なぜ明智光秀は主君・織田信長を本能寺で討ったのか。国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授は「当時は同様の事件が繰り返されていた。
それを理解した上で、細川父子に宛てた書状を読み進めると、事件の詳細が見えてくる」という――。(第1回)
※本稿は、フレデリック・クレインス『戦国武家の死生観』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■明智光秀が最も信頼していた武将に届いた衝撃の知らせ
天正10(1582)年6月3日――。
早朝の光が差し込む陣屋で、細川忠興(ただおき)は出陣の準備に忙殺されていた。羽柴秀吉に加勢するため、明智光秀や池田信輝らとともに備中へ向かうことになっていたのである。
備中高松城を水攻めにしていた秀吉の要請を受け、織田信長は光秀らに出陣を命じ、みずからも軍勢を率いて毛利氏との決戦に臨もうとしていた。
すでに出発した細川軍の先陣が宮津城外の犬堂まで達したころ、愛宕下坊(あたごしものぼう)の幸朝僧正(こうちょうそうじょう)が手配した飛脚が広間に駆け込んできた。息を切らしながら文箱を差し出した男の足は、泥にまみれていた。
文箱から取り出された書状には、衝撃的な内容が記されていた。
「昨二日、信長公ご父子は明智日向守(ひゅうがのかみ)殿の軍勢に襲われ、本能寺と二条御所にてお腹を召され……」
予想もしなかった知らせに忠興は驚愕し、取り急ぎ出陣を取りやめた。そして、先陣に城へ引き返すよう指示した。すると、間もなく、光秀の使者として沼田権之助が忠興のもとを訪れた。

■親子ともども髷を落とした
「信長公ご父子には、腹を切っていただきました。このうえは急ぎ軍勢を率いて、ご上洛いただきたい。ちょうど播磨が空いておりますので、差し上げます」
使者が光秀の言葉を伝えると、忠興とともに口上を聞いていた父の藤孝が静かに口を開いた。
「私は上様(信長)から大きなご恩をいただいた。出家しようと思う。だが、おまえは明智殿と婿舅(むこしゅうと)の間柄だ。判断は任せる」
しかし、忠興の気持ちはすでに決まっていたとみえて、ひと言も発することなく髻(まげ)を落とし、父と同心であることを示した。そして、その場で使者を成敗すると言ったが、藤孝に制止されて思いとどまった。
以上の場面は、宇土細川家で編纂された「忠興公譜」に記録されている、本能寺の変が細川家に伝えられた際の様子です。
宇土細川家は、忠興の四男立孝の流れをくむ熊本藩の支藩で、「忠興公譜」は本家の事績を記録するために編纂された「細川家譜」の一部として、寛文8(1668)年から延宝年間(1673年から81年)までに作成されました。
■信長から受けた恩義に報いる
本能寺の変から90年近くが経っていますが、当時はまだ関連文書も残されており、この史料を編纂させた細川忠興の孫・行孝が祖父から直接聞いた話が盛り込まれていたと考えられるため、比較的、信憑性の高い史料と考えられています。
実際、使者が泥だらけの足で広間に上がってきたことなど、切迫した場面が生々しく記録されています。

注目すべきは、光秀に味方するわけにはいかない理由として、藤孝が「恩」を挙げていることです。忠義を貫くためではなく、信長から受けた恩義に報いるために出家すると発言しているのです。
忠義が普遍性の高い抽象的な概念であるのに対して、恩義には感情的な要素が含まれており、対象となる人物との具体的な関係性を意味しています。なぜ、藤孝は武家社会の根幹をなすとされる倫理観ではなく、主君との個人的なつながりを理由に挙げたのでしょうか。
そのあたりの機微を理解するには、藤孝が生きていた戦国という時代を知る必要があります。
■戦国時代にかかる江戸時代バイアス
戦国時代は、幕末とともに、日本史のなかでも最も人々に親しまれてきた時代といってよいでしょう。ただし、映画やドラマ、小説などを通じて一般的に知られている戦国時代の姿には、誤解や錯覚も少なくありません。
その理由の一つは、戦国時代の一次史料がきわめて少ないからです。史料の大半は武将の書状や公家たちの日記で、そのほかには図屛風や絵巻物が多少、残されている程度でしかありません。
また、軍記物や武将伝、歌舞伎などをはじめとして、格段に豊富な資料が残されている江戸時代に作り上げられた戦国時代のイメージが浸透していることも、その大きな理由といえます。
つまり、現代から戦国時代を振り返るとき、その視界には江戸時代というフィルターが初期設定されているわけです。
しかし、多くの場合、そうした江戸時代バイアスが認識されることはありません。
無意識のうちに江戸時代的な武士像を思い描きながら、戦国時代の事件や武将たちの言動を解釈してしまうのです。
本能寺の変についても、これまでさまざまな見解が示されてきましたが、事件に対する解釈から江戸時代の影響を排除できているのかどうか、なかには疑わしい推理も含まれているのではないでしょうか。
■江戸時代と戦国時代の武将の決定的な違い
戦国の武将たちは、江戸時代の武士と多くの点で異なっていました。
たとえば、主従関係です。戦国時代は社会構造そのものが流動的であったため、江戸時代に比べて主従関係も不安定でした。江戸時代のように、主家や主君との関係性が倫理観や規範意識によって維持されていたのではなく、主君に対する個人的な情愛や信頼感が重視されていたのです。
本能寺の変の一報が届いたとき、細川藤孝が信長から受けた恩を理由に出家を決意したのは、戦国時代の武将らしい判断といえます。
また、各地で武力衝突が頻発していた戦国時代の人々にとって、死は決して他人事ではなく、日常の一部であったことも見逃すことができません。武将たちは信仰心が篤く、刹那(せつな)的でもあり、感情に忠実でした。
打算的かと思えば、惚れ込んだ相手には命まで捧げてしまうほど純粋な一面も見られ、そうした本能的な多面性が戦国の気風の本質であったと考えられます。本能寺の変は、まさに戦国の激しい世相ゆえに起きた事件と見るべきでしょう。
■私が考える本能寺の変
したがって本能寺の変とは、野心に突き動かされた光秀による突発的な事件ととらえるべきではないかと、私は考えます。

