ジャーニーの前フロントマン、スティーヴ・ペリーが彼の人生を大きく変えた、1978年のヴァン・ヘイレンとの合同ツアーを振り返る。また、不名誉なる「ワカモレ事件」や、幻に終わった故エディとのコラボレーションについても語ってくれた。


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さる10月6日、スティーヴ・ペリーは一緒に仕事をしていたレコーディングエンジニアから一通のメールを受け取った。そこにはこう綴られていた。「ああ、エディ・ヴァン・ヘイレンだ。信じられないよ」

ジャーニーの前ヴォーカリストには、これが何を言っているのかさっぱりだった。「俺はもうニュースを読むなんてことは止めているんでね」彼は言う。「そこで電話をかけて、どういうことだって訊いたんだ」

癌との長い闘病の末、希代のギタリストがついに亡くなってしまったのだと聞かされて、ペリーの脳裏には即座に1978年の『インフィニティ』ツアーの際、ヴァン・ヘイレンが8週間にわたって彼らの前座を務めていた時のことが甦ってきた。彼はローリングストーン誌に対し電話で、この伝説的なツアーの数々の逸話と、それからデイヴィッド・リー・ロス脱退後の1985年にエディから一本の電話を受け取っていたことを明かしてくれた。それはひょっとするとロックの歴史を根本から変えていたかも知れない出来事だった。以下はペリー本人の言葉。

1978年の記憶、唯一無二の遺伝子

もし1978年にヴァン・ヘイレンと一緒に過ごしていなければ、ジャーニーはきっと今とはまったく違う姿になっていただろうことは間違いないよ。彼らが前座を務めてくれたのはアルバム『インフィニティ』の完成直後で、俺にとってもジャーニーのヴォーカリストとしての初めてのツアーだった。「ライツ」や「ホイール・イン・ザ・スカイ」といった曲の頃だね。


ヴァン・ヘイレンはLAでウィスキーやギャザリーズ、スターウッドといった、繁華街のすぐそばの店々に出演していた。ワーナーブラザーズが彼らと契約しアルバムを制作した。デビュー作『炎の導火線』だ。

我々のマネージャーだったハービー・ハーバートは、この当時、俺らをなんとかヘッドライナーとしてツアーできるバンドに持ち上げようと考えていた。それにはいい前座が必要だとも言っていた。そこへヴァン・ヘイレンのことを聞きつけて、彼らを起用することを思いついたんだ。大体8週間ほどの、3000人クラスの、いわゆる額縁(プロセニアム)舞台の会場を回るツアーだった。記憶が間違っていなければ最初がヴァン・ヘイレンで、次がロニー・モントローズ、最後がジャーニーだ。3月の頭から4月の終わりまでだった。全員で一緒に動き、宿泊はホテルだった。8週間いい思いをさせてもらったよ。

ヴァン・ヘイレンはノリにノっていた。
目に見えてバンドの推進力となっていたのがエディ・ヴァン・ヘイレンその人だ。彼と兄のアレックスとを結ぶ音楽的な遺伝子というのは強力でね。2人きりの演奏ともなれば、レッド・ツェッペリンがもしパンクをやったらこうなるんじゃないかっていう感じだったよ。そのくらい力強かった。

しかもそこにデイヴィッド・リー・ロスだ。彼こそは正真正銘のエンターテイナーで、とにかく面白かった。ベースのマイケル・アンソニーは文字通りオペラ歌手みたいな高音がきちんと出せた。エディの声も素晴らしかった。彼らはだから、必要なものは全部備えてあそこにいたんだ。そして為すべきことを為した。

ああクソ、俺は毎晩、舞台袖で彼の出番を見せつけられていた。ニール(・ショーン、ジャーニーのギタリスト)を引っ張ってきて、観ておいた方がいいよとも言ったものさ。
ニールはエディにまるっきりがつんとやられていた。俺自身はドラマーだったから、エディとアレックスとにやっぱりしこたま打ちのめされた。こいつら、何かすごいものをこじ開けていやがるとわかったからね。

バンドの中に同じ遺伝子が組み込まれていると、ほかでは到底真似のできないものが生まれてくる場合がある。エヴァリー・ブラザーズのコーラスには、ビートルズでもサイモン&ガーファンクルでも太刀打ちできない何かがあるのさ。本人たちがそう認めているのを何かのドキュメンタリーで観たよ。ただ音楽的なアプローチだけでは決して手の届かない種類のものを、彼らは互いの奥深い場所に備えていたんだろうね。だから遺伝子というしかないんだ。アレックスとエディにはそれがあった。

エディはとにかくただ素晴らしい。とても尊敬しているけれど、彼の才能と彼が切り拓いたもの、そして彼らが共有していたものについては時に嫉妬も覚えるよ。エディこそはあのバンドの途轍もなく大きな推進力だった。
でも誓っていうけれど、バンドの全体が一目置いて然るべき巨大な力でもあった。彼らの後から出ていくっていうのは、それこそ毎度毎度勉強させられるようなものだった。

