なぜ日本はアメリカと戦い、敗北したのか。日本海軍史研究者で大和ミュージアム館長の戸高一成さんは「連合艦隊司令長官の山本五十六は『アメリカと戦争したら負ける』と考えていたが、とある理由で真珠湾攻撃を強行に押し進めてしまった」という――。

※本稿は、戸高一成『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■アメリカは明治末期から“仮想敵”だった
そもそも日本が「アメリカとの戦争」を考えたのは、日露戦争後の明治40年(1907)に策定された「帝国国防方針」からである。このときに日本はアメリカを「仮想敵」とした。そして、アメリカと戦うとすれば、その中心となるのは海軍であった。
ただし、誤解してはならないのは、「アメリカ=敵」ではなく、あくまで「仮想」敵ということだ。仮想敵国を設定することで、それに対する防衛力を検討し、国防の方針を立てる。そして、予算を組む際の基準にする。極端なことをいうと、予算獲得のために仮想敵が必要になるのであり、そのために仮想敵を置いただけ、といっても過言ではない。
したがって、当初の海軍の対米意識は、アメリカ海軍を「必ず戦う相手」としていたわけではなかった。しかし、仮想敵としている以上、海軍兵学校では「いずれ日本はアメリカと戦う」という前提で教育がなされ、それが大正時代の中頃には、「お前たちは太平洋でアメリカと戦う」というストレートなものになった。
そのため、海軍兵学校50期(大正11年・1922年卒)前後の人たちは皆、「俺たちはいずれ太平洋でアメリカと戦う」と思いこんでいたという。これは「仮想敵という設定が、日米衝突の根源に変質してしまった」と言えなくもないが、海軍内で「本当にアメリカとぶつかるかもしれない」と考えられるようになったのは、昭和15年(1940)に締結された日独伊三国同盟の前後からである。

■徐々に「対米衝突は不可避」という意識が高まる
それまで「日米衝突」は「いつか」起こるものであり、今日明日の差し迫った問題ではなかった。
ところが、三国同盟成立の前後から「ドイツと同盟を組んで枢軸側に加われば、イギリス、アメリカとの衝突は必至だ」と認識されるようになり、「対米衝突は不可避である」という意識が強くなっていく。
この段階で、軍令部と海軍省の横断的な組織である海軍国防政策委員会・第一委員会がつくられた。そこを中心に、対米戦の準備が進められていく。軍は「抑止力機能」としての組織だから、大勢としては戦争回避こそが任務である。したがって、基本的に「戦争はするべきでない」が常識であり、本当に「対米戦争をしなければならない」と思って動いたのは第一委員会などの一部の人間で、海軍の中ではそれほど多くはなかった。
それでも、「アメリカとの衝突はやむを得ない」として、事実上、対米戦争の準備を始め、昭和15年の暮れに海軍は、「出師(すいし)準備」の作業に着手した。陸軍で出師準備にあたるのは「動員」と呼ばれ、兵隊を定員まで増やす。戦争が起こらなければ兵隊を帰せばいい。
しかし海軍は陸軍と違い、軍艦に手を加えなければならない。たとえば、戦艦や巡洋艦のバルジ(船体外側のふくらみ)の中に、水密パイプをぎっちり詰めて不沈対策をする。ただし、パイプを詰めたところは人間が入れず、メンテナンスができない。
その部分は傷み放題になり、通常は10年もつ軍艦が5、6年で駄目になる可能性がある。
元に戻すのも大工事であり、海軍の出師準備は一度始めたら、引っ込みのつかない作業なのである。
■「勝ちパターン」の再現を狙っていた
このときの軍令部作戦課長だった富岡定俊が、「出師準備は戦争を決意しなければ発動できない」と戦後語っているが、出師準備に着手したことは、海軍が戦争を決意したと考えてもいいだろう。
少なくともその時点で、海軍が「対米戦が、ここ1、2年のうちに起こるのは避けがたい」と認識していたことは確かである。
昭和15年の暮れから翌年の正月にかけて、海軍の国防と用兵を担う軍令部は、対米戦の準備を進めた。ではアメリカを相手に、どのように戦おうとしていたのか。
基本は、明治時代の帝国国防方針の延長線上にある。日本はまず、南方資源を確保する。そのときは当然ながら、アメリカの植民地フィリピンを押さえる。これに対して、アメリカはフィリピンを奪還した上で北上し、日本本土に向かう。これを日本はマリアナ諸島、ないしは小笠原諸島のラインで邀撃(=迎撃)し決戦をする……。
要するに、日本海軍にとって輝かしい歴史である、日露戦争における日本海海戦の再現を狙っていたのだ。

