※本稿は、フレデリック・クレインス『戦国武家の死生観』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ自らの腹を切る「切腹」が始まったのか
切腹ほど、江戸時代的なイメージが定着したものはありません。この時代には切腹が刑罰の一種として制度化されていましたが、もともと戦国時代の武士たちにとって、切腹は自身の名誉を守るための最終手段でした。
自身の腹に刀を突き立てるには、人間としての限界を超えるほど、相当の覚悟と勇気が求められるからです。
しかも、腹に刀を突き立てても、すぐに絶命するわけではないため、死が訪れるまでの間、激しい苦痛に耐えなければなりません。切腹直後に介錯人が首を切るという作法は、そうした苦痛を軽減するために生まれたものでした。
古来、腹は精神や意志を象徴する部位と考えられてきました。そこを切り裂くのは、武士としての内面的な姿をあらわにする行為といえます。つまり、物理的な意味でも“腹のうち”をさらすことにより、自身の潔白や精神性の高さを証明するという意味合いが込められていたと考えられます。
また、切腹に儀式としての要素が加わるのも江戸時代のことです。戦国時代までは、各々が独自の方法で、さまざまな場面で、多数の観衆の前で行われる場合もあれば、少数の証人の前で静かに執り行ったりしていました。
戦国の武士たちは、合戦に敗れたとき、生きて敵の手に落ちるまいとして、みずから腹を切りました。また、何らかの理由で面目を失ってしまったときにも、名誉を回復するために腹を切りました。
■あくまで自発的な行為
さらに、面目を失う状況の一種として、主君に対する不満や抗議の意思表示の手段としても切腹は行われました。
このような武士の死生観と名誉意識に基づく自害の習慣は、次第に武士階級の間で「名誉ある武士は窮地に立たされたときには潔く切腹すべきである」という価値観として定着していきました。
武士としての誇りと節操を守るというこの認識が広まったからこそ、戦国時代末期には、失態や重罪を犯したとみられる家臣に主君が切腹を命じる場合も出てきました。これがのちに刑罰としての切腹へと発展していきました。
ただし、切腹はあくまで自発的な行為という性質を保ちました。主君が切腹を命じる場合でも、それは名誉を回復する機会を与えるという意味合いがありました。
切腹を拒んだ武士は、当時不名誉とされていた斬首刑に処せられることになります。また、特に重大な罪に対しては切腹という名誉ある死さえ許されず、通常の処刑が行われることもありました。
■宣教師が目撃した切腹の現場
まずは、当時の記録から、切腹にまつわる短い逸話を紹介しましょう。
流暢(りゅうちょう)な日本語を操ることができた彼は、通訳として豊臣秀吉や徳川家康とも親しく交流した経験をもち、ポルトガル語で書かれた『日本大文典』という文法書の著者としても知られています。以下は、彼が日本文化についてまとめた「日本教会史」という稿本に書き留められていたものです。
ある大名の家臣で、領地の代官を務めていた人物の話を知っている。彼は、薩摩公から主君へ遣わされた使者が、自分の目の前で主君を軽んじる態度を見せたという理由だけで、その使者を殺した。
使者を殺害した直後、彼はその使者の同行者たちが滞在している場所へ赴き、殺害の理由を説明した。そして、薩摩公に対して使者の死の責任を取るため、同行者たちの前で切腹したいと申し出た。これにより、主君と薩摩公の間に争いが生じることを防ごうとしたのだ。
■腹を上から下へ、さらに左右に
同行者たち(彼らはその者の領内にいたため、彼が望めば殺すことも可能だった)の前で、清潔な場所に複数の「絨毯」を敷くよう命じた。そして大きな声で、自分が切腹する様子をよく見るように告げた。
浜辺の台の上に座り、冷静に時間をかけて遺言を自筆で認めた。その遺言では、名誉のために死ぬので、息子と家族の面倒を見てくれるよう主君に願い出た。
遺言を書き終えると、別れを告げ、明るい表情で少し飲み食いをした。そして、一同の前で恐れることなく腹を上から下へ、さらに左右に切り、そうして死んでいった。
この話が、歴史上のどの事件について書かれたものなのか、現時点では史料から特定できていませんが、おそらく天正期(1573年から92年)後半の出来事と思われます。
当時の人々の切腹に対する考え方や具体的な行動が書き留められており、切腹という特殊な行為に対して、外国人の眼から適度な距離感を保ちながら観察されています。
■「絨毯」の上で胡坐
この見聞記からは、戦国時代の切腹について、いくつか特徴を抽出することができます。
まず、自発的に行われることが特徴的です。使者を殺した後、この武士はみずから進んで切腹を選択しており、激しい感情も見られます。これは、戦国時代の切腹の本質的な性格と合致します。
次に、舞台装置が江戸時代と異なる点が挙げられます。ロドリゲスが「絨毯」と表現したのは、それなりに厚みのある敷物だと思われます。
当時の武将たちは獣皮や毛氈(もうせん)を日常的に使用していたことから、おそらく「絨毯」もそうした敷物を指すのでしょう。江戸時代の切腹の際に用いられた「白い布」とは異なる敷物と考えられます。
また、この武士が座っていた「浜辺の台」は、浜辺に設けられた畳敷の場所ではないかと思われます。
