がん保険に入っていなければ、がんへの備えは不十分なのか。2024年1月に亡くなった経済評論家の山崎元さんは「がん治療にどうしても必要だった金額は想像以上に少なかった。
がん保険は『損か、得か?』ではなく、『損だけれども、必要か?』という視点で要否を判断したほうがいい」という――。
※本稿は、山崎元『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・再編集したものです。
■癌治療費のリアルな内訳
2022年の8月24日に食道癌と診断が確定し、9月上旬から抗癌剤治療で2回入院し、その後10月27日に手術を受けて13日後に退院した。手術を中心とする治療として、この時点辺りで一区切りが付いたと考えていいだろう。
この時点で、筆者が医療費として直接支払ったお金は約235万円だった。入院の準備費用やタクシー代など治療に関連する他の支出もあったが、医療費の領収書を整理してみると、この程度の金額だった。
ただし、この中の約160万円は、入院1日当たり4万円のシャワー付きの個室を選んだ筆者の意図的な贅沢(ぜいたく)によるもので、治療のためにどうしても必要だった費用ではない。ここには合計40泊した。この大学病院は個室の部屋代が相対的にやや高めだと後から分かった。近隣の大きな病院は3万円台半ばくらいの設定が多い。地方の病院だともっと安い場合が多いだろう。
病院の選択に当たっては、個室代などの価格を全く気にしていなかった。
病院の症例数や執刀してくれる医師の経験や評判などで決定した。結果的に「当たり」だったと思うが、この点は真剣に選んだ。少々の値段の差よりも、受けられる治療の質が重要だと考えた(普通の考えだと思う)。
■どうしても必要だったのは“14万円”
個室を選んだ理由は、主に、消灯時間が自由であることや、原稿書きや電子メール、オンライン会議ができることなどだ。個室代分を稼ぎ出すほど熱心に仕事をしたわけではないが、仕事に穴を空けずに済んだし、他の患者さんに気を遣わずに済んだので、これで良かったと思っている。
同じ病院でもっと高い部屋のオプションが複数あったし、4人1部屋の入院だと1泊約7千円なのだが、この辺を自分の現状にとってほどほどだと判断した。
残る費用約75万円は、高額療養費制度の上限を適用しながら大学病院が請求した金額を支払ったものだ。筆者が仮に国民健康保険に加入するフリーランスであれば、この金額が大凡の「どうしても必要だった医療費」になる。大がかりな手術を伴う治療をしたにもかかわらず、「意外にたいした金額ではないな」と、日本の健康保険制度に感心・感謝した。
そして後日、望外で追加の感謝があった。筆者は2022年時点で東京証券業健康保険組合の加入者だったので、同組合が設定している、医療費1回の支払いが2万円を超えた部分を健康保険組合が補填(ほてん)してくれる制度が機能して、結局、筆者がどうしても支払わなければならなかった医療費は約14万円に過ぎなかったのだ。
■会社員なら調べておきたい追加給付制度
この種の補填制度は、多くの健康保険組合が備えている。
毎月の医療費負担の上限を決めて、これを上回った額を補填する条件が多いようだ。保険組合によって個々に内容が異なるので、国民健康保険ではなく、健康保険組合に加入している方は制度を調べておくといい。
例えば東京証券業健康保険組合の場合、1回に2万円を超える保険診療の医療費支払いは、2万円との差額が給付される制度がある。給付のタイミングは自己負担額の支払いの3カ月後だ。
他の健康保険組合では、医療費の支払い1回当たりに自己負担の上限を設けて計算するケースもあるし、1カ月の医療費に上限があって差額が後から補填されるケースもあるようだ。
また、加入員の自己負担における上限金額の設定に違いがある。個々の健康保険組合によって条件が異なるが、企業や業界単位の健康保険組合の場合は何らかの補填的給付があるケースが多い。特に、サラリーマンはご自身が加入する健康保険組合の条件をホームページなどで確認しておくといい。
例えば、初回の入院費を支払った2022年9月分の医療費では、保険診療分として筆者が窓口で機械に支払った金額が25万円だった。ところが、「一部負担還元金現金給付」として健康保険組合が支給してくれた金額が23万円あって、この払い戻しは12月半ばに行われている。
■3回の入院で61万円が戻ってきた
二度目の入院の支払い27万円と、2万円を超える通院の支払い3万円があった10月分には、後から26万円が支給されている。支給額の決定は支払い1件単位なので、前者の支払いに対して25万円と、後者の支払いに対して1万円の合計が26万円だということなのだろう。
この月は2万円を超える支払いが2回あったので、筆者は4万円負担した。
