トイレはワン・ダイレクションの少なくとも2つの代表作の誕生に深くかかわっている。
2つめはその数年後、イングランドの別のホテル――今度はマンチェスター――での出来事だ。作曲家兼プロデューサーのジュリアン・ブネッタとジョン・ライアンは、キューカンバー・コリンズをあおりながらリズムを打ち込んでいた。メンバーのリアム・ペインも同じ部屋にいた。途中でリアムがトイレに席を立ち、メロディを口ずさみながら戻ってきた。2人はとっさに録音した。ほとんどは意味をなさないつぶやき――いわゆる仮歌――だったが、ひとつだけ「Better than words」というフレーズがあった。数時間後、バスに揺られて次の公演地へ向かう途中――具体的な場所はブネッタもライアンも覚えていないが――リアムが、おそらく笑いながらこう尋ねた。「さっきの曲の残りを、全部他の曲の歌詞にしたらどうかな?」
「一般的に曲作りっていうのは、頭にアイデアがひらめくのをただじっと待っているようなものなんだ」ブネッタとともにロサンゼルスのスタジオから取材に答えたライアンはこう言った。「そして受け流しては笑い飛ばす――僕らも確かこんな冗談を言ったっけ。
「Better Than Words」はワン・ダイレクションのサードアルバム『ミッドナイト・メモリーズ』のトリを飾る曲。シングルカットされたことはないが、ライブには欠かせないファンお気に入りの1曲となった。ミッドテンポのノリのいい曲は、ワン・ダイレクションらしさを、そして彼らが21世紀を代表するグループの1つだったという事実をみごとに表している。
1Dが際立っていた理由は「ギターロック」
7月23日はワン・ダイレクション結成10周年にあたる記念日だ。この日サイモン・コーウェルはオーディション番組『Xファクター』で、ハリー・スタイルズ、ナイル・ホーラン、ゼイン・マリク、リアム・ペイン、ルイ・トムリンソンがグループとして次のステージに進出することを告げた。この日から2015年12月31日の最後の(今のところは、と言いたいところだ)ライブパフォーマンスまで、彼らはアルバムを5枚リリースし、ワールドツアーを4回敢行――そのうち2回はスタジアムツアーだ――そしてソーシャルメディアがファンコミュニティの在り方を再定義していた時代、水を得た魚のように勢いづいた世界中の熱狂的なファンにいくつものヒット曲を残した。
イン・シンクやバックストリート・ボーイズ全盛期からすでに10年が経過し、時代は新たなボーイズバンドを求めていた。ワン・ダイレクションの楽曲は素晴らしかったし、メンバーのカリスマ性と息の合ったチームワークは疑いようもない。だが、彼らが際立っていた理由は他のどのポップスにもなかったサウンド――その当時、過去のものとなりつつあったギターロックをベースにしたサウンドだった。
『Xファクター』で1Dと出会い、最初の数年間は先導役を務めたコテチャは、ボーイズバンドの歴史に精通している。彼が最初にボーイズバンドのパワーを目の当たりしたのは80年代、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックが姉の青春時代を支えていた時期だった。ニュー・キッズからBSBまで、全ての偉大なボーイズバンドの共通点について彼はこう言う。
2010年は「誰もがリアーナのダンスポップのようなことをしていた」とコテチャは振り返る。だがそれはワン・ダイレクションが得意とするサウンドではなかった(ザ・ウォンテッドが1度だけトライした)。周知のとおり、彼らはダンスすらしなかった。その代わり、1Dは近代ボーイズバンドの原点に立ち戻ることを目指した。
「よくサイモンとは、(ワン・ダイレクションが)いかにビートルズっぽいか、モンキーズっぽいかと話していました」とコテチャは続けた。「彼らはすごく個性的だったし、一緒にいると、僕まで若いころに戻ったような気分になったものです。そういうのにぴったりハマる音楽は、楽しくてポップなギターソングしかないという気がしました。ふとした思い付きが、いつしかファンに受け入れられたという感じです」