エディは完璧なリズムボックス

当時のロックは競争とライバル関係とでできあがっていたようなものだった。サンフランシスコ・ジャイアンツVSロスアンジェルス・ドジャーズみたいなもんさ。ライバルだ。競い合いだ。あの2チームはどちらも互いと戦う時にこそ最高の力を絞り出すだろう? あの頃はだから、ヘッドライナーというのは前座からの挑戦を受けているようなものだったんだ。前座の方はいつだってその夜の一番の盛り上がりをかっさらってやろうというつもりでいた。誰がヘッドライナーであれ、前座のバンドは凱歌をあげて故郷に戻りたかったんだ。だから競争なんだ。プロスポーツだからね。

でもどこかでそういうのも変わってしまった。
コンピューターの登場の前後からだろうな。誰もがクリック一つで演奏できるようになり、アルバムのすっかり加工の済んだ音や追加のコーラスや、さもなきゃやっぱり追加のギターや、そのほかの宙に漂っているような、雰囲気的なものまで引っ張り出せるようになってすべてが変わった。ドラマーはヘッドフォンでチクタクいうのを聴きながらリズムキープし、誰もがそのドラマーに合わせてプレイする。すると全体が凝り固まる。コンピューターに合わせて演奏しているからだ。このせいで一切が昔みたいに躍動的ではなくなった。碁盤のマス目の上といおうか、BPMに支配されているような場所ではどんな魔力だって無効化されてしまうのさ。

あの頃はただ出ていって演ればよかった。問題は一つきりだ。「ケツを蹴飛ばしているのは誰で、蹴飛ばされているのは誰だ?」。そのくらいシンプルだったんだ。どのバンドもほかのバンドに挑んでいたし、ほかのバンドからは何かしらが学べたものさ。
たとえ多くではなかったとしてもね。

エディは驚嘆すべきリードギタリストだと見做されているし、それはその通りだ。でも彼が完璧で決定的なリズムボックスだったことについては誰もあんまり語ってないよね。曲が始まるとするだろう?(「叶わぬ賭け」のリフを口ずさんでみせる)あれはそれだけで完璧だ。ほかのバンドの演奏はまだ入ってきていない。でもあのパターンにはまだそこにはないほかの楽器がちゃんと聴こえている。彼がリズムを支配していたというは、つまりはそういうことだよ。

一度エディにこう話したことがある。「俺は『ジェイミーの涙』が大好きだよ。ステージでも演ればいいのにと思ってる」って。でも彼はそうはしなかった。「あんまり気に入ってないんだ」と。たぶん、ちょっとお上品過ぎるくらいに思ってたんだろうな。イカれた話だろう?

「ワカモレ事件」の真相

本当のことをいうと俺は、あのツアーでは、エディとはそんなに多くの時間を一緒に過ごしていたりはしなかった。連中にいかにもパンクっぽい”てめえらクソ食らえ”みたいな空気があったことも事実でね。俺とはあまり一緒にいてくれなかった。ニールはエディといろいろつるんでいたようだけれど、俺はそうじゃなかった。

だけどある晩、ちょっと顔を出してちゃんと言葉にしておこうと決めたんだ。君ら最高だよってさ。それで連中の楽屋のドアを開け、やあ、とか言いかけたんだ。するとだ。いや、あの頃のワカモレっていうのはカッテージチーズみたいな容れ物に入れられて出てきてたんだけれどさ、バンドはまさに食べ物を投げつけあってやりあってる最中だったんだよ。俺がドアを開けたまさにその瞬間だ。そのワカモレの容器がちょうど鏡に跳ね返って俺の左側へと飛んできて、当時まだフレズノから出てきたばかりのガキだった俺が一番誇りに思っていたものに見事に飛び散ったんだ。サテンのツアージャンパーだよ。背中に”ジャーニー”のロゴが入っていた。これを着て初めてあの頃の俺は、自分がようやく何ものかになれたように思えていたものだった。

ワカモレが左の肩から腕にかけてを汚していた。そいつを見下ろしてから俺が目を上げると、連中は、やっちまったぁ、みたいな顔で決まり悪そうに笑っていたよ。俺も見ただけですぐにドアを締めちまった。腹が立っていたんだ。それでトイレに行ったんだけれど、腹立ちがおさまるはずもなかった。だって我が誇りのジャケットだったんだ。連中を好きな気持ちは変わらなかったけれど、でもこの一件の後ではそれを直接伝えることはもうできなくなっていた。そしてサテンの上着からワカモレを拭った。

(編者註:この一件の後、トイレで泣いているペリーの姿を目にしたという記事が一部に出回った)

いや、泣いたりなんてしてはいないさ。ワカモレで泣く訳ないだろう(笑)。ある段階で都市伝説みたいになったんだよ。バカバカしい。

ヴァン・ヘイレンの「大罪」

ところでこの辺りで少し、ヴァン・ヘイレンがこのツアーの最中に働いていた悪行についても話させてほしいな。こいつはことヘッドライナーに対しては”大罪”の名にも値するような所業だよ。

