今年3月に来日公演を行ったロイ・エアーズに、『Jazz The New Chapter』シリーズで知られる柳樂光隆がインタビュー。本人の発言を踏まえつつ、1940年生まれの”キング・オブ・ヴァイブス”を再考する。


ロイ・エアーズという音楽家の作品を聴き返していると、あまりに特異で驚いてしまった。

90年代に育った僕らの世代にとって、彼はドクター・ドレ、ア・トライブ・コールド・クエスト(以下ATCQ)、メアリー・J. ブライジなどのサンプリングソースだったり、レアグルーヴやクラブジャズ系DJの定番みたいなイメージが強くて、とりあえずクラブカルチャー経由で聴かれている音楽という印象が強かった。

ロイ・エアーズ・ユビキティの代表曲「Everybody Loves the Sunshine」は、 メアリー・J.ブライジ「My Life」やドクター・ドレ「My Life」にサンプリングされた。

ただ、当時のイメージから少し離れて、音楽家としてのロイ・エアーズを改めて見直すと興味深いポイントがいくつもある。今回、短時間ではあったが本人に話を訊く機会を得た。その時の発言も引用しながら、ロイの魅力を考察してみたい。

まず、これはよく言われることだが、彼はジャズやソウル、ファンク、ラテン、さらにはディスコまで様々な要素を融合させた独自のサウンドを作ってきた。ジャズのヴィブラフォン奏者としてキャリアをスタートさせ、ジャック・ウィルソンの『Something Personal』(67年)で名門ブルーノートにも録音を残しているほどのプレイヤーだったが、フルート奏者のハービー・マンによるソウルジャズの傑作『Memphis Underground』(69年)に参加するなど、徐々にジャズの枠をはみ出していく。その頃から自身の作品でもソウルの曲をカバーするようになり、70年にはポリドールと契約すると、自身のグループのユビキティを結成。ここから快進撃が始まる。

1.ディスコやハウスを予見した、革新的な声の使い方

71年の『Ubiquity』ではエレクトリックのピアノやベースを取り入れ、楽曲自体もジャズ由来の即興演奏やバンドメンバーの相互作用は残しつつ、よりキャッチーな方向性に変わっていった。その最たるポイントがボーカルの導入だろう。
鍵盤奏者/コンポーザーのエドウィン・バードソングや自身のボーカルを大胆に取り入れ、ジャズでもソウルでもファンクでもない、新たなサウンドを創出し始めた。

―『Ubiquity』でボーカルを入れるアイデアはどこからきたんですか?

ロイ:例えば、チカス(※)は素晴らしかったね。私のバンドではとてもいい仕事をしてくれた。私はポリドールと契約してアルバムを出していたんだけど、ポリドールのスタッフはすごく音楽愛があってね。だからこそ、いい作品ができたのかもしれない。私は基本的に考えたりしないんだ、自然に出てくるんだよ、オートマチックなんだよね。だからボーカリストを入れたことも意図したことではなくて、すごくナチュラルなことだったんだ。

※ロイの76年作『Vibrations』に収録された名曲「Searching」などでコーラスを務めたユビキティのメンバー

―あなたの作品では、ボーカリストはバンドのフロントに立つ存在というよりも、楽器と同じようにバンドのサウンドと一体化していましたよね。あんな音楽は他になかったと思うんです。

ロイ:その通り。私はソウルミュージックが大好きだから、ソウル寄りの曲を書いてはいたんだけど、私と共演するボーカリストに関しては、歌がうまいだけじゃなくて、音楽についての知識を持っていて、音楽をわかっていることが重要だった。自分が書いたメロディーやフレーズをきちんと明確に理解したうえで、正しくアウトプットしてくれる人を起用していたんだ。


―あなたのバンドのボーカリストといえば、エドウィン・バードソング(※)がいたと思うんですけど、彼とはどうやって知り合ったんですか。

※ダフト・パンク「Harder, Better, Faster, Stronger」にサンプリングされた「Cola Bottle Baby」や、ラリー・レヴァンが好んでプレイした「Rapper Dapper Snapper」の作者でもあるシンガー/コンポーザーで、ロイの右腕的存在

