アジアの中で、戦時中の日本に対して厳しい評価をしている国はどこか。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「中国や韓国、北朝鮮だけではない。
東南アジアの中には、歴史教育や記念施設において、日本の占領時代を暗黒の時代として描く国がある」という――。(2回目)
※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■東南アジア諸国の日本に対する意外な評価
大東亜戦争で掲げられたアジア主義的な理想は、いま、対象となった「大東亜」地域でどのように受け止められているのだろうか。
一般に、中国や韓国、北朝鮮は日本に厳しい評価を下しているとされるいっぽうで、東南アジア諸国は比較的穏やかな態度を示すことが多いといわれる。では、東条英機の“大東亜外交”について、現地ではどのような評価がなされているのだろうか。
文献を読むだけでは見えてこないことも多い。そこで、わたしは東条が外遊で訪問したすべての地をみずから巡ってみることにした。
すなわち、南京、上海、新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)、マニラ、サイゴン(現・ホーチミン)、バンコク、シンガポール、パレンバン、ジャカルタ、クチン、ラブアンである。現在の国名でいえば、中国、フィリピン、ベトナム、タイ、シンガポール、インドネシア、マレーシアにあたる。また、当時は日本領だったが、現在は外国になっている京城(現・ソウル)、台北、高雄にも足を運んだ。
■東條英機の外遊先の「今」
まったく同じルートをたどったわけではないものの、現在の交通手段でもかなりの時間と労力を要した。当時の厳しい戦局のなかで、よくもこれほど頻繁に外遊を行ったものだとあらためて感心せざるをえなかった。

結論からいえば、東条の訪問について明確な言及が確認できたのは、シンガポール、ラブアン、長春の3カ所にすぎなかった。タイにも関連する記述はあったものの、バンコクではなくアユタヤに所在しており、外遊先とは直接の関係はなかった。
とはいえ、これだけの場所を巡ったことで、別の発見があった。それは、各国が歴史博物館や記念碑の説明などを通じて、それぞれの「国民の物語」を現在進行形で構築・明示しているということである。
他国の「われわれ」がどのようにあの戦争を捉えているのか。そのアクチュアルな現場を読み解くことは、われわれ自身が同じ時期の歴史をどのように物語るのかを考えるうえで、大きな手がかりとなるはずだ。
■日本にたいしてもっとも厳しい展示を行っていた国
今回訪問した東南アジア諸国のなかで、日本にたいしてもっとも厳しい展示を行っていたのは、マレー半島先端の都市国家シンガポールだった。
その代表例が、南西部ジュロン地区に位置するシンガポール・ディスカバリー・センターの展示である。中心部から離れた同センターは、1996年にオープンした体験型の教育施設であり、シンガポール国防省によって運営されている。最新技術が駆使され、ゲームや映像体験などを通じて国防の重要性が魅力的に訴えられているのが特徴だ。
常設展示では、植民地時代から現代にいたるまでの歴史がわかりやすく紹介されている。最初の展示エリアでは、巨大なスクリーンにユニオン・ジャック(英国国旗)が堂々と映し出され、明るい音楽とともに、シンガポールの植民地化を主導した英国人トーマス・スタンフォード・ラッフルズの存在が強調される。

ここでは、英国の統治によって小さな島が国際貿易港へと発展したという肯定的な視点が前面に出され、植民地支配への批判的な視点はほとんど見受けられない。
■「断末魔の喘ぎ!」
ところが、つぎの展示エリアに進むと、雰囲気は一変する。空襲警報のサイレンが鳴り響き、照明が薄暗く落とされる。「断末魔の喘(あえ)ぎ!」。そんな日本語とともに目の前に広がるのは、日本占領時代の展示だ。
暗闇に包まれた部屋のなかでは、小さなモニターに後ろ手に縛られた男性の姿が映し出される。かれの荒い息遣いが響き、緊張感が高まる。そこに、日本兵の姿をした人物が軍刀を手にして近づき、ゆっくりとそれを振り上げる。そして、刃が振り下ろされるやいなや画面は暗転し、血しぶきのような赤い模様がパッと浮かび上がる──。
これまでの映像は白黒だったのに、この場面のみが色付きで表現され、観るものの記憶に強烈な印象を残さないではおかない。
さきほどのラッフルズの映像とはあまりにも対照的ではないか。さらに、日本軍の大きな軍靴が通路に突き出して、訪問者を踏みつけるように設置されている場所もあり、日本占領期への否定的な視点が強く打ち出されている。

■東条英機の横に立っていた人物
シンガポールは、東京23区よりやや大きい程度の面積ながら、歴史の展示が各地に点在している。だが、以上のような日英の対比的な評価は、ほぼすべてに共通して見られる。
北西部ブキティマ地区にある旧フォード工場もそのひとつだった。その名のとおり、ここはかつてフォードの自動車組立工場であり、1942年2月、日本軍が英軍の降伏を受け入れた場所として知られる。
第二五軍司令官の山下奉文が、全面降伏を渋る英軍司令官パーシバルに、「イエスか、ノーか!」と迫ったとされる有名なエピソードは、まさにここで起こったものだ。
旧工場は、2006年、国家の記念物に指定され、現在は日本占領期の歴史を展示する施設として一般公開されている。
そして、東条がシンガポールを訪問したときの写真が大きく掲げられているのもこの場所だった。日本語で「東条総理南方視察の二週間」と書かれ、東条の隣には、スバス・チャンドラ・ボースの姿が写っている。
これは1943年7月6日、シンガポール市庁舎まえでインド国民軍を閲兵した場面を捉えたものであり、日本のグラフ誌『写真週報』第281号に掲載されたものである。
■散々だった日本統治時代
ボースはインド独立運動の英雄であり、英印軍の捕虜を中心に編制されたインド国民軍の司令官を務めた人物。かれは、かつてはガンジーやネルーの陰に隠れ、あまり注目されてこなかったが、近年、インドのモディ政権のもとで再評価が進んでおり、2022年にはニューデリーの中心部に大きな立像も建設された。
そんなボースと東条が、観光名所として現存する市庁舎のまえで並んで閲兵している写真は、なるほどシンガポールにおける日本占領時代を象徴する歴史的なシーンのひとつなのだろう。