■アメリカの本土占領を考えた人はいなかった
その際、艦隊決戦が行なわれるまでの間に、少しずつアメリカ艦隊の戦力を減らし、連合艦隊との戦力比を有利にするという、漸減作戦にも重きが置かれた。
その戦備として、潜水艦や飛行機が加えられるなど、多少、帝国国防方針は改訂されてはいるが、目の前に来た敵と戦って撃退するという、明治時代につくられた基本構想に大きな変化はない。
軍艦の要求性能もそれに基づいているので、日本の艦隊は遠くまで航海することを想定していなかった。そのため、「大和」「武蔵」の建造を盛り込んだ③(マルサン)計画を見ると、艦隊に随伴するタンカーの建造計画さえないのだ。
タンカーがなければ、遠洋作戦に出動した軍艦は、燃料切れで動けなくなる。だから、「真珠湾攻撃はできない」といわれた(実際には、不足分を民間のタンカーで補った)。日本海海戦の再現を前提に作戦構想を立てていた海軍は、戦争の結末も日露戦争のように、講和条約を落としどころとして想定した。
したがって、アメリカの本土占領を考えたり、ワシントンDCまで進撃しようと考えた人間は、当然ながらいなかった。たとえアメリカが日本の何倍もの戦力をもっていても、少なくとも太平洋艦隊、大西洋艦隊に分かれていて、対日戦争に使える艦隊の数は限られている。
それと互角に戦える艦隊を日本はもっているから、主力艦隊決戦で打撃を与え、アメリカが継戦意志を失えば講和する。それができれば勝利である……。これが、海軍の対米戦争における考え方だった。