ロイ:エドウィンは(2019年1月に)亡くなっちゃったね。彼はLAの出身で、両親は牧師だったんだ。彼はフリーモント高校に、僕はジェファーソン高校に通っていた。ライバル校で裏側にあったんだ。そこで知り合った。高校時代から僕とエドウィンは一緒に音楽をやっていた。彼はすごかったよ、高校生の時点でもうプロフェッショナルだったんだ。彼は先生としても優れていて、多くのミュージシャンが彼から音楽を学んでいる。彼と知り合ったことを誇りに思うよ。

ロイの音楽がソウルの影響を受けながらも、ソウルそのものとは明らかに違っていたのは、ボーカルの使い方も大きいだろう。ボーカルに主旋律を歌わせるよりも、リフのように使ったり、コーラス的にハーモニー楽器として使ったり、もしくはエフェクティブなテクスチャーとしても使ったりもしている。
ユビキティの72年作『Hes Coming』に収録された「We Live in Brooklyn Baby」でも、そういった声の使い方が前面に出ている。

さらに注目したいのが、翌年にリリースされた『Red, Black & Green』。タイトル曲を聴けば、その曲名を何度か繰り返したあとに、まるでサックス・ソロでも聴いているかのように盛り上がっていくボーカルの昂揚感が、この曲を名曲にしていることがわかるはずだ。「Rhythms of Your Mind」でも、キーボードのソロの後ろでリフのように曲名を繰り返しつつ、ボーカルが前面に出る場面ではアジテーションやラップのようにも聴こえるブロークンワードを管楽器のソロのように扱っている。

これらは、ただのシンガーにはできないパフォーマンスだろう。そう考えるとロイは、ソウルやR&Bにも長けていて、かつ器楽的なジャズボーカルにも長けたディーディー・ブリッジウォーターのような声に惹かれていたのかもしれないし、印象的なフレーズを繰り返すことで盛り上げていく声の使い方は、早い時点でディスコやハウスを予見していたようにも思う。

2.カマシ・ワシントンまで連なる、「作編曲に特化したジャズ」からの影響

その一方で、同じく『Hes Coming』に収録されたアレサ・フランクリンの名曲「Day Dreaming」に関しては、主旋律をロイがヴィブラフォンで奏でていて、即興も交えながら解釈していくロイの演奏に、バンドがフレキシブルに寄り添いながらメロウにグルーヴしていく。そんなアレンジがこのカバーを特別なものにしている。

ロイの音楽は、彼がジャズミュージシャンだったこともあり即興性が高いと思われがちだが、歌もののソウル・ミュージックのようにきっちり作曲されている曲が実際は多い。ただ、それが多くのソウルやファンクと異なるのは、ソロのスペースが用意されていたり、ジャズ由来のハーモニーやコード進行があったり、ジャズにも精通したミュージシャンがその場で曲の形を崩さない程度に微妙な変化を加えていることや、時にストリングスやシンセを使いオーケストレーションの縮小版のようなアレンジが施されていることなどが理由として挙げられる。

そんな絶妙なバランスを模索できたのは、ジュリアード音大出身でクラシックを学んでいたエドウィン・バードソングが隣にいたのはもちろんとして、ロイ自身のジャズミュージシャンとしての特殊な出自も大きかったのだろう。彼はビバップ出身のミュージシャンのように即興に比重を置いていただけでなく、映画音楽が盛んなLAに根付いていた「作編曲に特化したジャズ」を演奏してきた。
ウェストコーストジャズを代表するチコ・ハミルトンのバンドや、LA屈指のジャズ作曲家であるジェラルド・ウィルソンのビッグバンドに参加していたことは、彼の音楽にも影響を与えているはずだ。

―あなたはジェラルド・ウィルソンのオーケストラでも演奏していますね。

ロイ:ジェラルドは私と同じおとめ座なんだ。ジェラルドは素晴らしい人で、私のことを気に入ってくれていて、私のために美しい曲を書いてくれたこともある。

ロイ自身もこう話しているように、彼が67年にリリースした『Virgo Vibes』には、ジェラルドが彼のために書いた「In The Limelight」が収録されている。ジェラルドはボーカリストのバックに起用されることも多く、レイ・チャールズやレス・マッキャンともコラボレーションしている。そんなジェラルドとの交流もロイを刺激していたのかもしれない。ちなみに、晩年のジェラルドに師事していたのが、今をときめくカマシ・ワシントンだったりする。