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1Dの最初の2枚のアルバム『アップ・オール・ナイト』と『テイク・ミー・ホーム』でこうしたサウンドを構築するにあたり、コテチャは主にをスウェーデンの作曲家/プロデューサーのカール・フォークとラミ・ヤコブと共同で作業を進めた。3人ともマックス・マーティン/シェイロンスタジオのポップス専門学校の出身で、フォークいわく、自分たちならボーイズバンドを再び世に開陳できるという自信があった。かつてのBSBやイン・シンクを彷彿とさせる楽曲で、ただし時代遅れのシンセやピアノの代わりにギターを使って。
ポップミュージックの素晴らしい点は、「自分にもできそうだ」と思わせてくれることだ。ワン・ダイレクションの音楽もそうした意図で作られた。
当時斬新だったソーシャルメディアの活用術
ご存じの通り、ワン・ダイレクションは結局『Xファクター』では3位に終わったが、コーンウェルはすぐさま自らのレーベルSyco Musicに引き抜いた。彼らはすでに番組でも、2011年春の『Xファクター』ライブツアーでもアーティスト養成ブートキャンプを経験済みだった。舞台慣れはしていたが、スタジオ側は新たな課題を提示した。「ワン・ダイレクションの役割分担を決めなくてはならかなった」とフォークは言う。5人それぞれの声をどう組み合わせるか。その問題の解決策として、彼らが選んだのは「とりあえずなんでもやってみる」。全員が全てのことにトライした。
「彼らはそうやって自分を模索していたんだ」とフォークは付け加える。「ハリーはとりあえずレコーディングしよう、彼は物怖じしないから、という感じ。
「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」は2011年9月11日にイギリスでリリースされ、UKシングルチャートで初登場1位を獲得――ただし、ビデオのほうは1カ月前から公開されていた。ワン・ダイレクションがイギリスやヨーロッパですぐにヒットするという確証はなかったものの、地元での勝算は高かった。昔からヨーロッパのマーケットはアメリカよりもボーイズバンドに好意的だった。イン・シンクにしてもバックストリート・ボーイズにしても、母国を制する前に海外で大ブレイクしている。それゆえコテチャもフォークも、1Dがアメリカでブレイクするとは思っていなかった。フォークはバンドのサウンド作りについてこうも言っている。「あまりにもアメリカっぽいサウンドにはしたくなかった。
「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」のリリース前にYouTubeに動画を公開して期待感をあおる、という戦略は、のちにコロムビア・レコード(バンドのアメリカでのレーベル)もアルバム『アップ・オール・ナイト』で採用した。2011年11月のUKリリースから2012年3月のUSリリースの間、コロムビアは従来のラジオオンエア戦略を避け、代わりにソーシャルメディア上での話題作りに力を入れた。『Xファクター』時代からずっとワン・ダイレクションはインターネットで話題騒然で、ファンと交流したり、暇な時間にはふざけた動画を作ってファンと共有していた。コテチャと作ったおばかソング「Vas Happenin Boys?」は、拡散動画のハシリだった。
「彼らは直感的に心得ていました――世代的なものかもしれないけど――ファンに訴求するすべを分かっていたんです」とコテチャ。「しかも、素のままの自分で語りかけるんですよ。それがあの子たちらしい。カメラが回っても、普段とまったく変わらないんです」
ソーシャルメディアはワン・ダイレクションのコンンテンツや、自分たちの街に来てほしいという嘆願書であふれかえった。ラジオ局には、「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」がリリースされるずいぶん前からリクエストが殺到した。いざリリースされるや、コテチャは(その日はスウェーデンにいた)ブラウザを更新するたびにiTunesのチャートの順位が上がっていくのを夜通し見つめていた、と振り返る。
『テイク・ミー・ホーム』のレコーディングは主にストックホルムとロンドンで、初のワールドツアーの最中から終了後にかけて行われた。
それでもやはり、2枚目のアルバムにはつきもののプレッシャーとも格闘した。レーベル側は「ホワット・メイクス・ユー・ビューティフル」第2弾を望んでいたし、衰え知らずの1D現象はストックホルムのスタジオの窓からも見て取れた。あまりにも大勢のファンが詰めかけたため、道路を封鎖しなくてはならなかった。行方不明者の写真を手にした警察官が出待ちをする女の子たちの間をかき分け、両親のもとへ連れ帰る少女を探し回っていたのを、コテチャは今も覚えている。
