1962年11月26日、EMIのスタジオ2のよどんだ空気の中に「プリーズ・プリーズ・ミー」の余韻が残る中、上のコントロールルームからトークバックを通じてジョージ・マーティンの天の声が響く。「諸君!」と彼は、マッシュルームカットの若者たちに語りかけた。「君たちにとって初めてのナンバー1が出来上がったようだ」
マーティンはヒット曲に敏感なベテラン・プロデューサーだったが、ザ・ビートルズの2ndシングルを各チャートのトップへ押し上げるまでには、それから数カ月かかった。1963年1月11日にリリースされた「プリーズ・プリーズ・ミー」は、翌週の母なる自然のいたずらに思いがけない後押しを受けた。1963年の冬は、イギリスの歴史上最も厳しく記録的な寒さのため、人々は土曜の夜も家に籠もってテレビの前で過ごしていた。ちょうどその頃、全国ネットに出始めていたビートルズが、イギリスの民放ITVのポップ音楽番組「Thank Your Lucky Stars」に登場した。バンドが最新シングルを口パクで披露すると、激しいビートに乗った覚えやすいメロディと滝のように流れるハーモニーに加え、60年代初頭のイギリスには珍しいロングヘアに視聴者は釘付けになった。このシングル曲は一夜のうちに広まった。
スマッシュヒットを手にしたマーティンは、当然ながら進むべき次のステップを心得ていた。速やかに店頭にフル・アルバムを並べることだ。彼は当初、バンドの本拠地であるリヴァプールでのライヴ・レコーディングを考えていた。「キャバーン・クラブへ出向いて、何をどのようにできるかをチェックした。
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1963年当時、フル・アルバムをそのように短期間でレコーディングしようというのは、そう無茶な要求でもなかった。楽曲は2トラックのBTRマシンを使ってライヴ・レコーディングし、オーバーダビングや細かい編集の余地を残した。シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」とB面の「アスク・ミー・ホワイ」と、1stシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」とそのB面「P.S.アイ・ラヴ・ユー」は、事前にレコーディングを完了していた。当時のイギリスでは、アルバムの収録曲数は14曲とするのが通例だったため、レコーディングすべきはあと10曲だった。「彼らにとっては、ステージでのレパートリーを演奏するだけの単純作業だった。ある意味で生放送だ」とマーティンは、BBCラジオでのレギュラー・セッションと似たようなものだと表現した。
とにかくそういう計画だった。しかし、ジョン・レノンがひどい風邪の治療にあたっていたこともあり、バンドの到着が遅れた。「レノンの声はとても酷かった」とセッション・エンジニアのノーマン・スミスは、『ザ・ビートルズ・レコーディング・セッションズ』(マーク・ルーイスン著)の中で振り返っている。部屋の片隅に置かれたベビーグランドピアノの上には、Zubes(のど飴)の缶が散らばっていた。その周りではバンドのメンバーたちがスツールに腰掛け、マーティンと一緒にその日のセットリストを確認していた。「僕らは常に追い詰められていた」とジョージ・ハリスンは、ドキュメンタリー『アンソロジー』の中で証言している。「僕らはレコーディング前に全ての曲をランスルーした。少し演奏したところでジョージ・マーティンが”よし、他に何がある?”と言うんだ」 ポール・マッカートニーは、マレーネ・ディートリッヒの古いバラード曲「Falling in Love Again」をレコーディングしたがった。しかしマーティンによって「陳腐だ」と却下された。ザ・コースターズで有名になり、1960年以降ビートルズの長年のお気に入りとなった「ベサメ・ムーチョ」も、同様に採用されなかった。その代わりマーティンは「蜜の味」を推した。
彼らは4曲のオリジナルと、短時間で仕上げられる6曲のカヴァーを選択した。「僕らは全国各地でそれらの曲を演奏していたので、馴染みがあった」と、リンゴ・スターは『アンソロジー』の中で述べている。「だからスタジオ入りしてすぐにレコーディングすることができた。マイクのセッティングも難しくなかった。各アンプの前に1本ずつと、ドラムの上に2本、ヴォーカル用に1本、バスドラムに1本を置いた」
イクイップメントのセットアップを手伝った数多いテクニシャンの中の一人に、若きテープ・オペレーターのリチャード・ランガムがいた。ライヴの時と同じようにアンプの前へマイクをセットしている最中に彼は、スピーカー・キャビネットの中に紙片が詰まっているのを見つけた。「ダンスフロアの少女たちが、ライヴ中のステージへ向かって投げたものだった」とランガムは言う。「紙には”この曲を演って””あの曲が聴きたい”とか”私の電話番号よ”といった内容が書かれていた。たぶんバンドのメンバーは、それらをちらっと見てアンプの裏へ投げ込んでいたのだろう」
