※本稿は、山崎元『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・再編集したものです。
■脱毛で見慣れない顔になった日
何れも抗癌剤を投与する一度目と二度目の入院の間に本格的な脱毛が始まった。脱毛の気配を感じてから2、3日は洗髪を我慢して動画を撮りだめした。退院1週間目に、いよいよ限度だと思う日が来た。
指で髪の毛を30本くらいつまんで、ごく軽く引っ張るとそのまま抜けてくるような脱毛だった。洗髪してみると大量に、しかも「まだらに」毛が抜けた。
一度目の入院の際に、ある看護師さんが「山崎さんの治療は先ず間違いなく髪の毛が抜けるけれども、現実の脱毛は、ドラマにあるようにつるつるに綺麗に抜けるものではないのよ」と教えてくれていたので、本格的に脱毛したら坊主頭にしてしまおうと思って自分でカットができると謳(うた)う電動バリカンを家電量販店で調達していた。
洗髪の流れのまま、電動バリカンを5ミリくらいの超短髪にセットして坊主頭にした。
鏡の中に見慣れない顔が現れたが、気分はすっきりした。翌日から、「ニット帽のおじさん」(まだ「おじいさん」と呼ばないでいてくれたら嬉しい)の生活が始まった。
数日後に二度目の入院となり、間に2週間の休みを挟んで、手術のための入院をして14泊15日で退院して、2022年の末あたりまではニット帽を被って生活した。
■他人にとっては“どうでもいいこと”
ニット帽は気に入っていたのだが、被る手間が面倒には違いない。年が明けたくらいから、帽子を被らずに外出する日が出て来た。帽子は常に持っていて、いつでも被ることができるように準備していた。
残った髪の毛は、一月に1センチ強伸びる感じなのだが、「密度」がなかなか復活しなかった。バリカンで長さを抑えながら、密度の回復を待つことにした。この間、主にニット帽を被るのだが、徐々に帽子を被らない時間が増えてきた。
一つには、当たり前のことなのだが、同じくらい毛のない人は世の中に普通にいることに気づいた。
また、この要素が最も大きいように思うが、毎日自分を見ているうちに、自分の姿を「見慣れて」きた。そして、「坊主頭でも、不都合はないではないか」という心境が芽生えてきた。
できる限り客観的に考えてみると、筆者のような人物が、白髪混じりの七三分けのような普通のヘアスタイルであろうと、坊主頭であろうと、他人には「どうでもいいこと」だろう。坊主頭では恥ずかしいのではないか、という思いは自意識過剰の産物に過ぎない。また、坊主頭にあって毛の「密度」が気になるのは本人だけだろう。
■60年以上の「こだわり」はなんだったのか
脱毛から4カ月が経過した2月になって、帽子を被らずに外出する日が増えた。荷物の中に帽子を加えることを忘れる日が多くなった。
坊主頭で不都合はない。そういうことなのであれば、癌になる前の六十数年はどういうことだったのか。いわゆる床屋、もう少し手が込んでいて高級なイメージのヘアサロンと称するような場所に、1、2カ月に一度くらいは行って、髪をカットして貰っていたのは無駄だったのではないかという反省が生まれた。
今風にスタイリストと呼んでもいいが、筆者の髪をカットする人たちは、工夫を凝らそうとしても結局似たようなヘアスタイルに帰着していたし、筆者の頭の形に合わないヘアスタイルを理想とする画一的な価値観に囚(とら)われていた。
短髪になってみてよく分かったが、もともと生えている毛の流れは強力だ。これに反するヘアスタイルを作り且つ維持することは極めて難しい。かつての筆者の銀行員のようなヘアスタイルは、髪の毛の長さがあの程度だと、あれ以外のものには収まりようがなかったのだ。
また、多くのスタイリストは、頭頂部分の毛を盛り上げたり立てたりする一方で、頭の横の毛を抑える形が好ましいという画一的な価値観を持っていたように思う。筆者は、自分の頭の形や、毛の生え方について、いつもスタイリストに対して少々申し訳ない気分で髪をカットされていた。
■ヘアサロン1回の真のコストはいくらか
「頭の形が悪い」。確かに、彼らの価値観からすると筆者の頭は形が悪い(横が張っていて、頭頂部がやや平らで、後ろはいわゆる「絶壁」だ)。
しかし、坊主頭にした場合に、致命的に見苦しいということはないように思う。想像していたよりもマシだった。そして、このヘアスタイルなら、市販の電動バリカンがあれば、自分で、しかも短時間で作ることができる。