2作目で見せた1Dの成長、それを支えた製作陣
これを転機に、ワン・ダイレクションは今後制作面で自分たちも深く関わりたいという意思を明らかにした。コテチャも最初は不安だったと認めている。だがバンドの意志は固かった。作業の負担を減らすために、コテチャは2人の若い作曲家を呼び寄せていた。それがクリストファー・フォーゲルマークとアルビン・ネドラーで、2人もいくつかアイデアを携えてやってきた。そのうちのひとつが、印象に残る力強いバラード「ラスト・ファースト・キス」のコーラスだった。
「僕らが歌入れで忙しくしている間、手の空いた人間があの2人と一緒に曲を作って、後から僕らが手を加えようと考えたんです」とコテチャ。「驚いたことに、どの曲も素晴らしい出来でした」
またこの時ちょうど、作曲家のブネッタとライアンも仲間に加わった。バークリー音楽大学時代の学友だったブネッタとライアンはLAに拠点を移し、いくつか曲を出してはいた者の、自分たち名義でのヒット作はまだなかった。アメリカ版『Xファクター』の仕事を得たのがきっかけでSyco関係者と知り合い、『テイク・ミー・ホーム』の1曲を書いてみないか、と打診を受けた。「『ええ、ぜひとも』って言ったよ」とブネッタ。「『アルバムセールスが500万枚? ひゃあ、もちろんやります、ぜひ稼がせてください』ってね」
ブネッタとライアンは、『アップ・オール・ナイト』のうち2曲(「モア・ザン・ディス」「ストール・マイ・ハート」)手掛けた提供したジミー・スコットと「カモン・カモン」を共作――これでもかと積み上げたスピーカーの壁からダンスポップ街道を駆け抜ける、青春時代の恋を歌った鉄板ヒット曲だ。これがきっかけで2人はロンドンに招かれた。本人たちと顔を合わせるまでは、1D現象は「一時的な流行」だと考えていた、とブネッタも認めている。だが彼らの魅力は圧倒的だった。たちまち全員が意気投合した。
「ナイルは俺に尻を見せたんだぜ」 ブネッタは「ゼイ・ドント・ノウ・アバウト・アス」をレコーディングした日のことをこう振り返る。彼とライアンが『テイク・ミー・ホーム』で共同プロデュースした5曲のうちの1曲だ(このうち2曲はデラックスエディションに収録)。「最初の歌入れの時で、彼が歌って、1テイク目を録り終えた。僕はコンピュータの画面を見ながら『ここの歌詞をこんな風に歌えるかい?』と言って顔を上げたら、あいつ俺に向かって尻を出してた。『こいつ気に入ったぜ!』と思ったね」
『テイク・ミー・ホーム』がリリースされたのは11月9日。『アップ・オール・ナイト』リリース1周年の9日前だった。2012年も残すところ7週間だったにもかかわらず、このアルバムは全世界で440万枚を売り上げ、アデルの『21』、テイラー・スウィフトの「レッド」、自分たちのデビューアルバム『アップ・オール・ナイト』に次いで年間セールス第4位にランクインした(IFPI調べ)。ちなみに『アップ・オール・ナイト』はさらに売り上げを伸ばし、450万枚のセールスを記録した。
コテチャ、フォーク、ヤコブの楽曲がアルバムの要となった。「キス・ユー」「ハート・アタック」「リヴ・ホワイル・ウィアー・ヤング」といった純然たるポップロックで、ワン・ダイレクションは高揚感や覚束なさ、そして可能性といった10代らしさをたっぷり盛り込んだ。彼らの声も、徐々にそうした感情の細やかなニュアンスを歌い分けられるようになっていた。1Dが作曲に加わった楽曲(「ラスト・ファースト・キス」「バック・フォー・ユー」「サマー・ラヴ」)はアルバムの最高傑作に挙げられる。
「彼らはコツをつかむと、上手にこなしているのがわかりました」とコテチャはメンバーの作曲についてこう言った。「そうしていくうちに、これが彼らの本来の姿なんじゃないかという気がしてくるんです」
大人になるか、さもなくば退くか
当然のごとく、『テイク・ミー・ホーム』がリリースされるやすぐに3rdアルバムの制作がスタートした。だが最初の2枚と違って3枚目は、スタジオ収録に専念する時間を確保するのは困難だった――2013年2月23日のロンドン公演を皮切りに、ワン・ダイレクションは全123公演のワールドツアーをスタートすることになっていた。すなわち、作曲も収録もツアー先でやらなくてはならない。コテチャとフォーク――どちらも子供が生まれたばかり――には無理な相談だった。
