7日から開催される四大陸フィギュアスケート選手権・男子シングル。初優勝を狙う羽生結弦は、平昌五輪で金メダルを獲得したときのプログラム、『バラード第1番』(ショート)と『SEIMEI』(フリー)に回帰して臨む。

なぜこの2つのプログラムは、羽生結弦が「自分らしく」滑れるのか? その物語は、平昌五輪より前、5年前に始まっていた――。

(文=沢田聡子、写真=Getty Images)

平昌五輪・金メダルの過程にあった「コネクト」

ショートプログラム『バラード第1番』とフリー『SEIMEI』は、羽生結弦が唯一無二の存在であることを強く印象づけてきたプログラムだ。

2014年ソチ五輪で金メダリストとなった羽生は、この2つのプログラムを滑った2015-16シーズン、限界を感じさせない無類の強さを発揮する。2014-15シーズンから継続した内省的で繊細な『バラード第1番』はこのシーズンに完成され、新しい『SEIMEI』では和の音楽と羽生の滑りが持つ緊迫感が相まって、研ぎ澄まされた空間を創り出した。NHK杯で総合322.40点という驚異的な世界最高得点をたたき出し、グランプリファイナルではさらにその得点を更新する330.43点をマーク。五輪で金メダルを獲得しても緩むことのない羽生の向上心の結晶が、この2つのプログラムだった。

平昌五輪前の2016-17シーズン、羽生は表現上のテーマとして「コネクト」を掲げた。

ショートは『Let’s Go Crazy』、フリーは『Hope&Legacy』を滑ったこのシーズン、羽生は観客とつながることを意識している。優勝したNHK杯の記者会見で「コネクト」を意識したことについて尋ねると、羽生は次のように答えた。

「試合でなかなか今まで会場全体に行き届いた表現・目線を意識しきれなかったのですが、そういう意味で自分の中での大きな財産になったと思います」

翌シーズン、羽生は平昌五輪で勝つために、プログラムを『バラード第1番』と『SEIMEI』に戻すことになる。しかしその準備として、自ら足りないと感じていた見る者との「コネクト」を意識するプログラムを滑ったことには意味があったと考える。外側に向けて表現することを意識して過ごした2016-17シーズンがあったからこそ、平昌五輪での羽生には空気を支配するより大きな力が備わっていたのではないだろうか。

羽生の表現は、外側ではなく内側に向かっていくように思われる。

試合では、羽生が自らと向き合いながら上を目指す姿を、私たちは魅了されながら見守る。個人的には見る人に伝えようと外へ向かって開いていくのが表現だと思ってきたが、羽生には内側へ向かいながらも深く人を動かす表現を示されたように感じている。究極のアスリートである羽生が自分を高めていく様子を見ることができるプログラム、特に『バラード第1番』と『SEIMEI』には、彼にしかできない表現がある。

2017-18シーズンを迎え、平昌五輪で滑るプログラムに『バラード第1番』と『SEIMEI』を選んだ理由として、羽生は「自分でいられるプログラムなので、すごく滑っていて心地いい」「自分が滑っていて、無理なくその曲に溶け込めるような感覚があった」と説明している。満を持して迎えた平昌五輪シーズンだったが、羽生は11月に行われたNHK杯の公式練習で4回転ルッツを跳んだ際に転倒、右足首を痛めてしまう。その後長期の治療とリハビリを余儀なくされ、平昌五輪本番が4カ月ぶりの試合となった。

しかし羽生は圧巻の演技を披露し、五輪連覇を達成。『バラード第1番』でのジャンプをすべて完璧に決めた後の美しいステップ、『SEIMEI』での勝利を確信した歓喜のハイドロブレーディングとレイバック・イナバウアーは、今も人々の心に刻まれている。シーズン前により深くしたいと話していたショート・フリーは、大舞台で勝ち切る強い羽生を象徴するプログラムとなった。

曲に溶け込むように跳ぶ羽生に合う曲選びは容易ではない

今季グランプリシリーズ初戦のスケートカナダで圧勝、いい流れの中迎えたNHK杯ショート当日午前の公式練習で、羽生は『バラード第1番』を滑っている。2位と大差をつけて首位に立ったショート後の囲み取材で、午前中の練習で滑っていたのは『バラード第1番』か、と問われた羽生は「はい、バラ1(やりました」と答え、理由については次のように語っている。

