ローリングストーン誌 読者投票:「ならず者」「テイク・イット・イージー」「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」をしのいだ楽曲は?

再延長の発表でも控えていない限り、イーグルスは2年にわたる「ヒストリー・オブ・ジ・イーグルス」ツアーを、今年の7月29日に開催されたルイジアナ州ボージャー市のセンチュリーリンク・センター公演をもって閉幕した。大成功に終わったこのツアーでは、彼らの作品が時系列で演奏され、オープニングには1975年にバンドを脱退して以来、初めてのツアー参加になるギタリストのバーニー・リードンも登場した。
イーグルスはもう何年も採り上げることのなかった「サタデイ・ナイト」「ドゥーリン・ドルトン」「今朝発つ列車」といった曲も演奏している。この一大ツアーの終えんを祝して、ローリングストーン誌はイーグルスのフェイバリット・ソングについての読者投票を募った。以下がその結果である。

10. 「ピースフル・イージー・フィーリング」

シンガー・ソングライターのジャック・テンプチンがまだサンディエゴのコーヒーハウスでライヴをして回っていたころに書いた、心配事のない人生と新しい愛についての曲が、イーグルス結成当時のグレン・フライの耳にとまり、イーグルスはこの曲をデビュー・アルバムでカヴァーすることとなる。このことはテンプチンの将来の経済面を大きく左右することになった。この曲はイーグルス1972年のデビュー・アルバムからのサード・シングルで、ホット100で最高位22位を記録した。
今では多くの人がこの曲のことを、映画『ビッグ・リボウスキ』の主人公デュードがタクシーに乗った時に流れている曲として覚えている。デュードが「オレはイーグルスなんて大嫌いなんだ」と言うと、運転手は彼をクルマから放り出してしまうのだ。こんなにメロウなのに、イーグルスは今でも賛否両論を巻き起こすバンドなのだ。

9. 「時は流れて」

『ホテル・カリフォルニア』の制作に取りかかる直前に、ドン・ヘンリーは、インテリア・デザイナー(後にジュエリー・デザイナーに転身)のローリー・ロドキンとの手痛い別れを経験する。彼はありったけの傷心と後悔を「時は流れて」に注ぎ込んだ。彼はこう歌う。
「僕にできたことはたくさんあったはずなんだ、ベイビー。自分が置き去りにしたものや、失われた時間を後悔することをやめることすらできない」。この哀しみのバラード(ストリングス付き)は、アルバムのA面を締めくくるだけでなく、B面の頭にも交響曲のようなリプライズが収められている。この曲はシングルカットされていないが、ファンの人気は高く、1994年の『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』再結成ツアーのハイライト曲であった。

8. 「言いだせなくて」

ベーシストのティモシー・B・シュミットは、1979年、イーグルスが『ロング・ラン』の長期消耗戦となる制作を開始する直前にバンドに加入した。彼がまだ完成度が粗い段階の「言い出せなくて」をドン・ヘンリーとグレン・フライに聴かせ、2人の協力を得て肉付けして完成させた結果、この曲は1980年春に電波ジャックをするほどの大ヒットとなった。しかしシュミットにはゆっくり祝杯を挙げる時間もなかった。バンドがその数か月後に解散してしまったからだ。しかし彼はこの曲を、その後行うこととなるリンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドとのツアーの目玉曲として歌うこととなる。21年前のイーグルス再結成後は、この曲はすべてのコンサートでハイライト曲となっている。

7. 「いつわりの瞳」

『呪われた夜』を1975年の夏にリリースするころまでに、イーグルスはすでに十分知名度のあるバンドになっていた。しかしこのアルバムでイーグルスはさらにワンランク上の成功を収める。
この作品はビルボード・アルバムチャートで初のナンバーワンを獲得、そこからのシングルもラジオで。「いつわりの瞳」は、ある夜に若い恋人がおしゃべりしている様子を眺めていたドン・ヘンリーとグレン・フライが、それを不倫であると妄想して書きあげた曲だ。ホット100では最高2位を記録した。バンドはもはやこれ以上人気が上がることはないように思われたが、その頃はまだ、イーグルスが1976年に何をしようとしているのか、誰にも知るよしはなかった。

6. 「呪われた夜」

イーグルスの最初の2枚のアルバムのプロデュースを担当したグリン・ジョンズは、イーグルスのことを、もっぱらカントリー・ロックのバンドだとみていた。バンドメンバーは、このような見方がバンドの成長を狭めていると感じ、『オン・ザ・ボーダー』のセッションの最中にジョンズをお払い箱にし、新プロデューサーにジェームス・ギャングを手がけたビル・シムジクを迎えた。1975年に『呪われた夜』をリリースした頃には、担当が完全にシムジクに移っている。結果的にこの作品はよりハードなロックアルバムとなった。ギターにドン・フェルダーが加入したことも大きかった。このタイトルトラックでは、ヘンリーのヴォーカルとフェルダーのギターワークが驚くほど冴えている。この曲はホット100で1位を獲得、イーグルスは70年代最大のロック・バンドの1つとして確立された。

