※本稿は、米田憲司『日航123便事故 40年目の真実 御巣鷹の謎を追う 最終章』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■思い通りに操縦できず、激しく揺れる機体
123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、油圧系統の配管が裁断されて徐々に思うように操縦できなくなっていった。乗員は原因についていろいろ考えているはずだが、音声記録にはなぜかそういう会話はない。
焼津市を通過したあたりから次第にダッチロール(左右の揺れ)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた。機長は「バンク(傾き)をそんなにとるな」と注意するが、すでにパイロットの思い通りの操縦はできなくなっていたと推察される。ダッチロールによる横揺れで、風きり音が笛のように不気味に聞こえてくる。
フゴイド(機首の上下運動)が加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返す。上昇、降下、旋回もできず、東京航空交通管制部(埼玉・所沢市)に要求した大島経由で羽田空港への帰還はできない状態になっていく。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行していく。
■乗客は「パパは本当に残念だ」と書き残す
操縦室音声記録には録音されていないが、この時点の18時30分頃に客室では大阪・箕面市の谷口正勝さんが「まち子、子供よろしく」と機内に備えてある紙袋に遺書を書いている。
横浜市の吉村一男さんは会社の書類に「残された二人の子供をよろしく」と書いている。
神奈川・藤沢市の河口博次さんも「マリコ、津慶、知代子、どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい。パパは本当に残念だ。きっと助かるまい……ママこんなことになるとは残念だ。さようなら……」と手帳に書いている。
操縦室では、機体左右のエンジンの推力調整の操作にも次第に慣れ、機体も安定していく。この頃、乗員の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりもあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を続けていく。酸素マスクをつけていないと思える理由は、乗員の声がくぐもった声になっていないからだ。
■機長「山にぶつかるぞ」「ライトターン」
機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては車輪(ギア)を下ろすことで安定させようと試みるが、油圧がないために下ろしてしまうと、引き上げはできない。下ろすと空気抵抗が強くなり、速度も遅くなって失速につながる恐れがある。
失速を防ぐためにはエンジン推力を増加させる必要が出てくる。だが推力を上げるとエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月付近では大きな旋回をすることになっていく。丸い旋回というより崩れた三角形のような旋回になっていた模様である。
本来、この時の操縦室の会話は頻繁にあるはずだが、余りなく、後にフライトレコーダーとボイスレコーダーとの一致がないことにも不自然さが残った。
7000フィート(約2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけなければならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ケ岳(2475m)が聳(そび)えている。機長は「山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」で副操縦士は最大限の推力をあげて乗り切っていく。同時に操縦室から東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。
羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、操縦室は操縦操作に追いまくられて、自身の位置が分からなくなっていた。羽田空港管制部は「熊谷(埼玉県)のウエスト(西)、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村(当時)を飛行していた。
■警告音が流れ、衝撃音で録音は終了
123便の最期が近づいていた。このあと、埼玉、群馬、長野県の境にある三国山の南側を通過して長野県・川上村の五郎山から南相木村を低空で飛行、群馬県の上野村・楢原の上空を半円を描いて飛行していく。川上村の梓山地区や上野村の楢原地区の住民が「飛び方が変だ」と思いながらゆっくり旋回していく機体を目撃している。
