ジャニス・ジョプリンからエルヴィス・プレスリー、カート・コバーン、フレディー・マーキュリー、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、クリス・コーネル....など、音楽の歴史を変えたミュージシャンたちの早すぎる死。改めて彼らの死へ追悼の意を込め、その軌跡を振り返る。
また、彼らの遺産と残された疑問とは?

有名人の死に対して人々が一斉に哀悼の意を表すことは今の世代に始まったことではない。インターネットとソーシャル・メディアによってファンたちの心から溢れる悲しみへの対処の仕方が目立つようになっただけなのだ。

クリス・コーネルやプリンス、エイミー・ワインハウス、ホイットニー・ヒューストンのようなアーティストの早すぎる予期せぬ死に対してFacebookやInstagram、Twitterに投稿された心からの追悼のメッセージの数々も、数年後にはかつての新聞の切り抜きと同じような役割を果たし、人々に心をえぐられるようなショックと突然の喪失感をもたらした歴史に残る瞬間へと連れ戻すものとなるだろう。

マイケル・ジャクソンが亡くなった時、あなたは誰にメールしただろうか?ジョン・レノンが撃たれた時、あなたはどこにいただろうか?多くのショックを受けたファンのようにマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドのダコタ・ハウスに押しかけただろうか?カート・コバーンの遺体が発見された後、あなたが繰り返し聞いたニルヴァーナの曲は何だっただろうか?あなた(もしくはあなたの親)はエルヴィスの最期の日の話を知っているだろうか?

こうしたことを思い出すのは心が痛むことであり、そのセンセーショナルな出来事は何十年経ってもなお世間に衝撃を残している。しかし、もしそういったレジェンドたちが今も生きていたらどんなものを作っていたか、彼らがいなくなってしまったことで後の音楽やポップ・カルチャーがどのように形作られるようになったのかを考えると、その出来事が与えた影響にもまた違った大きな一面があると言える。確かにここで扱うアーティストたちは亡くなってしまった。しかし、彼らが忘れられることは決してない。ありきたりな言い方ではあるがまさにその通りなのだ。

バディ・ホリー
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Michael Ochs Archives/Getty

1959年没 享年22歳

ザ・クリケッツのメンバーとして、そして後にソロアーティストとして、スーツにメガネというスタイルのホリーは急成長中だった50年代の若者のロックンロール・カルチャーの代弁者だった。その特徴的なボーカル・スタイルと「ノット・フェイド・アウェイ」や「イッツ・ソー・イージー」などのヒット曲によって彼は50年代の象徴となり、音楽への探求意欲を強め始めていた頃にホリーにハマっていったジョン・レノンやポール・マッカートニーなど、次世代のロックンロール・スターに多大な影響を与えた。「僕はバディのような曲を書いていたよ。結局そんな曲が数曲できた。
ビートルズの最初の曲『ラヴ・ミー・ドゥ』もそうなんだ」とマッカートニーはレノンと共にホリーを手本にしていたことをインタビューで認めている。しかし、1959年2月3日、22歳のホリーはザ・ビッグ・ボッパー、リッチー・ヴァレンスと共に飛行機事故で亡くなり、”50年代”と共にホリーのキャリアは悲劇的に突然の終わりを迎えた。この事故は後にドン・マクリーンの代表曲「アメリカン・パイ」の中で「音楽が死んだ日」と歌われた。

パッツィー・クライン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑
GAB Archive/Redferns

1963年没 享年30歳

29歳で亡くなったハンク・ウィリアムズより1年2ヶ月だけ長く生きしたパッツィー・クラインは、田舎の魅力と大都市の大胆さをその一級品の声に表現し、ホンキートンクのみならずポップスをも豊かに歌い上げ、20世紀で最も偉大な歌手の1人として確かなものを世に遺した。「ひどい仕打ちに」や「夜更けに歩けば」、ウィリー・ネルソンが作った「クレイジー」などのヒット曲によって彼女はゆっくりとスターダムに上がっていったが、彼女はテネシー州カムデンで飛行機事故で亡くなった後も、死後にリリースされた「スウィート・ドリームス」や「フェイデッド・ラヴ」によって注目を浴び続けた。実際、彼女のすばらしさは死後数十年経ってから取り沙汰されるようになった。1973年、彼女はカントリー・ミュージックの殿堂に初の女性ソロシンガーとしてジャンルを定義づけたキティ・ウェルズに先立って選ばれた。オスカー候補者となったビバリー・ダンジェロ(1980年のロレッタ・リンの伝記映画『歌え!ロレッタ 愛のために』)やジェシカ・ラング(1985年の『ジェシカ・ラングのスウィート・ドリームス』)が彼女の役を演じたことや、ジュークボックスやカラオケにおいて彼女のヒット曲の人気が続いたことによって、クラインの『グレイテスト・ヒッツ』のアルバムは1000万枚以上を売り上げ、チャートインし続けた期間がギネス世界記録に認定された。今では、ナッシュビルのダウンタウンにこの類まれなシンガーを祀った聖地、パッツィ・クライン・ミュージアムもあり、1961年のカーネーギー・ホールでの初演奏や歴史を作ったその翌年のラスベガスの定期公演にまつわるものから、そしてそのほんの数カ月後に彼女が亡くなった時に身に着けていた腕時計まで、思い出深い品々が収められている。その悲劇的な死から半世紀が経つがクラインは長きに渡り多くのシンガーに直接的な影響を与え続けている。リーバ・マッキンタイアやケイシー・マスグレイヴス、リアン・ライムスを聞けばそれが明らかである。

サム・クック
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Jess Rand/Michael Ochs Archives/Getty

1964年没 享年33歳

ミシシッピに生まれシカゴで育ったクックはゴスペルとポップスを繋ぎ、何世代ものシンガーに影響を与えた、ソウル・ミュージックの発展に欠かせない人物であった。
彼は50年代にソウル・スターラーズのメンバーとしてゴスペル界のスターダムに上り、チャート1位を獲得した1957年の名曲「ユー・センド・ミー」で更なる人気を獲得した。その成功の後も、なめらかな発音と心地よいフレージングをブルージーなノリと都市的な雰囲気に乗せ、ヒットを連発した。彼は60年代初期のトップ40の中心となるアーティストだった。しかし、今日も論争が続いている事件ではあるが、1964年12月11日のロサンゼルスで彼は殺され、そのキャリアに終止符が打たれてしまった。ホテルの管理人の申し立てによるとクックが当時22歳の女性をレイプしようとし、その後、管理人は彼に襲いかかられたため正当防衛として銃を撃ったとしている。検死官は正当防衛を認めたがその発砲の状況には曖昧さが残されている。その死の11日後、クックのキャリア史上最もすばらしい曲「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」がリリースされた。ルイジアナの白人専用のモーテルに拒絶された自身の経験に基づいて作られたもので、この曲は公民権運動のアンセムとなり、60年代を象徴する1曲となった。ローリングストーン誌の「史上最も偉大なシンガー100人」でクックが4位に選ばれた時、ヴァン・モリソンは「サム・クックは純粋な心で核心に触れた。彼には本物のゴスペルをやるすばらしい能力があった。彼はそれを本物で偽りのない率直なものにしたんだ。ゴスペルが彼のすばらしい曲に勢いを与えた。
最初に出てきたレイ・チャールズ、そして、オーティス・レディングもそうだったようにね」と綴っている。