やがて、メンバーがそれぞれの武器を手にして準備が整った。マッカートニーは、特徴的なヴァイオリン型ベースの1961年製ヘフナー500/1を持ち、スターは自身のプレミア・キットの前に座った。ハリスンは愛器の1957年製グレッチ・デュオジェットと1962年製ギブソンJ-160E”ジャンボ”エレアコを選んだ。
過酷な深夜のジャム・セッションや、過密スケジュールのツアーを経験してきたおかげで、彼らにはこのようなミュージック・マラソンに耐えられるだけの準備ができていた。経験を積んだメンバーが、蛍光灯に照らされたスタジオ2を、怪しげなクラブやリッチな人々の集うダンスホールへと変えようとしていた。それから10年後、レノンはバンドのデビューアルバムについて、「ハンブルクやリヴァプールの観客の前で演奏していた時のサウンドに最も近い」と率直に語っている。
マーティンがかつて言っていたように、「ライヴ」を意識したこのレコーディングは、必要に迫られたことによる産物で、意識的に行ったミニマリスト的なチョイスというより、バンドがウブだったために生まれたものだった。「メンバーたちは、レコーディング作業にはほとんど何も口を挟まなかった」とマーティンは後に語っている。「彼らが本格的にスタジオ技術に興味を持ち始めてから、まだ1年ほどしか経っていなかった。でも彼らは常に確実なものづくりを望んだ。だから、”ワンテイクでOK”という作業にはならなかった。メンバーはレコーディングしたものを聴き返し、納得行くまでテイク2、テイク3と繰り返した」
●ビートルズの素顔を捉えた、1965年の未発表写真ギャラリー
レコーディング・セッションは午後10時45分過ぎに終了し、ビートルズは翌日の夜には再びツアー生活へと戻っていった。この冒険的なプロジェクトにレコード・レーベルがかけた費用はわずか400ポンド。2018年現在の相場で約1万1000ドル(約120万円)だった。「当時のレーベルだったパーロフォンは多くの資金を持ち合わせていなかった」とマーティンは告白した。「当時私は、年間予算5万5000ポンドで働いていた」
バンドの1stアルバム全体のレコーディングのためのスタジオでの作業時間はわずか10時間弱。そうして1963年3月22日、『プリーズ・プリーズ・ミー』がリリースされた。数十年後ジョージ・ハリスンは、「2ndアルバムにはもっと時間をかけた」と皮肉交じりに話した。
以下、ファブ・フォーのキャリアの中でも特別な一日の出来事を、時系列を追って見ていこう。
午前10時45分~11時30分:「ゼアズ・ア・プレイス」
バンドは明らかに、比較的新しいこの楽曲に大きな期待を寄せていた。そのため、レコーディング順をこの日の最初に持ってきた。同曲は、数カ月前にマッカートニーの自宅のリビングルームで書かれたもので、ミュージカル映画『ウエスト・サイド・ストーリー』のサウンドトラックに直接的な影響を受けている。「ゼアズ・ア・プレイス」のタイトルは、サウンドトラック中の曲「サムホエア」の最初の一節から取られている。演劇の傑作における、大人たちの好奇の目から逃れて平和な場所を求める若者らしいあこがれの世界を、さらに掘り下げた。「僕らの場合、その場所は心の中にあった。抱き合ってキスするために回り込む階段の陰ではなくね」とマッカートニーは、公式バイオグラフィ『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』の中で振り返っている。「それが、僕らが書いたものとの違いだ。僕らはもう少し知性に訴えかけているんだ」ビートルズのデビュー・アルバム用に敢えて最初にレコーディングされた曲であることを考えると、その成熟した完成度は、これから生まれる素晴らしい作品を象徴していた。
レノンが「モータウンのブラック・ミュージックのようなもの」と表現する同曲は、アルバムのハイライトのひとつであると同時に、シングルカットされる可能性もあった。最初のテイクは完全なランスルーで、イントロにレノンのハーモニカがない以外は、ファイナル・バージョンとほぼ同じものだった。当初レノンのハーモニカによるフレーズは、ハリスンがギターで弾いていた。しかしオクターブ奏法によるフレーズは難易度が高く、初めのいくつかのテイクでは、ほとんど上手く弾けていない。「プリーズ・プリーズ・ミー」にも似たイントロを、テイクの合間にハリスンが練習しながら指慣らししている様子を含む音源も残されている。
