ローリングストーン誌が選ぶ「歴史上最も偉大なギタリスト」にもランクインしている、ギター・レジェンド、カルロス・サンタナ。その腕前は誰もが認めるものであったが、アーティストとして低迷期におり苦しい時代を過ごしていた20年前。
まだ、ジャンルを超えるコラボレーションが当たり前でなかった時代に、サンタナを愛する面々が集いサンタナの代表曲を作り上げた。奇跡的なヒットを記録した1999年発表の「スムース」。誰も予想だにしなかったその名曲の誕生秘話を、サンタナ、ロブ・トーマス、そして当時の関係者が今だから語る、貴重なサクセスストーリーを紹介する。

ロブ・トーマスは1999年のカルロス・サンタナとのコラボレーション曲「スムース」がこの20年間でどのような経過をたどってきたのかをよく理解している。「この曲は『ああ、これは最高の夏の曲だ』って言われていたところから『みんなこの曲にはうんざりしてる。もう2度と聞きたくない』って言われるまでになり、それからまた『ほら、もう1回この曲聞いてみよう。思い出がよみがえる。今でもいい曲じゃないか!』ってところまで行ったんだ」と彼は語る。

ジャンルを超えるコラボレーションが当たり前でなかった20年前、この「スムース」のアイデアが突拍子もないこととして扱われていたという事実は忘れられがちである。長年ヒットのないクラシック・ロックのベテランが25歳も若く全くジャンルの違うロックのシンガーとコラボレーション。大掛かりな見直しが必要だった歌詞とメロディーに、レコード会社との法的なハードルに、議論になったボーカル・エフェクト。論理的に考えると「スムース」ほど失敗しそうな計画はなかったのではないだろうか。


しかし、言うまでもなく、実際にはそのような結果にはならなかった。ラテン・ロック曲でもあり、(エルトン・ジョンの「モナ・リザ・アンド・マッド・ハッター」を意識した)賛歌的ラブソングでもあるこの曲はサンタナの激しいリード・ギターの勢いのによって、チャビー・チェッカーの「ザ・ツイスト(ツイスト・No.1)」に次ぐ、史上2番目の売り上げを記録したシングルとなった。「スムース」は年齢問わずすべての層に対しポップ・センセーションを起こした最後の曲の1つであり、その人気は2000年代に入っても衰えることはなかった。ヒット曲としての勢いは止まらず、結婚式の定番となり、トーマスの歌詞の歌い出し(「Man, its a hot one …(魅力的だね)」)は様々なミーム(ネット上のネタ)に影響を与えてきた。

20周年を記念して「スムース」という曲を実現し、記憶に残るものにした主要関係者たちと共に、その曲の制作過程とすばらしさとを振り返る。

1. ラジオへの復活を望むサンタナ

男性アイドルグループやブリトニーがチャートやラジオを席巻しようとしていた1997年までに、カルロス・サンタナに興味を持つ人はほとんどいなくなっていた。それでもポリグラムとのメジャー・レーベルは続いていたが、彼は15年以上もヒット・シングルを生み出していなかった。しかし、チャートでの成功に対するプレッシャーを感じていた彼は、1997年7月にニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのライブにクライヴ・デイヴィスを招待した。当時、アリスタ・レコードの社長であった彼は60年代後期にコロムビア・レコードでサンタナにとっての初めてとなるレコード契約を結んだ人物である。サンタナのバンドが「ブラック・マジック・ウーマン」や「イヴィル・ウェイズ」、「僕のリズムを聞いとくれ」などのヒットを生んだ全盛期を2人は共に過ごした。

クライヴ・デイヴィス(現在のソニー・ミュージックのチーフ・クリエイティブ・オフィサー):私たちは一緒に何かをするということが本当に何年もなかったけど、彼がラジオ・シティでライブをするから来ないかって誘ってくれた。彼にまた会えるなんて嬉しいことだと思ったよ。
誰かとすごく密接に仕事して毎日顔を合わせていたら、もしも仕事が変わってしまったとしてもその関係性がなくなったりはしない。だから、彼を見に行くということは私の感情に訴えかけるものがあったよ。何年も一緒にありえないような経験をしていたわけだからね。

サンタナ:子どもたちと車に乗っていてエリック・クラプトンやベイビーフェイスが流れると、子どもたちに「パパの曲はほんとにたまにしかラジオで聞かないね。流れても『ブラック・マジック・ウーマン』だし」って言われていた。

デイヴィス:カルロスと後で話した時は、子どもたちは当時ティーンエイジャーでラジオで彼の音楽を聞いたことはほとんどなかったって言っていた。その頃の人で一番親しい人は誰かって子どもたちに聞かれた時、私だって答えたと言っていた。「最後にクライヴ・デイヴィスと会ったのはいつ?」って聞かれて「本当に何年も前だよ」と答えたようだ。「それがあなたをラジオ・シティのライブに誘うきっかけになった」と彼は言っていた。そして、その時に「また一緒に仕事をしてくれないかい?」と言われたんだ。

サンタナ:俺はポリグラムとの契約を終わらせようとしていたところだった。クリス・ブラックウェルに「名曲が生まれてくるところなんだ。
でも、それをあなたに託すことはできない。”この子”を扱いきれるだけの力をあなたが持っているとは思えない」と言ったら、彼は「残念だ」と言い、それで終わった。

