第二次世界大戦に敗北した日本は、GHQの占領下に置かれた。各省庁の精鋭を集めた終戦連絡事務局でGHQとの交渉に当たったのが、白洲次郎だ。
一体どんな人物だったのか。別冊宝島編集部編『知れば知るほど泣ける白洲次郎』(宝島社)より、一部を紹介する――。
■日本の役人たちは初めて敗戦を知った
敗戦は日本国民にとってショックだった。米軍による日本本土の空襲が激しくなって、日本は勝てないのではないかと、冷静に感じていた日本人もいた。一方、多くの市井の人は、太平洋戦争の末期から敗戦を通じて、どう生き抜いていくかで精いっぱいであった。
そのなかで、日本を指導してきた官僚や軍人たちは、敗戦の重みを、ずっしりと感じざるを得なかった。彼らは、日本を敗戦まで追い込んでしまった張本人だからだ。
特に、日本に占領軍としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が来ると、彼らは借りてきた猫のように小さくなって、GHQに言われるがままになってしまう。明治維新以降、敗戦を知らない官僚たちは、GHQと戦うすべを持たなかった。
そこに登場してくるのが、白洲次郎だ。
■近衛文麿のブレーンであり吉田茂の側近
白洲次郎は戦前から近衛文麿のブレーンとして活動していたが、戦後日本の礎を築いた吉田茂とも関係が深かった。吉田茂の妻・雪子の父親、牧野伸顕と、白洲次郎の妻・正子の父、樺山愛輔は同じ薩摩出身で境遇も似ていて非常に親しい関係だった。

そのため、吉田茂を正子はよく知っていた。なおかつ、吉田の別邸は大磯で、白洲夫妻もその近くに住んでおり、白洲次郎は頻繁に吉田の別邸に出入りするようになる。
牧野伸顕と樺山愛輔、そして吉田茂は日米開戦に反対であった。彼らは共同して開戦阻止に向けて動いていた。それを警戒していたのが東條英機である。3人は東條に睨まれ、思うように連絡を取ることができなかった。そのとき、メッセンジャーとして牧野、樺山、吉田の間を行き来していたのが次郎だったのだ。
■イギリス貴族階級の英語を操るエリート
戦後、東久邇宮稔彦王が内閣を作ると近衛文麿を内務大臣の一人に据えた。そして、外相に重光葵が就いた。ちなみに、このとき次郎は近衛に「アメリカとの折衝役をさせてもらえないか」と頼んでいる。何か期するものがあったのだろうが、近衛は「デリケートな問題です。押しが強いからいいというものではありません」と断っている。

次郎は小さなころからイギリス仕込みの英語を習っており、ケンブリッジ大学にも留学したことがある。だから、英語はネイティブ並みで、それもスラングではないケンブリッジに通う貴族階級の上質な英語であった。さらに英国仕込みの自己主張の強さも持っていたから、次郎自身はアメリカとの折衝に自信があったのだろう。
近衛にはそれが不安だったが、時代が白洲次郎を求めていた。
■外交で勝つために「ここからが正念場だ」
東久邇宮内閣の外相であった重光が辞任に追い込まれる。理由はGHQが推し進めようとした政策をマスコミに話してしまったからだ。GHQは日本の公用語を英語にし、逆らう日本人は片っ端から軍事裁判にかけ、日本円を廃止して米軍の軍票を使うべく占領政策を考えていた。これを重光外相は必死に抑えたが、その過程をマスコミに話してしまったのだ。
GHQはカンカンになって怒り、重光を辞任させるだけでなく、公職を追放した。あげくは戦犯として巣鴨プリズンに送り込んでしまう。
このとき、内務大臣だった近衛に吉田茂を紹介したのが次郎だった。そして、吉田茂が外務大臣に就任した。