ヴォーカルもまた壁に行き当たった。まだ午前中だったにもかかわらず、レノンの声には痛めた喉の影響が出始めていた。5テイク目の直前、「ゼェェェエ」と伸ばすアカペラ・パートについて、レノンからマッカートニーに対し、「ビートに合わせた方がもっと良くなる。頭の中でビートを感じた方がいい」と要求する声が聞こえる。一方のマッカートニーは数小節歌ったところで曲を中断し、「ダメだ。最初の部分が」とぶっきらぼうに言い放った。テイク9を迎える頃にはメンバーの集中力が切れ、ハイトーンのハーモニーを歌うマッカートニーの声も震え始めていた。そしてテイク10に入る時、ベーシストが「テイク15」と皮肉混じりにつぶやく。明らかにいらついていた。
ここでは、アルバムに収録されたバージョンのベーシックな部分をレコーディングし、レノンのハーモニカはその日中に後から追加される予定だった。昼を目前にしてバンドは、アルバム収録曲の候補となる別のオリジナル曲に取り掛かることにした。
午前11時30分~午後1時:「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」
次にレコーディングしたのは、当時キャバーン・クラブでよく演奏していた曲だった。レコーディング・エンジニアのノーマン・スミスが、「次の曲は『セブンティーン』です」と告げる前に、マーティンが「この曲はタイトルを変えた方がいいな」と、ぼやく声がコントロールルームから聴こえてくる。それ以降「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」として知られるようになる同曲は、バンド初期のお気に入り曲を上手くブレンドし、完全に新しいものとして融合している。
歌詞的には、コースターズ「ヤング・ブラッド」の”I saw her standing on the corner...”という部分や、チャック・ベリー「リトル・クイニー」の”Shes too cute to be a minute over 17”へのオマージュが見られる。さらに”How could I dance with another / Since I saw her standing there”の部分は、ディキシーランド・ジャズの「聖者の行進」(原題:When the Saints Go Marching In)の”I want to be in that number / When the saints go marching in”と同じ韻律で作られている。「聖者の行進」は、ビートルズがロック・バージョンでよくカヴァーしていた曲のひとつだ。後にマッカートニーは、ベースラインは別のチャック・ベリーの曲「アイム・トーキング・アバウト・ユー」(1961年)から”盗用した”と告白している。同曲もまた、当時のバンドのセットリストに入っていた。「チャック・ベリーと全く同じラインを弾いてみたら、自分たちの曲に完璧にフィットしたんだ」と彼は、公式バイオグラフィ『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』の中で語っている。
ライヴ・レコーディングしたファースト・テイクが、実質的にファイナル・バージョンとなった。ここで初めて登場した”oooohs”という有名なファルセットは、モップトップのヘアを揺らして歌う姿と共にバンド初期のトレードマークになった。しかしマーティンは、念のためもう1テイクレコーディングさせた。テイク2では、”how could I dance”、”she wouldnt dance”、”Ill never dance”と歌うコーラスの順序をマッカートニーとレノンがうろ覚えだったため、上手くいかなかった。このテイクは勢いがあったが、マッカートニーは曲の終わりを元気のないベースのスライド・ダウンで締め、レノンも暗い声で「酷い」とつぶやいた。マーティンはその場の雰囲気を救うべく、バンドに編集用のパーツをレコーディングさせた(テイク3)。さらにテイク4と5では、ハリスンのギター・ソロのランスルーをレコーディングした。テイク6が途中で中断した時、緊張感が表面化した。「速すぎる」とマッカートニーは不満を漏らす。「いいや、君が歌詞を間違えたんだろ?」とコントロールルームからの声が指摘する。「そうさ。でもとにかくテンポが速すぎるんだ」とマッカートニーは反論した。
テイク7は、マッカートニーの「速すぎるんだよ!」という怒りの叫びで中断した。しかしすぐ申し訳なさそうに、彼の完璧主義者的な一面を見せる。「またごめん、でも…」と言いながら、曲のちょうどよいテンポを聴かせた。朝から調子の良かったリンゴ・スターも、テイク8でつまずいた。スターがハイハットのタイミングを間違えたために曲が途中で止まると、マッカートニーが「何があったんだ?」と不満を漏らした。忍耐が限界に近づいたマッカートニーは、テイク9の出だしを「ワン、トゥー、スリー…”フォー!”」と力を込めてカウントした。