ピート・ガンバーグ(当時のアリスタのA&R責任者で現在アトランティック・レコードのA&Rプレジデント):カルロスの当時の奥さん、デボラが「ねえ、カルロス。またあなたの音楽で商業的な成功をしてもいい頃よ。クライヴのところに行ってみたらどう?すべてはクライヴと一緒に始まったんだし」と言った。それがディオンヌ・ワーウィックであれロッド・スチュワートであれザ・グレイトフル・デッドであれ、クライヴは「アーティストを成功させるために必要な50%はそのアーティストがどんなアーティストかということを人々に知らせることであり、もしそれがすでに達成されているのであれば、成功への道のりは半分まで来ていることになる」というビジョンをいつも持っていた。すでに名前が売れているアーティストであれば後は、そのアーティストが作ろうとしている作品が大衆のリスナーに「ああ、これ覚えているよ」と言わせるだけのすばらしいものになるように、A&Rと音源制作に全力を注ぐだけでいいと彼は常に考えていた。

デイヴィス:私はラジオ・シティで、彼が演奏するのを見て、彼が変わらずまばゆいばかりの名プレイヤーであるのを目の当たりにして、そして、彼が一緒に演奏している若いバンド・メンバーを見て、初めてアメリカにおけるヒスパニック人口の成長について考えるようになったんだ。そこで民族的にも人種的にも年齢的にも異なる様々なオーディエンスを目にした。私は「カルロスは復活できるんじゃないか」と思い始めた。そして、私たちはビバリーヒルズで会う約束をしたんだ。

サンタナ:クライヴに「カルロス、君のライブは最高だけど聞きたいことがある。
そのエネルギーをスタジオでも出すことができるかい?やってみる気はあるかい?私も7曲用意するから、君も7曲用意してほしい。できるかい?」と聞かれて、俺は「もちろんだ」って答えた。

デイヴィス:「もし君がアルバムの半分を私に任せるというアイデアに同意してくれるならやれる。私が君のすばらしさを絶対に損ねない作曲家や曲を探すが、シングルとして出すのは君がつくる曲で構わない。だから、これはすごく自然でオーガニックなものになる。絶対に君に妥協を求めるようなことにはならない。そして、アルバムの半分は君がやりたいようにやればいい。これには君が何よりも重要なんだ。カルロスが重要なんだ。もしこのアイデアに賛同してくれるなら君と契約する」と言うと、彼はその場で同意してくれた。

リチャード・パルミーズ(アリスタの当時のプロモーション部門のヴァイスプレジデント):当時クライヴとは毎週会議をしていたけど、たしか彼はそこでそれを発表したんだ。控えめに言ってもみんな驚いていたよ。
30年以上もカルロスをラジオで聞くことはなかったからね。思い切った決断だった。当時のチャートを見るととても若々しいポップなバックストリート・ボーイズやクリスティーナ・アギレラ、TLC、ディスティニーズ・チャイルド、ブリトニー・スピアーズがいたわけだからね。

デイヴィス:そこで異論を唱える者はいなかったけど、後で「デイヴィスはバカだ」って言われていたのは耳にしている。

ガンバーグ:目的は商業的な成功だったけど、誰も実際にどうしていいのかはわからなかった。私は97年の10月にA&Rの新人として入って、自分はまだ1人のアーティストとも契約していなかったから本気で自分がやることを探していたんだ。だから、私は個人的にクライヴのサンタナとの契約を挑戦だと感じていた。B.B.キングの97年に出た『デューシズ・ワイルド』というディアンジェロやボニー・レイット、トレイシー・チャップマンなどのアーティストとのデュエット・アルバムがあったんだけど、私はチャートばかり見ていたからそれが普段のB.B.キングのアルバムより売れていることに気づいた。そのアルバムを手に入れて聞いてみたら「コンセプトはすばらしいけどできがひどい」と感じた。曲が良くなかったんだ。

でも、私は「そのコンセプトをサンタナでやってみよう。それにはリサーチが必要だ」と思った。
私は文字通り見つけられる限りのすべての雑誌記事を読んで誰かサンタナを聞いて育ったアーティストはいないかを探した。カルロスの当時のマネージャーに電話してそのアイデアを伝え、彼がカルロスにそれを伝え、カルロスは「いいね」って言ったんだ。

2. 形になり始めた「スムース」

翌年、デイヴィスとガンバーグはサンタナをローリン・ヒルやデイヴ・マシューズ、エヴァーラスト、エリック・クラプトンなど幅広いポップ・スターたちと繋げた。しかし、そのようなアーティストとの曲も1曲目のシングルとして決定的なものとはならず、早急に解決策を見つけなければならなかった。

ガンバーグ:1年半ほど経った99年1月に、クライヴの財務担当者が私のところに来て「君がお金を掛けすぎているこのアルバムはもう完成させなければならない。君の個人的なお遊びになっている。もう遊んでいる場合じゃない。リリースしなければならない。時間切れだ」と言った。私が「まだできていない」と言うと、彼は「いや、もう完成だ」と言い、私が「まだ1曲目に出すべきシングルがない」と言ったら「関係ない。もう完成だ」と彼は言ったんだ。私はまだ数週間の時間があるのはわかっていたが最初のシングルにするべき曲がまだないという大きな問題を抱えていた。正直困り果てていたよ。候補のアーティストにはもう全員に当たっていたからね。

ある時、突然ゲリー・グリフィス(アリスタの有名なA&R責任者)に「まだサンタナのアルバムはやってるのか?」と聞かれて「はい、でももう1曲必要だと思っています」と答えたら「これからある作曲家の代理人になるかもしれないんだが彼がサンタナに合いそうな曲のアイデアあるって言っているんだ。紹介してもいいか?」と言われた。それがイタール・シャーだった。

イタール・シャー:その頃には私はすでにマックスウェルと仕事をしていて、彼の「アセンション」がヒットしていた。ゲリーからサンタナが曲を探しているという話を聞いて、ピート・ガンバーグと話をする機会をもらって、その時にデイヴ・マシューズとエヴァーラストとローリン・ヒルとの曲を聞かせてもらったんだ。私は兄と一緒にサンタナを聞いて育ったけど、聞かせてもらった曲はどれも「ブラック・マジック・ウーマン」や「僕のリズムを聞いとくれ」のような曲とは違った。だから、私はそういう曲を作りたいと思ったんだ。そして、私は戻って「ルーム17」という曲を作った。意図的に「ブラック・マジック・ウーマン」や「僕のリズムを聞いとくれ」のようなリズムを作るところから始めたよ。リズムを打ち込んでキーボードを弾いて、デモのギターも弾いたよ。