123便は飛行速度265ノット(時速460km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の樹木に翼端や水平尾翼が接触し、水平尾翼を脱落させ、向かい側の無名の尾根に激突した。
ボイスレコーダーを聞いていると、いくつかのアラームが鳴り続き、機首を上げる操縦を指示する「PULL UP」「PULL UP」と警告音が流れる。直後に衝撃音が聞こえて、ボイスレコーダーは終わっている。123便には32分16秒間の録音時間があったが、31分53秒間の録音として記録されている。聞いていて辛くなる。
■トラブル発生時、機長「なんか爆発したぞ」
ボイスレコーダーは前著『御巣鷹の謎を追う』(宝島社)にDVDで添付してあるが、航空専門家でないと理解しがたい。音声記録の一覧表を見ながら聞くと、公表記録と実際の音声が違っている箇所に気づく。しかし、事故調査委員会も3回修正している。
1回目(①)は中間報告として事故から15日たった8月27日に、2回目(②)は事故から7カ月後の1986年3月28日、3回目(③)は87年6月19日となる。
本書では事故調査報告書の巻末に記載してある3回目を使用している(本書3章末に、事故調3回目の音声記録表全文と、私や運航乗員たちの聞き取りの結果を対比した表を掲載している)。
たとえば、事故調分析の事故発生当時の音声は、
18時24分39秒
①「なんか分かったの」
②「なんか……」
③「なんか爆発したぞ」
となる。
26分41秒
①「なんだよこれ」
②「なんでこいつなるんだよ」
③「なんでこいつ……」
となっている。
■航空専門家の聞き取りと一致せず
しかし、航空関係者の聞き取りでは、
24分39秒の「なんか爆発したぞ」は「なんか分かったの」となり、26分41秒は「なんでこいつ……」が「何度のパスに乗るんだ」となる。
ボイスレコーダーの重要な箇所は事故発生からの30秒間ほどである。
音声の分析で一番聞き取りにくかった箇所は、24分48秒と55秒の航空機関士(F/E)による「オレンギア」と聞こえる箇所で、事故調は「オールエンジン」としているが、航空関係者との解析では、当初は「ボディギア」or「オールギア」「オールエンジンクリア」となった。
航空専門家の音声の聞き取りと事故調のそれとはかなり違う。事故調には操縦を専門とする航空乗員経験者は入っていない。米国のNTSB(米国家運輸安全委員会)にはパイロットOBが委員に入っている。
あとは後部圧力隔壁破壊に伴う酸素マスク部分、当初、事故原因と見られた後部右側の「アールファイブ(R5)ドア」に関する音声記録などがある。ボイスレコーダーのやりとりは事故原因との関係もあり、文章記述だけでは限界がある。
■なぜ操縦不能の原因を話題にしないのか
事故調は123便のボイスレコーダーの音声分析を航空自衛隊航空医学実験隊第一部視覚聴覚研究室長の藤原治氏と同研究室の宇津木成介氏に、音響分析を早稲田大学工学研究所音響工学研究室の山崎芳男氏に託している。しかし、機長や副操縦士、航空機関士の会話から乗員の操縦対応で何がいえるのかを分析していない。
たとえば、「ドォーン」のあとに副操縦士が計器盤の警報ライト点灯で「ギアドア」と述べ、ついで機長が「ギアみてギア」と述べていることに関し、機長がギア(車輪)まわりに異常があったのかとギアの点検をしている事実、それがなぜなのかなどには、事故調査報告書にはまったく記述されていない。
緊急通信である「スコーク77」を、事態の把握も十分にしていない段階で、なぜ急いで発信したのかの分析もない。
■まだまだある乗員たちの会話への疑問
航空機関士は客室乗務員からのインターホーンで連絡を受け、機体の損傷箇所についての確認をしていると思われる。それで機体後部の荷物の収納部分のパネルが剝(は)がれていることを確認し、機長と副操縦士に伝えている。
35分34秒から47秒の段階では、航空機関士は業務用の会社無線(カンパニー)で機体の状況を説明している。航空機関士の「アールファイブ(R5)のドアブロークン」の情報をいつ、誰から得たのかはボイスレコーダーの会話では分析されていない。
航空機関士の前の計器盤でR5のドアがおかしいと気づいたのではという航空関係者の指摘もあるが、ドアが壊れていたとすれば緊急に対処する必要がある。しかし機長や副操縦士に連絡していないから疑問は残る。多くの運航乗員は「アールファイブのドアブロークン」と省略して報告することはあり得ないと答えている。
「アールファイブ(R5)のマスク」という言い方にも疑問の声が出ている。「アールファイブのマスク」といえば、アールファイブのドアの客室乗務員席の頭上にある客室乗務員用のマスクとなる。
■事故調の音声記録は明らかに分析不足
