※本稿は、フレデリック・クレインス『戦国武家の死生観』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■なぜお市の方は勝家と共に死を選んだのか
勝家とともに死を選んだお市の方の最期について紹介しましょう。典拠としたのは、お市の方の次女であるお初(常高院)に仕えた女房による「渓心院文(けいしんいんのふみ)」という覚書です。
北陸の勝山城で柴田勝家が羽柴秀吉軍に包囲されたときのこと。
柴田勝家は、正室のお市の方に3人の姫たちを連れて城を出るよう懇願した。しかし、お市の方はこう答えた。
「かつて浅井家のときに逃げ出したことさえ、いまでも悔やまれます。どうして今度も逃げ出すことができましょうか。柴田殿と運命をともにいたします。ただ、姫たちだけは城を出させていただきたい」
お市の方は、兄信長公から厚く信頼されていた筑前守(羽柴秀吉)であれば姫たちを粗末には扱わないだろうと考え、自筆の手紙を添えて姫たちを託すことにした。
姫たちは一台の輿(こし)に乗せられ、大勢の女中たちが付き添って送り出された。お市の方は三の間まで見送り、その姿は非常に美しく、実年齢よりもずっと若く、22、3歳にも見えたという。
敵陣も、姫様方がお出ましになるとあって、さっと道を開け、お供の女中方を通したとのことである。
■生き延びることは可能だったのに
そしてお市の方は、柴田勝家とともに自害し、さらに殉死したのは女中2、3人だったということである。
このお市の方の最期には、戦国期の武家社会における女性のあり方と死生観が如実に表れています。お市の方がみずから選んだ最期からは、単純な「忠義」あるいは夫への「愛」という現代的な解釈ではとらえきれない、複雑な武家女性の内面が見えてきます。
まず、娘たちとともに逃げることは十分可能でした。勝家もむしろそれを勧めました。娘たちも、まだ14歳、13歳と10歳でした。母として、娘たちの成長を見届けたかったはずです。しかし、お市の方はあえて死を選びました。
お市の方の「かつて浅井家のときに逃げ出したことさえ、いまでも悔やまれます」という言葉からは、一度は生き延びたことへの罪悪感が読み取れます。
彼女は信長の妹として、また大名の妻として、自分の行動が家の名誉にかかわると強く認識していました。武士が「死に様」を重んじたように、その妻たちもまた同様の価値観を内包していたといえるでしょう。
■江戸時代とは違う戦国期の行動原理
また、お市の方に従った女中たちに目を転じると、彼女たちも武家出身であり、主従関係は単なる雇用関係ではなく、強い絆に基づいていました。殉死した二、三人はとくに深い絆で結ばれていたのでしょう。お市の方は彼女たちを逃がそうとしましたが、あえてお市の方とともに死ぬことを選びました。
戦国時代は、まだ儒学思想に基づく「忠義」という概念が武家社会に広く浸透する前の時代です。江戸時代になって武家社会が整備され、「忠」の価値観が制度化されていくのとは異なり、戦国期の行動原理はより直接的な人間関係や感情に根ざしていたと考えられます。
お市の方の選択は、形式化された「忠義」というよりも、浅井家滅亡時の記憶と羞恥心に基づいていたと考えられます。
「かつて浅井家のときに逃げ出したことさえ、いまでも悔やまれます」という言葉に再び注目すると、前夫浅井長政の敗死時に生き残ったことへの複雑な感情が読み取れます。これは抽象的・外面的な「忠義」ではなく、具体的・内面的な経験に基づく心情です。
■当時の文脈では合理的な判断
みずからは死を選びながらも姫たちの助命を主張したことは、母としての愛情が強く働いていたことを示しています。
また、秀吉に娘たちを託したことから推測されるのは、兄信長との絆、秀吉との個人的な信頼関係など、実際の人間関係に基づく判断です。
お市の方の選択には、後世の「忠義」という規範に縛られた殉死とは異なる、自己決定の要素が強く見られます。名門・織田家の娘として、また大名の妻として、みずからの生き方に対する誇りと自尊心が強く影響していたのでしょう。
彼女の最期からは、形式化される前の、より生々しい戦国期の人間関係と女性の内面を垣間見ることができるのではないでしょうか。
武家社会では、名誉、絆、家の存続といった価値が個人の命よりも重視されていました。お市の方や女中たちの選択は、現代の視点からは極端に見えますが、当時の文脈では合理的な判断でした。
一方、現代社会では個人の命そのものが絶対的価値をもち、あらゆる選択の前提となっています。両者は異なる時代背景と価値体系に基づいているため、単純な比較はできません。
■現代の自殺とは異なる社会的意味
ただしこの違いは、当時の武家の行動を理解しようと思えば、現代の目で見てはいけないということを示唆しています。
歴史を理解するためには、当時の社会構造と価値観の枠組みを認識することが必要です。武家社会には「家」という概念を中心に、独自の秩序があり、個人はそのなかで役割を果たすことにおいて意味をもっていました。
また、行動の意味を当時の文脈で解釈することも大切です。お市の方の自害は、現代の自殺とはまったく異なる社会的意味をもっていました。武家の女性として恥ずかしくない最期を迎えることが求められていたといえます。
さらに、判断を保留する謙虚さも必要です。
たしかに戦国時代の史料を読むと、現代の感覚からすれば信じがたいほど頻繁に切腹や自害の記述に出会います。お市の方の事例も含め、命を惜しまぬ価値観の背景には複合的な文化的・社会的要因があったと考えられます。
■「生きている」という事実より重要なこと
武家社会では、個人の生物学的な命よりも社会的存在としての意味が重視されていました。お市の方にとっては、織田家の娘、浅井・柴田両家の妻としての立場が「生きている」という事実より重要であり、優先されるべきものでした。
この価値観は「面目」の絶対性と結びついており、武家にとって面目は命に勝るものでした。お市の方の「かつて浅井家のときに逃げ出したことさえ、いまでも悔やまれます」という言葉は、司馬遼太郎の注目した「名こそ惜しけれ」の考え方に通じるものです。
さらに、武家社会ではどう生きるかとどう死ぬかは不可分であり、お市の方の選択は彼女の生涯を武家の女性として完結させる行為でした。当時の自害は現代の絶望からの逃避ではなく、むしろ自分の生き方を最後まで貫く積極的選択としてとらえられていたのです。
■現代人には理解しがたい死生観
戦国時代は死が日常的に存在し、絶えず転変する社会では瞬時の決断が求められました。法や制度より実力が物を言う時代において、みずからの死に方を選ぶことは、最後まで自分の生き方を自分で決める自己決定の行為でした。
このように、お市の方の自害に見られる自分の命への執着の薄さは、単に命を粗末に扱うということではなく、命より重い価値(社会的立場、面目、家の将来)、死生観の違い(死を生の延長・完成形と見る)、そして戦国期特有の文化的・社会的背景が複合的に影響した結果といえるでしょう。
私たちからは理解しがたいこの死生観こそが、戦国武家の精神世界や行動原理を形づくっていたのです。
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フレデリック・クレインス
歴史学者、国際日本文化研究センター教授
1970年、ベルギー生まれ。京都大学で博士号(人間・環境学)を取得。専門は戦国文化史、日欧交渉史。著書に『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』(ちくま新書)、『明智光秀と細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』(共著、筑摩選書)、『オランダ商館長が見た江戸の災害』(講談社現代新書)、『戦乱と民衆』(共著、講談社現代新書)などがある。
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(歴史学者、国際日本文化研究センター教授 フレデリック・クレインス)