ガンバーグ:イタールは「あなたが待ち望んでいたヒット・ソングができた」というような少し生意気な態度で来た。テープを再生して曲が終わると私は彼に「いい知らせと悪い知らせがある。いい知らせはこの曲自体は本当にすごく良いと思っているということだ。昔ながらのサンタナが今風になったような感じだ。ただ歌詞が全然ダメだと思う」と言った。「ルーム17」というのはライブの後、アーティストがグルーピーを呼ぶためのホテルの部屋を意味していたんだ。「もし君がカルロス・サンタナという人を知っていれば、彼がこういった曲をやるようなアーティストではないということがわかるはずだ」と私は言った。

シャー:違う、あの曲はグルーピーの曲ではないよ。あれは長い間、会えなかった男女がそれぞれに恋人がいながらもルーム17で密会するという曲なんだ。愛を表現するために人目を忍んで会う方法の1つだったんだ。作り話で、私は週末だけで書き上げた。

ガンバーグ:彼は「この曲はこのままでヒットする」と言い、私は「それはない」と言った。2人で小さい子どもみたいな言い合いをしたよ。「じゃあ他にどんな案があるっていうんだ?」と彼が言い「私の提案は、一旦戻って、デモからボーカルを消したトラックを私に渡してほしい。そして私がトップ・クラスの作家に新しい歌詞とメロディーを書かせる」と私は言った。彼は躊躇していたがボーカルなしのトラックを渡してくれた。そして、私はサンタナのためにそのアルバムのまだ見ぬ1曲目のシングルをヒット曲にできる歌詞とメロディーを書ける人を探さなければならなかった。

エヴァン・ランバーグ(当時のEMIミュージック・パブリッシング副社長、現在の北米ユニバーサル・ミュージック・パブリッシング社長):私はEMIでマッチボックス・トゥエンティーとロブと契約していた。ロブに「いつか君に他の人に曲の提供をするようになってほしいと思っている」と言ったら、彼は「いいね。ぜひやろう」と言った。私の親友のピート・ガンバーグから電話があって「クライヴがカルロスと契約した」と聞いた。

ガンバーグ:まだメールでMP3ファイルが送れるような時代ではなかったから電話をスピーカーに当ててボーカルの入っていない「ルーム17」を彼に聞かせて「この曲に作家が必要なんだ。誰か知らない?この曲を完成できる歌詞とメロディーが必要なんだ」と言ったら、彼が「ピート、ロブ・トーマスってやつがいるよ」って言ったんだ。

思い出してほしい。これは1999年のことだ。だから、私は「マッチボックス・トゥエンティーのロブ・トーマスかい?」って聞いた。当時、マッチボックス・トゥエンティーはすごく成功していたけど、彼らはコレクティヴ・ソウルやフーティ・アンド・ザ・ブロウフィッシュのような感じで、そういうバンドはラジオでよくかかっていたけど少し特徴に欠けていたんだ。ロブは誰もが知るようなアーティストというわけでもなかったしね。でも、エヴァンは「今まで一緒にやったソングライターたちには申し訳ないがロブ・トーマスは私が契約した中でも最もすばらしいソングライターだ。ロブはちょうどマッチボックス・トゥエンティーのツアーが終わったところだから今、彼はフィアンセと家で過ごしていて何もしていない。マリファナを吸うのとプレイステーションをする以外はね。だから、彼にこの曲を送って彼がどう思うか聞いてみようと思う」と言ったんだ。

ランバーグ:ロブに曲を送って「カルロスについての歌詞を書くのではなくカルロスがどんな人かが伝わるような歌詞を書くといいだろう」と伝えると、彼は「わかった」と言った。

ロブ・トーマス:ツアーが終わってソーホーの家にいたら、カルロスのアルバムのこの曲を作ったイタール・シャーから電話があったんだ。最初は俺も作家として参加するだけで歌う予定はなく、これが人のために何かを書く初めての機会になるはずだった。マッチボックス・トゥエンティーで何度かカルロスも出ていたフェスに出たことはあったけど彼に実際に会える機会はなくていつも残念に思っていた。だから、これはカルロスに会うためのいいきっかけになるって思ったんだ。

シャー:ピートにデモを持っていった時、彼は「曲はすごくいいと思うし、一部のメロディーもいい。でも、このバッキング・トラックだけをロブ・トーマスに渡したらどうなるだろう?」と言った。私はあまり乗り気ではなかった。ロブの才能は知っていたけど「3 AM」以外の曲をあまり知らなかったんだ。だから、私は「マッチボックス・トゥエンティーとサンタナ?わかった、違和感はあるけど、好きにしたらいい」って感じだった。

トーマス:この曲は独特な曲だった。部屋でパーティをしているような曲だった。俺の妻(マリソル、当時のフィアンセで1999年後半に2人は結婚)が、ある午後に出かけて行って、俺は家にいた。「smooth(魅力的だ)」っていう歌詞のパートが最初に思い浮かんだと思う。カルロスのことを考えていたんだ。カルロス・サンタナを思って「あなたはとても魅力的だ」って歌詞が出てきた。それから「君のラジオで俺のリズムが流れる」って歌詞が出てきて。でも途中で自分にはとても魅力的なラテン系のガールフレンドがいることに気がついて大量のアイデアが湧いてきたんだ。彼女はクイーンズ出身でもスパニッシュ・ハーレム出身でもなかったけどそれ以外はそのとおりで、最終的には彼女についての曲になった。それまでにも2人の喧嘩についての曲はあったけど、これは俺たちのいい面についての曲だったから彼女も気に入ってくれたよ。