オーティス・レディング
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1967年没 享年26歳

オーティス・レディングの1967年6月のモントレー・ポップ・フェスティバルでの信じられないようなパフォーマンスはロックの白人オーディエンスに衝撃を与え、ジャンルの壁を取っ払った、ポップ・ミュージックの歴史における象徴的瞬間であった。そのほんの数カ月後の12月10日、その夜にライブを予定していたウィスコンシン州マディソン近郊に乗っていた飛行機が墜落し、彼は亡くなった。当時、彼は「ドック・オブ・ベイ」のレコーディングを終えようとしているところだった。この曲はモントレーでのパフォーマンスで見えた、人種的、社会的な可能性が史上最も説得力のある曲の1つに集約された”フォーク・ソウル”のモニュメントのような曲である。「トライ・ア・リトル・テンダネス」や「ペイン・イン・マイ・ハート」、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」のパンチの効いたカバーなどがヒットしたおかげで彼はすでにR&B界で影響力のあるアーティストになっていた。彼が亡くなった頃には彼の芸術性が情熱と可能性の新たな段階に入っていくところだったがゆえに、その悲劇的な死は多大な衝撃を与えた。レディングが亡くなった後、「ドック・オブ・ベイ」の最終ミックスの仕事を託されたブッカー・T&ザ・MGsのスティーヴ・クロッパーは「エルヴィスはロックの王様だった。オーティスはソウルの王様だったが、もし彼が生きていたら彼はすべてにおける王様になっていたと思う」と語っていた。

ブライアン・ジョーンズ
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

David Redfern/Redferns

1969年没 享年27歳

オリジナル・ギタリストのブライアン・ジョーンズの努力がなければ、ザ・ローリング・ストーンズは存在し得なかっただろう。彼がジャズニュース誌の1962年5月号にバンドメンバー募集の広告を出し、前身バンドを結成し、そして、その出来たてのバンドにマディ・ウォーターズの「ローリング・ストーン」に由来する名前をつけた。ミック・ジャガーがキース・リチャーズと曲を書くようになり、バンドがオリジナル曲をやるようになるとバンド内でのジョーンズの影響力は劇的に落ちていったが、彼のアメリカのR&Bミュージックへの愛は初期の彼らのサウンドに極めて重要な役割を果たしていた。
薬物依存によりまともな状態でなくなった彼はさらにその力を失い、最終的に1969年の夏にはバンドをクビになった。数週間後、イギリスのサセックスの自宅プールに沈んでいるジョーンズが発見された。今日に至っても殺人を疑う人もいるが、多くの証拠が検死官の「不運の死」という報告を裏付けている。「彼は初期の頃に大きな貢献をしてくれた。本当に夢中になっていたよ。常にそうあるべきだけどね…。彼は自分で自分の首を締めたんだ。彼は週末にトラディッショナル・ジャズをプレイしたり学校で教えたりしていたほうが良かった。そうすればたぶん順調にやっていたと思う」とミック・ジャガーは1995年にローリングストーン誌に語っている。

ジャニス・ジョプリン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Terry ONeill/Hulton Archive/Getty

1970年没 享年27歳

ジョプリンは型にはまった性差別主義のカルチャーに何の根拠もなく飛び込んで切り開いた初の女性ロックスターだ。あったのは欲望、苦しみ、驚くほどに輝くような声、そしてドラッグとアルコールへの強い欲求だけだった。ティーンエイジャーだった彼女は日常的にいじめを受けていた地元のテキサス州ポートアーサーを出て、ヒッピー文化が成長し始めていた頃のサンフランシスコに移り住んだ。
彼女はビック・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーとしてモントレー・ポップ・フェスティバルで華々しいパフォーマンスを見せスターになったが、自分のやりたいことを追求するために間もなくこのバンドを離れた。

彼女は新しいバンドメンバーを集め、すぐにファースト・ソロ・アルバム『コズミック・ブルースを歌う』を完成させた。1970年、同窓会での失敗が取り沙汰されたり、21歳の麻薬の売人との関係が始まった夏が終わって、次作の制作中だった彼女はハリウッドのランドマーク・モーター・ホテルの105号室でヘロインのオーバードーズで亡くなった。ジミ・ヘンドリックスの死からほんの2週間後のことであった。彼女はその制作を完了することはできなかったが「ミー・アンド・ボビー・マギー」(彼女の1位を獲得した唯一のシングル)や「ベンツが欲しい」(彼女が最後にレコーディングした曲)が収録された『パール』が彼女の死後にリリースされ、ジャンルの壁を超える大きな成功を収めた。

「彼女は何も我慢しなかった。口を開けばいつも危ないところを渡っていた。彼女はあまりにも早く燃え尽きてしまったとても激しくとても美しい輝く光だった」と人生で初めて買ったアルバムが『パール』だったというローザンヌ・キャッシュは語っている。

ジミ・ヘンドリックス
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David Redfern/Redferns
1970年没 享年27歳

ヘンドリックスの壮大すぎるほどのファースト・スタジオLP『アー・ユー・エクスペリエンスト?』の1967年春リリースからわずか3年後に彼が亡くなるまでの間に、他のギターの神たちの評価の基準となるようなギターの神となった。ただ何より印象的なのはその才能が自然に溢れ出てきているように感じられるところである。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロは「彼の演奏には努力が見えない。彼のキャリアには1分たりとも頑張ってやったという感じがする瞬間がない。
ただただそれが流れ出てきているように感じる」と以前語っている。モントレーでギターに火をつけたりしたように、彼は音楽的にも視覚的にも華々しいハード・ロックな”見せ方”を知っていた一方、「砂のお城」のように心に触れる自省録的な曲をプレイすることもできた。彼の最後のアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』ではファンクをも探求している。ウッドストックで強烈でサイケデリックなアメリカ国歌の演奏を見せた1年後、彼は遺体となって発見された。彼は麻薬常習者と知られていたが表面上は睡眠薬を摂取した後、自身の嘔吐物によって窒息死したとされており、公式は事故という見解を示しているが自殺の可能性も否定はしていない。死後も定期的にリリースされる音源やドキュメンタリー、映画のおかげで彼は何世代にも渡るギタリストたちに影響を与え続けている。「ヘンドリックスの演奏をミュージシャンたちが愛して止まない理由は、それが彼の頭と心からそのまま出てきているからだと思う。彼はギターと”秘密の関係”を持っていて、信じられないほどにテクニカルで音楽理論を大事にしているが、それが彼の理論だったんだ。そこには彼らしさしかなかった。その理論がそれ以降ずっと使われ続けているんだ」とジョン・メイヤーは以前語っている。

ジム・モリソン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1971年没 享年27歳

ザ・ドアーズのファンにとってジム・モリソンの破天荒な振る舞いとステージ・パフォーマンスは、その強い影響力を持ったサイケデリックなロック・バンドの魅力の1つであったかもしれないが、亡くなる数ヶ月前からのその”トカゲの王”のライフスタイルが彼の死に拍車をかけた。短いキャリアではあったが、モリソンは砂漠の旅やギリシャ神話についてユーモアを交えて気ままに歌い、典型的なハンサムな顔立ちとロマンチックで感情豊かな声でサイケデリック・ムーブメントを代表するシンガーとなった。彼は彼の曲のように生き急ぐような生き方をし、LSDなどのドラッグも蔓延していたが、モリソンの悪癖の主たるものはアルコールだった。ロック界で最も成功しているバンドの1つに挙げられるようになってから2年が経った1969年までに依存症によって体に大きなダメージが出始め、ライブでの振る舞いはますます暴力的で不安定になり、フロリダでは公然わいせつ罪で逮捕されるまでに至った。1971年には彼はガールフレンドのパメラ・カーソンとパリに住んでおり、彼女がバスタブの中の彼の遺体を発見することとなった。検死は行われなかったがその27歳のシンガーの死因は心不全であることが公式に発表された。「(生きていたら)彼が音楽を作るのを止めることは決してなかっただろう。主に裁判と、騒がれることから距離を置き、疲れを癒やすためにパリに行ったんだ」とザ・ドアーズのメンバー、ロビー・クリーガーは2013年にローリングストーン誌に語った。1974年、カーソンもヘロインのオーバードーズで同じく27歳で亡くなった。

