
「名選手、名監督ならず」という言葉は非常に有名だ。プレーヤーとして優秀であっても、マネージメントとしてその力が発揮されるかどうかはわからない。
今回は『Planet Football』から「名監督になることができなかった名選手たち」をお送りする。
ウェイン・ルーニー
率いたクラブ:ダービー・カウンティ、DCユナイテッド、バーミンガム・シティ
監督としての成績:40勝40分73敗
勝率:26.1%
今季途中にバーミンガム・シティの監督を引き受けたものの、わずか3ヶ月でチームを6位から20位まで転落させてしまいあえなく解任となったウェイン・ルーニー。
ダービー・カウンティで選手兼監督として指導者キャリアを始め、それからアメリカに渡ってMLSで指揮。さらにイングランドに戻ってという指導歴となったが、これまで監督としての勝率は30%にも達していない。
かつてスヴェン=ゴラン・エリクソンには「ルーニーは貧しい出自なので感情をコントロールできない」と言われていたが、監督としての資質には優れていないのだろうか。
フリスト・ストイチコフ

率いたクラブ:ブルガリア代表、セルタ、マメロディ・サンダウンズ、リテックス・ロヴェチ、CSKAソフィア
監督としての成績:66勝30分34敗
勝率:50%
アメリカで行われた1994年のワールドカップで得点王になったブルガリアの伝説的ストライカー。1998年から1999年にはJリーグの柏レイソルでもプレーしたことで知られており、小国が産んだ世界的な名選手である。
彼が指導者としてデビューしたのは2003年、引退からまもなくバルセロナでストライカーコーチを務めた。その次年度にはブルガリア代表監督に就任したが、2006年のワールドカップ出場権を獲得することはできず、スティリヤン・ペトロフら数人の中心選手から「彼が監督の間は呼ばれても行かない」と招集を拒否されてしまった。
2007年に辞任してからはスペイン、南アフリカ、そして母国ブルガリアでクラブチームを指揮している。2012-13シーズンはリテックス・ロヴェチでシーズン最優秀監督に選ばれたものの、それが唯一の成功だった。
ギャリー・ネヴィル

率いたクラブ:バレンシア
監督としての成績:10勝7分11敗
勝率:35.71%
今やイングランドで最も売れっ子の評論家であるギャリー・ネヴィル。マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表で活躍した彼は、テレビやラジオで鋭い解説を行い、ユーモアとトークのセンスは流石のものがあった。
友人でもあったシンガポール人実業家ピーター・リムの誘いで、彼は監督としての経験もなしに2015年12月からバレンシアを指揮することになったものの、それから9試合に渡って勝利することができず。コパ・デル・レイではバルセロナに0-7とボッコボコにされた。
メディアの報道によれば「0-7で負けたあともネヴィルは怒りを見せず、選手に寄り添おうとした」という。ネヴィルはあまりにもいい人でありすぎて、選手と近づこうとしすぎていたという評価をされているようだ。
アラン・シアラー

率いたクラブ:ニューカッスル・ユナイテッド
監督としての成績:1勝2分5敗
勝率:12.5%
イングランド・プレミアリーグの歴史上最も多くのゴールを決めた伝説的な点取り屋、アラン・シアラー。しかもブラックバーン・ローヴァーズとニューカッスル・ユナイテッドという中堅のクラブでキャリアを過ごしたにもかかわらずだ。
偉大すぎる彼であるが、2008-09シーズンに降格しかけたニューカッスルを救うために火中の栗を拾った。残り8試合の段階で監督を引き継いで指揮を執ったが、8試合でわずか5ポイントしか取れず。
最終節にもアストン・ヴィラに敗れてしまい、ミドルズブラとともに2部へと降格。それ以来シアラーは一度も指導者を引き受けていない。
アンドレア・ピルロ

率いたクラブ:ユヴェントス、ファティ・カラギュムリュク、サンプドリア
監督としての成績:54勝27分29敗
勝率:49%
世界最高のレジスタとしてピッチ上では試合を支配したアンドレア・ピルロ。クールで知的な選手として知られたが、指導者となってからはそれを表現できていない。
マッシミリアーノ・アッレグリに変わってユヴェントスを指揮したシーズンでは、9年ぶりに優勝を逃して4位という結果に終わった。コッパ・イタリアこそ優勝したもののチャンピオンズリーグでも結果を残せず解任されている。
そしてトルコに渡ってファティ・カラギュムリュクを指揮するも、そこも1シーズンのみ。選手の証言によればハーフタイムの喫煙を許可したとのことで、規律に甘いところがあったという。
トニー・アダムス

