衆参共に少数与党となった「絶好のチャンス」でありながら、立憲民主党は内閣不信任案の提出に慎重姿勢だ。一体なぜなのか。
ジャーナリストの尾中香尚里さんは「否決されて当たり前の『自民一強』の時と違い、内閣不信任案の持つ意味が大きく変わった。政権選択の場はあくまで衆院選であるべきだ」という――。
■内閣不信任案を出さない立憲は「弱腰」か
参院選後初めての臨時国会が閉会した。衆院に続き、参院でも自公両党が合計で過半数を割り、石破政権が両院で少数与党となるという、これまでにない政治の風景の中で行われた国会。
面白かったのは、一部のメディアが、野党第1党の立憲民主党に「内閣不信任決議案の提出」をあおり、慎重姿勢を崩さなかった野田佳彦代表に対し「衆院を解散されるのが怖いのか」などと「弱腰」批判を展開したことだ。
時代は変わったものだとつくづく思う。自民党が国会で圧倒的な多数を占め「安倍一強」を謳歌していた頃は、立憲が内閣不信任案提出の構えを見せれば即座に「政治空白を招くべきではない」「否決される不信任案の提出など意味がない」などと、提出にブレーキをかけようとする声がわんさと飛び交ったものだ。安倍政権に不信任を突きつけるのはだめだが、石破政権なら良い、ということなのだろうか。
今回はそのことは置いておこう。筆者がここで指摘したいのは、立憲にとっての「内閣不信任案提出の意味」が、少数与党の誕生で大きく変わったということだ。
■「安直な意思表示」は国民に示しがつかない
7月22日公開の記事(「万年野党」から脱皮する時がきた…立憲が「悪夢の民主党政権」を繰り返さないために絶対にしてはいけないこと)でも指摘したが、石破政権が少数与党となったことで、立憲は国会内での力が相対的に増し、現実の政治を「政権与党並み」に動かす可能性が生まれた。
今後の立憲の政治行動は「近い将来政権を担う可能性がある政党としてふさわしいのか」という観点で、国民に評価されることになる。
不信任案提出一つをとっても「野党の意思表示として安直に提出する」という姿勢では済まなくなったのだ。
参院選での立憲の戦績が「横ばい」でパッとしなかった、他の中小政党の議席が大きく伸びた、という点だけにいつまでもとらわれていると、全体の政治状況を見失い、本当に国益を損ねかねない。不信任案提出問題も、そういう観点から考えるべきだろう。
■「否決で当たり前」の不信任案を出す理由
自民党がまだ「一強」と呼ばれていた4年前、筆者は不信任案提出の意味について、他媒体で記事を書いたことがある。当時はコロナ禍の真っ只中。「この国難の折に、立憲は不信任案を提出して政治空白を招くのか」という批判が渦巻いていた頃だった。
不信任案が提出されても、当時は巨大与党の下で粛々と否決できたはずだし、仮に政治空白を招くとしたら、その責任は不信任案を受けて衆院解散なり内閣総辞職を決断する当時の安倍政権の側なのに、それを野党に転嫁するかのような声があふれたことにあきれて、思わず書いたものだった。
そこで指摘した「不信任案提出の意味」は、以下の2点だ。一つは「なぜ野党は時の政権を信任できないのか」を国会で明らかにして、次の総選挙における政権選択の判断材料にしてもらうこと。もう一つは、不信任の理由を語る「言葉」を議事録に残し、後世の検証に耐えるようにしておくこと。当時の記事ではこう書いている。
「歴史は時の権力の手でつむがれる。
うっかりすれば、政権に都合の良いストーリーだけが後世に残ることになりかねない。だからこそ、国会の議事録の存在には大きな意味がある。時の政権に対し国民の間にどんな批判の声があったのか、どんな『ほかの選択肢』が提示されていたのか、議論の過程を記録に残すことは、とても重要である」
■「可決させること」が目的ではない
議員内閣制の下では、通常は政権与党が議会の多数を占める。野党が提出する内閣不信任案は、提出しても否決されるのが当たり前だ。それでも野党が不信任案を提出する目的は、基本的に「可決させること」ではないと、筆者は考えてきた(例外的に政権与党が分裂して不信任案が可決された例もあるが、そんなことは本来期待すべきではない)。
政権担当能力を持つ二つの政党が、それぞれ異なる「目指す社会像」を持ち、どちらの社会像を望むかを、選挙で有権者に選択してもらう――そんな政治の確立を求めてきた。可決の見込みのない内閣不信任案を野党が提出する意味とは「野党が政権与党の政治の何を批判し、自らはそれと異なるどんな政治を目指すのか、有権者に選択肢を示すための材料」以外の何ものでもない、と考えてきた。
■自民が立憲の発言力を無視できなくなった
ところが現在、その当時では全く想像できなかった事態が起きている。
あの「一強」を謳歌していた自民党が「桜を見る会」問題(2019年)頃からつまずき始め、安倍晋三元首相の死去後に発覚した裏金問題(2022年)で一気に崩壊過程に入ったのだ。昨秋の衆院選、今年7月の参院選で自公両党の議席が過半数を割り、石破政権は衆参共に少数与党となった。
対する立憲は衆院選で50議席増の躍進。参院選では他の野党の議席増の陰で現状維持という地味な結果だったが、政権与党との力関係で言えば、両者はさらに拮抗した。