デュアン・オールマン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1971年没 享年24歳

デュアン・オールマンは10月29日の夕方頃、ジョージア州メイコン近くをハーレーで出発した。当時の彼とオールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーには息抜きの時間を取る正当な理由があった。2ヶ月前にキャリアを決定づけるようなすばらしいライブ・アルバム『フィルモア・イースト・ライヴ』がリリースされ、バンドの評判が確かなものとなった。オールマンは短い休暇を終え、バンドは次のアルバム『イート・ア・ピーチ』の仕上げに入るところであった。オールマンはヘルメットを着用していたがトラックを避けよう急に進路を変えたことでバイクから投げ出され、そのバイクが彼の上に直撃し、甚大な内蔵損傷によって彼は亡くなった。

彼はそれまでに様々なクリエイティヴな経験をしていた。弟のグレッグと一緒にいくつかのバンドもし、アレサ・フランクリンやウィルソン・ピケットのレコードで蜂が刺すような演奏もし、そして、ブルース、カントリー、ジャズ、ロックを混ぜ合わせた、今やアメリカで最も勢いのあるバンドのリーダーになっていた。オールマンはヘンドリックスのようにサウンドを変化させたり、エリック・クラプトンのように厳格に伝統を重んじたりするようなギタリストではなかったが、クラプトンのアルバム『いとしのレイラ』でデレク・アンド・ザ・ドミノスとゲストとして彼のパートを演奏した時の彼はクリーンで簡潔ではあるがワイルドさも持った、自分の楽器を知り尽くしたギタリストであった。「今に至るまでR&Bの音源において彼以上のロック・ギタリストを聞いたことはない」とクラプトンはピケットのバージョンの「ヘイ・ジュード」でのオールマンのギターについて語っている。オールマンの最後の音源となった、流れるようなギターのオールマン・ブラザーズ・バンドの「ブルー・スカイ」や穏やかなインスト曲「リトル・マーサ」からは音楽に明るい未来すら感じられた。

グレッグは自伝『マイ・クロス・トゥ・ベア』で「彼はとても知性的だった。今、彼が何に興味があるのか知ることができたらうれしいね」と綴っている。

マーク・ボラン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Keith Morris/Redferns
1977年没 享年29歳

ロックのパイオニアであるボランは彼のバンド、T・レックスのスペーシーなサウンドと神秘的な歌詞と性別を超越したスタイルで、デヴィッド・ボウイのようなアーティストの先駆けとなり、私たちが知るグラムの土台を作った。ボランは70年代のロックのサブカルチャーの発展のシンボルとなり、T・レックスは『電気の武者』などのアルバムで成功を手にした。「私がマークの中に見たのは手が加えられていない才能だった。出会ってすぐにマークのロックスターの素質を感じた」とプロデューサーのトニー・ヴィスコンティはガーディアン紙のインタビューで語っている。彼のバンドとキャリアは1970年代中期に勢いを失ったが、彼は1977年に『マーク』というTV番組の司会を務めることとなり新旧様々なミュージシャンたちを呼んで一緒に演奏した。ボウイとボランが一緒に「ヒーローズ」を歌った最終回の収録の1週間後、彼の30歳の誕生日の2週間前であったが、妻のグロリア・ジョーンズが運転していた車を制御でなくなり事故を起こし、一瞬で彼の命は奪われることとなった。

エルヴィス・プレスリー
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Michael Ochs Archives/Getty
1977年没 享年42歳

そのおおらかな態度と整った少年のようなルックス、そして言うまでもないすばらしい声によってエルヴィス・プレスリーは初期のロックンロールにおける最も偉大なサクセス・ストーリーとなった。50年代中期から彼はテレビや「ハウンド・ドッグ」、「ハートブレイク・ホテル」、「冷たくしないで」などのナンバー1を獲得した曲で見せた腰を振るパフォーマンスで世のティーンエイジャーたちを揺り動かした。彼はカントリーもロックンロールもゴスペルも歌うことができた。1958年には徴兵命令に従い、音楽活動を2年間休止することとなったが、任務に付く前にレコーディングしていた数々のヒット曲や1960年のフランク・シナトラのテレビの特別番組への出演のおかげで、それが彼のキャリアの障害となることはなかった。彼は1960年代の大部分を映画を撮ることに費やしたがNBCのエルヴィスの特別番組(『68カムバック・スペシャル』)でスター・シンガーとして復帰し、ラスベガスで定期公演を始め、ついには「サスピシャス・マインド」で約10年ぶりの1位を獲得した。

しかし、70年代になって彼の私生活は崩れていった。妻のプリシラと別れ、太り始め、アルコールに手を出すことはなかったが睡眠薬や精神安定剤、覚醒剤に手を出すようになった。「ベガスの時期は過小評価されていると思う。その頃が最もエモーショナルだったと思うよ。その頃までにエルヴィスが明らかに自分の生活をコントロールできなくなっていて、信じられないような哀愁が出ていた。晩年の彼の声量のあるオペラ的な声には本当に心が痛んだよ」とボノは以前語っている。プレスリーがグレイスランドの自宅の浴室で亡くなっているのはガールフレンドによって発見された。公式には死因は心臓発作あると結論付けられているが、薬の使い方が死の一因となったのかも知れないという見解もある。それ以降も彼のものまね歌手が出てきたり(「おしゃべりはやめて」のリミックスなどの)新しいナンバー1ヒット曲が生まれるなど、彼の影響力は大きくなり続け、彼がこれからもキングであり続けることを証明している。

ロニー・ヴァン・ザント
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Ronald van Caem/Gijsbert Hanekroot/Redferns
1977年没 享年29歳

10月20日、レーナード・スキナードはコンベアのチャーター機に搭乗し、ギタリストのアレン・コリンズは右翼のエンジンから炎が上がっているのを見てパニックに陥ったが、バンドは新しいアルバム『ストリート・サヴァイヴァーズ』のツアーでサウスカロライナ州グリーンビルから(ルイジアナ州の)バトンルージュに向かわなければならなかった。「もし神様が俺たちはこの飛行機で死ぬべきだって言うなら、それがその時だというなら、そういうことだ。行こうぜ、みんな。俺たちにはやるべきライブがあるんだ」とボーカルのロニー・ヴァン・ザントはメンバーに言った。

パイロットはミズーリ州の平原に緊急着陸を試みたが機体は林をなぎ倒し、地面に叩きつけられた。メンバーのほとんどは生還したがヴァン・ザントはギタリストのスティーヴ・ゲインズとその姉のキャシー(コーラス担当)とロード・マネージャーのディーン・キルパトリックと共に即死であった。バンドが炎に包まれている『ストリート・サヴァイヴァーズ』の不気味にもそれを予兆していたかのようなジャケット写真はすぐに普通の写真に差し替えられた。

この事故はただメジャーなロック・バンドからフロントマンを奪ったということを意味しているのではない。グレッグ・オールマン以来、最も影響力を持っていたサザンロック出身のシンガー兼作詞の人生を終わらせたのだ。ガタイがよく気難しそうに振る舞うステージでのヴァン・ザントからは鍛えあげられた男らしさがにじみ出て、アメリカ版ヴァン・モリソンといった雰囲気であったが、彼がバンドと一緒に作った曲は田舎者の単純でありきたりなものではなかった。バンドは彼の昔の苦労(「フォー・ウォールズ・オブ・レイフォード」)や、自己不信と道徳的苦悩(「ワズ・アイ・ライト・オア・ロング」)、憂鬱(「フリー・バード」、「チューズデイズ・ゴーン」)を曲にした。犯罪歴があり高校を中退しているヴァン・ザントは反全体主義の南部地域の誇りを投影した(「ワーキン・フォー・MCA」)真のポピュリストであった。「過小評価されているね。これらの曲の多くはみんなが思っているよりもはるかにスマートなものだ」とジェイソン・イズベルは語っている。