3.エレクトリック・レディ・スタジオを拠点とした、ネオソウルにまで繋がる先見性

また、ロイのサウンドはその音色や音像も特徴的だ。ユビキティを結成したのは1970年ごろだが、最初の時点でエレクトリックな楽器を使い、特徴的なエフェクティブな音色を活かしながら、時にサイケデリックな音像を生み出していた。『Ubiquity』のジャケットはアートワークからしてサイケデリックだし、「The Fuzz」なんて曲もある。当時のジャズシーンで、他にこんなサウンドを作っていたアーティストは思い当たらない(ソウルであればスティーヴィー・ワンダーに近いだろうか)。


その流れで注目すべきは、73年の『Red Black & Green』を皮切りに、同年の『Virgo Red』や翌年の『Change Up The Groove』など、70年代の人気作がエレクトリック・レディ・スタジオで録音されていることだ。

1970年にジミ・ヘンドリックスがニューヨークに建設した同スタジオは、73年以前からスティーヴィー・ワンダー『Talking Book』(72年)やレッド・ツェッペリン『聖なる館』(73年)などの有名作で使われているが、ジャズに限定すると71年のラリー・コリエル『Barefoot Boy』、73年のビリー・コブハム『Spectrum』ほか数えるほどの例しかない。

その後も、デヴィッド・ボウイ『Young Americans』やパティ・スミス『Horses』(共に75年)など、ロック~ソウル中心に使われることが多かったエレクトリック・レディ・スタジオを、ロイのようなジャズ畑の音楽家が使うのは特殊なケースだったと思われる。こういったジャズやソウルの枠だけで捉えきれない音楽観、録音とミックスに対するこだわりが、後年のDJやミュージシャンから再発見され、膨大なサンプリングを生むきっかけになったのは言うまでもない。

―あなたはずっとエレクトリック・レディ・スタジオを使っていましたよね。ジャズミュージシャンでこのスタジオを使っていた人はほとんどいないと思います。

ロイ:私が早い時期に使ったアーティストの一人であることは間違いないね。音楽面での環境は完ぺきだし、最高のスタジオのひとつだったと思う。それに何より、ヒップだった。スタッフもグレイトだったよ。あそこを使うには1時間で170ドルもかかるんだ、当時のトップ・プライスだね。「そっか……OK、なんとかするしかないな」って感じで使ってたよ(笑)。
私はエレクトリック・レディに信じられないくらいの大金を費やしたんだ。

―このスタジオを使っていたことと、あなたの音楽にある独特のサイケデリックなサウンドは関係あるんですよね。

ロイ:もちろん。サイケデリック、サイケデリック!!

ちなみに、エドウィン・バードソングは71年の『What It Is』と73年の『Super Natural』でエレクトリック・レディ・スタジオを使っている。この時期のエドウィンはサイケデリック・ロックからの影響が顕著で、ロイが同スタジオを訪れたのも、エドウィンの存在がきっかけだったのかもしれない。

エレクトリック・レディ・スタジオと言えば、90年代後半~2000年代初頭にソウルクエリアンズの面々が入り浸っていたことでも知られる。この時期、ディアンジェロやエリカ・バドゥは、ジミヘンやスティーヴィーなどサイケなブラックミュージックに熱中しており、それが『Voodoo』や『Mamas Gun』に繋がったわけだが、彼らの影響源にはロイ・エアーズの諸作も含まれていた。

ロイの公式サイトで大きく掲げられているように、エリカは彼のことを「キング・オブ・ネオソウル」と呼んでいる。その発言には、ロイの音楽性やATCQなどにサンプリングされてきた事実、フェラ・クティとの共演を果たした経歴に加え、エレクトリック・レディ・スタジオをいち早く用いて、そのポテンシャルを駆使した先人という意味合いもあるはずだ。

実際にエリカは、『Mamas Gun』に収録された「Clava」でロイを起用しているし、同作でのキーボードやパーカッション、ボーカルの使い方にはロイが残した70年代の諸作との共通点も見受けられる。エリカはその後も、2004年にリリースされたロイのアルバム『Mahogany Vibe』にゲスト参加しているし、自身の2007年作『New Amerykah: Part One (4th World War)』では、ロイがプロデュースした伝説的グループ、ランプの「The American Promise」をカバーしている。この曲を収録したランプの77年作『Come Into Knowledge』もエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングされたものだ。

