※本稿は、大愚元勝『絶望から一歩踏み出すことば 大愚和尚の答え一問一答公式』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「自分は死なない、老いない」と信じたい
私のいる福厳寺では、夜中に「ギャア!」というような断末魔が外から聞こえることがあります。何事かと外へ出てみると、鳥が狐(きつね)に食べられていたりする。
羽根が飛び散って、もがき苦しんだ形跡はあるのですが、遺骸は見つかりません。
私たちが、部屋でネットやテレビを見て喜んでいる。そのすぐ外には、死と隣り合わせの厳然たる弱肉強食の世界が存在しています。
手負いになった動物は他の動物に食べられて、最後は微生物に分解されて土に還(かえ)っていきます。人間も、さすがに食べられることはありませんが、自然の循環の中に取り込まれていて、いつか必ず死ぬという意味では例外ではありません。
にもかかわらず、私たちはあたかも死が訪れないような態度で生きている。
理屈ではわかっています、いつか死ぬことを。ところが感情がついてこないんです。
死はできるだけ来てほしくない、遠くにあるべきもの。そして絶対自分にだけは訪れないもの。自分だけは病気にならないし、老いないし、死なないと思っている。
死が初めて身近に感じられるのは、自分の愛する人が亡くなったときです。
■死を意識していれば、一所懸命生きられる
最初は現実を受け止めきれず、どこか他人事のような不思議な感覚に襲われます。けれども一度その現実を受け入れると、今度は強烈な喪失感やショックを受けます。
「なぜ?」と死を呪い、死を恐れ、この先どうしたらいいのかわからず、不安でいっぱいになります。そして一連の儀礼法要に立ち会ううちに、自分もまたいつか死ぬかもしれないという命の有限性に気づき始めるのです。
仏教に、「死を明(あき)らめる」という言葉があります。
自分が死ぬ存在であるということを明らかにして生きなさいという教えです。
私たちはつい、死という自然現象を忌み嫌い、覆い隠すように生きています。
しかし、死が問題なのではありません。
生が問題なんです。自分には永遠に死が訪れないと勘違いして、余裕をかまして生きてしまう。その日その日を一所懸命生きるということがおろそかになってしまう。
もしくは、いずれは死んでいくのに、今死んでしまいたいと考えたりするのです。
■お墓参りは死を学習するためのシステム
私たちはいつ死ぬかわからない、不安定な生を生きている。でもいつか必ず死ぬ。そのように死を自覚して初めて、今をどう生きるかという問いが投げかけられる。
だからできるだけ早く、死を明らかにしなさい。それが仏教なんです。
お墓も、私たちが死を正しく理解するために存在しています。
家族や知人、友人のお墓参りを通じて、死を少しずつ身近なものにしていく。死者とのつながりを再確認し、生死の現実を学び、明日からどう生きるのかを問う。
こうして、自動的に命について学習していくシステムがお墓参りです。
私もご先祖様のお墓参りをしていますと、非常に勇気づけられるんですね。
お父さん、そのまたお父さん、そのお母さん……と命が綿々と受け継がれてきて、彼ら彼女らが一所懸命生きてきたからこそ、今自分に至っている。
「俺はここで怠けていいんだろうか?」
「死にたいと思ったけど、どうせいつか死ぬし、もう一回頑張ってみようか!」
そんな思いにさせていただいたことが、何度もあります。
悩んだとき、つらいときには、お墓参りに行ってみてはいかがでしょうか。
■「終活」しようとする気持ちもわかるが…
私は、親の弔(とむら)いは子の務めだと考えています。
ご家庭ごとにそれぞれ事情がありましょう。でもきちんと親の弔いをし、遺骨を拾うのは子どもの務めです。古臭いしきたりだとは思いません。逆に今の時代の人たち、これからの時代の人たちにこそ、声を大にして伝えたいんです。
一方で、子どもに迷惑をかけたくないからと、死んだ後のお葬式やお墓を自分で手配する親が増えている気がします。お葬式を行わないようにと遺言する人もいます。
子どもの負担になりたくないという親としての気持ちは、よくわかります。人を煩わせずに、死んだ後まで自分のことは自分でやろうとするのはある意味立派です。
でも私はね、子どもにとってそれが必ずしも良いことだとは思わないんです。
考えてみてください。成人した子どもがいる家庭で、親の誕生日に親が自分でケーキとプレゼントを買ってパーティーをしたところで、それは本当のお祝いでしょうか。それで子どもに感謝の気持ちが生まれたり、成長していくことはありません。
■子どもが一人前になる通過儀礼
葬儀も同じです。親の自作自演では、子どもの自覚が促されないのです。
私はたくさんのご葬儀を通して、たくさんのご家庭を見てきました。
一つ気づいたことがあります。立派な親の子が必ずしも立派じゃないということ。
それどころか逆なんです。
元首相の田中角栄は「子どもは親の葬儀を立派にやって初めて一人前になれる」と言っていたそうですが、その通り。親を弔い、遺骨を拾うとは、子どもが親の存在を超えて大人になる、とてもとても大切な通過儀礼だと思うのです。
親子関係が悪いと「なぜあんな親を最後まで面倒見なきゃならないんだ」と思うかもしれません。その気持ちもわかりますが、だからこそなんです。
■自分を捨てた父親への恨みを超えた
先日、70代の男性の葬儀をとり行いました。喪主は息子さんですが、この父と息子は長い間、音信不通でした。子どもたちが小さい頃、父親は他の女性と家を出てしまい、息子さんはお母さんと暮らしていたのですが、お母さんも子どもを置いて蒸発してしまいました。彼はまだ学生の頃、置き手紙一つで放り出されたんです。
その後、親戚や親切な人に助けられたりしてなんとか大人になり、やれることは何でもして働き、今では家庭を持ってお子さんもいます。
ある日のこと、突然、遠い昔に自分を捨てて出ていった父親の死を知らされました。
息子さんは、ずっと忘れて生きてきたはずの、もういないことにしてきた父親の葬儀をなさいました。早くから親に頼れず、いろいろなご苦労があったでしょうけれども、親への恨みや甘えを、完全に超えていらっしゃるなと感じました。その男性はね、今でも時間があると、家族を連れてお墓参りをされています。
愛して、可愛がって、大切に育ててくれた親の遺骨を拾うことで、一人前の大人になることもあります。
そして自分を見捨てて、あるいは虐待して、ひどい目に遭わせた親の遺骨を拾うことで、その親を超えた大きな人間になることもあります。
どちらも、子どもであるあなたが成長するためなんです。
だから、親の遺骨は必ず拾いなさい。
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大愚 元勝(たいぐ・げんしょう)
佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表
空手家、セラピスト、社長、作家など複数の顔を持ち「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。僧名は大愚(大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意)。YouTube「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数57万人、1.3億回再生された超人気番組。著書に『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社)、『最後にあなたを救う禅語』(扶桑社)、『思いを手放すことば』(KADOKAWA)、『自分という壁』(アスコム)、『愚恋に説法: 恋の病に効く30の処方箋』(小学館)などがある。
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(佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表 大愚 元勝)