キース・ムーン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Jan Olofsson/Redferns
1978年没 享年32歳

ザ・フーのドラマー、キース・ムーンほどのロックスター的ライフスタイルを送ったことがある人はほとんどいないだろう。バンドの悪評がわずかに囁かれるようになった時から、彼の生活はホテルの部屋をめちゃくちゃにしたり、車を破壊したり、1回が何日も続くようなパーティをしたりの酔っ払いのどんちゃん騒ぎ状態になっていた。もし彼がロック史上最も偉大なドラマーの1人でなければ、もし彼が1964年にザ・フーに加入して「無法の世界」のような名曲を彼のワイルドで独特なドラミングを見せつけるような曲にし、バンドの「マキシマムR&B」サウンドのバックボーンとなるような、有無を言わさぬほどの野性的な力を持っていなければ、誰もそれに耐えることはできなかっただろう。しかし、1978年までに、ついに彼にそのようなライフスタイルのツケが回ってきていた。彼は太り、ひどくアルコールにおぼれ、レコーディングで基本的なドラム・トラックを録ることすらままならなくなっていた。その年の9月6日、彼はバディ・ホリー・ストーリーのプレミア試写会に行った後、ロンドンの自宅に戻った。偶然にもそこは4年前にママ・キャスが亡くなった場所であったが、その夜、彼は(アルコールの禁断症状を抑えるために)クロメチアゾールの錠剤を32錠飲み、その結果亡くなってしまった。

「彼は幸せというものを知らなかったと思う。愛情を返すのが最も難しいタイプだったんだ。彼はすごく明るいやつだったから、こっちも大げさにハイテンションに振る舞う必要があって。例えば、キースに挨拶をしなかったり、彼がほんの5分スタジオを離れて戻ってきただけだったとしても、みんなの口にキスしようとするようなやつだった」とピート・タウンゼントは1982年にローリングストーン誌に語った。

イアン・カーティス
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Martin ONeill/Redferns
1980年没 享年23歳

ジョイ・ディヴィジョンは1980年の春に、革新的なポスト・パンク・バンドとして認知され始めたところであったが、そのバンドのフロントマンにとって称賛を得ることは何の意味も持たなかった。ほぼすべてのジョイ・ディヴィジョンの曲に激しい悲しみと空しさと憧れを吹き込んだ深みのあるバリトン・ボイスを持ったカーティスであったが、患っていた深刻な鬱とてんかん(ステージ上で発作が出ることもあった)の治療に効果が出ず、彼は苦しんだ。また、ベルギー人ジャーナリストとの浮気が(生まれたばかりの娘の母でもあった)妻に対する罪悪感を生み、彼は苦しんでいた。その苦しみのすべてを最後に遺した曲のうちの1曲「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」に込めた。この曲のリリースの数週間前、彼はイギー・ポップの「イディオット」を聞きながら自宅のキッチンで首を吊った。残されたメンバーはニュー・オーダーとしてバンドを続けたが、そのショッキングな死を乗り越えることはできなかった。

「彼は彼自身にとっての最悪の敵だった。てんかんの診断が下された時、医者が彼に言ったんだ。『もし大きな音やアルコールを避けて静かな生活を送れば君は大丈夫だ』って。バンドにいたらどっちも無理なことだった。彼はバンドをあきらめたくなかったんだ。他のメンバーと同じように情熱を持っていたし熱中していたからね。彼は自分の中にひどいジレンマを持っていたようだ。苦しかっただろうけど俺たちは何の役にも立てなかった」とジョイ・ディヴィジョンのベーシスト、ピーター・フックは2013年にローリングストーン誌に語っている。

ジョン・ボーナム
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑
Michael Ochs Archives/Getty
1980年没 享年32歳

レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムはキース・ムーンと同じ、ドラムも生き方も頭で考えずに気ままにワイルドに、という哲学を持っていた。レッド・ツェッペリンで1970年代を通して大きな成功を手にした彼はパーティ三昧で、存在するほぼすべての違法薬物を使いつくしたが、それがもたらす恐ろしい結果にも向き合わなければならなかった。運命は1980年9月25日にやってきた。ツェッペリンがアメリカ・ツアーに向けて準備をしていた頃であったが、彼は24時間の間に40杯ほどのウォッカのショットを飲んだのだ。彼は翌朝、ベッドで死体となって発見された。

「ジョンはすばらしいテクニックを持っていただけでなく、それを活かす想像力も持っていた。彼が考えた『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』のパターンは今でもドラマーたちを困らせている。彼以外にそんなことができるやつはいない。彼以外にあんな想像力をもっているやつは誰もいなかった」とジミー・ペイジは2007年にローリングストーン誌に語っている。

ジョン・レノン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1980年没 享年40歳

妻のヨーコ・オノと生まれたばかりの息子ショーンにほぼすべてのエネルギーを費やすために1970年代後半に活動休止してから5年が経ち、1980年後半、ついにビートルズの元メンバーである彼は表舞台に戻る準備が整った。アルコールも絶ち、新しいアルバム『ダブル・ファンタジー』を世に出すのを待ちきれずにいた。「70年代にはうんざりだろ?俺たちは今ここにいる。80年代を最高のものにしよう。どうなるかは俺たち次第なんだから」と彼は語っていた。

オノとの共作の2枚組アルバム『ダブル・ファンタジー』は11月17日にリリースされ、9年前の『イマジン』以来の最高の評価を得た。1曲目の「スターティング・オーヴァー」は彼の将来への楽観的な思考を反映していた。12月8日は1日中、ローカル・ラジオに出演したり、ニューヨークの自宅マンションでローリングストーン誌の表紙撮影のためにヌードになったり、オノの曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のリミックスのためにレコード・プラント・スタジオに行ったりして過ごしていた。家に着くとファンであるマーク・デイヴィッド・チャップマンに出くわし、至近距離から銃で5発撃たれ、病院で彼の死亡が確認された。

そのニュースはハワード・コーセルの『マンデー・ナイト・フットボール』で発表され、彼の死を悼む人々が現場を訪れ、悲しみを共有し、平和の歌を歌い、そのおぞましい悲劇を理解しようとした。「ジョン・レノンは本当に重大な存在だった。幼い頃にビートルズに出ているのを見ていたけど、彼らは芸能界的な耳触りのいいことだけでなく本当に意味のあることも言う初めてのアーティストだった。彼は私の世代のすばらしいお手本だったよ」とトム・ペリーは2000年にローリングストーン誌に語っている。