参院選後に新しい議長を選任するために召集された臨時国会で、日米関税交渉などをテーマに衆参の予算委員会の集中審議が開かれ、実質的な議論が行われたことも、その集中審議で石破茂首相が、企業・団体献金のあり方について立憲の野田氏との党首協議に応じる考えを示したのも、立憲の発言力を石破政権側が無視できなくなっているゆえんである。
野田氏はこのほか、同党の経済政策の「一丁目一番地」とも言える「給付付き税額控除」についても、自民党との協議を呼びかけ、石破首相から前向きな答弁を引き出している。
■可決で生まれる「政治空白」は誰の責任か
さて、こうなった局面で内閣不信任案の提出は必要なのか。
与党が衆院の過半数を割っているため、野党は一枚岩になれば、不信任案を可決できる。不信任案の提出は、自民「一強」時代の「野党の意思表示」を超え、実際に政治を動かす強い力を持つようになった。
不信任案が可決されれば、時の政権は多くの場合、衆院解散を選択する。参院選からまだ間もないのに、またも多額の税金をかけて国政選挙が行われる。党内基盤の弱い石破政権が内閣総辞職を選択する可能性もないとは言えないが、自民党は総裁選となり、この場合も長い政治空白が生じる。
そういう政治状況を生み出すことについて、野党は今度こそ自らが責任を負うことになる。実際に不信任案を可決する力を持った以上、その力を行使して政治の空白を招いたことについて、野党はもはや無関係だと口をぬぐうことはできない。その判断が有権者に支持されなければ、野党は次の総選挙で大きく支持を失う可能性もある。
不信任案提出を声高に訴える勢力(特に一部の野党当事者)が、本当にそれだけの覚悟を持ってそれを主張しているのか、筆者は甚だ疑問である。

■不信任案を出さずとも野党の考えが反映される
トランプ米大統領による新たな「相互関税」の発動で、日米で合意されていたはずの負担軽減の特例措置が適用されていなかった問題が明るみに出た。東日本大震災やコロナ禍という文字通りの「国難」を経験してきた日本で、今回の問題を安易に「国難」と呼ぶ気にはならないが、少なくとも現段階では、わざわざ不信任案を出して政治空白を求めるべき時でないのは明らかだろう。
野田氏は8日の記者会見で、不信任案提出について「先走りしてはいけない。物事には段取りがある」と述べた。妥当だと思う。
野党は赤沢亮正経済再生担当相の帰国を待って閉会中審査を求めているが、少なくとも今は「できるだけ国会を開き、誤りのない政治判断ができるようにしておくこと」が重要だと考える。何しろその政治判断に、野党自身の考えが大きく反映されることがあるかもしれないのだから。不信任案うんぬんは、それらのあらゆる手を尽くした上で、それでも行き詰まった時に初めて考えれば良い。
参院選で議席を伸ばした国民民主党のキャッチフレーズ「対決より解決」とは、まさに今こそ使われるべき言葉だ。この台詞を声高に叫んで有権者の支持を獲得したはずの玉木雄一郎代表が今、不信任案提出論の先頭に立っているのは残念だ。
■いま必要なのは「熟議の政治」
石破政権が衆参両院で過半数割れを起こしたこと、にもかかわらず両院で自民党が比較第1党を維持したことは、つまり有権者が「政権与党は当面自民党でよい」と認めた上で、その権力行使について「野党が納得し、合意できる形で行うべきだ」と制約をかけた、ということだ。
ここでいう野党とは、基本的に最大勢力の立憲だ。
与党と野党の最大勢力が合意できる内容なら、国民の大半が合意できるはずだからだ(もちろん、与党の自民党が連立相手の公明党と、野党の立憲が他の多くの野党とよく協議し、できるだけ最大公約数的な意見をまとめて協議すべきなのは言うまでもない)。
これを、大連立などという安直な形に頼らず、国会の「表」の場で議論しながら政治決定を行うことが、この間に示された民意に基づく政治、すなわち「熟議の政治」である。
「熟議の政治」を進めていくなかで、与党と野党のどちらが議論をリードしたか、どちらがより国民に目を向けた政治を考えていたか、今後は「自民党中心の政権」と「立憲中心の政権」のどちらが望ましいか、そういうことが見えてくる。最後は有権者が次の衆院選で判断し、政権を選び取れば良い。
■政権選択の場は衆院選であるべき
政権を選択する場はあくまで衆院選だ。どんな政権であれ、よほどのことがない限り、衆院の任期途中で政権をころころ交代させる必要はない(今までがおかしすぎたのだ)。不信任案を権力争いのゲームのカードとして使うのは、本来の使い方ではない。
「建前」「きれいごと」と言われてしまいそうだが、まさに政治の「建前」が次々と崩れそうになっている今こそ、筆者は「建前」を大事にしたいと思う。

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尾中 香尚里(おなか・かおり)

ジャーナリスト

福岡県生まれ。1988年に毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長などを経て、現在はフリーで活動している。著書に『安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ』(集英社新書)、『野党第1党 「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)。


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(ジャーナリスト 尾中 香尚里)
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