おかげで勢いが付いたため、マーティンは後にそのカウント部分をテイク1の頭へ持ってきた。その7年前にデビューしたエルヴィス・プレスリーの”Well, its one for the money, two for the show…”という低く渋い歌声以来、ロックの最も素晴らしいイントロのひとつが完成した。
午後1時~2時30分:ランチタイム
当時のスタジオでは、午前中のセッション終了後の90分間はアーティストとスタッフのランチタイムを取るのが通例だった。しかし今回はバンドのスローペースのせいでスケジュールが大幅に乱れていたため、別のプランに切り替える必要があった。「休憩すると告げたが、彼らは残ってリハーサルを続けたいと言うんだ」とランガムは『ザ・ビートルズ・レコーディング・セッションズ』の中で証言している。「ジョージ・マーティン、ノーマンと僕は、近くのヒーローズ・オブ・アルマへ行ってビールとパイのランチタイムを取ったが、彼らはスタジオに残ってミルクで済ませていた。僕らが戻った時、彼らは演奏を続けていた。信じられない光景だった。ランチタイムも休まず働き続けるグループなんて、それまで見たことがなかったんだ」
午後2時30分~3時15分:「蜜の味」
レコーディングを進めたいバンドのメンバーたちは、当時のステージでのセットリストから、もう少し演奏し慣れた楽曲に集中することに決めた。そこでこの日最初のカヴァー曲として、前年にレニー・ウェルチがリメイクしたR&Bバージョンのポップ・スタンダード『蜜の味』を選んだ。エプスタインとマーティンはふたりとも、ノリの良いロック曲と並んで洗練されたアダルト・コンテンポラリーのバラードを収めることで、バンドの多様性をアピールできると考えていた。それは戦前のメロディ好きを公言するマッカートニーも同様だった。「いい曲が多かった」と彼は言う。「僕らがその時代の曲に通じていたことで、バンドがもっと多彩になれる可能性が広がった」
5テイクをレコーディングしたが、その内2テイクはライヴで演奏しながら歌い、最後まで完了せず途中で終わっている。5テイク目を仮にファイナル・バージョンとした。
午後3時15分~3時45分:「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」
「デビューアルバムの『ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット』は俺の曲だ」とハリスンは『アンソロジー』の中で主張している。さらに「ここでの自分のヴォーカルは気に入っていない。どういう風に歌ったらいいかわからなかったんだ。誰も教えてくれなかったし」とこぼす。
レノンは、子ども時代の亡き母との思い出にまつわる多くの曲を書いている。「彼女は喜劇女優で歌手だった」と1980年、死の直前に行われたプレイボーイ誌のインタヴューで語っている。「プロ級ではなかったが、パブのステージでそんなことをしていた。彼女の声は素晴らしかった。この曲は、ディズニー映画で使われていた曲の歌詞”Want to know a secret? Promise not to tell. You are standing by a wishing well”にヒントを得て作ったんだ」という。レノンのいうディズニーの曲とは、1937年にウォルト・ディズニーが初めて映画製作に関わった『白雪姫』の挿入歌「私の願い」(原題:Im Wishing)である。レノンは、短調のスローなイントロを自分の作品に取り入れたが、これはディズニーの楽曲からのインスピレーションか、あるいは同様のテクニックを使って当時ヒットを飛ばしていた人気の作詞・作曲家キャロル・キングとジェリー・ゴフィンに倣ったものかもしれない。
2度の失敗の後、ビートルズは4つの完全なテイクをレコーディングし、テイク6をベスト・バージョンとした。さらにマーティンの勧めで、レノンとマッカートニーによるメロディ部分の”ドゥー・ダー・ドゥー”というバッキング・ハーモニーと、ブリッジ部分の裏に聴こえるスターのスティック・タップのオーバーダビング用に2テイクを演奏し、テイク8をファイナル・バージョンとした。
午後3時45分~4時15分:「蜜の味」ヴォーカル・オーバーダビング
「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」でのオーバーダビングは、マーティンとバンド・メンバーたちに何らかのヒントを与えたようで、続く1時間15分を、既にレコーディングした楽曲の仕上げに費やした。他のメンバーが休憩している間にマッカートニーは、「密の味」のヴォーカル部分2箇所のオーバーダビングに臨んだ。結果、”I will return…”の部分がよりリッチでドラマチックなサウンドに仕上がった。ビートルズは後のキャリアを通じて、このレコーディング・テクニックを多用することとなる。