カレン・カーペンター
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

David Warner Ellis/Redferns
1983年没 享年32歳

カレン・カーペンターの突然の死の後、その命を奪った当時誤解されていた拒食症という病と、彼女と彼女の兄がカーペンターズとして1970年から生み出してきたその非常にポップな音楽に対しての世間の評価が低かったせいで、彼女自身もあまり評価されることはなかった。多くが「イエスタデイ・ワンス・モア」や「遙かなる影」、「雨の日と月曜日は」などのヒット曲を感傷的でローレンス・ウェルクのような古臭いものだとしてはねつけ、弱々しくやせ細ったカーペンターの演奏に不安を感じるものもいた。彼女は死後に、摂食障害を全国規模の問題として提起することとなった初の有名人であった。彼女の、兄と母のアグネスとの複雑な関係性や、自身をうまくコントロールできなかったことは死後も広く追求され続けることとなったが、彼女の並外れた声とカーペンターズの曲が少しずつ再評価され称賛を受けるようになって、ついに彼女は名誉を挽回した。今では手に入れることが不可能なトッド・ヘインズのドキュメンタリー『スーパースター:ザ・カーペンターズ・ストーリー』が1988年に公開されるとアンダーグラウンドの名作となり、ソニック・ユースのキム・ゴードンは1990年に彼女に捧げる曲「テュニック」を作った。「私はカレン・カーペンターが天国でドラムを叩いていて、幸せにいることを願っていた」とゴードンは1997年にローリングストーン誌に語っている。同様にエルトン・ジョンは彼女を「僕たちの人生の中で最もすばらしい声の持ち主の1人」と言い、マドンナは「完全に彼女のハーモニーのセンスに影響を受けているわ」と公言している。晩年、彼女はその美しくも派手すぎない透き通った声で新たな自分の道へと進もうとしていた。1979年のフィル・ラモーンによるプロデュースのソロ・アルバムは、1996年までリリースされなかったが、ロックとディスコ調のタイトな曲でセックスと自由を歌っている。「それは始まりだったんだ。彼女がエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンだと言うつもりはないがあんな声だったら何だってできただろう」とラモーンはニューヨーク・タイムズ紙に語っている。

マーヴィン・ゲイ
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Rob Verhorst/Redferns
1984年没 享年44歳

ポピュラー音楽の中で最も情熱的なシンガーであるゲイは「エイント・ザット・ペキュリアー」や「ユアー・オール・アイ・ニード」、不朽の名曲「悲しいうわさ」のような、キャッチーで心を打つシングル曲を次々と出し、あっという間に60年代のポップ・チャートを駆け上がり、ヒット・メーカーとしての地位を築いた。しかし、1971年、彼はソウル・ミュージック版『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を作ろうと自らと深く向き合った。それが、ベトナム戦争が激しさを増す中、慈悲の心や愛に訴えかけるために慎重に作り上げた『ホワッツ・ゴーイン・オン』である。「『ホワッツ・ゴーイン・オン』は俺が知る限り最も重みのある音楽的表現だ。決して時代遅れになることはない。マーヴィンがこのアルバムを作っている時に彼の家に行ったことを今でも覚えているよ。『スモーク、このアルバムは神によって作られている。俺はそのための神の道具にすぎないんだ』と彼は言っていた」とスモーキー・ロビンソンは以前語っている。数年後、彼はよりセクシーで一般的なわかりやすい方向へと進んでいき、「レッツ・ゲット・イット・オン」や「黒い夜」(論争となったロビン・シックの「ブラード・ラインズ~今夜はヘイ・ヘイ・ヘイ♪」の”フィール”に影響を与えた曲)で1位を獲得した。1982年の「セクシャル・ヒーリング」は1位を逃したが3位に留まった。しかし、彼の私生活は70年代の終わりにかけて崩れていった。モータウンの創始者ベリーの姉である妻のアンナ・ゴーディと離婚し、破産を申し立て、ついには国税庁から逃れるためにヨーロッパに移り住んだ。また、彼は鬱とコカイン中毒とも戦っており、彼は亡くなる年には何度も自殺未遂を図った。そうであったにもかかわらず、彼は自らの手で亡くなったわけではなかった。マーヴィンの45歳の誕生日の前日に牧師であった父に至近距離で撃たれたのである。彼は今も影響力を持ち続けるアーティストであると考えられており、ディアンジェロやアッシャーなど世代を超えるシンガーたちに影響を与えている。

フレディ・マーキュリー
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1991年没 享年45歳

もし音源として残っていなければマーキュリーの声は伝説上の存在となっていただろう。クイーンのフロントマンである彼はほとんど努力を感じさせることなく、バラード歌手のような囁くような歌い方から、腹の底から出てくるようなうなり声まで即座に変化させることができた(「キラー・クイーン」で確かめてほしい)。しかし、彼は「ボヘミアン・ラプソディ」でメンバーにオペラのように歌わせ、彼らのユーモアのセンスを見せつけ(「シーサイド・ランデヴー」のカズーや「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」のビデオでの女装)、できる限り大げさで壮大な曲を作ることを目指し(「伝説のチャンピオン」)、戯曲的要素をハード・ロックにもたらした重要な人物である。彼にはステージで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「レディオ・ガ・ガ」のような曲に合わせて何万人ものオーディエンスに手拍子をさせることができる華やかでエネルギーに溢れた存在感があった。「フレディのパフォーマンスが大好きだ。彼は驚くようなポーズを取っていた。もしかしたら鏡の前で練習していたのかもしれないが、彼は誰かみたいになろうとはしていなかった。彼は『これが俺なんだ』って世界に伝えていたんだ」とマイ・ケミカル・ロマンスのフロントマン、ジェラルド・ウェイは以前語っている。そんな大スターとしての性質を持つ一方、マーキュリーは私生活を公にすることはなく、インタビューに応えることもほとんどなかった。それでも彼がLGBTアイコンになることは避けられなかった。90年代初期には彼がエイズにかかっているのではないかといううわさが囁かれ始めていたが、彼がそれを認めたのはその病気を原因とする気管支肺炎によって亡くなるわずか2日前のことであった。彼の音楽はレディー・ガガからメタリカまで数えきれないほどのミュージシャンに影響を与え続けている。

カート・コバーン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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1994年没 享年27歳

(1960年代初期から70年代後期頃に生まれた)”X世代”にとって彼は最も悲劇的な堕天使であった。ワシントン州アバディーンは力の強い少年たちが幅を利かせるような小さな町で、そこで育ったコバーンはそれに馴染むことができず、八方塞がりで幻滅を感じながら幼少期を過ごした。彼はパンク・ロックを見つけ、オリンピア、そしてシアトルへと移り住んで行き、やがて学生時代の友人クリス・ノヴォセリックとグランジ・バンドを組み、それがニルヴァーナとなった。『ネヴァーマインド』と、苦悩が込められたラウドな「スメルズ・ライク・ティーン・スピリッツ」のイントロのリフは、マイケル・ジャクソンをチャートから引きずり下ろし、シアトルのシーンを世に知らしめ、サウンドガーデンやパール・ジャム、アリス・イン・チェインのようなバンドに道を切り開いたが、それは新時代の到来を意味していた。絶望的な歌詞と心の底からの叫びとエモーショナルなパフォーマンスではみ出し者としての感情を見事に曲に吹き込み、それが上の世代が作ってきた社会的常識から逃れたくてうずうずしていた多くの人たちの共感を呼んだ。

かつてはコバーンも一流のロックスターになることを夢見たが、特に彼のヘロイン中毒と妻のコートニー・ラヴとの騒々しい関係のせいでゴシップ記事の格好のターゲットになってからは、名声に対する嫌悪感をあらわにしている。「不幸にもニルヴァーナはあまりにも速くあまりにも大きくなりすぎてしまった。バンドは増えていく苦痛を一緒に乗り越えていく家族のようなものだ。だから、それが一気にやってきたら対処しきれないんだ」とメンバーのデイヴ・グロールは2016年のインタビューで回想している。唯一の娘フランシス・ビーン・コバーンが生まれた後も、薬物依存(彼が慢性的な激しい胃の痛みのせいだとしていた)は悪化し、27歳でシアトルの自宅でショットガンで自殺する前は、しばらくリハビリを受けていた。彼は遺書にニール・ヤングの「ゆっくり消えていくぐらいなら燃え尽きたほうがいい」という歌詞の前に「もう情熱がない」と書き残した。