33分23秒の「アールファイブのはまだですか」(F/E)というのも、事故調の最初の判読では、「アールファイブの窓ですか」になっていた。
ところが、アールファイブのドアも窓も墜落現場の尾根で異常がないまま見つかったので、「窓」ではなく「前」か「真上(まうえ)」とも受け取れる。「真上」はつまり天井部分を指している。生存者の「天井部分が壊れていた」という証言とも合致する。
航空乗員らの調査では、アール5付近の客室乗務員が客席の酸素マスクを伝いながら移動しているという生存者の落合由美さんの証言があり、福田航空機関士の「アール5はまだですか」の意味は「酸素マスクの吸入具合がまだよくならないか」と客室乗務員に聞いているのであり、機体の歪みがアール5付近にまで影響をしている可能性は考えられる。
このあと、航空機関士が「キャプテン、アールファイブのマスクがストップですから……エマージェンシーディセント(緊急降下)やった方がいいと思いますね」と提案している。「アールファイブのはまだですか」と「アールファイブのマスクがストップですから」は、会話としてつながらないので、判読が片方か、あるいは双方とも間違っている可能性がある。
それに、酸素マスク一つが機能しないからといって、緊急降下の必要があるのか、という疑問もある。本来、事故調はこれらの会話から、どういう想定が考えられるのかを航空関係者らから聞きとって分析しなければならない。事故調査とはそういうものだろう。
■事故原因=急減圧説に合わせるためのズレ
操縦室音声記録を入手して、事故調査報告書と巻末の操縦室音声記録を照らし合わせながら何回も聞いていると、会話の正確な判読とともに、事故調査報告書に記述してある箇所の部分とは違うところに気がついた。
報告書の本文(115ページ)では「18時26分30秒以降数回にわたり酸素マスク着用についての声が記録されている」としているが、巻末の操縦室音声記録では酸素マスク部分は18時33分35秒にある。
急減圧発生との「整合性」をとるために、本文を7分05秒繰り上げていることに気がついた。本文と巻末の記録者が違っているため整合性がないというのは通らず、酸素マスク部分を急減圧説に合わせるために捏造していることになる。
■事故調査そのものへの疑惑がふくらむ
事故調査報告書そのものが信用できない証拠になってしまった。事故調は極秘のボイスレコーダーが将来、外部に流れてしまうことまで考えてはいなかったのだろう。
良心的な事故調査関係者や運輸省(当時)の役人の中には、矛盾と問題点が多い123便事故調査報告書をそのまま国民に知らせることへの抵抗を感じた人がいて、内部告発としてのボイスレコーダー流出になっていったのだろう。
極秘のボイスレコーダーの入手により、操縦室の操縦状況だけではなく、操縦室音声記録も含めて事故調査そのものへの疑惑にまでふくらむことになったのである。
ボイスレコーダーの記録は3回にわたって新聞等で報道されているが、事故調の事故調査報告書による記録文書では、操縦まで理解している者は少ない。それは生(なま)の音声によるボイスレコーダーを聞かずに、記録文書だけで判断することはできないからである。
■乗員たちへの批判が賛辞に変わっていった
事故原因に関する貴重なボイスレコーダーを入手した各テレビ局は、乗員の生々しい肉声を伝えるとともに、操縦士が最後までがんばったという「美談」として放映し、ここで指摘している事故調査報告書への疑問や矛盾点までは報じなかった。
ただ、肉声の放送は文書記録とは違い、かなりの人たちに大きなインパクトを与えた。一周忌の追悼式で、遺族関係者の一部からの、運航乗員の遺族に対する「人殺し」「おめおめと生きているな」といった暴言の批判が少なくなり、「最後までがんばって操縦に専念していた」との賛辞になっていった。
手のひらを返すような世相ではあるが、これで、まともに外にも出かけられなかった乗員の遺族が、やっと外に出かけられる普通の生活を取り戻したことは、付け加えておきたい。自身の責任ではない乗員の遺族が、まともな生き方をしていくきっかけになったといえる。
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米田 憲司(よねだ・けんじ)
ジャーナリスト
1944年、大阪市生まれ。航空、軍事、司法、環境問題などの分野で活躍。本書のほかに『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』(宝島社)、『この飛行機が安全だ!』(共著、宝島社)、『切り拓いた勝利への道 石播人権回復闘争の真実』『天職を貫いて 見て、聞いて、考える新聞記者の世界』(ともに本の泉社)などの著書がある。
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(ジャーナリスト 米田 憲司)