午後4時15分~4時30分:「ゼアズ・ア・プレイス」ハーモニカ・オーバーダビング
『ゼアズ・ア・プレイス』のイントロ部分は当初ハリスンがギターで弾いていたが、インパクトに欠けると思われたためマーティンは、レノンにハーモニカでリフを吹いてみることを提案した。この手法は、バンドの初めの2枚のシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」と「プリーズ・プリーズ・ミー」ですでに素晴らしい効果を発揮しており、レノンもそれに従った。既にレコーディング済みのテイク10に加え、さらに3テイクを要し、テイク13で上手くハリスンのギター・パートを埋めることができた。
午後4時45分~5時:「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」ハンドクラップ・オーバーダビング
群衆が一斉に揃ってドンドンと足を踏み鳴らした時の迫力を再現するため、マーティンはアルバムのオープニング曲となる「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」にハンドクラップを加えることを要求した。メンバーが1本のマイクの周りに集まり、その日の初めにレコーディングした中で最も力強かったテイク1を流しながらトライした。しかし最初のバージョンはボリュームのトラブルでボツになった。これに対してメンバーは嬉しそうにブーイングの声を上げ、マッカートニーは、映画『ハード・デイズ・ナイト』で聞かれるのと同じ「keep Britain tidy(イギリスをきれいにしよう)」という無関係な言葉をジョークとして飛ばしている。次のテイクでOKが出て、同曲のレコーディングはテイク12で完了した。
午後5時~6時:「ミズリー」
他のアーティストへ楽曲提供するソングライターとしての地位を確立したいと考えていたレノンとマッカートニーは、バンドとツアーを回った若きシンガー、ヘレン・シャピロへ提供するために「ミズリー」を書いた。ところが残念なことに、イギリスのレコード・プロデューサーのノリー・パラマーは、ティーンエイジャーだった彼女には、やや陰気なテーマの楽曲は似つかわしくないと考えた。「彼女側から拒絶されたんだ」とマッカートニーは振り返る。「どちらかと言えば憂うつな曲だったので、彼女が歌ったとしてもヒットしなかったかもしれない。かなり悲観的な内容だったからね」最終的に楽曲は、バンドの別のツアーメイトだったケニー・リンチがレコーディングした。レノン=マッカートニーの楽曲をカヴァーした初のケースとなった。
曲自体は、リンチよりもビートルズ・バージョンの方が時期的に早くレコーディングされた。完了までに11テイクかかったが、あらゆる面からテイク1がベスト・バージョンだった。テイク1では、スターのドラムにオカズが多く(最終的にはカットされた)、エンディングには勢いのある”ウー”や”ラララ”のコーラスが入っている。残念ながらブリッジ部分でハリスンのギターがもたついたため、同テイクはOKとはならなかった。テイク2もほぼ良かったが、ハリスンのギターが歪んできているのに気づいたマーティンがストップをかけた。「ジョージ、もう少しクリーンなサウンドにしてくれ。それからもう少しボリュームも絞って」と指示した。それから何度かレノンが出だしの歌詞やコードを間違えると、「そこの歌詞は”I wont see her no more”だよ」とマッカートニーが助け舟を出した。テイク6は、恐らく全テイクの中で最も興味を惹くバージョンだろう。力強いドラム・フィルに加えハリスンのギターも凝っていたが、ファイナル・バージョンにはならなかった。マーティンはこのバージョンを少々騒がしいと感じたため、テイク7ではより効率的なアプローチを指示した。
ブリッジのギターの下降ラインがなかなか決まらなかったため、プロデューサーはハリスンに、その部分は弾かないように言った(レコーディングから9日後の2月20日、マーティンはバンド抜きで自らピアノでそのフレーズを弾いてオーバーダビングした)。テイク8は、スタートしてすぐにマッカートニーが「ストップ。彼が歌詞を間違えた!」と、嬉しそうにレノンを指差した。午後6時のディナータイムを前にして、テイク9がその日最後のトライだった。マーティンは、テイク7の最初の部分とテイク9の最後をつなぎ合わせ、アルバム用のファイナル・バージョンとしている(同編集バージョンでは、レノンが3番の出だしで”センド”と歌うべき歌詞が”シェンド”と言っているように聴こえる)。