率いたクラブ:ウィコム、ポーツマス、ガバラ、グラナダ
監督としての成績:16勝28分38敗
勝率:19.5%
アーセナルで選手としてのキャリアをすべて過ごしたワン・クラブ・マン。イングランド代表でも13年にわたってプレーし、そのキャリアはまさにレジェンドと言える存在だ。
ただ監督としては全く成功できなかったことでも有名である。大学でスポーツ科学を収めた後、ウィコム・ワンダラーズの監督を務めたものの、3部から4部に降格してシーズンを終えた。
ポーツマスでも16試合で勝点10しか取れず。アゼルバイジャンのガバラでは1年半指揮してそこそこの成績は出たものの、その後率いたグラナダでは7試合全敗ですぐに解任された。
ブライアン・ロブソン

率いたクラブ:ミドルスブラ、ブラッドフォード、WBA、シェフィールド・ユナイテッド、タイ代表
監督としての成績:173勝127分176敗
勝率:36.34%
マンチェスター・ユナイテッドの伝説的なキャプテンであったブライアン・ロブソン。ロイ・キーンに引き継がれた強烈なリーダーシップを持ち、勝者のメンタリティをチームに注入した男であった。
ただ、それはロイ・キーンと同じく指導者としては生かされていない。最初のミドルズブラでは選手兼監督としてプレミアリーグ昇格を成し遂げたものの、後に降格の危機となった際に選手を公に批判し、残留には成功したがチームを去ることになった。
それから3部のブラッドフォード・シティで4部に降格し、WBAでは稲本潤一らを指導したもののプレミアリーグで最下位になり、シェフィールド・ユナイテッドでも成績不振で解任に。
タイ代表ではなんと東南アジアの王者を決めるスズキカップで2分け1敗とグループステージ敗退に終わってしまった。これはタイにとって14回出場した大会の歴史上最悪の結果で、未勝利なのはこの1回だけである。
フランク・ランパード

率いたクラブ:ダービー・カウンティ、チェルシー、エヴァートン
監督としての成績:81勝44分71敗
勝率:41.3%
ダービー・カウンティで監督としてのデビューを飾ったフランク・ランパード。若い選手たちを古巣のチェルシーから借り、メイソン・マウントやタミー・アブラハムの才能を開花させ、昇格まであと一歩と迫った。
その弟子たちが戻ったチェルシーを率いた際には、補強禁止処分を受けたチームをチャンピオンズリーグ出場に導くなど成功を収めるも、2年目は低迷。9位まで落ちたことで2021年1月に解任された。
その後エヴァートンでも残留争いに巻き込まれ、2023年1月に解任。そしてその3か月後には低迷するチェルシーに呼び戻されたが、11試合で1勝しかできず。監督としてのキャリアを重ねるごとに上手く行かなくなっている。
ローター・マテウス

率いたクラブ:ラピド・ウィーン、パルチザン・ベオグラード、ハンガリー代表、アトレチコ・パラナエンセ、レッドブル・ザルツブルク、マッカビ・ネターニャ、ブルガリア代表
監督としての成績:71勝35分47敗
勝率:46.41%
ドイツ代表で150試合に出場した超名選手のローター・マテウス。ピッチ上ではその激しい性格でカリスマ性ある闘将として活躍し、類稀なほどのリーダーシップを見せた。
当然指導者としても期待されてはいたが、2001年にラピド・ウィーンの監督に就任すると8位に低迷して解任に。それから様々なクラブや代表チームを率いたものの、ほとんど成功することができなかった。
唯一レッドブル・ザルツブルクではリーグ優勝を果たしているものの、その際にはあの名将ジョヴァンニ・トラパットーニとの共同で指揮をとっていたため、評価がかなり難しい。
ディエゴ・マラドーナ

率いたクラブ:タクスティル・マンディユ、ラシン・クラブ、アルゼンチン代表、アル・ワスル、フジャイラ、ドラドス、ヒムナシア・ラ・プラタ
監督としての成績:67勝31分42敗
勝率:47.86%
そして世界最高の選手であったディエゴ・マラドーナも、監督としてはそれほど大きな成功を収められなかった。もちろん彼が指揮をとることによってメディアからは半端ではないほどの注目を集めたが。
引退後元同僚のカルロス・フレンとともに監督のキャリアをスタートさせ、アルゼンチンの国内リーグで失敗。それから長く現場を離れたが、2008年にアルゼンチン代表監督に就任。ワールドカップに出場して準々決勝敗退となっている。
それからUAEのアル・ワスルとフジャイラを率いたがどちらでも成績を残せず、メキシコ2部のドラドスでも昇格を手にできず、2019年にはヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任するも2020年に健康状態の悪化で死去。結局指導者としての成功には至らなかった。