ガンバーグ:今はロブの奥さんだけど当時まだガールフレンドだったマリソルがスペイン系だってことを、私はエヴァンから聞かされてなかったが、だからこそ、ロブは「ルーム17」の曲を聞いた時、彼女へのラブレターを書こうという気になったんだと思う。もし、彼のガールフレンドがスペイン系でなかったら、「スムース」は生まれていなかったかもしれないね。

何日か後にエヴァンから電話があって「今日の午後、私のオフィスに来られるかい?ロブが書いた曲を歌ってくれるんだ」と言った。私はエヴァンのオフィスに行って初めてロブに会った。ロブは「ルーム17」の曲につけた歌詞を書いたノートを取り出し歌い始め、歌い終わると私とエヴァンを見た。私が「うん、すばらしい。でも、まだ完璧ではないかな。サビがもの足りないのかな。サビをもう1度歌ってくれないかい?」と言うと、ロブは「もちろん」と言い「もしこの人生が良くないというなら…」と歌い始めると、私は「サビっぽくない気がする。Bメロっぽく感じるね」と言った。立派なことにロブは私を見て「わかった。これはBメロとして使うよ。(サビには)何か思いつくか試してみるよ」と言ったんだ。

トーマス:イタールは俺の家から1,2ブロックぐらいの距離に住んでいたから、彼の家で一緒に曲を作りを進めないかって提案されたんだ。イタールの家に行ったけど、Bメロが俺にとってはサビのつもりだったからまだサビがなくて。だから、俺たちにはさらに勢いあるパートが必要だったから後にサビとなるパートを作り出したんだ。間違いなくイタールのサポートは必要だったよ。俺たちにはより大きなもの、カルロスっぽいものが必要だったんだ。想像力を働かせると海とか月が頭に浮かんできた。それで「もしこの人生が良くないというなら」のパートがBメロになり「まるで月に照らされた海のようだ」がサビになったんだ。

シャー:ロブはAメロ、Bメロのアイデアを持って私のところに来て、私は新しいサビを考えていた。(歌詞を変えることになってから)ピートが言っていたことはすべて正しかったと感じていたから、完璧なものになるまで私たちは試行錯誤を続けた。ある時、私が「なぜ『(スペイン語で)お嬢さん』とか『スペインのモナ・リザ』を歌っているんだい?」と聞いたら、ロブは「俺のガールフレンドはプエルトリコ人なんだ」と言って、私は「なるほど。インスピレーションを受けたよ」と言ったんだ。

ガンバーグ:私は、ロブが歌ってくれた時にはなかった新しいサビのパートが入った新しいデモを聞いた。サビのメロディーはすごく良かったが歌詞の始めの2行が「俺を動かすような素敵なものをくれよ/君のところに行けるように俺のエンジンをかけてくれよ」だった。私はエヴァンに電話して「サビ自体はいける。メロディーはすごくいい。でも最初の2行…。これはなんだ。『ワイルドでいこう!』か?」と言った。ロブは「俺はイタールにここの2行を書いてほしいと思ったんだ。これは彼の曲だから。この曲は彼から始まったわけだからね」と言ったが、私は「ロブ、君はこの2行に何かアイデアはあったのか?」って聞いたら、彼は「あるよ。俺のは『まるで月に照らされた海のようだ/俺が君から得る感情と同じなんだ』だ」と言うので、私は「ロブ、イタールには自分から話すかい?それとも私が言おうか?」と言ったんだ。

トーマス:それでデモを録って先に進み始めた。

3. ”最終的に”合意するサンタナ

企画された当初からサンタナとトーマスのコラボレーションはほとんどの人に違和感を持たせた。サンタナ自身も含めて。

ガンバーグ:こんなことが起こっている間もカルロス自身はそんなことが起こっているとは知るよしもなかった。それは私とエヴァン・ランバーグとロブ・トーマスとイタール・シャーで小さな研究所で自分たちのファースト・シングルを生み出そうと画策しているようなものだった。そして、ついに合格点のデモが完成し、私はクライヴにそのデモを聞かせに行った。曲が全部終わるまでの3分半、私は息をすることができなかった。クライヴが「ダメだ。良くない」と言う可能性は大いにあったからね。そうなったらすべてが終わりだった。クライヴがボスだからね。でも、クライヴは「気に入ったよ。カルロスはなんて言ってるんだ?」と言い、私は「カルロスにはまだ聞かせていない。あなたが気にいるまでカルロスには聞かせたくなかったので」と答えた。すると彼は「気に入ったよ。だからカルロスに送るんだ」と言ったんだ。

私は息をつき、自分を褒めたい気持ちになった。カルロスにデモを送ると翌日、彼のマネージャーから電話があった。「すまない、ピート。カルロスはあの曲が気に入らないようだ」と言われ、「冗談だろ?」と言うと、彼は「本当だ。彼はあの曲は好きじゃないと言っている。『グアヒーラ』(1997年の『サンタナIII』収録曲)みたいだからまた『グアヒーラ』をやるのは嫌だと」と答えた。私が「違う、これはヒット曲になるから。彼にもう1度曲を聞いてくれるようにお願いしてくれないか?」と言うとマネージャーは「わかった。もう1度曲を聞くように言ってみるよ」と言ってくれた。めまいがしたよ。それ以上何をしたらいいかわからなかった。もしアーティストが曲を気に入らなかったらそのレコーディングを強要することはできないからね。

ロドニー・ホームズ(当時のサンタナのドラマー):カルロスは昔のサンタナっぽくないことをやろうとしていたんだ。ヒップホップとか彼にとって新しい音楽に挑戦しようとしていたから「マリア・マリア」はすごく気に入っていたけど「スムース」はあまり好きじゃなさそうな感じだったね。