午後6時~7時30分:ディナータイム
午後のセッションを終えたところで、空腹だったであろうビートルズは、EMIの質素な食堂で手早く食事を済ませたと思われる。彼らがレコーディング状況を案じるには、それなりの理由があった。この時点でスタジオ割り当て時間の3分の2を経過していたが、予定の半分の曲しかこなしていなかったのだ。アルバムをスケジュール通りリリースするためには、残り2時間半で5曲を片付けてしまう必要があった。しかし幸運にも、残りのほとんどはカヴァー曲で、バンドのレパートリーの中でも得意な楽曲だった。彼らにとってそれらの楽曲はお手のもので、ハンブルクのクラブで毎晩長時間演奏していた時のように、寝ながらでも演奏できただろう。アルバムの完成を目指し(時計も気にしながら)、ペースを上げるため、メンバーはスタジオ2へぞろぞろと帰ってきた。
午後7時30分~8時15分:「ホールド・ミー・タイト」
夜のセッションは、途方もない時間の無駄から始まった。ひとつのオリジナル曲に13テイクもかけたものの、結局アルバムには収録されなかった。「ホールド・ミー・タイト」は、マッカートニーが中心となって数年前に書いたアップテンポのロックだった。ステージのレパートリーにしていたものの、自分たちでもベストな作品だとは思っていなかった。作者であるマッカートニー自身も、同曲は「シングルにはならない、アルバムを埋めるための曲だ」と振り返っている。レノンもまた、同曲に対しては手厳しい評価を下している。晩年(1980年)彼は、「あれはポールの作品だ。出来の悪い曲で、面白いと思ったことは一度もない」と語った。
恐らくそういう理由から、『プリーズ・プリーズ・ミー』セッションで同曲は上手くいかなかったのだろう。その後、この日の録音テープは破棄されたが、セッション・メモからは、出だしの失敗やブレイクダウン、エラー箇所を補うピースなど、苦労の跡が伺える。最終的に、テイク9と編集用ピースとなるテイク13を併せてアルバムに収録可能なレベルにまで仕上げたものの、ボツになった。同曲は再レコーディングされ、同年後半にリリースされた次のアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』に収められた。
午後8時15分~8時45分:「アンナ」
「ホールド・ミー・タイト」でのフラストレーションを忘れ、お気入りのカヴァー曲に取り組む準備ができた。マーティンやエプスタインからの要望が強かった「蜜の味」は別にして、カヴァー曲はバンドに多くのインスピレーションを与えた。アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されたカヴァー曲は全て、黒人ソウル・アーティストによって演奏され、ポピュラーになったものだった。「ビートルズは”R&Bの小楽団”だ」というマッカートニーの主張を裏付ける事実といえる。
レノンが歌うこの日最初のカヴァー曲は「アンナ」だった。同曲は、アラバマ出身のカントリー・ソウルのパイオニアで、レノンがヒーローと崇めるアーサー・アレキサンダー作の曲である。何度も演奏を重ねてきたおかげでアレンジには磨きがかかり、ライヴでのレコーディングは比較的スムーズなものだった。オリジナルでフロイド・クレイマーがピアノで弾いていたイントロは、ハリスンがギターに置き換えた。ハリスンもまた、アレキサンダーの大ファンだった。「彼のレコードは何枚か持っていて、ジョンも3、4曲歌っていた」とハリスンは、ドキュメンタリー『アンソロジー』の中で語っている。「アーサー・アレキサンダーには独特のドラム・パターンがあって、僕らもコピーしようとしたが、完璧にはできなかった。そこで、オリジナルと同じように聴こえるような変わった方法を編み出したんだ」 同曲のレコーディングは、テイク3で完了した。
午後8時45分~9時:「ボーイズ」
当時の業界の風潮として、全てのポップ・グループにはひとりのフロントマンが必要とされた。しかしマーティンは、”XXXX(フロントマンの名前)・アンド・ザ・ビートルズ”というバンド名を拒絶した。4人組にとっては永遠に感謝すべき決断だった。そうすることで、雇われのバック・バンドではなく、ひとつの独立したグループとしての地位を確立した。バンドも4人を平等に扱う考え方を採り入れ、アルバム内に、それぞれのメンバーがリード・ヴォーカルを担当する場を設けた。そのひとつが「ボーイズ」で、スターの出番だった。ザ・シュレルズのB面曲である同曲は、ビートルズ加入前のスターが、ロリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズ時代にカヴァーしていた。マッカートニーは同曲について、「大衆受けする曲だ。”今、男の子の噂話をしている!”と、僕らが女の子目線かゲイの歌を歌っている。でも僕らは一度も聴いたことがなかった。ただ素晴らしい曲だ」と述べている。
