を置けていたら、自分はどうなっていただろう〉という後悔とも夢想ともつかない思いがある。
1993年に生まれた長女の勝麗(しょうり)は、母親がマタニティースイミングに通っていた流れで4歳から水泳教室に入り、すぐ頭角を現した。
ただ五輪選手を何人も輩出してきた全国規模のスクールだけあって、練習量が尋常ではない。年端のいかない女の子が、親が心配するほどぐったり疲れて帰ってくるのだ。これで小学校に上がったら、練習を終えてから改めて勉強するなんて絶対無理だ。土方氏はそんな不安を抱かずにはいられなかった。
1995年には、長男の神優(かみゆ)が誕生する。
■高いレベルの文武両道を目指して渡豪
土方氏には子供を世界レベルで大成させたい希望があったが、得意分野だけが突出していればいいとは考えていなかった。
「日本って、トップアスリートになりたい子はスポーツだけに没頭し、かたや超難関大学に行きたいって子は勉強だけに集中しますよね。そうじゃなくて文武両道、それも双方高いレベルで実現できたらすごいよなと。だけど日本のスポーツ環境、教育環境で叶えるのはまず不可能です。でも、もし外国に住むことで両方を伸ばせる可能性があるのなら、やってみる価値はあるんじゃないか、長女が小学校に上がるまでに英語圏の国へ移ろう、と妻とは話し合っていました」
英語圏が前提だったのは、スポーツにせよ勉学にせよ、英語を操ることができれば国際的に活躍するうえで有利に働くと考えたからだ。移住先としてまずは夫婦の馴染み深いアメリカを考えたが、永住権取得が容易ではないし、銃社会の不安もある。
「1990年代前半、神戸製鋼ラグビー部にイアン・ウィリアムスという選手がいたんですが、彼は世界的強豪であるオーストラリアの代表であると同時に、弁護士の資格も持っていました。その記憶もあって、文武両道の実現に向いている国だって気がしたんです」
幸い、移住を検討し始めてから半年後、彼らがまだ日本にいるうちにオーストラリアの永住権を取得できた。
「だったら先はどうなるかわからないけどとりあえず行ってみて、もしだめなら戻ってくればいいやと」
■子供たちを日本語環境から遠ざける
1998年、勝麗が5歳、神優が3歳の年に一家はシドニーへ移住。かつて土方氏がアメリカ遊学を決めたときと同様、勢いでオーストラリア生活を始めたかのように受け取れるが、子供の将来のための土台作りだけは入念に行った。オーストラリアの中でもシドニーを選んだのは、妻の仕事上の知り合いが住んでいて現地の情報が得やすかったからだ。その知り合いにシドニーで一番優秀だとされる公立小学校を事前に教えてもらい、子供たちが就学年齢になったら通えるよう、学校のすぐ近くに自宅を構えた。
日本ではスイミングスクール以外、子供たちを幼児教育塾や英会話教室などに通わせたりはしなかった。しかし渡豪後の我が子の英語習得に関しては、細心の注意を払ったという。
「長女がオーストラリア特有の教育制度である就学前児童クラスに入った時、同じように渡豪してきたばかりの日本人の子供が他に何人かいたんです。
■両親の覚悟の表れ
また当時シドニーに移住してきた邦人の間では、日本が恋しいだろうからと子供のために日本のテレビ番組のDVDを調達し、見せてやったりする家庭が多かった。しかし土方氏は、いつまでも日本語環境の中に身を置いていると英語習得の妨げになると考え、我が子にその手のコンテンツはいっさい見せなかった。さらには、シドニーで暮らす邦人子弟のほとんどが毎週土曜に通っていた日本人学校にも行かせていない。
それはもちろん、いつか日本の学校に戻るときのための備えなど必要ない、オーストラリアの教育環境の中で子供たちを学ばせるのだ、という両親の覚悟の表れだった。
おかげで長女も長男も、就学前児童向けの英会話習得コースはすぐに卒業。長男の神優など日本にいた頃は引っ込み思案だったのに、あけっぴろげなオーストラリア人の友達と遊ぶうち、性格まで社交的になったという。
■子供が自発的に行動するように