サンタナ:料理をする時、途中の味見だけでは最終的な味はわからないだろ?だから、それと同じで俺は確信が持てなかっただけなんだ。初めて聞いた時はデモだったからその良さを感じられなかったんだ。

ガンバーグ:カルロスは売れるか売れないかで考えない。音楽性で考える人だ。彼は私に13分の曲とそれにつけるポルトガル語の歌詞を送ってきたりしていた。翌日、マネージャーから連絡があって「カルロスは相変わらずあの曲が好きになれないみたいだけど、彼が送ったポルトガル語の曲にあの曲の一部を使ったりするならいいと言っている」と言った。私が「ダメだ。彼のアイデアと私たちがヒットを狙った曲の一部を混ぜてポルトガル語の曲なんかにするつもりはない」と言うと、彼は「ピート、なんて言っていいかわからない」と言うので、私は「お願いだ。もう1度だけ彼のところに行って、『私たちが今までにここまであなたにこうしてほしいとお願いしたことはない。だから信じてほしい』とだけ伝えてほしい。やってみてもらえるかい?」と言ったんだ。

マネージャーはそれを実行し、電話をくれた。「ピート、失礼ながらカルロスはあなたと知り合ってまだ2年だと言っている。クライヴとは30年の仲だ。もしクライヴがクライヴ・デイヴィスの意見として個人的に言ってくれるなら彼はその曲をレコーディングすることに同意すると言っている」と言った。

私は正気を失ったかのように落胆しながらクライヴのオフィスに行って、カルロスはクライヴ個人の考えを聞かない限りレコーディングしないということを伝えた。クライヴは「問題ない」と言って手紙を書き取らせた。私がその手紙をカルロスに送るとマネージャーから連絡があり「カルロスはあなたがクライヴの指示でいろいろと動いてくれたことに感謝している。彼はあの曲をレコーディングすることに承諾したよ」と言った。

デイヴィス:私の記憶では私がカルロスに電話で聞かせたと思う。送ったんじゃないはずだ。電話で聞かせたよ。当時は電話でとてもクリアな音質で聞かせることができる機械があったんだ。彼は気に入ったって言っていた。私の記憶ではこうなんだけどね。

サンタナ:俺はまだ疑念が拭いきれず「クライヴ、もう曲は十分にあると思う」と言ったんだ。すると、彼は「信じてくれ。これは私が責任者なんだ。君にはこの曲が必要なんだ。この曲がアルバムで一番重要な曲になるから」と言った。それで俺はわかったと言ったんだ。俺はクライヴの考えに従うことには何の抵抗もないからね。

トーマス:今度は彼らが誰にその曲を歌わせるかを決めかねていたから、俺も誰にすべきかを決める手助けをしようとしていた。ジョージ・マイケルやボン・ジョヴィの名前を挙げたりもしたよ。

ガンバーグ:クライヴはいつも売れるかどうかを考えているから、もしマッチボックス・トゥエンティーのアルバムで大成功を収めたロブがこの曲で歌ったら、他の誰が歌うよりも成功に近づくだろうという考えは彼の頭の中にあった。私とマット、そして、今もマッチボックス・トゥエンティーとロブのマネージャーをやっているマイケル・リップマンで話し合って「いや、ロブ、君がやるべきだ」って言ったんだ。

サンタナ:歌詞の「its a hot one(魅力的だね)」というのを聞いた時、俺にはその歌詞が重力も時間もないものに感じられた。永久不滅の地に踏み込んだと思ったんだ。でも、ロブには失礼になってしまうけど俺は「君が歌ってることに現実味を感じない」と言ったんだ。

マット・サーレティック(プロデューサー):カルロスはロブについて疑念があり、様子を見ている感じだったね。私が彼についてカルロスと初めて話したのは「ロブは本当に信用できるシンガーだ。彼ならいいものにできる」みたいなことだった。カルロスは確信が欲しかったんだ。確信を持てなかったら他のどんなアーティストもそうなると思う。彼はスピリチュアルな人だからその会話から何かいい空気を感じたんじゃないかな。彼は「彼を信じる。さあやろう」と言ったんだ。

デイヴィス:カルロスは「俺たちには彼が必要だ。彼にやってもらわなければいけない。彼なら完璧だ」と言った。私は「口で言うほど簡単なことでもないんだ。彼は別のレコード会社と契約しているからね」と言った。

ランバーグ:ロブのためにラヴァ/アトランティック・レコードから2つの許可を取らなければならなかった。ロブを「スムース」のレコーディングに実際に参加させる許可と公式シングルとして「スムース」をリリースする許可。交渉は簡単には行かなかった。ジェイソン・フロム(ラヴァの社長)に「競合社の音源のボーカルをロブにやらせるわけにはいかない」と言われたから「カルロス・サンタナですよ」と言ったが「うちの最大のスターをなぜそちらに渡さなければならないんだ?」と言われた。私は「ロブがやりたがっている。何かデメリットはありますか?」と言ったんだ。

ジェイソン・フロム(ラヴァの社長):確かにそうだと思う。ロブはラヴァにいて、私は「うちには2人のトップ・アーティストがいるが、その両方をそちらに使われるわけにはいかない」(アリスタのランDMCが、ラヴァのキッド・ロックを含むゲスト・アーティストを呼んでの『クラウン・ロイヤル』のレコーディングの真っ最中であった)と言ったんだ。でも、うまく利用されてしまうのはいけないがそれはロブにとって大きなことだった。