だが、制作面でも転換期を迎えていた。コテチャ自身も、自らのボーイズバンド哲学からそう感じていた。結局のところ、3枚目のアルバムは前に進む時なのだ。ワン・ダイレクションも動き出す時期にきていた。コテチャは最年長メンバーのルイのおかげだと言う。「彼が1st、2ndアルバムのあどけなさから、大人の領域へとメンバーを導いてくれました。もっと成熟したサウンドになるよう、周りを引っ張ってくれたんです。あの当時現場にいて、僕もラミもカールもよくわかっていませんでした――だけど、今振り返ってみれば正しい判断だったと思います」
「3年間、僕らのスケジュールはこんな感じだった」とブネッタは言う。「10月、11月、12月に『Xファクター』に出演する。1月はオフを取って、2月にロンドンへ向かう。バンドとアイデアを持ち寄ったり、サウンドを考えたりして一緒に過ごす。そのあと3月にLAに戻って、いくつか曲をプロデュースして、4月にバンドとツアーで合流する。ボーカルを収録して、1~2曲書いて、5月に戻ってきてボーカルの作業をしたり、ツアー先で書いた曲をプロデュースしたりする。6月ごろロンドンに行って、7月にまたこっちに戻ってプロデュース。8月にまたツアーに合流して、最終的な歌入れをして、9月にミキシング。10月に『Xファクター』を再開して、11月にアルバムリリース。1月にオフを取って、あとはまた同じことの繰り返しさ」
そうしたサイクルは2013年初期、ブネッタとライアンがロンドンに飛んだ時から始まった。わずか1週間弱の滞在だったが、『ミッドナイト・メモリーズ』の大半が完成した。ジェイミー・スコットやウェイン・ヘクター、エド・ドリューエットといった作曲家らを招いて「ベスト・ソング・エヴァー」「ユー・アンド・アイ」を、スコットとワン・ダイレクションが共同で「ダイアナ」「ミッドナイト・メモリーズ」を書いた。2人とバンドの絆は始めから固かった――2人ともメンバーと数年しか歳が離れていない。だがブネッタも冗談めかして言うように、「どのみち、俺たちはいつも19歳みたいだからね」 数年前、ブネッタは「ミッドナイト・メモリーズ」制作のようすを収めたオーディオクリップを投稿した――仮コーラスのパートでは、声を張り上げ、完全にハモりながら『KFCが大好きだ!』と歌っている。
ブネッタ、ライアン、1Dは、おおむね前任者が築いたロックサウンドを継承した。だがひとつだけ例外があった。ポスト・マムフォードとでもいうべきフェスティバルフォークの秀作。歌詞の面でもボーカルの面でも成熟度が光る「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」だ。
「この曲で彼らは賭けに出た」とブネッタ。「大人になるか、さもなくば退くか――彼らは成長する道を選んだ。彼らが目指したところにたどり着くには、自分たちのファン層を超えなくちゃならない。あの曲は彼らのファン層をはるかに超えて、世間の関心を惹いた」
『ミッドナイト・メモリーズ』の制作はツアー先でも行われた。彼ら以前のバンドがみなそうだったように、ワン・ダイレクションも音楽の新境地を拓いた。それを可能にしたのはツアーエンジニアのアレックス・オリエットだった。ライアンの話では、ホテルの客室のベッドを壁に立てかけて仮設のボーカルブースを作ったそうだ。時間が許す限り、作曲とレコーディングをねじ込んだ――開演20分前でも、2時間にわたるショウの直後でも。
「おかげで臨場感をとどめることができた」とブネッタ。「俺たちは現地に行って、レコーディングして、常にその場の空気に身を委ねる。後から再現するのではなく、その瞬間をとらえるんだよ。曲を書いてはホテルで歌入れし、プロデュースして、また戻ってきて歌入れする、ということを繰り返した――たいていは、デモ録りのボーカルのほうがずっと良かった。彼らは歌詞もろくに覚えてなかったが、気分が乗っていた。そういうパフォーマンスは再現できないものさ」
バンド内の緊迫した人間関係、そしてゼイン脱退
『ミッドナイト・メモリーズ』は2013年、これまで同様11月にリリースされた。そしてこれまで同様、大ヒットを記録した。翌年1Dは自分たちの楽曲をしかるべき場所へ――世界中のスタジアムへ――届けた。人生最大の大舞台のさなか、彼らは4枚目のアルバム制作に取りかかった。タイトルもずばり『FOUR/ フォー』。前年に123公演をこなした彼らは声にも磨きがかかり、新たな可能性が無限に広がった。
