遊就館(東京都千代田区)は、近代史に特化した戦争博物館だ。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「この施設で示されている歴史観には気になる点がある。
例えば、『満洲事変とその後』と題された解説パネルでは、日本側の積極的な行動という側面がぼかされている」という――。(第3回)
※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■皇居横にある「戦争博物館」が担う役割
日本では公的な歴史博物館が全体像を示すことを避けがちなため、民間の歴史博物館がそれに代わってはっきりとした歴史観を提示することが多い。その代表的な例が、靖国神社に併設された遊就館である。
遊就館は、1882(明治15)年、靖国神社の境内に武器陳列所として設立された。名前は、『荀子』勧学篇の一節「故に君子は居るに必ず郷を択(えら)び、遊ぶに必ず士に就く」から取られた。戦前、靖国神社は陸軍省が建設や経理を担当していたため、遊就館も陸軍省が管理する国立の軍事博物館という性格を持っていた。
日清戦争や日露戦争などを経ることで展示も充実したものの、1923(大正12)年の関東大震災により、設立当時の建物(イタリア人カペレッティによるイタリア古城様式)が損壊。1931(昭和6)年10月、伊東忠太設計により東洋風に建て直された。これが現在の本館にあたる。
敗戦後、靖国神社が占領軍の命令で宗教法人化されたことにともない、遊就館もまた靖国神社に移管された。戦後はながらく閉館していたが、1986(昭和61)年に再開し、2002(平成14)年には大規模な増改築を経て、リニューアル・オープンした。
現在、零式艦上戦闘機五二型の復元機などが展示されている新館は、このとき設けられたものである。
■近代史の展示解説パネルができたのは2002年から
そして、近代史の展示解説パネルが設けられたのも、このリニューアル時のことだった。意外に新しいが、これまで靖国神社を支えてきた旧軍人や遺族が年とともに減少するなかで、みずからの存在意義を積極的にアピールしなければならない必要に迫られたという面もあったのだろう。
いまでは、都心にこの種の施設が存在しないこともあり、遊就館は今日においても実質的に“日本を代表する戦争博物館”としての役割を果たしているといっていい。
展示内容は基本的に近代史に特化しており、明治維新からはじまり、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、日中戦争(館内では「支那事変」と表記)、大東亜戦争にいたるまで、時系列に沿って構成されている。
諸外国にある最先端の軍事博物館と比較すれば見劣りするものの、国内では圧倒的な規模と内容を誇り、展示品の点数も多く、充実している。
延床面積で見ると、遊就館は全体で約1万1214平方メートルにおよぶ。国立歴史民俗博物館が約3万8091平方メートル、広島平和記念資料館(本館+東館)が約1万1975平方メートル、沖縄県平和祈念資料館が約1万179平方メートルなので、国立の施設に引けを取らないことがわかる。
2025年、戦後80年の節目にあたって改修が施されたとのことで、わたしもあらためて足を運んだが、外国人観光客の姿が多く見られた。海外では戦争博物館は一般的な存在であり、日本における代表的な施設が遊就館であると認識されているからだろう。
近年、自衛隊関係者が集団で遊就館を見学していたとの報道もあった。こうした動きも、ある意味で自然な成り行きといえる。
これほどまでに戦争にかんする展示が体系的に整備された施設は、国内にはほかにほとんど見当たらないからである。
■「靖国史観」ではなく「受け身史観」
遊就館で示されている歴史観は、しばしば「靖国史観」と呼ばれ、日本の行動を一貫して正当化・美化しているかのように思われやすい。だが、実際はもう少し複雑な性格を帯びている。
この館を貫く基本的な歴史観は、むしろ“受け身史観”とでも呼ぶべきものだ。すなわち、日本はあくまで自国を守るために消極的に行動してきたにすぎず、その行為の多くは、外部からの圧力や脅威にたいするやむをえない対応であった──という立場である。
たしかに、こうした歴史観は明治期を見るぶんには一定の説得力を持つだろう。だが、第一次世界大戦を経て日本が五大国の一角を占めるようになると、状況は変わってくる。日本はもはやたんなる被害者とはいいにくくなり、国際秩序のなかで新たな責任と選択を迫られる主人公格のひとつとなっていたからだ。
現に、日本では、ヴェルサイユ=ワシントン体制への対応を迫られながらも、あわせて総力戦体制の構築が積極的に図られていた。軍内部には新たな改革志向の勢力もあらわれ、さまざまな構想が練られていた。
■問題の解説パネル
だが、遊就館の展示では、こうした主体的な動きはほとんど取り上げられていない。永田鉄山や石原莞爾といった、国家改造や満洲事変などの大陸進出に関わった軍人たちの動きにも言及されていない。