長男と長女はシドニーでも自分の意志で水泳を続けた。熱心なスクールだったので、日本ほどでないにせよ練習時間は長かった。小学校高学年ともなると登校前の朝練が基本で、さらに放課後も夕方遅くまでトレーニングを行うことがあった。朝は4時起きで、家に帰ってくるのは夜の7時。翌日のことを考えると、9時にはベッドに入らねば体調を崩してしまう。寝るまでの2時間でシャワーを浴びて食事をし、学校の宿題を仕上げると、時間はほとんど残っていない。けれどもその年頃の子供には、友達とのチャットなどやりたいことはいくらでもある。
「だから私は2人に諭したんです。『あなたは9時には寝なくちゃいけないんだよね? だったら9時までにやらなきゃいけないことを全部終わらせて、それでもまだ時間が残っていたら、チャットでもなんでも好きに使っていいよ』と。すると、子供たちが自分の意志で自分の時間を管理して、何ごともやるようになりました。私たち夫婦が勉強を押し付けたことは一度もありません。その意味では、まったくの放任主義です。ただ、子供が自発的に行動するよう持っていくことには気を配ってましたね」
■自分の頭で考えて自分で発言するディベート教育
義務教育のスタートとなる小学校を厳選したり、子供たちに自己管理の習慣を身につけさせることには心を砕いた土方氏だが、学校で具体的にどんな授業を受けているのかについては、およそ無頓着だった。ただひとつだけ、オーストラリアならではの美点だと感服したところがある。小学校の低学年から、各生徒が決められたテーマに対する自分の意見を皆の前で発表する授業があるのだ。そして簡単なディベートをするような時間もある。自分の頭で考えて自分で発言する機会が、学校教育の中で当たり前のように設けられているのだ。
日本と同じく、シドニーのあるニューサウスウェールズ州で小学校入学から高校卒業までに要するのは12年間。ただニューサウスウェールズは6・6制で、日本でいう中学、高校が合体した形で『ハイスクール』と呼ばれる。
長女の勝麗も長男の神優も、小学校を学年トップの成績で卒業し、勝麗は地区で一番の公立女子校に、神優もやはり地区最難関の公立男子校に進学した。
「子供が家で机にかじりついてガリ勉をしていた記憶なんてないんですけどねえ。むしろ、さほど勉強もしていないみたいなのによくできてるよな、と思っていたぐらいです。学校の授業と自宅でのわずかな時間でよほど集中していたのか、ものごとの要点をつかむ能力が高かったのか、親でもちょっとわからないんですが……」
■親が強制したことはない
二人が優秀だったのは勉学だけではない。勝麗は小学4年時、水泳全国大会の平泳ぎ部門で優勝。翌年、オーストラリア代表として出場したパンパシフィックスクールゲームズという国際大会でも金メダルを獲得した。そして神優もハイスクール時代、州代表としてオープンウォータースイミング(自然の水の中で行われる長距離水泳)の全国大会に出場した実績を持つ。
こちらも親が練習を強制したり、成績のノルマを課したりしたことはないという。彼ら自身が好きな水泳に打ち込んだ結果、“できてしまっていた”のだ。
さてこのあたりで、渡豪してからの土方氏自身を振り返ってみたい。
シドニー暮らしを始めてほどなく、自宅近くのテニスクラブでのスタッフコーチ職を得た土方氏は、やがて同じシドニー内でテニススクールを営んでいる日本人コーチと知り合うことになった。二人の交流が深まるうち、近くアデレードに住まいを移すことが決まっていたそのコーチは、土方氏にスクール経営の引き継ぎを打診する。土方氏もそれを受諾してスクールの経営権を買い取り、2000年に『マックヒジカタ・テニスアカデミー』を開業した。マックとは、土方氏の名前の誠に由来するオーストラリアでの彼の愛称だ。
■次男の凛輝誕生。非凡なテニスセンスと闘争心
翌2001年、次男の凛輝(りんき)が誕生する。
土方氏は子供たちが幼い頃、それぞれにテニスの手ほどきをしてきたが、凛輝だけには上の二人にない非凡なテニスセンスと闘争心を見て取った。文武両道の「武」の分野では自分が果たせなかった夢のまた夢であるグランドスラム制覇、それを成し遂げてくれるのはこの子だと確信した彼は、アカデミーでのレッスンの合い間に凛輝とボールを打ち合った。