「『FOUR/ フォー』では、ギターやシンセやドラムを多用せずとも、彼らの声だけでよりエキサイティングで壮大なサウンドを作り出すことができたよ」とライアンも言う。
「前よりずっとダイナミックで、かつ繊細さも増した」とブネッタも言う。「前の2作では、『ナイト・チェンジズ』みたいな曲は歌いこなせなかっただろうね。『ファイアプルーフ』の柔らかい、情感たっぷりな歌い方も。いろんな経験を積んだからこそ、ああいう抑え気味の歌い方ができるんだよ」
『FOUR/ フォー』は音楽的にも、1Dにとってこれまででもっとも幅広いアルバムだった――天に届くようなピアノロックの「スティール・マイ・ガール」に始まって、やさしく含蓄のあるグルーヴィな「ファイアプルーフ」――それに呼応して感情の幅も広がった。20代前半に差しかかり、「ホエア・ドゥ・ブロークン・ハーツ・ゴー」「ノー・コントロール」「フールズ・ゴールド」「クラウズ」といった楽曲では、青春時代の出来事や幸福感に重みとウィットが加わり、迫りくる大人の一面があちこちに顔をのぞかせている。ワン・ダイレクションの成長過程は世間一般のそれとは違っていたが、非日常的な自分たちの状況から、誰もが共感できる要素を引き出せるほどのソングライターに成長した――「チェンジ・ユア・チケット」では、若きジェットセッターの波乱万丈な恋愛を、遠い昔の恋を懐かしむ胸の痛みに落とし込んでいる。こうしたストーリーは実生活での恋愛が元になっていたが、世界最大のグループになって早4年が経った今、バンド内の人間関係も音楽に反映されるのは当然のなりゆきだった。
「僕が思うに『FOUR/ フォー』は」 ブネッタはいったん言葉を切り、こう続けた。「いくらか緊迫した雰囲気があった。二重の意味を持つ歌がたくさんあった――恋人について歌っているかと思いきや、実はグループにも当てはまる意味が含まれていたりね」
さらに彼はこう続けた。「ああいう状況は難しいよ、羽を伸ばそうにも大勢の目が自分に注がれ、金はたっぷりあるけど休みはゼロ。彼らも大変だったはずだよ、それぞれが成長過程にあって、自分のスペースや意見を構築しつつ、お互いの意思疎通の仕方を学んでいくんだから。目の前の人間関係以上にはるかに大きなものに日々追われていたから、それが歌にも滲み出ていた」

2014年8月4日、『Where We Areツアー』の一環でニュージャージー州イーストラザフォードのMetLifeスタジアムでパフォーマンスするワン・ダイレクション(Photo by Kevin Mazur/Getty Images)
午前3時、日本のホテルの一室でゼインがタバコの煙をくゆらせながら、「ピロートーク」やその他数曲を初めて演奏した時のことをブネッタはこう振り返る。
「めちゃくちゃ最高だった」とブネッタ。「どの曲も超素晴らしかった。音楽面では、彼はツアー先でアルバムを作るやり方では自分を表現できなかったんだよ。彼はスタジオにこもって、時間をかけて、きっちり順序立ててやりたがっていた。ただ、それは不可能だったんだ」
それからおよそ1カ月後、ワン・ダイレクションの『On the Road Againツアー』が16回目の公演にさしかかったところでゼインが脱退した。決して寝耳に水ではなかった、とブネッタとライアンは言う。「彼は不満を抱えていて、バンドから距離を置いて活動したいと思っていた」とブネッタ。「あれだけの数の公演をすべてこなすのは、若い子には重荷だよ。僕らはあの時点で彼らと何年も一緒にいたからね――時間の問題だった。せめて、ラストアルバムの後まで待ってくれたら良かったんだが」
5人の奇跡、それは音楽を愛していたこと
とはいえゼインの脱退は、指を1本切り落とされたような状態だった、とブネッタ。ワン・ダイレクションがスタジアムツアーを続行し、次のアルバム『メイド・イン・ザ・A.M.』に取り掛かる中、ハリーもナイルもリアムもルイも何とか気持ちを立て直そうと必死だったそうだ。バンド内の緊張状態が『FOUR/ フォー』の楽曲にそこはかとなく漂っていたように、ゼインの脱退は『メイド・イン・ザ・A.M.』にも影を落とした。あからさまな悪意はみじんもないが、ブネッタいわく、「ドラッグ・ミー・ダウン」のような楽曲には立ち直ろうと必死な様子が伺える。ゼインの正真正銘のファルセットさえあれば、ナイルもこの曲で声の限りに高音域を出す必要はなかっただろう。