政治的な背景はなく、信長が見せた一瞬の隙を見逃さなかった光秀による下剋上と理解するのが、自然な解釈ではないでしょうか。事件に計画性がなかったことは、ほかならぬ光秀自身が書状のなかで吐露しています。
事件直後、援軍の要請を断られた光秀が、あらためて細川父子に宛てた6月9日付の書状が残されています(永青文庫蔵)。
この書状で、光秀は細川父子の離反に対して理解を示しつつ、事件を起こした理由として「忠興など取立申すべくとての儀」と述べ、再び協力を求めています。つまり、信長を切腹させたのは忠興の地位向上が目的であったと主張して、細川父子を懐柔しようとしているのです。
■不慮という言葉の意味
ちなみに、事件直後に書かれた光秀の書状としては、もう一通、雑賀(さいか)衆の一人であった紀伊の土橋(つちばし)重治に宛てた6月12日付のものが現存しており(美濃加茂市民ミュージアム蔵)、そのころ毛利氏に庇護されていた室町幕府の15代将軍足利義昭の上洛に協力するという光秀の意向が伝えられています。
事件後、細川父子の懐柔に努めていた光秀は、義昭との連携も模索していたのです。クーデターに成功したものの、見込みがはずれて、いっこうに味方が増えない状況に焦る光秀の心情が透けて見えます。
前述の細川父子に宛てた書状を読み進めると、後段で、光秀は事件を「不慮之儀」と表現しており、矛盾を露呈しています。忠興の地位向上を目的としていたのであれば、事件には計画性があるはずでしょう。しかし、不可抗力であったと弁解したかったのか、光秀は不慮という言葉を用いて、思いがけずに起きた事件であったと釈明しているのです。
■書状から漂う“場当たり感”
そもそも、主君の殺害を正当化する大義名分が準備されていたのなら、最も親しい間柄であった細川父子には事前に伝えていたのではないでしょうか。

光秀にとって、藤孝は義昭に仕えていたころから行動をともにしてきた最も古い友人の一人であり、忠興は愛娘玉子(ガラシャ)の夫なのです。しかしながら、この書状にはそうした計画性や大義名分がうかがわれるような表現は見当たりません。
また、同書状で光秀は忠興に摂津一国という大きな恩賞を内示し、もし希望するならば、若狭を与えるとしていますが、前後の文脈から判断しても、計画された政権構想に基づく条件提示とは思えません。
さらに、光秀は50日から100日のうちには近国の情勢も安定するという見通しを示したうえで、その後は自身の長男である明智十五郎(光慶)と忠興に政権を禅譲するという意向を示しています。
しかし、いかにも根拠がなさそうな「五十日百日之内」という表現には場当たり的な収拾案という印象が強く、やはり計画性を読み取ることは難しいのではないでしょうか。
■千載一遇の好機だった
当時、毛利氏と対峙していた秀吉をはじめ、柴田勝家や滝川一益、丹羽長秀といった司令官クラスの武将たちは全国に分散しており、わずかな手勢とともに京都に滞在していた信長の近くで大軍を率いていたのは光秀だけでした。
そのような状況を下剋上の絶好の機会ととらえるのは、乱世の力学からすれば十分に起こり得ることでした。そうした状況が偶発的に整ったことからしても、本能寺の変は突発的な事件であったと解釈すべきでしょう。
また、当時は同様の事件が繰り返されていたという歴史的な事実も、そうした解釈の傍証となり得ます。
じつは、義昭の兄で、13代将軍であった足利義輝が三好三人衆と松永久通によって暗殺されたのは、永禄8(1565)年です。つまり、本能寺の変のわずか17年前にも、武家社会のトップに対する下剋上が行われていたのです。
さらにいえば、本能寺の変の後には秀吉が信長の三男信孝を自害に追い込み、自身が天下人となりました。
秀吉に臣従していた徳川家康は、大坂の陣で豊臣秀頼を自害させ、主家を滅亡させています。下剋上や主殺しは、戦国時代の常だったのです。

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フレデリック・クレインス
歴史学者、国際日本文化研究センター教授

1970年、ベルギー生まれ。京都大学で博士号(人間・環境学)を取得。専門は戦国文化史、日欧交渉史。著書に『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』(ちくま新書)、『明智光秀と細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』(共著、筑摩選書)、『オランダ商館長が見た江戸の災害』(講談社現代新書)、『戦乱と民衆』(共著、講談社現代新書)などがある。

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(歴史学者、国際日本文化研究センター教授 フレデリック・クレインス)
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