ジェリー・ガルシア
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑
Larry Hulst/Michael Ochs Archives/Getty
1995年没 享年53歳

ガルシアはレイジーなレーザービームのようなリード・ギターと宇宙のように広がるアメリカーナの歌詞でグレイトフル・デッドという名の宇宙船を先導する一方、仲間たちと樽に座りバンジョーを弾いている『オールド・アンド・イン・ザ・ウェイ』のジャケットの有名な絵になるようなアーティストであった。ロック史で最も偉大なソングライター、ソロ・プレイヤーの1人であるガルシアはグレイトフル・デッドの土台でもあり核でもあった。熱狂的なファン「デッドヘッド」は彼に教祖的な役割を投影し、彼はそれを完全に拒絶したがそのイメージを振り落とすことはできなかった。

彼の死は70年代に吸い始めたヘロイン(ペルシャ産アヘンだと思われる)の常用に根本的な原因があった。完全に依存するようになり、糖尿病、睡眠時無呼吸、たばこ、他のドラッグの使用、そして主に肉とアイスクリームという体に悪い食生活によって彼の健康はさらに悪化し、負のスパイラルにはまっていった。1986年に倒れ、文字通り死の淵から生還した後は、生活を改め、バンドの人気は更なるレベルに到達した。しかし、つきまとう名声によってまた元の習慣に戻り堕落してしまった。ガルシアは1995年の夏、リハビリ中に心臓発作で亡くなった。レヴァランド・ゲイリー・デイビスの曲で彼が20代の頃によく歌っていたように(後年にも再び歌っている)”死は容赦ない”のだ。

「人としてもプレイヤーとしても彼のすばらしさを測ることはできない。マディ・リヴァー・カントリーというものの本質が何であれ、彼はそれをそのまま具現化したような人間で空に向かって叫んでいるんだ。彼に並ぶ奴なんていないよ」と1987年にガルシア、グレイトフル・デッドと共にツアーをしたボブ・ディランは語っている。

セレーナ
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Pam Francis/Getty
1995年没 享年23歳

1995年3月、そのメキシコ系アメリカ人のポップスターはテキサス州コーパスクリスティのデイズインで彼女のファンクラブの会長ヨランダ・サルディヴァルに銃で撃たれ亡くなった。セレーナは殺害された当時、1994年のヒット・アルバム『禁じられた愛』に続く、英語のクロスオーバー・アルバム『眠れない夜』の制作に力を入れていた。セレーナのファンクラブと洋服店『Selena Etc.』の経営をしていたサルディヴァルは横領でセレーナの家族から非難を受けていた。

テハーノ歌手の第3世代として、セレーナは単にメキシコ系の人々のアイコンであるというだけではなかった。彼女は文化と国民意識への苦悩の狭間で育った多くのラテンアメリカ系の人々のヒーローであり続けている。また、男社会であったテハーノ・ミュージックにおいての女性としての先駆けであり、後にテハーノの女王と呼ばれるようになった。

元々ドゥー・ワップ歌手であった父、エイブラハム・キンタニーヤ・ジュニアは8年生のセレーナに学校を辞めさせ、家族でやっていたバンド、セレーナ・イ・ロス・ディノスで歌わせた。そのため、彼女はスペイン語を第2言語として何年も勉強した。そして、彼女はテハーノ・ミュージック・アワードで最優秀女性ボーカリスト賞を9年連続で勝ち取ることとなり、1994年には『セレーナ・ライブ!』で彼女の最初で最後となるグラミー賞を獲得し、殺害される前の月にはヒューストン・アストロドームとマイアミのカエ・オーチョ・フェスティバルで観客動員数記録を更新した

亡くなった3か月後、『眠れない夜』がリリースされ、全米ビルボード200チャートで1位を獲得した。ラテン・アーティストとして史上初の快挙であった。ジェニファー・ロペスは有名な1997年の伝記映画『セレナ』で彼女の役を演じブレイクを果たした。彼女の名前をもらったテキサス出身のセレーナ・ゴメスは去年、「パパとママが彼女の音楽が大好きで私に彼女の名前を付けたの。夢みたいな話よ。彼女の家族に会うことができてすごく感激したわ。もし彼女が生きていたら今どうしているかしら。すごい話だよね」とサクラメントのラジオ局NOW100.5で語っていた。

ノトーリアス・B.I.G.
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Pam Francis/Getty
1997年没 享年24歳

今も未解決であるがビギー・スモールズ(彼の愛称)が走行中の車から撃たれて殺害されると、音楽業界は彼のショッキングな死によって変わらざるを得なくなった。その短すぎた人生の中で彼はトゥパックと激しい敵対関係を続けていた。トゥパックは1996年9月13日に亡くなるがそれによって2人を取り巻く怨恨が和らぐことはなかった。ヒップホップ・カルチャーには暴力が蔓延しており、レコード会社の重役たちはおびえて、もしくは単に無関心でそれを止めようとはしなかった。しかし、それはビギーの死のほんの少し前から変わり始めた。歩み寄りのための話し合いの場が何度か設けられた。スヌープ・ドッグは東西海岸抗争を終わらせるためにショーン・コムズと『スティーブ・ハーベイ・ショー』に出演し、アイス・キューブとコモンはネーション・オブ・イスラムのリーダー、ルイス・ファラカーンが主導した和解のための会談で手を取り合った。何より重要なのは、ドクター・ドレーのオールスター・プロジェクト「イースト・コースト/ウエスト・コースト・キラーズ」など、数えきれないほどのアーティストが歩み寄り、反対側の海岸のアーティストとコラボすることとなったことだ。ビギーの最後のアルバム『ライフ・アフター・デス』が1997年3月25日にリリースされるとその圧倒的な成功によって彼の早すぎる死を取り巻く闇は一部払拭されることとなった。また、それによって彼の評判はその世代で最も才能のあるリリシストの1人として確かなものとなった。

ヒップホップは最も偉大なヒーローの1人としてノトーリアス・B.I.G.の地位を確立しながら変化を続けてきたのかもしれない。しかし、ニューヨークのブルックリン出身の、クリストファー・ウォレスという、あまりにも早く命を奪われた若者も存在したのだ。「あいつは誰にも何もしてない。確かに短気だったし喧嘩もした。でも殺されなければならないことは何もしてない。ラッパーだからだ、なんて誰にも言わせない。そいつが最高のラッパーだから殺されるって言うのか?そいつが最高だからクソ野郎どもは嫉妬するのか?」とショーン・”パフ・ダディ”・コムズは1997年にローリングストーン誌に語っている。

2パック
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Al Pereira/Michael Ochs Archives/Getty
1996年没 享年25歳

トゥパックは殺害される数年前から命の危機にさらされていた。1994年の性的暴行の裁判の最中、彼はニューヨーク市内のクワッド・スタジオで何者かに銃で5発撃たれた。翌日、複数の件で有罪判決を受け、彼のキャリアが終わり表舞台から消えていくとファンは思わざるを得なかった(獄中にいながらも彼は1995年の『ミー・アゲインスト・ザ・ワールド』をリリースした)。しかし、数カ月後、マルチプラチナ・アルバム『オール・アイズ・オン・ミー』のおかげで過去最高の人気を得た。常に彼のパワフルで先導的なラップは人生の意味を求め苦悩する若者の喜びと苦しみを投影していた。