永田や石原は靖国神社に合祀されていないため取り上げにくいという事情もあるのかもしれないが、同じく合祀されていない東郷平八郎や乃木希典は積極的に言及されている(かれらは戦死しなかったため、靖国神社の祭神にはならなかった)。そのため、あえて取り上げないという選択の結果であるといえる。
それに代わって目立つのは、中国のナショナリズムの高揚や、コミンテルン、中国共産党の動きといった外的脅威に焦点を当てた記述だ。「満洲事変とその後」と題された解説パネルはその象徴だろう。
満洲(中国東北部)における排日運動の激化と、在満邦人の危機感等を背景として、昭和6(1931)年9月18日、奉天郊外の柳条湖において南満州鉄道爆破事件が起こり、これを機に日本と中国との間の武力衝突が始まった。当初、日本は不拡大方針を掲げたが、現地の軍事行動は満洲全域の軍事占領を図って拡大し、関東軍は張学良の勢力を満洲から駆逐した(以下略)。
■加害者としての日本の責任を避ける
注目すべきは、最後の一文において主語がつぎつぎにすり替わっている点だ。
冒頭では「日本」が主語となっているのに、中盤では「現地の軍事行動」、最後には「関東軍」と変化している。その結果、満洲事変の責任主体がどこにあったのかがきわめて不明瞭になっている。とりわけ「現地の軍事行動(英訳ではlocal military actions)」という表現は、関東軍のことなのか、それとも中国側のことなのか、あまりにも曖昧である。
たしかに、当時の日本政府(若槻礼次郎内閣)は不拡大方針を掲げていた。しかし実際には、関東軍が政府の方針に反して行動をつづけ、満洲全域の占領に踏み切った。
排日運動の存在もその背景にあったとはいえ、それ以上に、関東軍に満洲を日本の勢力圏下におこうとする明確な構想が存在していたことは、多くの研究によって明らかにされている。
にもかかわらず、展示では「現地の軍事行動」という抽象的な主語を用いることで、満洲事変における日本側の積極的な行動という側面がぼかされている。このような記述には、加害者としての責任が日本側に及ぶことを避けたいという意図がにじんでいる。
■図録と展示で異なる「満州事変」
ちなみに、遊就館の売店で販売されている図録(2008年発行)では、満洲事変はつぎのように説明されている。
昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条湖付近の鉄道爆破事件をきっかけに関東軍によって引き起こされた事変で、昭和八年五月三十一日の塘沽停戦協定によって事実上終結した。我が国は日露の戦勝で満洲に権益を有していたが、中国のナショナリズムは現行条約にかかわらず外国権益の回収を求め、在留邦人の生命財産を脅かした。このため関東軍は武力を行使し、その結果、満洲国が建国された(以下略)。
こちらの説明のほうが、関東軍の主体的な行動がはっきりと示されている。満洲を日本の支配下におこうとする従前の動きについては触れられていないものの、少なくとも構成としてはわかりやすい。
通常、遊就館の図録と展示パネルの内容は一致していることが多いが、満洲事変にかんしては食い違っている。関東軍の責任を明示することに、以前より慎重になったためだろうか。
だが、第一次世界大戦後の国際情勢や、日本が抱えていた資源不足などの制約をあわせて説明すれば、関東軍の行動もより多面的な理解が可能になっただろう。
それを省略し、日本側の主体性を曖昧にした結果、パネルの解説が不自然なものとなってしまっているのである。
■物議を醸した「ルーズベルトの大戦略」
あまり知られていないが、靖国神社の解説パネルはしばしば見直されている。そのなかでもっとも有名な見直しが、2006(平成18)年のものだろう。
当時、小泉純一郎政権下で、首相自身が毎年靖国神社に参拝していたことから、国内外で同神社の存在に大きな注目が集まっていた。そうしたなか、同年7月、米国のシーファー駐日大使やアーミテージ元国務副長官が、遊就館の展示内容にたいして批判的な意見を表明した。問題となったのは、「ルーズベルトの大戦略」と題された解説パネルだった。
(前略)米国の戦争準備「勝利の計画」と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することだった。参戦によって米経済は完全に復興した。
これではまるで、米国が自国の経済的利益のために日本を意図的に戦争へと追い込んだかのようではないか。“受け身史観”の典型例といえる。
■批判を受け、展示内容を見直し
さすがにこうした展示については、保守系の外交評論家である岡崎久彦などからも反米史観を見直すべきだという声があがった。
同年末、遊就館は一時的に閉館され、2007(平成19)年1月に再公開された。
このとき、問題となった解説パネルも、「ルーズベルト外交とアメリカの大戦参加」と改称され、内容も大幅に修正された。
(前略)欧州及びアジアの事態を重大視していたルーズベルトは、支那事変勃発三カ月後の1937年10月5日、いわゆる「隔離演説」を行い、国際社会の無法に対抗する必要を説いて暗に我が国を非難し、その後も世論の誘導に努めた。そして米国の世論、議会も日米通商航海条約廃棄など対日制裁の強化を支持し、ついには戦争の直接原因となる石油禁輸に至る。
現在もこの解説パネルが展示されている。

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辻田 真佐憲(つじた・まさのり)

作家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。

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(作家・近現代史研究者 辻田 真佐憲)
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