■訪日客になぜ人気急上昇中の中部地方の「地味な県」
日本国内で岐阜県を旅行先として挙げる人は決して多くはない。観光地の定番といえば北海道、東京、京都、沖縄といった場所であり、岐阜への観光はどちらかといえば、地味なイメージがある。
ところが、世界の観光市場では今、岐阜が注目を浴びているという。岐阜は掘り起こせば魅力満載だが、県南部の東白川村は特にディープな場所。そこは、「日本で唯一」寺がない自治体であった。筆者が訪ね歩いた現地の黒歴史を解説しよう。
岐阜県は2023年の民間調査「都道府県魅力度ランキング」では36位と低迷している。筆者は関西出身なので岐阜は馴染みがある。東京目線でいえば、箱根や日光といったイメージだろうか。だが、岐阜県の近隣には長野や北陸、名古屋、そして関西があり、埋没気味である。都市部からのアクセスもあまりよいほうではない。
しかし、世界の旅行市場に目を移すと、岐阜県は真逆の評価を受けている。
観光庁は今年2月、「宿泊旅行統計調査(2024年・年間値速報値)」を発表。それによれば、岐阜県への外国人延べ宿泊者数は、230万5600人となり、全国11位となった。
これは、コロナ禍前にあたる2019年の年間166万人を大きく上回り、過去最高だ。
9位の愛知県(385万人)や、“ゴールデンルート”の富士山がある10位の山梨県(238万人)に次ぐ数である。岐阜の下位には12位の石川県(228万人)や、13位長野県(219万人)、14位の広島県(197万人)と続く。
岐阜県を訪れる外国人の国別割合では、スペインが全国5位、イタリアが6位、フランスが7位と欧州人に人気の場所であることがわかる。
全国で11位という数字は、決してマイナーとは言えない旅行先である。しかも2014年からの伸び率は、なんと約4倍。これは、海外目線での岐阜県が強い魅力と求心力を持っていることを示している。
この人気を牽引しているのは、なんといっても世界遺産の「白川郷合掌造り集落」と「飛騨高山の町並み」である。合掌造りの茅葺き家屋が並ぶ里山の光景は、外国人にとって「日本の原風景」そのものだ。飛騨高山の町並みも、江戸時代の情緒が感じられ、和装姿で歩く旅行者が少なくない。
■人気がじわじわと広がる人口わずか2000人の東白川村
さらに、近年外国人の口コミで注目度を上げているのが、郡上八幡だ。郡上八幡は長良川の支流沿いに築かれた小さな城下町。
清流を町中に引き込み、あちこちで水のせせらぎが聞こえる涼しげな街として知られている。
もっか開催されている郡上踊りは、400年以上の歴史を持ち、「日本三大盆踊り」の一つだ。筆者が訪れた際にも、浴衣と下駄で踊る欧米人の姿が多く見られた。
そして最近、白川郷や飛騨高山、郡上八幡ほどの知名度はまだないものの、外国人にも人気がじわじわと広がっているのが東白川村だ。人口わずか2000人の小さな村だ。「白川郷」とは地名がダブるが、関係がない。
旅行者を惹きつける理由はいくつかある。近隣にある苗木城は専門誌『日本の城ベストランキング』の「山城」部門で、第1位に選ばれている。
村全体は「日本で最も美しい村連合」に加盟し、茶畑と檜の森が作り出す景観が評価されている。ユニークな村おこしもある。昭和の時代にブームになった幻の生物「つちのこ」探しである。つちのこは東白川村での目撃例が多いという。