とはいえ、『巨人の星』のようなスパルタ式で我が子を鍛えたわけではない。毎回、前もってその日のトレーニングの目的を説明し、凛輝に納得させてから練習を始めた。そのうえで折を見て、グランドスラムで優勝する選手を目指しているのだと本人に意識させた。
ただ土方氏が何よりも大事にしていたのは、凛輝がテニスを「楽しい」と感じる気持ちだ。仕事柄、親の強すぎる期待が重圧になり、若くして燃え尽きてしまった選手を、何人も見てきた。その轍だけは決して踏んではならないと、彼は肝に銘じていたのだ。
凛輝は幼少期からテニス一筋だったわけではない。姉や兄と同じように水泳をやったし、冬は陸上クラブにも顔を出した。オーストラリアは日本のように子供が早くから特定の種目に絞らず、同時に複数のスポーツを楽しむ土地柄なせいもあるが、アスリートとしての総合的な運動能力を身につけるため、土方氏の側からそう仕向けていたところもある。
■優れたプレーを見ただけで自分の武器にできる能力
中でも凛輝が並々ならぬ興味と才能を見せていたのが、ラグビーだ。
自らもプレーしているのに、彼はテニスの試合中継など一切見なかった。しかしラグビーの試合となると、テレビにかじりつくのだ。自宅の裏庭ではラケットを持っての素振りなど一切しないくせに、ラグビーボールを蹴り上げてキャッチする遊びは大好きだった。
まだ凛輝が小学校に上がる前、兄がプレーしている地元のラグビークラブに父と応援に行った時のことだ。凛輝の目の前にラインを割ったボールが転がってきて、「リンキー、それ戻して」と声がかかった。すると彼はボールを拾い上げ、誰にも教わっていないのに見事なスピンがかかったスクリューパスでピッチに投げ戻して、周りの大人たちを驚かせたのである。土方氏が「なんであんなことできたんだ?」と尋ねると、凛輝はこともなげに「だってテレビでああやってるじゃない」と答えたという(余談ながら、他人の優れたプレーを目で見ただけで要領を掴み、自分の武器にまでできるこの能力は、プロテニス選手になってからも大いに彼を助けている)。
小学生になって兄がプレーしていたクラブに入団するや彼はすぐチームの司令塔となり、決定的なパスを繰り出したり、自らもトライの山を築いたりした。オーストラリア人チームメイトの親からは、「将来はワラビーズ(ラグビーオーストラリア代表の愛称)入り間違いなしだね」とよく声をかけられた。
■「ラグビーかテニスか」9歳で迎えた転機
しかし凛輝が9歳の時、転機が訪れる。ラグビーの試合前に仲間とふざけ合っているうち、大柄な選手の下敷きになって左腕にひびが入ってしまったのだ。出場予定だったテニストーナメントの前日の出来事だった。
「事ここに及んで、私は凛輝に申し渡しました。『お前がラグビーの方が好きなら、そっちを選んでもかまわない。危険を伴うスポーツだが、時々今回のような負傷をしながらプレーを続けていけばいい。だがもしテニスの方を本気で続けたいのなら、試合に出られなくなるけがを負ってしまうラグビーとの両立は無理だ。どちらかに決めなさい』と」
悩んだ末、凛輝が選んだのはテニスだった。
けがが癒えた凛輝は、10歳にしてオーストラリアテニス協会が運営するナショナルアカデミー入りを果たす。通常は12歳から18歳までが対象年齢なので、今も破られていない同アカデミーの最年少加入記録である。彼の非凡ぶりは、すでに同国テニス界で知れ渡っていたのだ。
■選手が笑っているオーストラリアの練習風景
「何度かアカデミーの練習を見学しましたが、オーストラリアって日本みたいな基礎技術を固めるための反復練習っていうのはまずやりません。肉体的、精神的に強い負荷をかけるようなトレーニングも見たことがない。そもそも、全体の練習時間からしてせいぜい2時間ぐらいとかなり短いんです。ウォームアップをやってちょっと打ち合ったら、すぐ選手同士で試合形式のポイント勝負です。実戦でのぎりぎりの場面を想定したら、選手を追い込む練習もどこかで必要なはずなんですが、少なくとも私は目にしたことがない。そこが不思議です」
むしろその逆の光景なのだという。