吉田は、外務省の幹部人事を一新し、終戦連絡事務局参与に次郎を任命した。
このとき吉田茂は次郎に次のように語っている。
「戦争に負けても外交に勝った歴史がある。ここからが正念場だ」
次郎も、ここからが正念場であることを肝に銘じていた。ここからがスタートだ。肚の底からふつふつと煮えたぎるものが上がってきた。それは、敗戦にうちしずんでしまった軍人たちやそれに協力した官僚や政府役人たちとは全く違っていた。
危機であればあるほど、燃える人物がいる。いや、危機でなければ燃えられないという人物だ。あえて火中の栗を拾う。まさに白洲次郎がその人物であった。
しかし、火中の栗は熱い。
身も心を焼き尽くしてしまうほど熱い。次郎の戦いが始まった。
■GHQに頭が上がらない日本の精鋭
終戦連絡事務局というのは、GHQと日本政府の間を取り持つ部署である。敗戦後の日本を支配していたのはGHQであり、その長がダグラス・マッカーサーだ。終戦連絡事務局は、GHQから下りてくる指令を政府の代理として受け、日本の行政に反映していく。
もちろん、日本にとって理不尽な指令も下りてくる。敗戦国としては致し方ないところはある。が、だからといって、あまりに理不尽であれば、拒否しなくてはならない。
そのため、終戦連絡事務局にはGHQと交渉できる各省庁の精鋭が集められた。
GHQの指令は多岐にわたっている。インフラ整備や食料の調達、武器の廃棄や法律の制定、戦犯の処理や財閥の解体など、一般の行政以上である。だから、各省庁の精鋭が必要だった。

白洲次郎は、この終戦連絡事務局の参与として、現場の役人では手に負えない問題に携わっていた。そんな次郎が役人たちに言う言葉は、「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」であった。
しかし、各省庁の精鋭とはいえ、役人たちの脳裏に浮かぶのは敗戦である。そのため、強気に出てくるGHQとまともに交渉できない。結局、白洲次郎がそれらの折衝に当たることになる。
■「マッカーサーを叱った日本人」伝説
こんなエピソードが残る。白洲次郎の妻である白洲正子がエッセイ『いまなぜ「白洲次郎」なの』に載せた一文である。
「マッカーサー絡みでは、有名なエピソードになりましたけど、こんな話が残っています。クリスマスに天皇陛下からマッカーサー宛のプレゼントを届ける使者となった。
行ってみるとすでにテーブルの上は贈り物が一杯になっており、マッカーサーはなにげなく、適当にその辺にでも置いてくれと言った。次郎が、天皇の贈り物を床に置いたりはできないから持って帰る、と激怒したところ、相手が慌てて新しいテーブルを用意したので、その上に載せて帰ったというものです。いかにも次郎さんらしい話だと思います」(『対座』世界文化社、段落編集部)