トーマス:カルロスが「彼はできるのか?」と言い、最終的に俺はやることになった。その時は少し残念に思っていたんだ。作家になれると思っていたからね。バンド以外で誰かと何かをやるっていうのが初めてのことだったからマッチボックスのメンバーにもやってもいいか確認しなければならなかったし。みんな何の問題もなかったけどね。ポール(・ドゥセット)が「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」みたいになるのかってだけ聞いてきたけど「いやいや、カルロスの曲だよ」って言ったら「じゃあ大丈夫だ。やってこいよ」って言ってくれたんだ。

4. ついに出会うサンタナとトーマス

サンタナの気持ちも固まり、レコーディングの日程もプロデューサー、マット・サーレティックを迎え、カリフォルニア州サウサリートのレコード・プラネット・スタジオで4月に決まった。サーレティックがマッチボックス・トゥエンティーと仕事をしたことがあるというだけでなく、サルサを演奏して育ち、マイアミ大学でラテン音楽のリズムと曲を勉強していたという意味でも彼が賢明な選択であったことを証明した。

サーレティック:サウサリートでレコーディングすることが決まり、私がそのレコーディングの手はずを整えた。私がバンドと一緒にスタジオに入ってリハーサルをして、それからロブとカルロスに初めて一緒に来てもらうという予定で。準備ができて、いつでも始められる状態になった。するとカルロスとロブがだいたい同じ時間ぐらいに来たから私は2人を紹介し合った。いくらか緊張感を感じたのを覚えているよ。どちらかというとカルロスよりロブからかな。カルロスは多少リラックスできる環境だったのかもしれない。自分の町に自分のバンドといたわけだからね。

トーマス:そう、カルロスとは「スムース」のレコーディングの日に初めて会ったんだ。彼は俺については何も知らなかった。デモの俺の声を気に入ってくれていたってこと以外はね。

サーレティック:カルロスはみんなが使うような普通のお香を持ってきていた。スタジオで使っていたと思う。アンプ・ルームでも使っていたけどコントロール・ルームでは使っていなかったね。

サンタナ:彼らが「みんなでスタジオに入って一斉にレコーディングしたらどう?」って言ったんだ。みんなでスタジオに入ってそのサウンドを聞くと「おお、すごい。別次元のレベルだ」って感じだった。最初から最後まで”本物”のサウンドだった。これは明らかに違うものだって感じたよ。

トーマス:カルロスはラテン界出身のプレイヤーだけどいつもロック・シンガーとやっていた。彼の演奏にぴったりはまった俺のそのままの声が心地良かったみたいですごく気に入ってくれたんだ。

サーレティック:テイク2でいいフィールが録れて、後は確かテイク3から1箇所だけ使ったところがあったと思う。いいバンドいて、いい曲があるなら、あれこれ変えない。そのエネルギーをテープに録ったら細かいニュアンスを追加するだけだ。

サンタナを救った一曲、低迷期に大ヒットが誕生した感動秘話

2000年のグラミー賞でのロブ・トーマスとサンタナ(Ron Galella, Ltd./Getty Images)

トーマス:翌日、スタジオに行って、すべてのボーカル・トラックをやって、カルロスが来てギターのパートを少し取り直した。その2日で完成した。マッチボックスは本当にいいバンドになりかけているところだったけど、あのレベルの演奏力の人たちとやるとほんとうに驚かされるね。「俺たちはもっとレベルアップしなければいけない。本当はこれぐらいできるようないならなければいけない」って感じたよ。

サーレティック:問題は「いかにカルロスとロブの掛け合いを説得力のあるものにするか」で、そのためには編集がとても重要であった。全体としてはロブが歌うところにはギターは入らないんだけど、そこが難しいところなんだ。ハーモニーの中で1音か2音だけ2人がかぶってそこからどちらかだけになる。曲のいたるところにそういうところがあるんだ。

ホームズ:このレコーディングには一定の流れができていたね。ロブも一緒にボーカル・ブースで歌いながら1テイク目を録った。プロデューサーが「うん、すばらしかった。じゃあ、もう1度やってみよう」と言って、2テイク目をやった。また、全員で一緒に演奏しロブも歌う。それが終わるとプロデューサーが「すばらしい。もう1度だけやろう」と言った。そして、彼が「こっちに来て聞いてみよう」と言った。ほぼ完成版のように聞こえたよ。でも、その時は「いい曲だな。みんなも好きになるはずだ」ぐらいで「わお、世界一売れるような曲になりそうだ」とまでは思わなかった。「うん、まあまあいい感じになるだろう」って思っていたよ。

サーレティック:ロブのAメロの声にかけたラジオ・エフェクトは大きな議論になった。私はずっとニューヨークのストリート・パーティのイメージがあったんだ。人々はすごく帯域の狭いトランジスタ・ラジオで音楽を楽しんでいた。だから、その雰囲気を全面に出すにはそれがいい方法だと私は思ったんだ。でも、そのエフェクトをかけるとそれがレーベルとの大きな議論になったんだ。かけるのか?かけないのか?ピートは冷静さを失っていたよ。

ガンバーグ:マットが私たちに聞かせてくれた時は最初のAメロに電話の声みたいなエフェクトをかけていてボーカルが少し遠く聞こえたんだ。イライラしながらクライヴのオフィスに駆け込んで「クライヴ、彼らがボーカルのエフェクトを変えた。ああ、信じられない。バカげている。これじゃあダメだ!」って言ったのを覚えている。すると彼は私を見て「ピート、君は君の仕事をした。今度はマット・サーレティックに彼の仕事をさせてあげようじゃないか」と言ったんだ。

サーレティック:私はLAでセリーヌ・ディオンのレコーディング中で、彼女のバンドをそこで待たせているっていうのに電話でそのAMラジオ・エフェクトについて言い合う羽目になったんだ。でも、クライヴが「マットに彼の仕事をさせてあげよう」って言ったことは今後も忘れないよ。