「練習中でも選手がしょっちゅう笑ってる。笑えるというのは精神的に余裕がある状態なので、逆に吸収しやすいのかなと思ったりもするんです。だからオーストラリアからは型にはめられていない、キャラクターの立った選手が次々に出てくるのかもしれませんね。でも私は和洋折衷というか、客観的に見て凛輝に足りない技術があるなと思ったら、アカデミーのコーチにお願いしてそこを反復練習するメニューを組み込んでもらっていました」
姉兄の姿を見て育ったせいか凛輝は勉強も好成績で、小学校卒業時には兄も進んだ公立ハイスクールに入れるだけの学力を有していた。だが彼は、兄の後を追わなかった。
「オーストラリアでレベルの高い公立ハイスクールに進む生徒は、親が教育熱心なインド系や中国系の子弟がほとんどなんです。そんな画一的な顔ぶれなのを、兄の学校での集合写真でも見て気づいたんでしょう。『ガリ勉ばっかり集まるようなところはつまらない』と学費全額免除の奨学生試験に合格して、オーストラリア最古の私立ハイスクールとされるキングススクールへ進学しました」
■遅れた授業は金曜の午後に学校の図書館に籠って自習
キングススクールを選んだのは、様々な個性を持つ仲間を求めたことだけが理由ではない。合宿や大会遠征などで凛輝が授業を欠席する場合、キングススクールは課題をインターネット経由で送ってくれ、それを仕上げれば出席とみなす、と約束してくれた。そこまでのサポートは、公立校では望めなかったのだ。
凛輝はナショナルアカデミーで定期的なトレーニングを積みながらキングススクールのテニス部にも所属し、日本でいえば中学校低学年の年齢で他校の17、18歳の大男たちを翻弄していた。
「試合前は、凛輝のことを知らない相手選手やその親が完全にバカにしているんです。ところがいざ試合が始まるとボコボコ打ち込まれて、全然ポイントを取れない。『なんであんなチビに負けてるんだ……』と途中で泣きが入る選手も珍しくなかったですよ」
■金曜日の午後に一人で図書館に籠って自習
ただ部活テニスに加えてオーストラリアのトップジュニア選手としても活動するとなると、当初の想定以上に平日まで拘束され、課題提出をこなすだけでは授業に後れを取ることが時に出てきた。
「本人がそう感じた時は、他の生徒がみんな遊びに繰り出す金曜の午後、一人で学校の図書館に籠って自習していたようです」
自らを律する気持ちの強さは、もはや土方家の家風のようなものになっていたのだろう。
長女の勝麗はハイスクール卒業後、学費全額免除の奨学生として米ハーバード大に進んでいる。
「ほかにも学費免除で留学できる海外の大学にいくつか合格していましたが、母親と同じ大学で学びたいという気持ちが強かったんでしょうね」
ハーバードでは神経生物学を専攻。水泳部の選手としても活躍しながら、同学部を首席で卒業した。土方氏も列席したその卒業式でゲストスピーチを行ったのは、映画監督のスティーブン・スピルバーグだったという。
長男の神優は、初等・中等教育の大部分を日本語以外の言語で学んだ者を対象とし、すべての講義を英語で行う東大教養学部のPEAK(Programs in English at Komaba)に、これまた学費全額免除で進学。国際環境学を専攻した。
「やはり自分の生まれた国だし、日本がどんなところなのかを東大に行って確かめたかったんじゃないでしょうか」
■米国の大学テニスで腕を磨いてからプロへ
オーストラリア移住後の土方家は家族間の会話こそ日本語だったが、子供たちに漢字の読み書きは教えていない。漢字まで覚えさせたのでは負担が大きすぎ、英語習得の妨げになるからだ。
「でも神優は日本に住むうちに興味を持って覚えたみたいで、かなり難しい漢字まで使いこなせるようになりました。今、子供たち3人の中で、自分の名前を漢字で書けるのは神優だけです」
PEAKの卒業式で、神優は卒業生総代として答辞を述べた。土方氏は、長男の卒業式にもシドニーから駆け付けている。
「勝麗の時も同じでしたが、式が終わると神優のところにいろいろな友達がやってきては楽しそうに話している。そんな様子を見て、『いい大学生活を送ったんだな』とうれしくなりましたね」
次男・凛輝のジュニア年代における国際舞台の主だった戦績は、2018年全豪ジュニアでのシングルス8強と同年ウィンブルドンジュニアでのダブルス4強、2019年全米ジュニアでのシングルス16強。世界的なトッププロを目指す選手として悪くない成績だが、父子はハイスクール卒業後すぐにプロ転向するのではなく、まずはアメリカの大学テニスで腕を磨く道を選んだ。