三度目の入院の支払いがあった11月は、筆者の支払いが14万円で、健保組合からの給付は12万円だ。ここまでの3回で合計61万円支給されている。
なお、煩雑になるが本稿の性質上記しておくと、筆者が窓口で支払った金額のうち保険診療に該当する金額については、国民健康保険の高額療養費制度の上限額が支払いの上限になるように病院側が調整する仕組みがある。1回当たりの支払い額があまり大きくならないようにとの配慮だろう。
これが先に適用されて高額療養費制度で支払いの上限があり、先ずこれを支払う。その支払い額に対して健康保険組合が1件2万円を超える分をさらに負担してくれる仕組みだ。
■日本の保険制度は手厚い
繰り返すと、健康保険でカバーされなかった「どうしても必要だった」医療費の支払いは、手術の入院が終わって治療が一段落した段階で14万円だったということになる。
筆者の場合、これに自分で選んだ贅沢費が約160万円加わった訳だが、何れの場合も、受けられた治療自体は全く同じである。
手術後の医療費はどうなるか。筆者は主治医と相談して、再発防止のための薬剤投与を行うことにした。毎月1回、1年間である。
その他に、定期的に検査があったり、飲み薬の処方があったりするが、大きな金額ではない。
高価な薬だが、毎月の窓口の支払いは、保険適用部分が12万円に、時間を予約して診療できる仕組みの利用料が1万円の合計で13万円見当の予定だ。そして、12万円の方は健康保険組合の給付金を考えると負担が2万円に減る。結局、1カ月当たり3万円を1年間負担することになると見込んでいる。
改めて計算してみて、そもそものわが国の健康保険制度および健康保険組合(筆者の場合は東京証券業健康保険組合)の付加的な給付制度が、こんなに手厚いものなのかと感心する。
■貯金の目安は“200~300万”
国民健康保険の場合の75万円であっても、筆者が加入していた東証健保の場合の14万円であっても、たいていの人にとって貯金の一部取り崩しで十分に支払える額だろう。読者は何らかの健康保険に加入しているに違いない。ならば、少々余裕を見るとして自由になる預金が200万円か300万円くらいあれば、入院の条件などをその都度考えるとして、健康保険が適用される標準的な治療を行う限り、がん保険に入っていなければ癌の治療費が払えないという事態は先ずないだろう。
がん保険の保険料を毎月支払うよりも、預金なり積立投資なりで早く何百万円かの備えを作ることを考えた方がいいと筆者は思う。老後の生活に備えた蓄えの形成も必要なのだから、同時に行うといい。
■癌治療で最大のコストは“機会費用”
では、この一連の癌治療のコストはこれだけなのか、というと全く正しくない。おそらく最大のコストを見逃している。
それは、機会費用だ。
2022年の9月初旬にはじめて入院し、間隔を置きながら都合3回入院して、10月27日に手術を終えて、食事などが不自由ななりに病後の人間レベルでだが普通の生活ができるようになったのは11月末くらいからだ。
この間3カ月ほど、主として、過剰な親切への対応や情報過多を避けるために、対外的には癌で療養中であることの公開を控えて、筆者はいわば世間から隠れていた。
講演や動画出演はもちろん、コンサルティング的な仕事もできないし、新しい仕事の種を蒔(ま)くような活動もできなかった。この逸失利益は小さくない。これは、機会費用としてカウントすべきコストだ。
仮に、筆者の年収を3千万円としよう。この間にも対応できた仕事の稼ぎが半分だとすると、3カ月分の機会費用は375万円と計算できる(3千万円を2で割って、さらに4で割って計算した)。
■160万円の個室代は単なる贅沢ではない
経済的な損得勘定を正確に把握しようとすると、実質的に払った医療費がいくらであったかといった問題は些末(さまつ)とまでは言わないまでも、細かな問題だとさえ言える。読者諸賢も、病気治療の費用を見積もる上では、病気治療が必要ない場合に獲得可能なはずだった経済価値の中で取り込み損ねたコストを機会費用として認識する必要があることに注意されたい。
なお、拙文中何度も贅沢だと書いた個室の費用だが、筆者は個室を利用できたおかげで連載の原稿を1本も落とすことなく入稿できた。この間、休載や中止にしていたら、その後に続かなかった連載があっただろう。
その場合、将来の原稿料だけでなく、連載原稿を書いていることによるビジネス上のプラス効果をも失うことになる。
毎日個室代以上に稼ぐという思いつきの目標は、入院して早々に無理だと分かって放棄したのだが、将来の効果まで考えると、個室代も単なる贅沢だけではなかったことが分かる。
一般に、意思決定とコストの問題は見かけ以上に複雑で、考えてみると面白いことが多いのだが、自分の癌治療もなかなか興味深い題材であった。
■意思決定は結果論ではなく「事前」がベース