だが『メイド・イン・ザ・A.M.』はそうした衝撃にも動じなかった。ブネッタとライアンは決定的な1曲として「オリビア」を挙げる。ソングライターとしてワン・ダイレクションの成長ぶりをうかがわせる1曲だ。彼らは1日かけて出来の悪い代物をこねくり回した挙句、翌日にこの曲をたった45分で仕上げたのだ。
「作曲を始めた最初のころは、書くものと言えばくだらない曲ばかり。それからだんたん上達して、それがずっと続いていくんだ」とライアン。「でもそのうち凝り性になって、『ここの歌詞はもうちょっと工夫したほうがいいかも』なんて言い出す。『メイド・イン・ザ・A.M.』を制作するころには、彼らも自分なりのやり方を身に着けて、ギターを手につま弾いては、何かひらめく、という感じだった。『どうすればこれがうまくハマるか?』と悩むんじゃなくてね」
ブネッタとライアンが言うには、ゼインの脱退の後、『メイド・イン・ザ・A.M.』がワン・ダイレクションの最後のアルバムになり、無期限の活動休止に入ることが明白になったという。アルバムははっきりと終焉を告げていたが、ワン・ダイレクションのおかげで、その終止符には永久不滅の感覚も漂っている。それこそが、アルバムの最後の曲「ヒストリー」で、彼らがファンに残した最後のメッセージだ。「ベイビー、分からないかい?/僕らは永遠に生き続けるんだ」
ある意味、『メイド・イン・ザ・A.M.』はワン・ダイレクションという存在そのものだ。グループとしてのワン・ダイレクションではなく、彼らが5年間曲を書き続けてきた1人1人のファンにとってのワン・ダイレクション。活動休止から4年間、結成から10年間、ファンはワン・ダイレクションの永遠のレガシーとして存在し続ける。ライアンも指摘するように、メンバー5人全員がソロとして活動を続けているにもかかわらず、ありとあらゆる再結成のうわさ――Zoomのような小規模のものも含め――はいまだインターネットをにぎわせている。昔の楽曲もいまだ色あせない。カール・フォークの9歳の息子も、1Dの楽曲に合わせてTikTok動画を作るのにはまっているそうだ。
ワン・ダイレクションのファン層、業績、影響力を数値で測る方法はごまんとある。確実な数字――アルバムセールスやコンサートチケットの売上枚数――はそれ自体圧倒的だが、数で表せないものほど面白いのが世の常だ。ワン・ダイレクションがあれほど素晴らしいバンドだったからこそ、とあるファンは冗談半分、だが半ば本気で、彼らのレコード契約を買い取って彼らに制作の全権限を与えようと考え、GoFundMeを立ち上げた。ワン・ダイレクションがあれほど素晴らしいバンドだったからこそ、コテチャやフォークら作曲家たちは今でも――アリアナ・グランデやザ・ウィークエンド、ニッキー・ミナージュと組んでヒット曲を世に送り出し続けている今でも――彼らとこんな曲が作れたのに、と思いをはせる。ワン・ダイレクションがあれほど素晴らしいバンドだったからこそ、ミツキが「ファイアプルーフ」をカバーする。
だがおそらく最終的に行きつくところは、もっとも筆舌に絶するもの、つまり偶然だ。コテチャは『Xファクター』のようなオーディション番組での成功を、ある朝目が覚めたらナイスバディになっているようなもの、と例える――だがそのあとは、そこに到達するまでの積み重ねがないままに、体型を維持するためにマックスでエクササイズをしなくてはならない。多くのアーティストが陥る罠だ。だがワン・ダイレクションはそれができただけでなく、自ら望んでそれをやってのけた。
「あの手の番組から出てきたアーティストの中でも、ここまで長く続いたのは彼らぐらいでしょう」とコテチャも言う。「巨大なポップスターがノンストップで活動するには、5年は長い期間です。大変だっただろうに、彼らはがむしゃらに打ち込んだ。彼らは自分が手にした幸運に感謝し、理解していたんです――知っての通り、彼らは今までずっと一度たりとも歩みを止めていないんですよ。彼らのほとんどは、こんな風になる以前は必ずしもミュージシャンではなかった。だけど音楽を愛していた。そしてモノづくりや作曲、演奏の楽しさを見出したんです。あの5人――無作為に選ばれた5人――が、まさかここまで成長するなんて。こんなことはもう二度と起こらないでしょうね」
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