江戸時代初期の寛永年間(1624年から44年)に制作されたと推定されている「三木合戦絵図」には、畳の上に敷いた獣皮の上で切腹する場面が描かれています。しかも、切腹している姿は正座ではなく、胡座です。
■戦国時代にはすでに儀式が固定化
江戸時代のような庭先ではなく、当時の切腹はさまざまな場所で行われていました。ロドリゲスの記録にある浜辺のほかに、備中高松城主の清水宗治は兄弟らとともに水に浮かぶ舟の上で腹を切ったことが浅野家文書や「譜牒(ふちょう)余録」などに記されています。
また、関ヶ原の戦いに敗れた大谷吉継は馬上で切腹し(「慶長年中卜斎記」)、三木城が開城した際の別所長治は広間の畳の上で切腹しました(「別所長治記」)。
そして、この武士は「一同の前」で切腹していますが、これは江戸時代のように一般観衆の前での形式的な儀式ではなく、使者の同行者たちに申し開きするための直接的な証人としての立ち会いであったと解釈できます。
さらに、作法の源流が認められることも重要な特徴です。遺言を書き、飲食をするなど、切腹の直前の行動に関しては江戸時代の儀式化された切腹にも受け継がれており、こうした要素は戦国時代にはすでに固定化されつつあったことがわかります。
■後年の「十文字」は左右→上下の順番
また、上から下へ、さらに左右に、という切腹の具体的な方法も描写されています。つまり、当時からすでに正式な作法とされる「十文字」が行われていたのです。
ただし、後年の切る順序は逆で、まずは左右に切り、続いて上から下へ切り下げるのが正式な作法とされます。
続いて、切腹が自発的に行われていたことをよく表している逸話を紹介します。典拠としたのは、下野(しもつけ)(栃木県)の有力な国衆の佐野氏について書かれた軍記物『唐沢城老談記』です。
藤岡城の城主である佐渡守(さどのかみ)と榎本城の城主である大隅守(おおすみのかみ)という二人の武将がいた。この二人は、当初は佐野宗綱と同じく、水戸の城主である佐竹義宣公の配下だった。しかし、心変わりして小田原の(北条)氏直の旗本となってしまった。
この裏切りに宗綱は激怒し、両城主を討つべきだと側近たちと内々に相談を始めた。そして、代々仕える家臣である赤見六郎と富士源太に夜襲の計画を命じた。
■失敗の責任を取る行為
そのとき、山上藤七郎という佐野方の武将が、はやり男の若侍たち三六人を率いて、夜八つ時(深夜二時ごろ)に榎本城の大手門に押し寄せた。攻撃の呼び声を上げると、不意を突かれた城内は混乱に陥り、城が落ちるかと思われた。
しかし、夜明け方になると、佐野方が小勢であることに城側が気づいた。城兵たちは態勢を立て直して反撃を開始した。
この出来事を聞いた宗綱は、無許可の夜襲であったうえ、勝利もできず、多くの侍を失ったことに激怒した。藤七郎は面目を失い、切腹しようと犬臥(いぬぶし)大庵寺へ向かった。
家老たちはこれを哀れに思い、宗綱に許しを願い出て、赦免状も出されたが、そのときにはすでに藤七郎は切腹を遂げていたと伝えられている。
この逸話からは、戦国時代の武士の切腹に関する重要な文化的・倫理的な特徴が見えてきます。
藤七郎は命令されて切腹したわけではなく、みずから判断して切腹を選びました。この自発性は、武士の自律性と責任感を示しています。失敗の責任を取る行為として、切腹は武士の道徳的判断の表れとされていました。
■単なる処罰や制裁ではない
とりわけ、原文に見られる「面目をうしなひ」という表現が重要です。作戦の失敗そのものより、主君の怒りを買い、信頼を損なったことが切腹の理由となっています。
武士たちにとって、名誉や名声がとても重要でした。恥をかいた以上、その名誉回復には切腹しかないと思ったのでしょう。
藤七郎の命を救おうとし、主君に赦免を願い出ている家老たちの行動も興味深い側面です。しかし、藤七郎は赦免を待つことなく切腹を遂げています。
これは現代的な観点からすれば衝動的にも見えますが、当時の文脈では武士の決断の潔さとして評価されていました。
この事例は、切腹が単なる処罰や制裁ではなく、武士の自発的な判断として位置づけられていたことを示しています。とくに、主君からの命令や組織的な判断を待たずにみずから決断を下す点に、戦国武士の自律性が表れています。
また、切腹に対する両義的な態度も見られます。家老たちの赦免に向けた動きは、このような場合に、必ずしも切腹が必要とされていたわけではないことを示唆しており、ときには回避される可能性のある選択肢としてとらえられていた側面も垣間見えます。
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フレデリック・クレインス
歴史学者、国際日本文化研究センター教授
1970年、ベルギー生まれ。京都大学で博士号(人間・環境学)を取得。専門は戦国文化史、日欧交渉史。著書に『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』(ちくま新書)、『明智光秀と細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』(共著、筑摩選書)、『オランダ商館長が見た江戸の災害』(講談社現代新書)、『戦乱と民衆』(共著、講談社現代新書)などがある。
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(歴史学者、国際日本文化研究センター教授 フレデリック・クレインス)