
10月18日に開幕したAリーグ・メン(オーストラリア1部)。
日本人選手も数多くプレーしており、オークランドFCには元日本代表DF酒井宏樹が今季新加入し、ウェリントン・フェニックスにはMF長澤和輝、MF石毛秀樹が加わるなど元Jリーガーが続々活躍の場を移し、注目しているファンも少なくないだろう。
今シーズンのAリーグ・メンには、合計7人の日本人選手が所属しているが、下部リーグまで含めると、オーストラリアでプレーしている日本人選手は120人を超える。
しかし、外国籍選手にとってオーストラリアの下部リーグからAリーグ・メンへのステップアップは非常にハードルが高い。
パース・グローリーのユニフォームに袖を通した青山(本人提供)2010年にNPL(ナショナル・プレミア・リーグ、オーストラリア2部相当)からシドニーFCへ移籍したDF森安洋文(ひろふみ)を最後に、オーストラリアの下部リーグからAリーグ・メンへステップアップした日本人選手はいなかった。
今回Qolyは、日本人選手として14年ぶりにセミプロリーグからAリーグ・メンへステップアップを果たしたMF青山景昌(ひろあき)にインタビューを実施。これまでの紆余曲折のキャリアについて振り返ってもらった。
名古屋グランパスのアカデミーで培った「サッカーを楽しむこと」
――いつからサッカーを始めましたか。
「小学校1年生からなので6歳のときですね。兄がサッカーをやっていたので、遊びの延長でずっとボールを蹴っていて、小学校に入って本格的にサッカーを始めました」
――その後、青山選手はJ1名古屋グランパスのアカデミーに入団しました。どのようなきっかけで入団しましたか。
「小学校5年生のときに1年間、愛知県トレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)に入っていて、グランパスの選手とサッカーをする機会も多かったです。
県トレセンのスタッフがグランパスのコーチで、5年生の12月ぐらいに声をかけてもらいました。
何人かのスタッフの了承を得ないとスムーズに入団できないと言われて、その後に愛知県の地区別のトレセンが集まる大会を見て決めると言われました。
でも、緊張しすぎてぜんぜんダメだったんですよ。
結局、セレクションに回されて、2次選考でグランパスの選手と数週間トレーニングをしました。
僕がもともと所属していたチームの監督は(名古屋グランパスから)セレクションはダメでしたと連絡を受けていたみたいです。
最後の2日間のトレーニングが良くて、参加期間を1週間延ばしてもらうことになり、最終的に名古屋グランパスに入団できました。
実はトレーニング期間が1週間延びたことは後から知らされたんです」