そして、ロイがプロデュースした女性シンガー、シルヴィア・ストリプリンが81年にリリースした『Give Me Your Love』には「You Cant Turn Me Away」という曲が収録されているが、エリカはこの曲を「Turn Me Away (Get Munny)」というタイトルでカバーしている。シルヴィアの曲におけるボーカルやコーラス、ファンキーかつメロウで、サイケデリックでもあるサウンドは、エリカのルーツとも言うべきもの。そんな『Give Me Your Love』もまた、エレクトリック・レディ・スタジオで録音されたアルバムだ。

4.ロイは最高のプロデューサー/ディレクターでもあった

最後に強調しておきたいのが、ロイは最高のプロデューサー/ディレクターでもあったことだ。彼は様々なアーティストを発掘しては自身のバンドに起用し、それぞれによる一世一代の名曲、名演、名唱を生みだしてきた。ロイのバンドに参加すると、ミュージシャンたちはみずからの才能以上のものが発揮できてしまう。そんなマジカルがあった。

―あなたのバンドにはハリー・ウィテカー(※)もいましたよね。彼はユビキティに「We Live in Brooklyn, Baby」などの名曲を提供しています。

※スピリチュアル・ジャズのカルトな人気盤『Black Renaissance』(76年)で知られる鍵盤奏者

ロイ:エドウィンとハリー・ウィテカーは、私のバンドにいた2人の天才だね。私はNYのクラブで初めて彼のライブを観たんだ。すごいやつだってすぐにわかった。そこで目をつけたんだ。彼はハードなビバッパーだった。彼はランディ・ウェストンとやハービー・ハンコックといった、偉大なジャズミュージシャンの音楽を愛していたんだよ。

―『A Tear to a Smile』(ユビキティの75年作)などで多くの曲を手掛けた、ベーシストのウィリアム・アレンも素晴らしい作編曲家でした。

ロイ:彼も亡くなっちゃった。ウィリアムに会ったのもNYのマンハッタンのクラブだった。アンダーグラウンドなクラブで何度か会ってから声をかけたんだ。

―珍しいところだと、あなたの85年作『You Might Be Surprised』にはドン・ブラックマン(※)も関わっていました。

※パーラメント/ファンカデリック、アース・ウインド&ファイアーなどと共演してきたファンク系の鍵盤奏者

ロイ:ドン・ブラックマン! あいつは天才だ。彼とは仕事をする前から顔見知りだったんだ。マンハッタンで知り合った。すごく静かでね、ファッキン・クワイエットなんだよ。あ、汚い言葉を使ってごめんね(笑)。私のバンドには素晴らしい才能がたくさんいた。周りにいた人はみんな才能があったんだよ。

―あなたのバンドにはセンスが良くて、才能のある、でもまだ世の中に知られていなかったミュージシャンがいつも在籍していました。

ロイ:私は常に誰かを探していた。いつも才能を探していたし、新しい声もね。誰がシーンに出てきたのかをチェックしていたんだ。自分でクラブに行って知り合ったね。

―見つけてきた才能にすぐに曲を書かせたり、アレンジをさせたり、すぐに大きな役割を与えていますよね。

ロイ:ハービー・ハンコックは信じられない才能を持ったピアニストだけど、それだけに留まらないあらゆる側面での天才だ。ハービーは、私の神でもあるマイルス・デイヴィスのバンドにいた。マイルスのバンドにはいつもすさまじい才能が集まっていたよね。私がやっていたのもそういうことだよ。

ほかにも、ロイ・エアーズが特別である理由はいくらでも挙げられるだろう。彼はヴィブラフォン奏者や作曲家としてだけでなく、もっと広い意味で音楽を的確にコントロールしてきた。自身のレーベルUno Melodicを設立し、音楽の権利を自分で管理していたこと、ヒップホップの時代にサンプリングを積極的に認めていき、そこから再び脚光を浴びたことなど、ミュージシャンに様々な能力や資質が求められている今だからこそ、彼のキャリアから学べることは多いと思う。

ロイ・エアーズの証言から解き明かす、ブラックミュージックの先駆者となった4つの理由

Photo by Great The Kabukicho
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