1996年9月7日にラスベガスで複数の銃弾を受けてから近くの病院で1週間後に亡くなるまでの彼が銃撃された当時のことは今でも論争を呼んでおり、この事件についての本や親しい友人や関係者からの暴露、そして、中傷や陰謀論まで出ている。事件の数年後も、おそらくマキャヴェリ名義で死後にリリースされた彼の最後のアルバム『ザ・ドン・キラミナティ:ザ・7デイ・セオリー』に感化されたであろう多くの人が、彼はまだ生きていると信じていた。「『自分が老いていく感じがしない』と彼は言っていた」とノーティ・バイ・ネイチャーのトリーチは2010年にMTVニュースで語っている。その死から20年以上経った今でも彼は世界で最も人気のあるラッパーの1人であり続けている。そう考えると、彼がもう存在しないというのは嘘のように感じられる。

アリーヤ
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Kevin Mazur/WireImage
2001年没 享年22歳

若すぎる死のせいで都会のミュージック・カルチャーにいたアリーヤは世の中に誤解されていた。3枚のアルバムをリリースしており、その3枚目のセルフタイトル作品は彼女が亡くなる1ヶ月前に出されるとビルボード・チャート初登場1位を獲得した。新しい作品を出すごとにR&Bで実現できることのハードルを上げた。『エイジ・エイント・ナッシング・バット・ア・ナンバー』は荒いヒップホップのセクシーさをなめらかな表面に磨き上げた。『ワン・イン・ア・ミリオン』ではミッシー・エリオットとティンバランドとの見事なタッグがリズム、サウンド、声に変化をもたらした。『アリーヤ』がリリースされるまでには映画にも手を広げるようになり、1999年の『ロミオ・マスト・ダイ』は驚くほどの興行的成功を収めた。また、音楽面ではラジオ向けのR&Bの枠を超えた域へと進み始めた。『アリーヤ』からの2枚目のシングルのPV撮影のためにバハマを訪れたが、2001年8月21日、戻りの飛行機が離陸直後に墜落し、彼女と関係者8人が亡くなった。残念ながら、3枚目のアルバムはアートの発展を象徴するものではなく、彼女から大きく影響を受けたビヨンセやソランジュ、リアーナ、シアラなどを含め多くの今のアーティストにとって彼女が生きていたらどうなっていたかを考えさせられるものとなった。「一番寂しいのはアリーヤの笑い声を聞いたり笑顔を見られなくなったことよ。一緒にレコーディングできなくなったのも悲しいわ。彼女は限界を超えることを恐れないアーティストだったから」とエリオットは2011年にエンターテインメント・ウィークリー誌に語っている。

マイケル・ジャクソン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

Kevin Mazur/WireImage2009年没 享年50歳

キング・オブ・ポップの晩年の生活は論争に渦巻いていた。彼のこれ見よがしな富や繰り返される整形、奇怪な行動についてゴシップが付いてまわった。児童への性的虐待で告発され、2005年の裁判では無罪の判決を受けたが非難は彼のキャリアと評判に付きまとい続けた。2009年に『ディス・イズ・イット』と銘打ったツアーが、彼の不安定な経済状況を支えるため、またその伝説的なパフォーマーのライブを長年待っていたファンの期待に応えるために企画された。そんな中、2009年6月25日、ジャクソンは処方薬のオーバードーズが原因で突然亡くなった(薬を処方したコンラッド・マーレー医師は後に起訴され有罪判決を受けた)。このような状況にも関わらず、彼の死は世界に彼の才能と(彼が子供の頃のジャクソン5にまでさかのぼる)彼が遺した膨大な数の作品に目を向けさせるきっかけとなった。彼の追悼式は全米で放映され、国葬のように扱われた。中止となったロンドン公演のリハーサルの様子を記録した2010年の『THIS IS IT』は史上最高の興行収入を記録した音楽映画となった。「ビリー・ジーン」や「バッド」、「ブラック・オア・ホワイト」などのカルチャーを決定づけた途方もないヒットの多くが再びチャート入りを果たした。それはすべて、歴史上で最も偉大なエンターテイナーの1人である彼を悼む行為なのである。

ジャクソンが遺したものは輝き続けている。彼は最も利益を生むことができる財産を残したエンターテイナーの1人であり、それは頻繁に訴訟のターゲットにもなっている。大金を稼ぐという以上に、彼の少年のような純粋さと魔法のような曲作り、そして輝かしいパフォーマンスはかけがえのないものである。「俺たちは、ポップ・ミュージックだけでなくすべての音楽を代表する、才能を持った真のアーティストを失くしてしまった。彼は何世代にも渡って影響を与え続けている」とジャクソンの死後の2014年のヒット曲「ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド」を歌ったジャスティン・ティンバーレイクは語っている。

エイミー・ワインハウス
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2011年没 享年27歳

ワインハウスは世の中に出ると旋風を巻き起こした。2006年の2枚目のアルバム『バック・トゥ・ブラック』はマーク・ロンソンによるプロデュースのスモーキーなレトロ・ソウルを人々に届け世界的な成功を収め、世界一のディーヴァとなった。その成功が彼女のアルコールとドラッグへの依存を悪化させることとなり、それが最後のアルバムとなったが、それによって彼女の最も売れた曲「リハブ」(リハビリ施設での体験を歌った曲)は余計に皮肉で悲痛なものとなってしまった。後にオスカー賞を獲得したドキュメンタリー映画『エイミー』で見られるように彼女のシンデレラ・ストーリーはゴシップに追われる悪夢へと変わり、2011年に27歳でアルコール中毒で亡くなるまで彼女は世間を騒がせ続けた。ワインハウスは今もその実直な歌詞と歌声で多くのモダン・ソウル・シンガーに影響を与え続けている。「私の成功の90%は彼女のおかげだわ」とアデルは言う。

ホイットニー・ヒューストン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2012年没 享年48歳

ゴスペル歌手シシー・ヒューストンの娘であり、ディオンヌ・ワーウィックのいとこであり、アレサ・フランクリンの代子であるヒューストンは”1世代に1人”レベルのその恵まれた声でジャンルを超える最高のアーティストとなった。「いとこのディオンヌのおかげでバート・バカラックの見事なメロディをすべて理解していたが、彼女は若くてマイケル・ジャクソンやプリンスやマドンナの時代の人だから彼女の中にはソウルもあったんだ。ああいうリズムがね。彼女はその両方を持っていて、しかも、彼女はすごくゴージャスだ。彼女にノーなんて言えないよ」とヒューストンのプロデューサーの1人、ナラダ・マイケル・ウォルデンは2012年にローリングストーン誌に語っている。彼女は(『グレイテスト・ラブ・オブ・オール』、『オールウェイズ・ラヴ・ユー』を含む)11曲のナンバー1シングルを生み、2億万枚以上のアルバムを売り上げ、7つのグラミー賞を獲得し、マライア・キャリーやアデル、アリアナ・グランデなど数々の実力派シンガーに影響を与えた。

1992年の『ボディガード』のサウンドトラックでの商業的成功のピークの後、ヒューストンはそのエネルギーに満ち溢れた態度を保てなくなり始めていた。ボビー・ブラウンとの騒々しい結婚生活やドラッグとアルコールへの深刻な依存は、搾取的なリアリティ番組への出演に繋がり、彼女はインタビューをかき乱したり(2002年のダイアン・ソーヤーへのコメント「コカインなんてバカげてる」)、傷1つ無かった自分の楽器をぞんざいに扱ったりした。2012年2月のグラミー賞の前夜、ザ・ビバリー・ヒルトンの部屋のバスタブで彼女は遺体となって発見された。検死により彼女の死には事件性はなく、心臓発作とコカインの使用があったことが認められ、また体内からは複数の薬物が検出された(悲劇的なことに娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンも3年後、22歳で奇妙にも同じような状況で亡くなった)。「彼女は究極のレジェンドだったわ。誠実で優しくて。彼女の声には欠点がなくて、力強くもあるけど癒やしもある。ソウルフルでもありクラシックでもある。彼女のヴィブラート、抑揚、コントロール。すべてのシンガーと同じように私もずっと彼女みたいになりたかったわ」とビヨンセは彼女の死後、エッセンス誌に語っている。