――名古屋のアカデミーには、同学年に小島亨介選手(GK、J1アルビレックス新潟)がいました。いまの新潟での小島選手のご活躍から刺激は受けていますか。
「もともとみんなが認めるいい選手だったし、どこかでプロになるだろうと思っていました。驚きはないですね。
そういう意味では、今年から札幌(J1北海道コンサドーレ札幌)に行った髙尾瑠(DF)には驚かされました。
彼も大学を経由してガンバ大阪(J1)に入ったんですけど、アカデミーのときからポテンシャルは高く、スタメンで(試合に)出ていましたが、大卒でガンバに入団するとは想像していませんでした。
大学1年生(関西学院大学)のときに全日本大学選抜に入り、そこからとんとん拍子でプロになりました。
きっと彼なりに努力して自信をつけた結果だと思います。
中学、高校と(名古屋のアカデミーで)一緒にやっていますから刺激になっていますが、僕の目線から言うと、ライバルと思っていないというか。
僕はJ3でまともに試合に出られなかったので、J1にいる彼らと自分を比べることはできません。
素直に彼らをすごいなと思っていますし、これから先もケガなく活躍してほしいです」
――名古屋のアカデミーで培った経験から、いまに生きていることなどはありますか。
「サッカーを楽しむことですかね。『相手の逆を取れ』みたいなことはよく言われていました。
ボールを回すときも、ただ回すだけじゃなくて『相手の逆を取れ』とか。
U-18のときは週に1回ミニゲームがあって、そこはもう自由に楽しんでやっていいようなゲームで、そこでも相手の逆を取ったり、コンビネーションを高めたりしました。
そういう相手の逆を取ってサッカーを楽しむところはいまに生きています」
中央大を1年で退学し、びわこ成蹊スポーツ大では1つ年下の同級生と関西制覇を目指す
名古屋のアカデミーでは『相手の逆を取る』など、サッカーの駆け引きを楽しみながら、足下の卓越したスキルや豊かな創造性に磨きをかけた。
青山は高校1年のときに世代別の日本代表にも選出され、AFC U-16選手権にも帯同した。
順風満帆なキャリアを歩んできたかに思われた青山だったが、プロの壁は高く、トップチームへ昇格はできなかった。
――どのような経緯で中央大に入学しましたか。
「『U-18からの昇格見送り』という新聞記事をTwitter(現X)で見て、トップチームに上がれないことを知りました。
そのとき僕たちは誰も(トップチームに上がれないことを)聞かされておらず、GMの久米さん(久米一正)から『すぐにクラブハウスに来てくれ』と電話がかかってきました。
そこから一緒に進路を考えようとなったときに、中央大出身の久米さんの勧めもあり、中央大に進学することに決めました」
――その後、中央大を途中で辞めてびわこ成蹊スポーツ大に再入学した理由を教えてください。
「簡単に言うと、人間関係がうまくいかなくなって中央大を辞めました。そこで気持ちが切れてしまって、本当にサッカーも辞めようとしていました。
でも、周りの支えがあったり、母から『サッカーを続けてほしい、大学を卒業してほしい』と言われて。
兄がびわこ成蹊スポーツ大の出身で、そのつながりで母がコーチとやりとりをしてくれました。
(中央大を)1月に辞めてからすぐに動き出したこともあって、奇跡的に枠があり4月に入学できました。
僕は本当に周りに支えられているなと思いましたね」

青山としては不本意な理由で中央大を退学したが、再入学したびわこ成蹊スポーツ大では入学後すぐにレギュラーに抜擢された。
2年のときには背番号10をつけて、同校サッカー部史上初の関西学生リーグ優勝に貢献。さらに青山が最高学年となった年に出場した関西選手権では、準決勝(vs大阪体育大)と決勝(vs関西大)で得点を挙げ、滋賀県の新興校を初優勝に導いた。
――びわこ成蹊スポーツ大では、2年のときから背番号10番をつけて活躍されました。4年のときには関西選手権で優勝も経験していますが、同大での思い出を聞かせてください。
「入学当初は、学年は同じ1年でも周りは1つ歳下の選手なので、すごくやりづらかったです。
当時の僕は、自己評価を見誤っていて、自らやりづらい環境にしていました。
そんなとき、4年生の先輩から『お前は今後、同学年の人たちと4年間過ごすことになるし、4年になったときは1つ上の代はいなくなる。だからそこの意識は変えたほうがいいよ』と言われて『確かにそうだな』と納得しました。その助言が僕にとって大きかったですね。
そこで自分のマインドを変えて上手くコミュニケーションを取ろうという姿勢に変わりました。
1年目に先輩から受けた助言がなければ、4年のときの(関西選手権)優勝はなかっただろうし、僕の4年間はなかったと思います」
プロで直面したフィジカルの課題
2020年からJ3福島ユナイテッドFCに入団し、プロの門をたたいた青山。
しかし、福島では度重なる負傷に悩まされ、自身が思い描いていた活躍は見せられなかった。
2021年11月に契約満了が言い渡されるまでの苦難の2シーズンを振り返ってもらった。

――びわこ成蹊スポーツ大から福島ユナイテッドに入団した経緯を教えてください。
「J1のチームとJ2のチーム、福島ユナイテッドの3チームの練習に参加したのですが、オファーをもらえたのは福島ユナイテッドだけでした。
少し待てば他のチームからも練習参加に呼んでもらえると聞いていたのですが、焦りもあったのですぐにオファーをくれた福島に行きました。
当時、松田岳夫(たけお)さんが(福島ユナイテッドの)監督をしていて、すごく自分のプレーを評価してくれて、練習も面白いので『自分はこういうサッカーを求めているんだな』と思って入団を決めましたね。
松田監督のサッカーは、ポゼッションでパスをつないでいくスタイルを目指していて、僕が活きているなと感じました」