ただし、周囲の歴史解説はやはり日本にたいして厳しい視点を貫いている。
シンガポールが日本によって「昭南島」と改称されたこと。大東亜共栄圏の一部とされたにもかかわらず、住民の大部分はそれ以前より厳しく不安定な生活を強いられたこと。とくに1943年以降は戦局の悪化によって、生活必需品まで不足したこと。こうした事実が細やかに説明されており、戦時下の苦難を強調する内容となっている。
■国の基盤がつくられたイギリス植民地時代
英国の支配期間のほうがはるかに長かったにもかかわらず、日本の占領時代がより厳しく記憶されているのは、シンガポール特有の歴史的な背景が関係している。
シンガポールは、1819年、英国東インド会社の領土となった。シンガポール・ディスカバリー・センターの展示では触れられていなかったが、ラッフルズは、ジョホール王国のスルタンの王位継承争いをたくみに利用し、同島を英国の支配下におくことを認めさせた。
その後、1824年には正式な英国の植民地となり、それまでわずか150人ほどが暮らしていたこの小さな島は、急速に発展を遂げ、多民族が共存する国際貿易都市へと変貌した。
この発展のなかで、華人、マレー人、インド人、そしてユーラシア人(英国人などの白人。混血を含む)が移り住み、多民族社会の基盤が築かれた。
そのため、植民地支配によって固有の文化や歴史が奪われたという意識は希薄であり、むしろ英国の統治のおかげで自分たちの祖先がここにやってきたという考えが根付いた。
その意味でラッフルズはまさに建国の父であり、現在でも市内各地にはその銅像が建ち、その名を冠した場所が多く残されている。
■初代首相が危うく命を落としかけた
これにくらべて、日本の占領期間は1942年から1945年までの約3年間と非常に短期間だったものの、シンガポールの社会にほとんど恩恵をもたらさなかった。
たしかに日本は、従来シンガポール社会で上位を占めていた英国人と華人を抑え、マレー人やインド人を優遇する政策をとった。しかし、これはあくまで一部の層を優遇したにすぎず、社会の不安定化を招いただけだった。
さらに、シンガポールで最大の人口(全人口の約7割)を占める華人コミュニティに徹底的な弾圧を加えたことも大きな禍根を残した。
日本軍は、日中戦争中にシンガポールの華人が蔣介石政権への支援を行っていたことを問題視し、かれらを潜在的な反日分子とみなした。その結果、占領直後に「大検証」として知られる大規模な弾圧を実施し、18~50歳の華人男性を集めて尋問、反日的・共産主義的と判断されたものをつぎつぎに処刑した。
犠牲者数については諸説あるものの、シンガポール側では4万~5万人、日本側では約5000人とされている。いずれにせよ、大規模な処刑が行われたことは間違いなく、このできごとはシンガポール社会に深い傷跡を残した。
のちにシンガポールの初代首相となるリー・クアンユーも、この「大検証」に巻き込まれて、危うく命を落としかけたという苦い経験を持っている。
■住民のほぼすべてに深刻な苦難をもたらした
こうした背景から、シンガポールの歴史教育や記念施設では、日本の占領時代が英国統治時代よりもはるかに暗黒の時代として描かれている。
さらに、日本占領時代が強調される理由に、シンガポールの特殊な事情がある。

シンガポールは多民族社会として発展してきたため、国民としての統一意識を形成するのが容易ではなかった。一般的に、独立を果たした新興国家は、植民地支配を否定し、自国の独自性を強調する傾向にある。しかし、シンガポールの場合、英国統治時代に多くの移民が流入し、その子孫が国を構成しているため、植民地支配そのものを全面的に否定すると、みずからのアイデンティティの否定にもつながりかねない。
いっぽう、日本の占領はシンガポール住民のほぼすべてに深刻な苦難をもたらした。この共通の経験は、戦後のシンガポールにおいて国民意識や国防意識を醸成するうえで重要で“使い勝手のいい”要素となったのである。
現在のシンガポールでは、経済を最優先する現実主義が支配的であり、幸い日本にたいする敵対的な感情が公然とあらわれることはほとんどない。日本の外務省が行っている対日世論調査でも、近年シンガポールにおける対日感情は一貫して良好だ(これはシンガポールに限らず、東南アジア全般について当てはまる)。
だが、以上のような「国民の物語」が形成されていることは、日本人も記憶にとどめておく必要があるだろう。

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辻田 真佐憲(つじた・まさのり)

作家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。

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(作家・近現代史研究者 辻田 真佐憲)
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