再延長の発表でも控えていない限り、イーグルスは2年にわたる「ヒストリー・オブ・ジ・イーグルス」ツアーを、今年の7月29日に開催されたルイジアナ州ボージャー市のセンチュリーリンク・センター公演をもって閉幕した。大成功に終わったこのツアーでは、彼らの作品が時系列で演奏され、オープニングには1975年にバンドを脱退して以来、初めてのツアー参加になるギタリストのバーニー・リードンも登場した。
10. 「ピースフル・イージー・フィーリング」
シンガー・ソングライターのジャック・テンプチンがまだサンディエゴのコーヒーハウスでライヴをして回っていたころに書いた、心配事のない人生と新しい愛についての曲が、イーグルス結成当時のグレン・フライの耳にとまり、イーグルスはこの曲をデビュー・アルバムでカヴァーすることとなる。このことはテンプチンの将来の経済面を大きく左右することになった。この曲はイーグルス1972年のデビュー・アルバムからのサード・シングルで、ホット100で最高位22位を記録した。
今では多くの人がこの曲のことを、映画『ビッグ・リボウスキ』の主人公デュードがタクシーに乗った時に流れている曲として覚えている。デュードが「オレはイーグルスなんて大嫌いなんだ」と言うと、運転手は彼をクルマから放り出してしまうのだ。こんなにメロウなのに、イーグルスは今でも賛否両論を巻き起こすバンドなのだ。
9. 「時は流れて」
『ホテル・カリフォルニア』の制作に取りかかる直前に、ドン・ヘンリーは、インテリア・デザイナー(後にジュエリー・デザイナーに転身)のローリー・ロドキンとの手痛い別れを経験する。彼はありったけの傷心と後悔を「時は流れて」に注ぎ込んだ。彼はこう歌う。
8. 「言いだせなくて」
ベーシストのティモシー・B・シュミットは、1979年、イーグルスが『ロング・ラン』の長期消耗戦となる制作を開始する直前にバンドに加入した。彼がまだ完成度が粗い段階の「言い出せなくて」をドン・ヘンリーとグレン・フライに聴かせ、2人の協力を得て肉付けして完成させた結果、この曲は1980年春に電波ジャックをするほどの大ヒットとなった。しかしシュミットにはゆっくり祝杯を挙げる時間もなかった。バンドがその数か月後に解散してしまったからだ。しかし彼はこの曲を、その後行うこととなるリンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドとのツアーの目玉曲として歌うこととなる。21年前のイーグルス再結成後は、この曲はすべてのコンサートでハイライト曲となっている。
7. 「いつわりの瞳」
『呪われた夜』を1975年の夏にリリースするころまでに、イーグルスはすでに十分知名度のあるバンドになっていた。しかしこのアルバムでイーグルスはさらにワンランク上の成功を収める。
6. 「呪われた夜」
イーグルスの最初の2枚のアルバムのプロデュースを担当したグリン・ジョンズは、イーグルスのことを、もっぱらカントリー・ロックのバンドだとみていた。バンドメンバーは、このような見方がバンドの成長を狭めていると感じ、『オン・ザ・ボーダー』のセッションの最中にジョンズをお払い箱にし、新プロデューサーにジェームス・ギャングを手がけたビル・シムジクを迎えた。1975年に『呪われた夜』をリリースした頃には、担当が完全にシムジクに移っている。結果的にこの作品はよりハードなロックアルバムとなった。ギターにドン・フェルダーが加入したことも大きかった。このタイトルトラックでは、ヘンリーのヴォーカルとフェルダーのギターワークが驚くほど冴えている。この曲はホット100で1位を獲得、イーグルスは70年代最大のロック・バンドの1つとして確立された。
5. 「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」
ランディ・マイズナーは気の毒な男だ。
4. 「ラスト・リゾート」