村には「つちのこ資料館」があり、毎年5月には全国から捕獲者を募る「つちのこフェスタ」が開かれる。今年は人口を上回る2500人が集まり、133万円の懸賞金がかけられた。
この知る人ぞ知る小さな村は、日本仏教史を学ぶ上でも貴重な史料が残る場所だ。明治維新時に吹き荒れた廃仏毀釈の痕跡が、今なお村に深く刻まれているのである。
「木曽路はすべて山の中である」。日本近代文学の金字塔とも評される島崎藤村の『夜明け前』は、明治維新のまさに東白川村の周辺地域を舞台にしている。
平田派国学に傾倒した主人公が、「王政復古」に期待を寄せながら、近代化を急ぐ国家に裏切られる。精神を病んだ主人公は絶望の末に、菩提寺に火を付けるという物語である。
『夜明け前』で描かれたように、この地域では明治維新時、極度に国学思想が広がり、激烈な廃仏毀釈が吹き荒れた。
東白川村は江戸期の行政区分でいえば、苗木藩に当たる。苗木藩では明治初期、藩内寺院17カ寺すべてが廃寺になった。そして現在まで1カ寺も、再建されていない。
東白川村は、日本の自治体で唯一の「寺のない村」なのだ。寺はおろか、石仏ひとつ見つけることも難しい。
東白川村では現在でも、仏教徒はほとんど存在しないという。神道への改宗が強要されて以来、自宅にあった仏壇や戒名が彫られた位牌などは処分させられ、代わりに御霊棚を祀っている。ムラにおける葬式は神葬祭で実施されるのが通例となっている。
■岐阜は日本人や歴史好きにとっても「魅力度」が高い
この地の廃仏毀釈は、先述の苗木城の最後の藩主遠山友禄(ともよし)が主導した。苗木藩は石高わずか1万石という弱小大名であったが、遠山は幕末時、幕府の若年寄の要職にあった。遠山は1865(慶応元)年、第2次長州征伐のために、第14代将軍徳川家茂とともに大坂城入りする。だが、家茂はそこで病に倒れ、20歳の若さで亡くなってしまう。その際、遠山は家茂の遺体の運搬を任され、船で江戸に戻っている。
遠山は旧幕臣かつ、小藩の出であることで負い目を感じ、維新時には新政府側に恭順の姿勢を見せざるを得なかったと見られている。遠山は同時期、平田派国学に傾倒。
新政府にたいして、藩内寺院を一掃させるなどの過剰なアピールを見せることで、生き残りをかけたのだ。
苗木藩の廃仏毀釈がいかに激しいものであったかは、東白川村役場前に立っている「南無阿弥陀仏」の名号碑を見ればよくわかる。上部から下部へと向かって四方向から、人為的に割られているのだ。まるで、薪割りのように。村では、これを「四つ割の名号碑」と呼んでいる。
名号碑のある村役場そのものが、廃寺になった常楽寺跡に建設されたものだ。名号碑は付近の白川から採取された青石を使った堂々たるものである。1836(天保7)年に、信州高遠の石工伊藤傳藏の手によって完成した。
ところが1970(明治3)年、藩の役人がやってきて、名号碑を粉々に打ち壊せとの厳命がくだされる。この命令は高遠村にいた傳藏の元へと伝わり、傳藏自らが鏨を打ち込むことになったという。
傳藏は、「私は苗木藩の者ではない。高遠の石工だ。
仏の顔を踏みにじることはできない」と述べ、涙を流しながら、石の摂理に沿って4つに綺麗に割ったという。藩の命令は「粉々にせよ」ということであったが、傳藏は後世、修復ができるよう意図して“美しく”割ったのだ。
割られた名号碑は南無阿弥陀仏の文字が見えないようにして畑の積み石などにされた。そして年月の経過とともに名号碑の存在は忘れ去られていったという。
ところが昭和に入ってしばらく経った頃、村内でペストが流行。多数の死人が出る事態となった。ムラでは「名号碑を割った祟り」だという噂が流れた。そして、四散した名号碑を集め、再建することになったのが1935(昭和10)年のことである。
名号碑の例だけではない。苗木藩における廃仏毀釈のやり方は、耳目を疑うような執拗かつ、異常なものだった。このような記録が残っている。
「廃仏毀釈を進めるにあたって、先に坊主の素行を調べて置いた。そして坊主と信徒を呼び出して魚を食はせた。この時代は封建時代の習慣が残っている時代であったから、坊主は妾を置いたり魚を食ったりしていることを隠していた。そこで、役人の前で、坊主が『魚は食べられません』といえば、役人はすかさず『お前らは、普段から隠れて魚を食べ、妾を置いているではないか』と、先に取り調べてある事をいちいち並べ立てて糾問する。そして、『もし廃仏を承諾すれば許してやる。承諾せねば捕らえるが、どうするか』と脅して坊主らを承諾させた。そして、寺をつぶし、地蔵で橋を架け、仏像で風呂をたいて、仏風呂に坊主を入らせた」(「藤井草宜氏報」、筆者意訳)
こうした、旧苗木藩の廃仏毀釈の様子は「苗木遠山史料館」の常設展示にて、知ることもできる。この史料館も正岳院という廃仏毀釈で破壊された寺院跡に建立されている。正岳院の石垣がそのまま残されている。展示では、墨で塗りつぶされた位牌、叩き割られた仏塔などを見ることができる。
岐阜は、海外旅行者だけではなく、日本人や歴史好きにとっても「魅力度」の高い地域だ。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

浄土宗僧侶/ジャーナリスト

1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
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