ステージと同様、スターはドラムを叩きながら歌ったが、そう簡単なことではない。しかし冴えたスターは一発で決めた。この日で唯一、1テイクで完了した曲だった。「僕らは、1stアルバムへ向けたリハーサルなどしなかった」とドラマーは振り返る。「僕にとっては”ライヴ”の感覚だった。頭から曲を演奏し、それぞれの曲に特徴のあるサウンドが付く。後はひたすら演奏し続けるだけだった」
午後9時~9時30分:「チェインズ」
オリジナルは、ニューヨーク市出身のR&Bのガールズ・グループ、ザ・クッキーズが歌っている。ビートルズが、アメリカン・ポップの隠れた名曲や母国イギリスの珍しい曲を発掘する素晴らしい才能を持っていることを証明した。「マネージャーのブライアン・エプスタインがレコードショップNEMSを経営していたので、僕らはその辺のバイヤーよりもいろいろな楽曲に触れる機会に恵まれていた」とマッカートニーは、アルバム『On Air – Live at the BBC Volume 2』のライナーノーツの中で述べている。特に、1962年12月にレコードを購入し、曲の魅力の虜となったハリスンは、リード・ヴォーカルを志願した。同曲は2テイクをレコーディングし、最初のバージョンがベストとされた。
クッキーズによるシングル版のラベルをよく見ると、同曲は、ビートルズのソングライティング・パートナーシップに大きな影響を与えたジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの夫婦の作であることがわかるだろう。きっとビートルズも同じようにラベルを詳しく読んだに違いない。レノンが「マッカートニーと共に、”イギリス版ゴフィン=キング”になりたい」と言っていたというのは有名な話だ。もちろんレノンの名前が先に来るという前提だが。それでアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』の最初のプレスに”マッカートニー=レノン”とクレジットされた時、レノンはすぐさま修正させるよう手を回した。この行為は、彼のコラボレーターであるマッカートニーを傷つけ、後々までしこりを残した。
「僕としては”マッカートニー=レノン”のままが良かったけれど、レノンの方の我が強くてね。僕が何かする前に彼がブライアンと決めてしまったようだ」とマッカートニーは、公式バイオグラフィ『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』の中で証言している。「それがジョンのやり方だ。彼は僕よりも1歳半だけ年上で、その分だけ彼の方がエラいということだったんだろうね。あるミーティングで”曲のクレジットは、レノン=マッカートニーにすべきだ”という話が出たので僕が、”いや、レノンを先にできない。マッカートニー=レノンはどうだろう”と言うと、皆が”レノン=マッカートニーの方が語呂がいいし、響きがいい”と言うんだ。僕は”わかった、勝手にしろ”と言うしかなかった」
午後9時30分~10時:「ベイビー・イッツ・ユー」
次にバンドは、バート・バカラックとマック・デイヴィッドによる曲に取り掛かった。マック・デイヴィッドは、有名な作詞家ハル・デイヴィッドの兄である。シュレルズの曲はこの日2曲目で、「ベイビー・イッツ・ユー」には「ボーイズ」の共作者でもあるルーサー・ディクソン(バーニー・ウィリアムズ名義)もクレジットされている。1度スタートでつまずいたが、合計3テイクがレコーディングされ、最後のテイクがベスト・バージョンとされた。楽曲はレコーディングから9日後の2月20日に完成されることとなるが、その際マーティン自らがチェレスタを弾き、ハリスンのギター・ソロにかぶせている。
一日中喉の調子が悪かったジョンの声はいよいよ酷くなり、特に”Dont want nobody, nobody”の部分では顕著だった。幸いなことに、彼がヴォーカルを担当する楽曲はあと1曲だったが、そこに彼の全身全霊をつぎ込むことになる。
午後10時15分~10時30分:「ツイスト・アンド・シャウト」
もう午後10時になっていた。規則ではスタジオを出なければならない時間だった。ここまで超人的なスタミナを発揮してきたビートルズだが、中途半端に終わった「ホールド・ミー・タイト」を差し引くと、アルバム用にあと1曲必要だった。翌朝バンドには、イギリス北部ランカシャー地方のオールダムへの長旅が待っていた。彼らにはもう時間がなかった。マーティンはルールを少し曲げ、時間外にあと1セッションこっそりと行うことにした。でもどの曲をレコーディングすべきか?