5.さらなる困難

「スムース」を2ヶ月という短期間で作り、レコーディングするということだけでも容易なことではなかったがそこには次のハードルが待っていた。サンタナのようなベテラン・アーティストにチャンスをもらえるようにラジオ局(特にポップスを扱う局)を説得しなければならなかった。

デイヴィス:私はマットが聞かせてくれた時に初めて聞いたよ。圧倒的で私は仰天した。聞けばすぐにそれがすばらしいとわかるんだ。すぐに電話を取ってカルロスに電話したのを覚えている。これでカルロスは復活できるのか?カルロス・サンタナはトップ40に入れるのか?そういった疑問が現実味を帯びてきた。

サーレティック:ピートと私はビバリーヒルズ・ホテルでクライヴに会った。それはシングルを選ぶためのミーティングだった。私たちはそこで「スムース」、そして、私が1曲目のシングルになるだろうと思っていたエヴァーラストの曲を聞いた。彼らはまずはロックのシングルで行くつもりだったみたいだったから、私は「率直に言う。私がレコーディングした曲だけど『スムース』でスタートを切るのがいいと思う」と言った。クライヴが賛成してくれてみんなも賛成してくれた。自分の力のおかげだと言うつもりはないけどその曲がシングルになった。それはその日に決まったんだ。クライヴが決断し、そこから進んでいった。

デイヴィス:悩むことはなかった。「スムース」は1曲目のシングルになるべくしてなった。「マリア・マリア」もね。でもR&B系のラジオ局のことを考えると問題が出てくる。サンタナの曲を掛けてくれるのか?R&Bが入ってなくてもトップ40に入れるのか?ってね。

パルミーズ:私が覚えているのはクライヴが「スムース」を聞かせてくれたこととそれがシングルになることに対して誰からも異論がなかったことだ。

ガンバーグ: アリスタは1000万枚売り上げたマッチボックス・トゥエンティーのアルバムを出したロブを起用してシングルを出す許可を、15~20年ヒットを出していないアーティスト、カルロス・サンタナのために得なければならなかった。そして、アトランティックには私たちにシングルの許可を出したくない人たちがいたから争いになった。

デイヴィス:段階を踏んで許可を得なくてはいけなかったからこれには時間が掛かったよ。私はマイケル・チャップマンと話し合って、お互い得になるということ、これが1度限りのことでそれ以上の意図は何もないということを説明した。ロブをサンタナに入れるつもりはなかった。そして、私たちは許可を得るためのステップをどうにか乗り越えていった。

ランバーグ:私は「ジェイソン、後になってあなたは私に腹を立てるかもしれない。でも、これは次のマッチボックス・トゥエンティーのアルバムの踏み台にもなるでしょう。ロブは今でも人気ですがさらに人気になりますよ」と言った。私たちはこのことに関してはすごく感情的になったよ。

フロム:サンタナはレジェンドだ。クライヴもね。そして、ロブは本当にやりたがっていた。だからノーとは言えなかったよ。

6. 大ヒットとなる「スムース」

ランバーグ:1999年5月にカルロスはニュージャージーのジャイアンツ・スタジアムでデイヴ・マシューズのライブのゲスト・アクトとしての出演のためウォームアップをしていて、私もそこにいた。サンタナはまだリリースされていない「スムース」を演奏することを決めていた。まだ誰もその曲を知らなかった。しかし、ロブが登場すると何万人ものオーディエンスがその曲が何かもわからないまま熱狂していたのを私は目の当たりにした。私はピートに言ったんだ。「みんなこの曲を何年も前から知っているかのように踊っている。この曲は大ヒットになる」ってね。ライブの後、ロブに「感じたか?」って聞いたら、彼は「何かがあるね」と言った。

サンタナ:クライヴがそれが大ヒットになることを確信させてくれたよ。彼がそう言ったのを覚えている。「これは大ヒットになる」ってね。ニュージャージーのあの場所でデイヴの前座をやっている時に大きなバナーを後ろに引いた飛行機が見えたんだ。「サンタナの夏」って書いてあった。俺は「わお」って驚いた。デイヴが俺に「クライヴは本当にあなたを愛しているね」って言ってたよ。

パルミーズ:5月に私はシングルのサンプル版をいろいろなラジオ局に送った。それが私たちが当時やっていた昔ながらのやり方だった。ストリーミングもShazamもなかったからね。そのCDには曲の名前だけでアーティストの名前も書かなかった。「スムース」と「謎のアーティスト」とだけ書いたんだ。番組のディレクターからの「サンタナ?冗談だろ?うちではもうかけられない」みたいな条件反射的な反応を避けたかったんだ。カルロスのギターはすごく特徴的だからわかる人もいたけどそれが狙いではなかったからね。

デイヴィス:それは初耳だ。

サーレティック:みんな50歳のギタリストを怖れていたんだ。

パルミーズ:段階を踏んで行かなければならなかった。初めはアダルト・コンテンポラリーとしてウケが良くてラジオ局は年齢が高めの層をターゲットにしていた。ミネアポリスとサンフランシスコの大人向けの局でかかり始め、それに続いて小規模のアダルト・コンテンポラリー系の局でそこそこかかるようになった。トップ40のポップスとしての扱いとしてはボストンのKISSが初めてトップ40系のラジオ局でこの曲をかけたんだ。それから様々なトップ40系の局でかかるようになった。6月の終わりか7月の始めまでには完全にポップ・ソングとして扱われるようになり始めていた。7月の終わりまでにはニューヨークのZ100、ロサンゼルスのKIIS、マイアミのY100がかけるようになり、そこから爆発し始めた。とてもワクワクしたよ。