――プロになって最初に直面した課題は何でしょうか。
「フィジカルです。
大学のときは『相手に当たらなければいいでしょ』と思っていたので、ほとんど筋トレをしていませんでした。
プロになった途端に強度が一気に上がって、僕はプロで戦うフィジカルを持っていなかった。それですぐにケガをしてしまいました。
ケガはアクシデントもありましたが、大学のときに圧倒的なフィジカルをつけてプロに上がっていれば、また違うシーズンになったのかなと思いました」
――2021年、新型コロナウイルスが猛威を振るいました。青山選手も同年の4月から7月ごろに新型コロナウイルスの症状に苦しんだと聞きました。
「プロ2年目のときですね。最初のミーティングで個別のミーティングがあり、そのときに『いまのプレースタイルではチームにフィットしない』と言われ『このままだとやばいな』と思いました。
キャンプに復帰してから徐々にコンディションが上がってきて『よし頑張ろう』と思ったときにコロナに罹りました。
クラブで初めての感染でした。コロナはおそらく3週間くらい休めば治ると思うのですが、僕は3ヶ月も休んだんです。
コロナどうこうではなく、3ヶ月も休んでしまい、もうメンタル的に(ダメージが)きていました。
福島での戦力外通告からオーストラリアへ挑戦
2021年の11月に福島から契約満了を受けた青山は、その年のJリーグ合同トライアウトに参加した。
しかし、1シーズンほとんど試合に出場していなかったブランクは想像以上に大きく、トライアウトでのプレーでオファーをもらえなかった。
Jリーグでの挑戦に終止符を打った青山は2022年にシドニーへ渡豪し、オーストラリア2部相当のNPLに所属するブラックタウン・シティFCへ移籍した。
NPLはセミプロリーグのため、平日は働きながら週末のリーグ戦を戦う必要がある。
そのような厳しい環境のリーグで、青山は復活を果たす。
持ち前の足下のスキルと左足のキックの精度を武器に、ブラックタウンの司令塔として活躍。
移籍初年度で、ボビー・チャールトン(FW、元イングランド代表)もプレーした古豪をNPL制覇に導いた。
その後、同リーグのマルコーニ・スタリオンズで1シーズンプレーし、今シーズンからAリーグ・メンのパース・グローリーへ入団。
NPLからAリーグ・メンへのステップアップは、日本人選手では14年ぶりの快挙だ。

――福島ユナイテッドを退団後、オーストラリアへ渡りました。
「もともと海外に行こうと思っていました。コロナで3ヶ月間休んだときに、今季で契約が切れることは分かっていたので。
Jリーグ合同トライアウトではオファーはもらえず、僕の知り合いがいろいろ助けてくれて、地域リーグのクラブからオファーをもらいました。
そこで1年間プレーしてJリーグに戻ろうという話をしてくださいましたが、1年プレーしても海外へ行きたい気持ちは変わらないだろうし、Jリーグに戻ることは簡単じゃないと思ったので、海外挑戦を決意してオーストラリアへ行きました。
ワーキングホリデーに参加して、現地でブラックタウン・シティのトライアルを受けて契約に至りました」