プリンス
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2016年没 享年57歳

これからレコード契約をしようというアーティストの中でも最も並外れた才能の持っていたアーティストの1人であったプリンスは、彼が19歳の時にリリースされたデビュー・アルバム『フォー・ユー』のすべての曲のプロデュース、アレンジ、作曲、演奏をこなし、キャリアを通じて驚くほどに楽々と異なる楽器を演奏した。彼はその刺激的でセクシーなイメージと「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」や「アップタウン」、「戦慄の貴公子」のようなポップス、R&B、ダンスのチャートにまたがるシングルのおかげで70年代後半、80年代前半のヒット・メーカーとなった。異なる人種と性別で構成されたバンド、ザ・レボリューションを従えた『1999』で一般層にアピールする準備が整い、映画『パープル・レイン』と「レッツ・ゴー・クレイジー」や「ビートに抱かれて」、壮大なタイトルトラックなどのヒット曲を収録しダイヤモンド・ディスク認定を受けたそのサウンドトラックで彼は大スターとなった。「『ビートに抱かれて』は過去25年で最も革命的な曲の1つだ。ベース・ラインがない曲だ。というよりほとんど音楽が何もない。それでも大きな影響力を持っていた。『ビートに抱かれて』はザ・ネプチューンズの1音だけのファンク・サウンドの先駆けでもあり、ドラムマシーンとほんの少しのメロディでできた曲の最高傑作だ」とクエストラヴは以前語っている。

次々とヒット・アルバムをリリースし彼の伝説は成長を続けたが、90年代に入り契約内容に不満を感じた彼はワーナー・ブラザーズと対立するようになり、その成長は止まった。彼は自らの顔に「奴隷」と書き、名前を記号に変え、インディペンデント・アーティストになるまで争い続け、ダブルプラチナ・ディスク認定の1996年のアルバム『イマンシペイション』で自らの正当性を主張した。彼は2010年代に入ってもトップ10に入るアルバムを出し続けていたが、実験的にTwitterで曲をリリースしたり、彼がやりたい時にやりたいようにツアーしたりした。そんな中、彼は股関節置換手術を受けたと伝えられており、おそらくその後の治療がきっかけで密かに鎮痛剤に依存するようになったようだ。そして、2016年4月、合成オピオイドのフェンタニルのオーバードーズによって彼は亡くなった。彼の死の翌週、ビルボードが『ヴェリー・ベスト・オブ・プリンス』と『パープル・レイン』がアルバム・チャートの1位、2位を獲得したことを伝え、彼の影響力の大きさを証明した。

ジョージ・マイケル
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2016年没 享年53歳

ジョージ・マイケルはほとんど人前に出ない生活を送り、ツアーにでることもほとんどなかったので、2015年から2016年にかけて彼が世間に姿を表さなかったことを気に留める人はあまりいなかった。肺炎と激しい胸の痛みで2011年のツアーは多くの日程をキャンセルせざるを得なかったが、彼はまだ50代前半で実際そのような致命的な状態であるようには感じられなかった。そんな中、2016年のクリスマスに彼がイギリスのゴリン・オン・テムズの自宅のベッドで亡くなっているが発見されたのは本当にショッキングなことであった。検死の結果、元ワム!のフロントマンである彼には拡張型心筋症の症状があったことが明らかになった。彼の死は世界に衝撃を与え、いろいろとゴシップはあったが彼が歴史に残る偉大なポップ・シンガーであり、それが変わる時だと感じるとどんな大きな成功からも離れることをいとわないようなアーティストだったということを、多くのファンに一瞬で思い出させたのである。「彼は非の打ち所がない才能を持っていた。それはこれからも輝き続け、次世代に影響を与え続けるだろう。ジョージは曲の中に、卓越した美しい声に、そして魂を込めた詩的な表現に、彼のすべてを残したんだ」とワム!の元パートナー、アンドリュー・リッジリーは彼の死後に語っている。

クリス・コーネル
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2017年没 享年52歳

サウンドガーデンが5月17日にデトロイトのフォクス・シアターに着いたのは彼らの2017年のツアーの12日目のことだった。その日はヒット曲(「ブラック・ホール・サン」、「スプーンマン」)やコアなファンが好む曲(「スレイヴズ&ブルドーザーズ」、「アグリー・トゥルース」)、そして2012年の復帰アルバム『キング・アニマル』からの曲を演奏した、特に波乱もないライブであったが、時折、フロントマンのクリス・コーネルは心ここにあらずというような感じを見せた。しかし、サウンドガーデンやテンプル・オブ・ザ・ドッグ、オーディオスレイヴ、そしてソロで数々の記憶に残る曲の原動力となり、その世代の中でも最もすばらしいボーカリストの1人としての地位を確立した彼の激しい歌声はそんな日でさえもそれまでにも劣らないパワフルなものであった。

ライブが終わると彼はMGMグランド・デトロイト・ホテルの自室に戻り、ボティーガードとホテルの従業員にApple TVを直すために手を借りていた。そして、その真夜中、彼はエクササイズ用の赤いゴムバンドをバスルームのドアの上に引っ掛け首を吊った。薬物検査の結果、彼の体内からはアティヴァンや鎮痛剤のブタルビタール、睡眠薬など複数の薬物が検知された。その数年はかなり良くなってきていたと感じていたが、彼は大人になってからはほぼずっと薬物依存と鬱病と戦っていた。その知らせはロック界に衝撃を与えた。「彼は単なる友達ではなかった。兄のように憧れている人だったんだ」とエディ・ヴェダーは語っている。

チェスター・ベニントン
早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

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2017年没 享年41歳

ベニントンはこの年の6月に亡くなった時、キャリアのピークにいた。リンキン・パークの7枚目のアルバム『ワン・モア・ライト』は(5回目となる)ビルボード・チャート1位を獲得し、スタジアムとアリーナを回る北米ツアーに出るところであった。2000年に商業的大成功を収めブレイクのきっかけとなったデビュー作『ハイブリッド・セオリー』がリリースされた時からベニントンは世代を代表するシャウト声を持っていた。また、彼はサイドプロジェクトのデッド・バイ・サンライズやオールスター・カバー・バンドのキングス・オブ・カオス、そしてストーン・テンプル・パイロッツのスコット・ウェイランドの後任としても歌った。「天使と悪魔が両肩に乗ってるような感じなんだ。彼が歌うとその2つの間にあるテンションが感じられる。これほど多くの人が彼の音楽に惹きつけられるのは彼がその2つの間のバランスをうまくとっているからなんだと思う」と俳優でありサーティー・セカンズ・トゥ・マーズのフロントマンであるジャレッド・レトは以前語っている。しかし、彼はその成功にもかかわらず内在する悪魔と戦っていた。彼は子供の頃、性的虐待を受けていて、その結果、10代でアルコールとドラッグに手を出すようになり、鬱病と薬物依存が大人なった彼について回った。にもかかわらず彼は強気な自信を見せており、それが余計に彼の死に謎を残すこととなった。首吊りによる自殺と発表されると、彼の友人たちは彼がその半年間はしらふだったと言い、また、デッド・バイ・サンライズの元バンドメンバーの1人は彼の中の悪魔が彼からコントロールを奪ったのだろう、とローリングストーン誌に語っている。ベニントンは稀代の弱さと情熱を持った音楽的財産を残していった。
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