「ラスト・リゾート」といえば、ただ単に「駆け足の人生」のB面にあった曲だと思われるかもしれないが、ドン・ヘンリーはかねてから、この1976年作品を自身の最高傑作だと主張している。1978年に彼はローリングストーン誌に次のように語っている。「この曲の趣旨はこうだ。我々は何か良き物を見つけても、我々自身の存在でそれを壊してしまう。
この曲はロードアイランド州プロヴァンスに始まり、全米を横断し、ハワイの街ラハイナで幕を閉じる旅を歌っている。そしてその道程で、アメリカ人がいかに自然を搾取し破壊してきたかの歴史をたどっていく。「我々はきりのない欲望を満たし、殺りく行為を正当化する」とヘンリーは歌っている。「運命と神様の名の下で」。
3. 「テイク・イット・イージー」
世界で最も成功したロックスターとして台頭することになる数年前、ジャクソン・ブラウンとグレン・フライはロサンゼルスのアパートに同居しながら、ソング・ライティングに苦闘していた。ある日2人がブラブラしていた時、ブラウンはフライに、なかなか完成できない曲のスケッチを聴かせた。フライはこれを気に入り、是非とも完成させるべきだと勧めたが、結局自分で仕上げることになる。その結果生まれたこの曲は、イーグルスのデビュー・アルバムの1曲目に収録され、かつ初めてのヒットシングルとなった。この曲のおかげでカントリーロック自体も有名になった。
2. 「ならず者」
イーグルスのデビュー・アルバムの予期せぬ成功は、彼ら自身にとってもショッキングなことだった。「本当にテンパったよ」とドン・ヘンリーは振り返る。「だからこそ、(次のアルバムとして)『ならず者』を作ったんだ。カーボーイをメタファーにしたこのアルバムが、名声と成功という悪魔に対する、僕たちなりのアーティスト・ステートメント(どのような目的や動機で作品を制作しているかを説明する文章のこと)になってくれると思った」。これはダルトンのカーボーイ・ギャングをめぐる緩いコンセプトアルバムとなっており、そのタイトルトラックは、流浪の人生の孤独を嘆くものとなっている。この曲はシングルカットされていないものの、バンドの旧友であるリンダ・ロンシュタットが1973年にカヴァーし、広く知られることとなった。もう40年以上も、この曲はイーグルスのコンサートで毎回演奏されており、しばしばトリの1曲にも選ばれることもある。
1. 「ホテル・カリフォルニア」
この曲ほど、歌詞が分析され続けているポップソングはないだろう。40年前にリリースされて以来、歌詞1行1行の解析に血道をあげるファンはあとを絶たない。「スティーリー・ナイフ」というのはスティーリー・ダンへのあてつけだろうか?「コリタス(colitas)」っていったい何のことだ?曲全体が実は悪魔のことを歌っているのではないのか?ドン・ヘンリーはひょっとしてワインが蒸留酒(スピリッツ)でないことを知らないのでは?
プレーン・ディーラー紙の評論家ジョン・ソーダーは、2009年に最後の疑問をドン・ヘンリーにぶつけているのだが、その時点ですでにヘンリーは「ホテル・カリフォルニア」についてあれこれ聞かれることへのフラストレーションを隠そうとすらしていない。「歌詞を完全に誤解して、メタファーをまるで理解できていないのは、別にあんたが1人目じゃないんだよ」とヘンリーは語っている。
誰もがもっと知りたいと思うような曲を書くのはけして簡単なことではない。この曲はもともとドン・フェルダーが持ち込んだデモ曲で、これをドン・ヘンリーとグレン・フライが肉付けして完成させた。フェルダーはいまでもこの曲を自慢しているが、2000年以降、フェルダーがイーグルスとしてこの曲を演奏する機会は一度もない。彼らの泥沼決裂は裁判沙汰にもなっており、ドン・ヘンリーなどはいまだにインタヴューで、「ミスター・フェルダー」としか呼ばない。ファンは再結成を望んでいるのだが、それだけは実現しそうにない。