■軍令部は真珠湾攻撃に大反対していた
昭和16年(1941)の南部仏印進駐は、東南アジアに権益をもつ、アメリカ、イギリス、オランダを刺激することに繋がった。
海軍はそれを予期し、「アメリカと衝突する引き鉄を引くのと同様だ」と反対したが、英米を刺激することにはならないと陸軍がいうので、しぶしぶ協力した形跡がある。南部仏印進駐から日米開戦までの間に、海軍省は、日米交渉で衝突を回避することを原則として動いていた。
海軍出身の野村吉三郎がアメリカに行って交渉し、緊張緩和を狙ったのはその一環である。一方で軍令部は、戦争準備を進めていた。ここに二重構造がある。日米交渉が妥結し、石油や鉄の輸入が認められて一息つけば、それはそれでいい。仮に交渉がうまくいかなくても、その間に戦争準備を整えられるので、時間稼ぎになる。
軍令部作戦課長の富岡定俊が「戦争はできないのか」と問われて、「昭和17年3月まではできない」と答えている。言い換えれば、「昭和17年3月になればできる」ということである。
もっとも日米開戦は、富岡の想定より3カ月も早まった。周知のように、昭和16年12月8日、日本の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、戦争の火蓋が切られる。
この真珠湾攻撃作戦に対して、軍令部は危険すぎると大反対した。前述したように遠洋作戦を行なう艦隊ではないのだから、それは当然のことだった。
■山本五十六の“最後の抵抗”
ところが連合艦隊司令長官の山本五十六は、頑としてこの作戦を主張し、最後は「山本にそれだけの自信があるのなら任せよう」と、永野修身軍令部総長が認めた話は有名である。
無謀ともいえる真珠湾攻撃に、なぜ山本はそれほどまでにこだわったのか。私は一つの「うがった見方」を考えたことがある。
米内光政、井上成美とともに、「枢軸に入ったら、英米と対立する」という常識的な判断に基づいて、三国同盟に反対した山本は、「アメリカと戦争したら負ける」と考えていた。
だから、本心では戦争をやりたくない。しかし、連合艦隊司令長官になった時点で、命じられたらやらざるを得ない立場に置かれた。連合艦隊司令長官に、戦争をやる、やらないを決定する権限はないのである。では、「やれ」と言われたらどうするか。
当然、やるしかないのだが、山本はそのときが来るまで、可能な限り「抵抗」したようにも見受けられる。
たとえば開戦前に、「零戦千機、中攻(陸上攻撃機)千機がなければアメリカと戦えない」と言っている。
当時、それだけの数の飛行機を集めることはできないし、だいたいパイロットがいない。千機の零戦を揃えたところで、すべてが戦力になるとは限らないのだ。
こんな常識外れの要求をしたのは、「できない」と言われたら、「それなら戦争はできません」と言うつもりだったのではないだろうか。
そして、その最後の抵抗が、遠洋作戦を想定していない艦隊による「真珠湾攻撃」であり、却下されたら、「それなら戦争はできません」と応じようとしたとも考えられるのである。
■日米開戦について海軍は判断を示さなかった
本当なら「現在の軍備では戦争ができない」と、はっきり言えばいいのだが、軍人として「やれと言われたら、やらなければならない立場」にあるから、それはできない。
そこで、常識的にはあり得ないことを要求したり、無理なことを発言したりして、戦争を回避しようとした。これが私の「うがった見方」である。とすると、土壇場になって「山本に任せよう」という永野の決定を聞き、驚いたのは山本本人かもしれない、などと思ったりもする。
海軍の姿勢は「政治に関わらず」であり、政治の決定には黙って従うのが基本である。その中で、開戦の決定に関わるのは、内閣の一員である海軍大臣ただ一人だ。開戦検討時の海軍大臣・及川古志郎は、近衛文麿首相に一任し、海軍としての判断を示さなかった。
このことについて、戦後に海軍関係者が集った「海軍反省会」で激論になった。「海軍大臣として、今の状況では戦争ができませんと言うべきなのに、大臣の任務を放棄した」という意見と、「シビリアンコントロールで、文官の長である首相に判断を任せたのは正しい」という意見との間で大いにもめたのだが、やる、やらないの判断以前に、海軍としての現状を丁寧に説明すべきだったと、私は思う。
■「できません」が言えなかったのが海軍の弱点
日露戦争で連合艦隊の参謀を務めた秋山真之は、「戦争は、勝った戦いを戦うのだ」といった。どういうことかというと、戦争前に外交的、財政的、軍事的な条件を整え、完全に勝った態勢で戦争を始めるということである。
つまり戦争前に、相手が「恐れ入りました」と、妥協してくるような外交交渉をする。それでも妥協しない場合に、万全の態勢を発動するのが戦争だと、秋山は教えているのである。
太平洋戦争は、外交で負け、財政で負け、戦備で負け、と、すべてに負けた挙げ句に、戦争を発動した。秋山の言とは逆に、「負けた戦いを戦った」といっていい。どんなに艦隊が優秀で、兵士が勇敢でも、既に負けた戦いに勝つことはできない。
日米戦争は、主として海軍の戦いである。開戦の決定は「お任せします」で済ませられない問題だった。しかし、弱腰の発言をしにくい空気を乗り越えて、「できません」と言えなかったのが海軍の弱点であり、極端にいえば敗戦の原因でもあるだろう。海軍は開戦を受け入れた瞬間に、負けたといってもいい。
日本海軍は日本の名刀であった。しかし、「名刀は、抜かれざることを以て名刀である」ことも知らなければならない。この視点を失っていたのが昭和の海軍だったのではないだろうか。

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戸高 一成(とだか・かずしげ)

日本海軍史研究者

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学美術学部卒業。「戸高」の「高」は、正式には「はしごだか」。財団法人史料調査会の司書として、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年に同会理事。99年より厚生省(現・厚生労働省)所管「昭和館」図書情報部長。2005年より現職。19年、『「証言録」海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績により第67回菊池寛賞を受賞。著書に『日本海軍戦史』(角川新書)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)、編書に『特攻知られざる内幕』(PHP新書)など多数がある。

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(日本海軍史研究者 戸高 一成)
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