白洲次郎の真骨頂である。
日本人の誰もが、マッカーサーにペコペコしていた時代に、次郎だけは筋を通した。そんなエピソードである。
しかし、このエピソードには裏がある。白洲次郎という人間を「プリンシプル(原理原則)を貫く男」という一面でしか見てこなかった日本人は、コロッと騙されてしまっている。
■白洲次郎はなぜ「ウソ」をついたのか
ジャーナリストであり、作家でもある徳本栄一郎が、このエピソードの真実を求めてアメリカのバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館を訪ねている。そこで徳本は、膨大に残されたGHQ文書を直接調べるのだが、白洲次郎がマッカーサーを訪問した記録が全くないことに衝撃を受ける。
記録がないだけでなく、マッカーサーの警護を務めた隊員にも会い、白洲次郎なる人物が訪ねてきたことなどないことを明らかにするのだ(「マッカーサーを叱りつけていなかった⁉白洲次郎」『週刊朝日』2008年11月28日号)。
白洲次郎はマッカーサーに会っていなかった。会っていなければ、天皇陛下のクリスマスプレゼントを渡すこともできない。白洲正子が書いたエッセイは架空の物語だったのだ。
ただし、ここで、このエピソードはでたらめだった、もしかすると、白洲次郎が自らを誇るために、こんなエピソードを作った、と考えてはいけない。次郎は、プリンシプルを貫く男ではあったが、一方で「策士」であった。「策士」というと語弊があるかもしれない。「知謀家」と言ったほうが正しいだろう。
日本人は「策士」や「策略家」と聞くと、どうしても、人を騙す卑怯者のイメージを持ってしまう。しかし、世界に伍して戦っていくには、まじめに正論を主張していても勝てない。
■GHQと戦い、公職追放された石橋湛山
実際、白洲次郎が激しくGHQと戦った男として、石橋湛山(後に首相)を挙げているが、石橋はGHQに睨まれて公職追放の憂き目にあっている。その石橋について次郎が書いた文章があるので、少々長いが引用しよう。
「占領行政のやり方は建前としては日本政府がやり、重要なことはGHQから最高司令官の名において指令し、外のことはGHQが助言するということであった。しかし事実は事細かに、あらゆることに、人事に至るまでGHQが指示したり干渉した。(中略)
内閣の閣員の人選は勿論のこと各省の課長係長も、無能だとか何とか難癖をつけられて、ヘイヘイ言わない奴は余程の幸運でしぶとい奴以外は現職から飛ばされた。閣員として一応のお眼鏡にはかなっても、無条件降伏を地で行かぬ連中は排除された。石橋前大蔵大臣もこの一人だった。
坊さんにはよくがむしゃらの強気一点張りの人がいるが、石橋大臣がGHQの経済科学局の幹部連中を向こうに廻して激論しているのを何度か見た。石橋さんの実家はお寺だと知ってはいたが、向こう意気の強い坊さんもいたものだと、昔の講談物の荒行者を思い浮かべたりした。
石橋さんも案のじょう飛ばされた。飛ばされることは充分覚悟の上であったことは知ってもいたが」(「占領政治とは何か」『文藝春秋』1954年7月臨時増刊号)

■自分が排除されたら、戦える日本人はいない
石橋は大蔵大臣として、戦時補償義務打ち切りや石油増産の問題でGHQと対立した。特に進駐軍の経費が莫大なことを取り上げ、GHQに経費を引き下げるよう要求し、2割カットを実現している。石橋はGHQにとって目の上のたん瘤であった。
次郎は、そのような石橋を尊敬しつつも、GHQからギリギリパージされることは避けている。そして、執拗にGHQと戦い続けるのだ。次郎は決してGHQとの戦いをあきらめなかった。そのために策を弄して追放されないようにしつつも、様々な動きを見せる。自分が排除されてしまったら、もうGHQと戦えるものはいない。
彼は自らの立場をわかっていた。次郎の使う英語は英国の上流階級のイングリッシュである。米語ではない。ひとランクもふたランクもレベルの高い英語である。さらに身長も175cm。いまでは決して高くはないが、当時としては平均よりも高い。そして、ダンディーでスマートであった。品がいいのだ。
だからこそ、GHQは白洲次郎に一目置いていた。次郎もそれがわかっていたからこそ、強気に出る交渉ができた。さらに、そんな人物は自分しかいないことを知っていた。自分がいなくなったら、交渉できるものはいない。
■日本のため知謀家にならざるを得なかった
ある意味、背水の陣である。次郎は石橋のようにパージされるわけにはいかない。だからといって、「ヘイヘイ」しているわけにもいかない。常にGHQの情報を集め、彼らの狙いを突き止めつつ、そこに風穴を開けようとしていた。だからこそ、知謀の人にならざるを得なかったのだ。
次郎のもう一つのすごさに情報収集能力とその分析力がある。そもそもこの二つを備えていなければ「知謀家」になることはできない。
白洲次郎は、プリンシプルを貫きつつも、戦前から磨いてきた自らの情報収集能力と分析力をフル稼働させ、策略を練っていた。それが、敗戦から戦後日本を復興へと導いたのだ。

(別冊宝島編集部)
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