■すぐにプロにならずに大学へ
もちろん、シニアレベルでのグランドスラム制覇という二人の最終目標が揺らいだわけではない。ただ、10代でプロ転向する選手が大多数のヨーロッパやアジアと違い、アメリカには大学経由でプロになって活躍する選手が何人もいて、海外からも実力派の留学生選手が集まってくる。当然、競技レベルが非常に高いだけでなく練習環境も充実しており、国際的に名の知れたテニスアカデミー並みの施設を有している大学がいくつもある。
「できるだけ早くプロ転向するというのもひとつの正解なんですけど、テニスだけが強くなればいいとは私も凛輝も考えていませんでした。選手生活が終わった後の人生もあるわけだから、たくさんの選択肢を持っていた方がいい。そのためには、学問や大学での人間関係が大きな助けになります。それに私自身、いろんなことをやって来た人間なので、我が子にもたくさんの経験を積んで『人生ってこんなに楽しいんだ』と実感してもらいたかったんですよ。最終的にどれを選ぶかは、本人が決めればいいことですから」
■2020~21年度の全米大学テニス最優秀選手賞に選出
ハイスクール卒業の前年、テニス部の全米ランク、選手の顔ぶれ、コーチ陣、施設などの観点からアメリカの5大学をピックアップした。そして凛輝が実際に各校を訪れ、コーチとの面談や施設の見学を行ったうえで選んだのは、ノースカロライナ大学だった。同大には、ビジネス専攻コースの学費全額免除奨学生として迎え入れられた。もちろん、凛輝のハイスクール時代の成績も認められてのことだ。同大のビジネス部門は全米でも高い評価を受けており、またアメリカの大学のスポーツ部員は、定められた水準以上の学業成績を毎年クリアしないと試合に出場できない決まりになっている。
テニス部では、1年生から主力の一角を担った。2年時にはチーム対抗戦である全米大学インドア選手権の同大優勝に貢献し、2020~21年度の全米大学テニス最優秀選手賞『オールアメリカン』に選出されている。
「あの年の凛輝は、全米大学インドアとほぼ同じ時期に開催される全豪オープンの主催者から、地元選手枠のワイルドカードで本戦出場できる可能性があることを伝えられていました。事前にテニス部のヘッドコーチへ相談すると、『どちらに出場するかは、君の判断に任せるよ』と言ってくれたそうです。テニス選手としての名誉や将来を考えれば、普通は全豪を取りますよ。だけど凛輝は全豪を蹴って、大学インドアを選びました。ほら、あいつラグビーに夢中だったでしょ? チームで戦うのが好きなんですよ」
大学インドア優勝を置き土産代わりとして、凛輝は3年生進級を待たずプロへ転向する。
そのわずか1年半後の23年全豪ダブルスで、凛輝は父子の悲願だったグランドスラム制覇を実現させてしまったのだ。
■息子の全豪優勝後、燃え尽き症候群に
「実は凛輝の全豪優勝後しばらくの間、燃え尽き症候群みたいになっちゃいましてね……。3人の子供たちはそれぞれの形で文武両道を貫き、凛輝にいたってはグランドスラム大会ウィナーにまでなってしまった。シドニーへ一家で移住した時に思い描いていたことはとりえず全部達成した、親としてはやり切ったのかなと……」
もっとも今回のウィンブルドン準優勝までの道程については、いたって冷静に見守っていたという。
「いつもの感じで観戦していましたね。試合中凛輝が常に笑顔を浮かべていたのは、ダブルスではまず楽しむことを大事にしているあいつらしいなと思いました。ダブルス専業でもない選手が大舞台で緊張もせず思いきって立ち向かってくるのは、対戦している相手にしてもいやな感じだったんじゃないでしょうか。でもダブルスの時はよかったものの、サーブはやっぱり早急に改善したいですね。今年のウィンブルドンのシングルスではサービスゲームの弱さを突かれて、2回戦どまりでしたから。世界ランク50位以内に常に入っている選手になるには、この1、2年が勝負だと考えています」