――オーストラリアに行ってチームや環境にアジャストするために苦労はありましたか。
「言語が違うのでコミュニケーションが取れない。でもプレーで示さないといけないと思っていたので、とにかくすごく必死でしたね」
――初めてオーストラリアへ渡ったときと現在ではオーストラリアのサッカーのイメージは変わりましたか。
「あまり変わってないですね。フィジカルでボンボン蹴るみたいなイメージだったので。
でも、若い選手はレベルが上がってきているなと思います。上手い選手もいるし、身体(の強さ)だけじゃなくてボールを扱える選手も増えてきているなと感じました」
――サッカー選手として活躍されている傍ら、プライベートサッカーコーチをしていました。コーチを始めた理由を教えてください。
「ブラックタウンのときからやっていたんですけど、マルコーニの1年目から本格的にやり始めました。
というのも、ブラックタウンとマルコーニはNPLというカテゴリーで、セカンドディヴィジョンなのでセミプロフェッショナルなんです。プロサッカー選手じゃないので、みんな仕事をして練習に来ます。
だから仕事をできる時間もあるし、週3回しか練習がなくて時間もあったので、将来のためにも自分から始められることは何かなって思ったときに、いまはサッカーが一番できるから『コーチをやってみるか』と始めました。いまはやっていませんけどね」
――今後、日本や他の地域で(コーチ業を)やってみたいと思いますか。
「ビジネスには興味があって、その経験として(コーチ業を)立ち上げた感じだったので、日本でもやれたらいいですね。
どうなるかはわかりませんが、何かしらはやってみたいですね」
――ブラックタウン・シティではNPL優勝を果たしました。その後、マルコーニ・スタリオンズFCでのプレーを経て、Aリーグ・メンのパース・グローリーへ移籍しました。パースへ移籍した経緯を教えてください。
「ブラックタウンに入ったときからAリーグでプレーしたいという気持ちはずっと思っていました。
でも、どうやってトライアルを受けるのか分からないし、どうやったらオファーをもらえるのかも分からないまま1シーズンを過ごして、その後マルコーニへ移籍したときにもクラブの関係者にはAリーグでプレーしたいとずっと言っていました。
『お前なら行けるよ』『そのレベルだったらプレーできるよ』と言われ続けていましたけど、いやどうやってオファーをもらうんだよってところで。
僕、コーチの仕事やっていて、たまたま(教えていた)子どものお父さんが『エージェントを知っているよ』とつなげてくれました。
エージェントがいろんなクラブにビデオを送ってくれて、パースのトライアルを持ってきてくれて、合格してサインできました」

――Aリーグ開幕から3試合連続で先発出場しました。いま、パースで青山選手が求められている役割はどのような部分だと思いますか。
「3試合スタメンでしたけど、3試合とも45分しか出ていないし、ぜんぜん勝てていないので、まだ何を求められているのかはあまり見えていません。
でも、ボールを受けてさばくとか、ボールを受けて前に運んだりだとか、フィジカル的にも強くないし大きくない。でもボールを扱える選手だとは思っているので、そういうところで攻撃の起点になったりすることは求められているんじゃないかなと思います」
――日本人選手がAリーグで活躍するために必要なものは何だと思いますか。
「僕もまだ模索している途中です(笑)
でも日本人らしいテクニックとか、頭のいい選手は重宝されると思いますし、それにプラスしてフィジカルがあれば戦えると思います。
僕はまだまだ活躍していませんし、これからのシーズンがどうなるかわかりませんが、ボールを扱えるという部分は、現地(オーストラリア)の選手より日本人の方が抜けているなと思うところがあります」
――今シーズンの目標を教えてください。
「今シーズンは試合に出られるだけ出て、一つでも多くゴールやアシストができればいいかなと思っています。あとは少しでも英語を学んで、チームに馴染み、結果に結びつけられたらいいなと思います」
――今後のキャリアについて考えていることはありますか。
「Aリーグの後は東南アジアに行こうと考えています。また違った経験ができると思います。
Jリーグに戻る可能性は低いかなと思います。アジアの中でもJリーグはレベルの高い環境なので。
基本的にはこのまま海外でサッカーを続けたいです」

学生時代は自身の進路について能動的に動けなかった生粋のサッカー少年は、様々な挫折を経験してオーストラリアに渡り、自らの運命を切り開いた。
青山は福島ユナイテッドで経験した悔しさを糧にしながら、いまも名古屋アカデミーで培った「サッカーを楽しむ」という競技の本質を大切にしている。
フィジカルに優れた大柄な選手が集うAリーグ・メンで、創造性豊かなプレーでひときわ輝きを放つ青山景昌の今後の活躍に目が離せない。