「(今季前半のショート)『オトナル』の(4回転)サルコウと(4回転)トウループがちょっとマンネリ化しているな、というのと……マンネリ化というか、自分の中で『やり過ぎちゃうと本番で使えなくなるな』とちょっと思ったので、いいイメージのあるバラ1の(4回転)サルコウと4回転―3回転をやって、感覚よく終わろうと思っていました」

NHK杯で、羽生は2位に55点以上差をつける圧倒的な勝利を飾っている。グランプリシリーズで2連勝し、当然のようにグランプリファイナル進出を決めた時期の羽生の中にも、いいイメージのあるプログラムとして『バラード第1番』が常にあったということになる。

NHK杯ショート後の記者会見で、羽生は曲に合わせてジャンプを跳ぶ難しさについて語っている。

「曲に感情を入れ切ると、ジャンプを跳ぶのがすごく難しいんですね、僕の場合は。それはなぜかっていうと、曲にジャンプのテンポを合わせ過ぎちゃうから。そうすると、僕のジャンプというんじゃなくて曲のテンポになってしまうので、すごくそこは難しいところなんですけど……ただやはり僕のフィギュアスケートは、そういうところが一番大事なところだと思っていますし、それができてこそ『僕は羽生結弦』と言えると思っているので」

多種類の4回転をただプログラムに入れるのではなく、曲に溶け込むように跳ぶのが羽生のスケートの素晴らしさだ。だからこそ、羽生自身のジャンプのテンポと合う曲こそがプログラムに使用する曲としてふさわしく、曲選びは非常に難しいともいえる。

先人への敬意を表するプログラムにするも、つきまとった苦闘

平昌五輪後の羽生が滑ってきたのは、先人に敬意を表するプログラムだった。

ショート『秋によせて(オトナル)』では優雅な男子スケーターとして画期的な存在だったジョニー・ウィアー、フリー『Origin』は五輪3大会で連続してメダルを獲得し“皇帝”と呼ばれるエフゲニー・プルシェンコのプログラムと同じ曲を使用した、オマージュとなる作品だ。五輪連覇を成し遂げた羽生のモチベーションとなった2つのプログラムは、ショートは美しさ、フリーは強さという羽生の2つの魅力を伝える作品でもあった。しかし、憧れのスケーターが滑った曲は、羽生のジャンプのリズムを考慮して選ばれたわけではない。昨季の世界選手権、さいたまスーパーアリーナで羽生が渾身の滑りを見せた『Origin』は、点数や勝敗を超えて見る者の魂を揺さぶったが、直後に滑ったネイサン・チェンに敗れている。今季もグランプリファイナルでチェンに、全日本選手権で宇野昌磨に敗北を喫し、『秋によせて』『Origin』を滑る羽生に苦闘がつきまとってきたのは否めない。

全日本のエキシビション「メダリスト・オン・アイス」で、羽生は『SEIMEI』を滑り、自らを象徴するジャンプであるトリプルアクセルを決めている。

「自分にとっても特別なプログラムを滑らせていただいた。その内容もまた、トリプルアクセルで最近ずっとミスを繰り返していて、なかなかきれいに決まらない時があったんですけど……そういったものも含めて『ちょっと戻ってきたな』って思えるような瞬間があったので、ちょっとだけうれしいなって今は思っています」(「メダリスト・オン・アイス」終了後に収録されたテレビ番組『羽生とゆづる』での発言)

四大陸選手権が行われる韓国に入った羽生は、プログラムを変更した理由として、ただ難しいことをするだけではない自分の目指すフィギュアスケートを見せたい、という主旨のコメントをしたと報じられている。

羽生結弦が唯一無二のスケーターである理由は、勝負強さだけではない。音楽と調和したプログラムの一部としてジャンプを跳ぶという、フィギュアスケートの理想を体現しているからだ。平昌五輪で頂上を極めた2つのプログラムが真の価値を示すのは、羽生が常勝の呪縛から解き放たれて理想のスケートを追求する、これからなのかもしれない。

<了>