父としての感慨というより、すっかり幼少期からのコーチの視点に戻っての分析なのである。息子の偉業も二度目となると、客観的に受け止められるようになるらしい。
■センターコートの家族席で準優勝を見届けたのは姉と兄
アカデミーの仕事があるため、土方氏は今回のウィンブルドンもいつも通り、シドニーの自宅でテレビ観戦していた。凛輝のダブルス準優勝の瞬間をセンターコートのファミリーボックスから見届けたのは、姉の勝麗と兄の神優である。仕事のスケジュールを調整して、急遽イギリスまで駆け付けたのだ。
そろって学費免除だったとはいえ、この3人の子供たちを海外の大学に行かせるには生活費の仕送りだけでも相当な負担だっただろうが、それを賄ったのは土方氏の学生時代の稼ぎではない。日本での蓄えは、オーストラリア移住やテニスアカデミーの立ち上げ・維持のために費やした。子供たちを大学にまで行かせた原資は純粋に、彼が異国の地でテニス指導者、アカデミー経営者として稼いだ金だ。
「そこは、私の腕一本で家族を養ってきたという自負があります」
ただひとつ、心残りがある。
「日本のお父さんたちがよくこぼすセリフと同じで、もう少し子供と接する時間を取れていたらというのはありますね。特に上の二人に関しては。平日はアカデミーでの指導で夜遅くまで家に帰れなかったし、週末になると勝麗と神優は妻に連れられて水泳の大会に行き、私は凛輝とテニスの試合に出かけていました。なかなか長く一緒に過ごせないうち、あっという間に大学生になって海外へ出て、大人になってしまいましたから」
■類を見ない文武両道の基盤になっているもの
長女・勝麗は大学卒業後にデジタルメディアのプラットフォームを提供する会社を起業、その事業内容が評価されて米版Forbesの2022年5月号で『30歳以下の30人』に選出された。現在はデジタル決済プラットフォームを運営するインドネシアのスタートアップ企業Xenditの要職にあり、世界中を飛び回っている。
長男・神優は、企業のデータ形成やデータ利用を支援するアメリカのIT企業Quantiumでデータアナリストを担当し、やはり世界各地が仕事場になっている。
プロテニス選手の次男・凛輝は言わずもがな、各大陸を股にかけて転戦する毎日だ。昨年のシングルス最終世界ランキングは73位。100位以内に9人いたオーストラリア人選手の中で、23歳の凛輝は最年少だった。今季は課題であるサーブの向上に取り組んでおり、主戦場のシングルスで飛躍すべく精進を続けている。
ちなみに母校ノースカロライナ大には、現役を終えてからいつでも戻れるようになっているという。
■我が子を信じた絶妙な距離感の放任主義
土方氏の言葉からおわかりの通り、彼ら夫婦の子育てに独自の体系化されたメソッドや精細な決まり事、あるいは親から子への四六時中の濃密な働きかけなどがあったわけではない。あったのは大胆な野心と、少しばかりの環境作りと、我が子を信じた絶妙な距離感の放任主義だ。
また、子供たちが持っていた能力の開花にオーストラリアのお国柄や教育環境が手助けとなった部分は少なからずあるが、オーストラリアの学校にさえ通わせれば、誰でも勝麗、神優、凛輝のようになれるわけではない。
3人の類を見ない文武両道の基盤になっているのはあくまでも、彼らの内にある主体性と克己心なのである。
その主体性と克己心がいかなるアスリートを生み出したのか確かめたい方は、8月開幕の全米オープンや9月のジャパンオープンでの、リンキー・ヒジカタの戦いぶりを追ってみてはいかがだろうか。
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河崎 三行(かわさき・さんぎょう)
ライター
高松市生まれ。フリーランスライターとして一般誌、ノンフィクション誌、経済誌、スポーツ誌、自動車誌などで執筆。『チュックダン!』(双葉社)で、第13回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。このほか、著書に『蹴る女 なでしこジャパンのリアル』(講談社)がある。
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(ライター 河崎 三行)