5. 「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」

ランディ・マイズナーは気の毒な男だ。
このベーシストは、イーグルスがまだリンダ・ロンシュタットのバックバンドだった創世記時代から在籍し、彼らお得意のハーモニーを作り出すのに欠かせない存在だった。70年代にリリースした6枚のアルバムのうち5枚で演奏し、1975年の大ヒット曲「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」ではリード・ヴォーカルも担当した。しかし彼は内気な性格で、コンサートではこの曲を歌おうとしなかった。そのことでバンド内に緊張が高まり、結局1977年、バックステージでグレン・フライと壮絶な大喧嘩をしたあげくに、マイズナーはバンドを脱退してしまう。バンドが1994年に再結成された際にも、呼ばれたのはマイズナーの後釜で加入したティモシー・B・シュミットの方だった。現在コンサートでこの曲を演奏する際には、フライがヴォーカルをとっている。マイズナーは今年初頭にちょっとした事件を起こしてもいる。つくづく気の毒な男である。

4. 「ラスト・リゾート」

「ラスト・リゾート」といえば、ただ単に「駆け足の人生」のB面にあった曲だと思われるかもしれないが、ドン・ヘンリーはかねてから、この1976年作品を自身の最高傑作だと主張している。1978年に彼はローリングストーン誌に次のように語っている。「この曲の趣旨はこうだ。我々は何か良き物を見つけても、我々自身の存在でそれを壊してしまう。
人類は、自身の環境を破壊することができる地球上で唯一の動物だからだ。私が政治に関心を持ったのは、環境がきっかけとなっている。残された資源が完全に破壊されていくさまを見て、何とかしないといけないと思った。我々は、自分の利益と欲のために、未来を担保にしているんだ」

この曲はロードアイランド州プロヴァンスに始まり、全米を横断し、ハワイの街ラハイナで幕を閉じる旅を歌っている。そしてその道程で、アメリカ人がいかに自然を搾取し破壊してきたかの歴史をたどっていく。「我々はきりのない欲望を満たし、殺りく行為を正当化する」とヘンリーは歌っている。「運命と神様の名の下で」。

3. 「テイク・イット・イージー」

世界で最も成功したロックスターとして台頭することになる数年前、ジャクソン・ブラウンとグレン・フライはロサンゼルスのアパートに同居しながら、ソング・ライティングに苦闘していた。ある日2人がブラブラしていた時、ブラウンはフライに、なかなか完成できない曲のスケッチを聴かせた。フライはこれを気に入り、是非とも完成させるべきだと勧めたが、結局自分で仕上げることになる。その結果生まれたこの曲は、イーグルスのデビュー・アルバムの1曲目に収録され、かつ初めてのヒットシングルとなった。この曲のおかげでカントリーロック自体も有名になった。
その後彼らがどれほど成功しようとも、この曲はいまでもファンに最も愛されている曲の1つであり続けている。

2. 「ならず者」

イーグルスのデビュー・アルバムの予期せぬ成功は、彼ら自身にとってもショッキングなことだった。「本当にテンパったよ」とドン・ヘンリーは振り返る。「だからこそ、(次のアルバムとして)『ならず者』を作ったんだ。カーボーイをメタファーにしたこのアルバムが、名声と成功という悪魔に対する、僕たちなりのアーティスト・ステートメント(どのような目的や動機で作品を制作しているかを説明する文章のこと)になってくれると思った」。これはダルトンのカーボーイ・ギャングをめぐる緩いコンセプトアルバムとなっており、そのタイトルトラックは、流浪の人生の孤独を嘆くものとなっている。この曲はシングルカットされていないものの、バンドの旧友であるリンダ・ロンシュタットが1973年にカヴァーし、広く知られることとなった。もう40年以上も、この曲はイーグルスのコンサートで毎回演奏されており、しばしばトリの1曲にも選ばれることもある。

1. 「ホテル・カリフォルニア」

この曲ほど、歌詞が分析され続けているポップソングはないだろう。40年前にリリースされて以来、歌詞1行1行の解析に血道をあげるファンはあとを絶たない。「スティーリー・ナイフ」というのはスティーリー・ダンへのあてつけだろうか?「コリタス(colitas)」っていったい何のことだ?曲全体が実は悪魔のことを歌っているのではないのか?ドン・ヘンリーはひょっとしてワインが蒸留酒(スピリッツ)でないことを知らないのでは?

プレーン・ディーラー紙の評論家ジョン・ソーダーは、2009年に最後の疑問をドン・ヘンリーにぶつけているのだが、その時点ですでにヘンリーは「ホテル・カリフォルニア」についてあれこれ聞かれることへのフラストレーションを隠そうとすらしていない。「歌詞を完全に誤解して、メタファーをまるで理解できていないのは、別にあんたが1人目じゃないんだよ」とヘンリーは語っている。
「いいかい、僕はありとあらゆるアルコールを飲んできたし、それがどんな風に作られているのかも、どんな風に呼ばれているのかについてはちゃんと知ってる。この歌詞はアルコールとはなんの関係もなくて、社会政治的な意見表明なんだ。私に唯一、後悔することがあるとすれば、こんなことをクドクドとあんたに説明しないといけないことなんだね。だってそれって、ソングライティングにおける文学的な仕掛けが失敗していて、議論が全く無関係でアホらしい化学変化の話にレベルダウンしているということだからね」

誰もがもっと知りたいと思うような曲を書くのはけして簡単なことではない。この曲はもともとドン・フェルダーが持ち込んだデモ曲で、これをドン・ヘンリーとグレン・フライが肉付けして完成させた。フェルダーはいまでもこの曲を自慢しているが、2000年以降、フェルダーがイーグルスとしてこの曲を演奏する機会は一度もない。彼らの泥沼決裂は裁判沙汰にもなっており、ドン・ヘンリーなどはいまだにインタヴューで、「ミスター・フェルダー」としか呼ばない。ファンは再結成を望んでいるのだが、それだけは実現しそうにない。
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