筆者が、がん保険に加入していたらどうだっただろうか。例えば、癌と診断を受けた時に50万円とか100万円といった一時金を貰えるケースもあるだろうし、入院1日当たり1万円とか2万円といった保険金も大いに助けになったはずだ。
筆者の場合も、癌にかかることが前から分かっていたなら、何らかのがん保険に入っておいた方が金銭的に「得」だった可能性は大きい。
しかし、がん保険に加入するか否かの意思決定は、自分が将来癌にかかるかどうかが分からない「事前の」時点で行うものだ。かつての筆者にとってもそうだったし、多くの読者にとってもそうあるべきだ。
筆者が思うに、特定の結果の損得と、確率を考えた「事前の」損得を区別して、後者のロジックに従って判断できるかどうかが、経済的に正しい意思決定ができるか否か、いわゆる「カモになるか否か」の一つの大きな分岐点だ。せっかく人間に生まれて、多少なりとも確率の概念が分かるのなら、正しく考えたいものだ。
■保険会社が儲かっているという事実
ここで、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に真面目な人なら、将来自分が癌にかかる確率、その場合に支払われる保険金の予想額などを考え、他方の保険料負担と、保険料を他の運用に回した場合の期待リターンなどを考慮して、損得の期待値を計算するのかも知れないが、これは賢くない。本気でやるなら人生の時間の浪費だ。
保険会社が商品設計の際の計算に失敗しない限り、がん保険の条件は保険会社が十分利益を期待できる水準に設定されていて、加入者側にとって損であるに決まっている。なぜなら、平均的に加入者が得をするのであれば、原理的に保険会社は潰れてしまうからだ。そして、商品としてのがん保険は長年にわたって継続しており、保険会社は儲かっているし、保険を売るための熱心なセールスの努力が続いている。推測の根拠は十分だ。
損得の点に関しては、営利会社であり保険の専門家でもある保険会社を大いに信用していいはずだ。「大人の経済常識」を働かせた判断として、確率と期待値を考えた損得の問題として、保険会社が儲かっているなら、加入者は損をしていると考えて間違いない。
■30代に戻ってもがん保険に入らない
従って、仮に筆者が30代、40代の時分に戻って、将来癌にかかるかどうか分からない時点でがん保険の加入について検討するなら、「がん保険には入らない」という結論を、自信を持って出すはずだ。
なぜなら、がん保険に入ることが確率を考えると大幅に損である一方、万一癌に罹っても自分の手元のお金で十分対処できるからだ。この意思決定に不安はない。そして、この種の架空の状況の繰り返しが何度も可能であるとすれば、何度でもそうするだろう。
ただし、架空の人生のうち、何度かに一度は癌に罹って何らかの治療費を自己負担することになるに違いない。しかし、架空の人生を何度も通算すると、保険に加入しない方が大いに得になっているはずだ。
保険はお金の問題だ。感情を交えずに損得と必要性の有無で判断したい。
例えば、通院には交通費が掛かるが、この交通費をがん保険が支給してくれると嬉しいといった声がある。結果論として、嬉しかったり助かったりする場合があるのはその通りだろう。しかし、保険会社は交通費を支払うような保険の場合に、交通費の発生確率や期待値も計算して保険料を設定しているはずだ。
■保険は「損だけれど必要か」で判断
また、そもそもがん保険に入る動機の小さくない部分が、癌にかかることへの不安の感情だろう。冷静に考えると、がん保険に入っても癌に罹患(りかん)する確率は少しも小さくならないのだが、不安な問題に何らかの対処を行ったということが、精神的な満足感につながることがある。率直に言ってこの満足感は賢くないし、賢くないことが我慢できても相当に高く付く。
保険一般として、利用の判断基準は、「損か、得か?」ではなく、「損だけれども、必要か?」であるべきだ。保険の専門家ほど、これが当たり前だと思っているはずだ。

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山崎 元(やまざき・はじめ)

経済評論家

専門は資産運用。楽天証券経済研究所客員研究員。マイベンチマーク代表取締役。1958年、北海道生まれ。東京大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。以降、野村投信ほか12回の転職を経て、現職。『山崎先生、将来、お金に困らない方法を教えてください!』(プレジデント社)など著書多数。

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(経済評論家 山崎 元)
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