ジャーニーがエマーソン・レイク&パーマーの前座についていた頃だ。ほかの誰の時でもきっと同じだったと思うが、その多くは俺がまだ加入する以前のことになる。いずれにせよ、バンドの使用する音響機器は最大出力に多少の制限をかけられていたものなんだ。前座の音量が大き過ぎて観客の耳がダメになってしまわないための措置だね。

そしていよいよヘッドライナーの出番となったらヘッドライナー用のシフトに戻すんだ。ヘッドライナーが正統にヘッドライナーたり得るよう、会場中のアンプというアンプを最適の状態にするんだよ。これは音楽業界の伝統だ。俺らが作った訳じゃない。でも、前座の立場にある時には俺らだって必ず従わなくちゃならないものだった。

だからヴァン・ヘイレンが俺らとモントローズの前座に就いていた時にも、音響機器には多少の制限が加えられていたんだ。しかし彼らのミキサーが素晴らしく頭の切れるやつだったことはここで申し添えておかないとならない。エディは自前のマーシャルを積み上げて舞台に立った。マイケルはSVTのベースアンプだ。だから会場のPAを通すのはドラムとヴォーカルだけだったんだ。そして、さっきも言ったけれど、彼らの音ってのはツェッペリンがセックス・ピストルズと出会ったみたいなサウンドなんだよ。

エディと交わした真夜中の電話

これは誰も知らないと思うんだけれど、デイヴィッド・リー・ロスが(1985年に)バンドを離れてしまった時のことになる。当時俺はベイエリアに住んでいて、自分がこの先何をすべきか、あるいは何をしないべきなのかと、ちょっとだけ迷っていた時期だった。どういうふうにそうなったんだかはきちんと覚えていないんだけれど、とにかく俺がかけたかエディがくれたかして、電話で話したことがあるんだ。まあだから、回線を通じて”真夜中の秘め事”みたいなことをしたって訳さ。はっきりしているのは、その夜は結局二人して他愛ない話で楽しく盛り上がったってことだけだ。

エディは俺に、そのうちこっちにやってきて一緒にジャムセッションしようと言ってくれた。お遊びでさって。ああだから、どこかでは俺もとても光栄に思ったよ。彼の天賦の才には畏敬に似た気持ちを抱いていたからね。彼はただ生まれつき彼だった。心底一緒にやってみたいと思ったよ。自分たちが一緒にやったら音的にどれほどキマるかって話もしたな。サミー(・ヘイガー)が俎上に載る前のことだ。

次の日から1週間ばかりはずっとこう考えていた。

「そうすべきなのかどうか、自分でもよくわからないな。もしすべてが、きっとこんな具合になるだろうと俺が思っている通りに上手くいってしまったら――」

自分が持ち込めるものがなんであれ、やってしまえばそれが俺にとっては一番やりたいことになるだろうともわかっていた。唯一引っかかったのはこういうことだ。

「俺はそんな男になれるのか? この声で出ていって、デイヴィッド・リー・ロス時代にも取って代わることができると? そもそも俺は彼みたいになりたいのか?」

サミー・ヘイガー加入の話が耳に入ってきたのは、このほんのすぐ後のことだった。なるほど、彼ならばうってつけだなと思ったよ。

エディがどんなつもりで声をかけてくれたのかは俺にはわからない。彼はただこう言っただけだ。「一緒にやろうぜ」って。約束でもなんでもなかった。本当にただこれだけだよ。「ダメってことはないだろう? どんな感じになるものか、とにかくいっぺんだけでもやってみようぜ」

言った通り、あの時期までに彼らが積み上げてきた遺産を引き継ぐということが、とりわけ俺の声にすごくハマってくれている仕事だとも思えなかった。そもそも歌唱の方法そのものが違う。デイヴィッドのヴォーカルスタイルというのは、いわばルイ・プリマの直系みたいなものなんだ。実際、後年に彼は「ジャスト・ア・ジゴロ」を取り上げて、本人以上にルイ・パルマっぽく歌ってみせた。ああいうのを個性という。

今こうやって1978年のヴァン・ヘイレンとのツアーを思い起こしてみると、これは本当に心の底からの言葉だけれど、あの音楽性にあそこで出会えていたというのはまさに天恵のような事態だったんだなと思うよ。あれで俺の人生は変わった。自分がどうなりたいかという部分が変わった。どういう曲を作りたいかという意識が変わった。そして、どういうものをすごいと思うかという価値基準がすっかり変わってしまった。それに、これも忘れないで欲しいんだけれど、ヴァン・ヘイレンというのはただジャーニーをよりよいバンドへと化けさせてくれただけにはとどまらないんだ。彼らはその存在だけでものすごく数多くのバンドを導いたんだよ。

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