さて、どう考えたらいいのか。
仮に、ヘアサロンの施術代金を1万円としてみよう。施術に1時間半かかり、移動に片道30分、往復で1時間掛かるとしよう。ヘアサロンを1回利用することのコストは、料金が1万円と、時間が2時間半だ。時間については、「何日の何時」と予定を固定することの不自由の影響も考えなければならないから、意思決定のために、この想定は少し甘いのだが、直接的なコストを考えるとしよう。
問題は時間の値段だが、例えば年収2千万円の人がいるとすると、年間に250日働いて、1日に8時間働くとすると、時給がちょうど1万円になる。読者は、適当にご自分の時間の値段を見積もられたい。
■過剰な自意識が「需要」を作り出す
一方、自分でカットできる電動バリカンの値段は数千円だし、1回のカットに要する時間は片付けも含めてせいぜい30分だろう。しかも、自分にとって都合のいい時間にできる。
これだけのコスト差がありながら、他人から見ると「どうでもいい」自分のヘアスタイルに気をもんでいたのはなぜなのだろうか。
「人は見かけが大事だ」、「髪の毛の印象で見た目が大きく変わる」、「プロのスタイリストの技術には価値がある」という、理美容業界のマーケティングによる刷り込みが先ずある。
これに加えて、「自分もヘアスタイルによっては好印象になるかも知れない」、「自分はヘアスタイルで損をしているかも知れない」という楽観・悲観両サイドの過剰な自意識が起動されて、人は「自分に合ったヘアサロン」を求めて彷徨(さまよ)うのだろう。筆者もそうだった。
もちろん、ヘアスタイルに手間を掛けるプロセスを楽しむという立場があって構わない。また、ヘアスタイルが死活的に重要な職業や立場は確かにあるだろう。ただ、後者の立場にある人は、本人がそう思っている人の数よりもずっとずっと少ないに違いない。
ことはヘアスタイルに限らないのだが、需要は意図的に作られている。
■「実はどうでもいいこと」は多い
文章としては、ここで結論にしてもいいのだが、蛇足を加える。
2回目の抗癌剤投与から5カ月くらい経ってから髪の毛の密度が戻ってきた。はじめは髪の毛以外の体毛を観察していて分かったのだが、密度が落ちても残った毛の周りに、短くて頼りない毛が生えてくる。そして、その短い毛は伸びるとやや固さを増す。こうした毛が増えて、全体の印象としての毛の「濃さ」が戻ってくるのだ。
読者にとってどうでもいいはずの筆者の髪の毛の話を詳しく書いている理由は、筆者のかつてのヘアスタイルのコストに相当する支出や時間の無駄を、人はその他の分野でも多く行っているのではないかと思うからだ。
ビジネスの状況も広く含む「他人からの評価」を考えてみよう。筆者の髪の毛が、年老いた銀行員のような白髪半分の七三分けであろうと、アスリートでもないのに数ミリで揃えた坊主頭であろうと、筆者以外の人にとってはどちらでもいいことだろう。毛が多い方が書き物や話に説得力が生まれるわけでもないだろうし、まして書籍が余計に売れるわけでもない。
■こだわりを捨てればお金と時間の節約に
「実はどうでもいいこと」を意識しているのは、過剰な自意識と、社会的同調から逸脱することへの恐れ、加えてそれらを巧みに刺激する「マーケティングの魔術」の効果によるものだろう。
意識を変えて拘(こだわ)りを捨てることで、直接的にコストが節約できたり、時間が節約できたりするケースは少なくないはずだ。
対象は様々であり得るのだが、「実はどうでもいいこと」を見つけ出して捨てることの効果は実に大きい場合がある。
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山崎 元(やまざき・はじめ)
経済評論家
専門は資産運用。楽天証券経済研究所客員研究員。マイベンチマーク代表取締役。1958年、北海道生まれ。東京大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。以降、野村投信ほか12回の転職を経て、現職。『山崎先生、将来、お金に困らない方法を教えてください!』(プレジデント社)など著書多数。
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(経済評論家 山崎 元)