「午後10時頃、全員がスタジオの食堂へ行き、コーヒーとビスケットで休憩していた。僕らはマーティンと、アルバムに収録する最後のトラックについて真剣に話し合ったんだ」とマッカートニーは振り返る。NME誌の取材に来ていたジャーナリストのアラン・スミスも、その場に居合わせた。「全員が食堂に押しかけて混み合っていた。確かジョージが”ラストの曲はどうするんだ?”と言ったと思う」とスミスは、BBCのドキュメンタリーで証言している。「僕が、”何週間か前に、君らの演奏する『ラ・バンバ』がラジオで流れていたよ”と言うとマッカートニーがちょっと考え込み、”それは『ツイスト・アンド・シャウト』だ!”と言った。”そうそう、『ツイスト・アンド・シャウト』だった”」そうしてすぐに曲が決定された。
マーティンは、キャバーン・クラブでバンドが同曲を演奏し、会場全体を巻き込むパワーを目の当たりにしていた。「ジョンは文字通り叫んでいた」とマーティンは振り返る。「体を切り裂くように歌っていたから、1曲終えるごとに彼の喉がどうなるかは、神のみぞ知るという状態だった。だから最初のテイクで仕上げる必要があった。テイク2以降は絶対に上手くいくはずがない、という確信があった」という。バンドがスタジオ2でのその晩最後のチューンナップをしている間、マーティンには、上手くやり遂げられるかどうかという深刻な問題があった。「その時点でメンバーの喉は疲れて傷んでいた」と、セッション・エンジニアのノーマン・スミスは、『ザ・ビートルズ・レコーディング・セッションズ』の著者マーク・ルーイスンに語っている。「レコーディングを開始してから12時間が経ち、特にジョンの喉は限界を超えていた。だからこそ1テイクで完了させなければならなかった。ジョンはさらに何粒かのど飴を口へ放り込み、ミルクでうがいをしてレコーディングに備えた」ジョンはシャツを脱ぎ、マイクの前に立った。
22歳のジョンは頭をのけぞらせ、悲痛な叫び声を上げた。それから50年経った今もなお、痛みに歪んだ表情と無意識に頭を振って歌う姿が目に浮かぶ。「まともに歌うことなんてできなかった。ただ叫んでいたんだ」とジョンは、1970年に行われたローリングストーン誌のインタビューで告白している。「最後の1曲でほとんど死にそうになった」と後に語った。「それからしばらくの間、声がおかしかった。ものを飲み込むたびに、喉が紙やすりのように感じた。本来とは違うそんな声で歌うのは、本当に恥ずかしかった。でも今では気にしなくなったよ。ただ必死になってベストを尽くしたという風に聴こえるだろう」
ジョンの激しい情熱と献身的な姿は、歌のピッチの不安定さや声のうわずりを埋め合わせ、むしろ傷ついた美しさを感じさせる。へとへとになるほど疲れる一日を過ごしてきた他のメンバーは一体となり、より印象的で激しい演奏を行った。スターのドラムの激しさは最高潮に達し、マッカートニーとハリスンは、完璧なハーモニーのコーラスと元気の良い雄叫びで、疲弊したシンガーを盛り上げた。「ジョンは自分で、その日の声の調子がどうだったかをわかっていた。あと1回か2回歌うと喉が潰れそうで、実際にそうなった」とマッカートニーは証言する。「声の状態はレコードを聴けばわかるが、逆にクールなパフォーマンスになった」と言う。ビートルズのデビューアルバムを締めくくる曲のラストでは、マッカートニーが思わず”ヘーイ!”と、メンバーへの称賛を込めた歓喜の声を上げている。
テイク2も軽く流したものの、出来はそう良くはなかった。レノンはテイク1で全てを出し尽くしていた。「テイク1は、アルバムには十分なクオリティだった。布を切り裂くようなサウンドが必要だったんだ」とマーティンは言う。ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」は、オーバーダビングなど編集なしの一発録りのままリリースされた。
午後10時30分~10時45分:プレイバック
マッカートニーは振り返る。「レコーディングの最後に、ジョージ・マーティンがコントロールルームから驚きの声を上げたんだ。”君たちがこんなにもできるなんて信じられない。ここで一日中レコーディングしていて、やればやるほど君たちは良くなっていった!”ってね」
14曲のストックができ、これ以上することはなかったが、彼らは一日の出来を振り返った。午後10時30分、ビートルズのメンバーは、スタジオ・フロアからコントロールルームへと階段を上がり、自分たちのデビューアルバムを初めて耳にした。「デビューアルバムがプレイバックされるのを待つ間が、僕らにとって最も緊張する時間だった」とレノンは1963年に語っている。「僕らは完璧主義者なんだ。少しでも古臭さを感じたら、全部やり直したいと言っただろう。でも、運良く僕らはアルバムの出来にとても満足したんだ」
マッカートニーもジョンの意見に賛同する。「このアルバムは、僕らが一生の内で成し遂げたいと思っていた大きな目標のひとつだった。僕らはデビューアルバムが、このバンドそのものを象徴すると信じていたんだ。僕らにとってタイミング良く出ることが、とてつもなく重要だった。運良く、僕らは満足できた。ジョンの喉の調子は関係なく、満足できなければ全部やり直しただろう。僕らは皆そんなムードで、有頂天だったよ」
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