サーレティック:この曲にはいくつものフックがある。Bメロがサビになってもいいし、サビはもちろんサビで、AメロのノリはAMラジオのエフェクトでリスナーを引き込む。今となってはみんな歌詞をネタにしているが「Man, its a hot one」は「一体どういう意味なんだ?」って思わせてくれた。才能のある作詞とすばらしいメロディー作り、そして、当時としてはおもしろいリズムとその上に乗った名人芸のギターのコンビネーション。ラジオでこんな曲は他にかかっていなかったね。

トーマス:アルバムの宣伝資料を見たけど、俺のことや俺の曲ってことは書かれていなかったからこれで何か自分に大きな影響があるとは思っていなかった。でも、ある時、ソーホーのウェスト・ブロードウェイの角に立っていると女の子ばかりが乗ったオープンカーが赤信号で俺の前に止まったんだけど、その車からは「スムース」が鳴り響いていたんだ。俺は妻に電話して「ハニー、『スムース』がシングルになったみたいだ」って言った。そうやって俺はそれを知ったんだ。ジェイソン(・ニューステッド)がまだメタリカにいた頃、ロサンゼルスでエレベーターから出てきた彼が俺のところに来て「ロブ、あのカルロスの曲めちゃくちゃ気に入ったよ」って言ってくれたんだ。メタリカの耳に届いているってことはただ事じゃないってわかるよね。

シャー:この曲が1位を獲得した時、私は「なんてことだ。これが現実なんて信じられない」と思った。1位はバックストリート・ボーイズとかだろうと思っていた。私が驚いたのはそこなんだ。カルロスはそういう世代にとっては年が行き過ぎていたからね。こんなことが現実になるとは思っていなかった。

トーマス:この曲は俺が書いた過去最高の曲でもなければカルロスの過去最高の曲でもない。でも、場合によってはタイミング次第ってこともあるんだ。あのアルバムには最高のタイミングだった。”ラテンの爆発”と呼ばれたものがそこにはあったんだ。ただそれはそのタイミングで起こる運命にあっただけで、俺は運良く誰もコントロールできないその瞬間に関われただけなんだ。ただ完璧なタイミングだったってだけだ。

7. 生き続ける曲

「スムース」はアメリカ国内で3ヶ月間1位の座を保ち続け、その曲が収録されたサンタナのアルバム『スーパーナチュラル』は1500万枚以上を売り上げた。その年の夏にハーレムの道路を封鎖して撮影された「スムース」のミュージック・ビデオはその人気をさらに上乗せするものとなった(「文字通り、映画のセットみたいだった。メイクも衣装もケータリングも全部がすごかった」とホームズは語っている)。翌年、サンタナは最優秀アルバム賞を含め、グラミー賞8部門を受賞するという偉業を成し遂げた。そのうちの3部門、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞は「スムース」に送られた。この曲に様々な形で関わった人たちは様々な形でその反響を感じ続けた。

サンタナ:グラミー賞でこの曲を演奏した時にダンスの波が起こっていたのを覚えている。そして、照明が前列で踊っているグロリア・エステファンとスティングに当たったんだ。彼らの目が「こりゃすごいぜ!」って言っているのがわかったよ。

ガンバーグ:私の子どもたちは「スムース」が出た時はすごく小さかった。1年後、子どもたちをニューヨーク州北部にりんご狩りに連れて行ったんだ。りんご狩りが終わった後、ピクニック・テーブルに座ってアップル・サイダーを飲んでアップル・サイダー・ドーナッツを食べていたんだが、そこでジャグ・バンドが演奏していた。そのバンドが「スムース」を演奏し始めた時、私たちはついにやったと思った。

トーマス:ジョン・メイヤーが「ドーターズ」を書いた後に俺は彼と話す機会があって、2人で俺たちの曲はこれからもずっと結婚式で演奏され続けるだろうねって言っていたんだ。結婚式に行ってそこにバンドがいたら彼らは「スムース」を演奏するだろう。それはいいことでもあるし、あまりよくないとも言えるけどね。

シャー:数年後の夏、私はなぜかブダペストにいて、ある町の広場を歩いているとカフェから「スムース」が流れてきたんだ。

サンタナ:あの曲を演奏すると毎回、オーディエンスはまるでそれが自分の家族であるかのように歓迎してくれるんだ。みんな日頃の心配事から一息つける瞬間が必要なんだと思う。あの曲は喜びをもたらし、みんなの何も欠けていない人生を祝福する。みんな確信がほしいし、祝福されたいんだ。いつもあの曲はその役割を果たしている。

トーマス:あの曲は俺をあのバンドで歌っているやつという括りからソングライターのロブ・トーマスに変えてくれたけど、それは本当に大きなことだった。そうなってからミック・ジャガーとかウィリー・ネルソン、トラヴィス・トリット、マーク・アンソニーなんかから電話をもらうようになった。彼らはソングライターとしての俺を見てくれて俺と一緒に曲作りをしたいと言ってくれたんだ。この曲が俺にいろんな道を切り開いてくれて新しい繋がりがたくさんできた。俺は歌ってなかったかもしれなかったのにね。

デイヴィス:あれはただのヒットではなかった。ヒットの中のヒットになった。決定的なヒットになった。歴史に残る偉大な1曲になったんだ。1度聞くと病みつきになってすぐに口ずさむことができるような魅力を持った曲だ。カルロスは私と人生を通じて共有してきたことに対する感謝の気持ちを示すために今でも年に2,3回、豪華な花束を贈ってくれている。

トーマス:みんながあの曲をネタにしたがるのと同じように俺もネタにしてきたよ。マッチボックスのメンバーとシンガポールで酔っ払って「スムース」をカラオケで歌ったんだ。そんな時に誰かから「Man, its a hot one, huh?(魅力的だろ?)」って言われるようなことが何度あったか。今でもね。こういうことには器のでかいユーモアのセンスを持たないとダメだね。あの曲はいつまでも嬉しく思える贈り物みたいな感じだよ。
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