音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。


2023年5月の特集は「田家秀樹的 90年代ノート」。「J-POP LEGEND FORUM」時代に放送した「60年代ノート」「70年代ノート」「80年代ノート」の続編として、ミリオンセラーが日常となった空前のヒット曲の時代「黄金の10年」を振り返る。PART2は、1992年、1993年のヒット曲9曲をピックアップする。

YAH YAH YAH / CHAGE and ASKA

FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今流れてるのはCHAGE and ASKAの「YAH YAH YAH」。93年3月発売。
93年の年間チャート1位。イントロだけで曲がわかるっていうありがたい曲ですが、今日のテーマはこの曲です。

今日なんでこの曲で始めたかというと、先週フジテレビの月9の主題歌が立て続けに記録的なヒットになって、それが90年代の幕開けだったという話をしました。CHAGE and ASKは「SAY YES」がありましたけどね。でも彼らの活躍はそこにとどまっていなかったんです。当時いろんな取材、割と近しいというか取材する回数が多かったグループが彼らで、いろんな思い出があるんです。
92年のアルバム『GUYS』。あれはロンドン録音で一緒に行ったなとか、アルバムの中の「no no darlin'」は彼らのバラードの中でも僕が好きな屈指の1曲なんですね。

94年95年は彼らがアジアツアーに出かけたんです。そこで目にしたのが、アジア各地の街で、この曲でお客さんが盛り上がってるという感動的な光景だったんですね。コンサートでスタンディングの習慣が当時アジアはなかった。そのお客さんが警備員の制止を振り切って、立ち上がってこの曲を歌うという、総立ちになるとっても感動的なシーンがあったんですね。
ただアジアツアーは94年95年なんで来週でしょ?って思ったんですが、来週もご紹介できる曲数が限られてる。これもあるこれもと思ってるとCHAGE and ASKAが入らないかもしれない。この曲を今週かけて、アジアツアーの話もしてしまおうという一石二鳥の選曲。

こういう説明が多い1カ月なんです。今週は92年と93年です。先週ユーミンが200万枚の扉を開けたという話をしました。
この人たちはさらにその上、300万枚の扉を開けました。92年11月発売、DREAMS COME TRUEの5枚目のアルバム『The Swinging Star』から「決戦は金曜日」。

DREAMS COME TRUEは1989年デビューですね。まさに90年代を待っていたかのように登場しました。2枚目のアルバム『LOVE GOES ON…』と3枚目の『WONDER 3』がミリオンになったんですね。4枚目の『MILLION KISSES』はダブルミリオン。
この『The Swinging Star』はトリプルミリオン。ホップステップジャンプで100万枚から300万枚まで一気にいってしまった。

インタビュー中で、フィリーソウルって言葉が当たり前のように使われるようになったのは、ドリカムからじゃないでしょうかね。フィリーソウルとジャズ、そして吉田美和さんの奔放な歌いっぷり。ユーミンが持っていた女性賛歌みたいなものが、もっとあっけらかんとした形で世の中にどっと押し寄せていった感じがしました。ユーミンとドリカムというのが、女性ボーカルシーンの両輪だった。
そんな90年代前半でありました。

92年5月発売、尾崎豊さんのアルバム『放熱への証』から「闇の告白」。80年代の日本のロックの象徴の1人が尾崎豊さんでしょうね。彼は92年4月25日、26歳の若さでこの世を去りました。夭折の天才。最後のアルバムが『放熱への証』だったんですね。あのアルバムはいろんな捉え方ができるなと思って。デビュー10年目に差し掛かって、いっぺんいろんなつまずきを経験して、もう1回やり直したときに10代の頃の自分のことを20代になって表現しようとした、ある意味では10代の尾崎豊を20代の彼がコピーしてるみたいなアルバムに思えたんです。

でもこの「闇の告白」は10代で歌えなかったと思ったんですね。90年の2枚組の名作『誕生』というアルバムの中に「銃声の証明」っていう曲があって、テロリストを歌ってたんです。この「闇の告白」はテロリストっていう具体的な登場人物ではなくて、もっと俯瞰してる。たった1人で世間と戦ってるっていう、いろんな時代に通じる普遍的な歌だなと思ったんですね。今年は山上青年というのがこの歌に浮かんだりしました。

2004年の尾崎さんのトリビュートアルバムで、斉藤和義さんがこの曲を実に本質を表現して弾き語りで歌ってるんですが、ぜひそちらの方を聞いていただけたらと思ったりもしてます。尾崎さんが亡くなって、80年代が終わったと思ったんですね。そういうふうに思わせた出来事がもう一つあって。それは後ほどお話してみたいと思いますが、尾崎さんが影響を受けていた人の92年の名盤アルバムです。佐野元春さん、92年7月発売アルバム『Sweet16』のタイトル曲です。

1992年7月発売、佐野元春さんのアルバム『Sweet16』のタイトル曲。佐野さんのデビューは1980年。80年代の幕を開けたその人ですね。ストリートのロックシーンとして80年代を駆け抜けました。アルバム『VISITORS』『Café Bohemia』『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』。80年代後半の3枚は、ニューヨーク東京ロンドンとボヘミアンのように移動しながらアルバムを作ってました。

尾崎さんは、ステージで学校の話をしながら、「先生はやめろと言ったんだけど、俺はカセットテープでジャクソン・ブラウンやブルース・スプリングスティーンや浜田省吾や佐野元春を教室で聴いていたんだ、俺はやめなかった。みんなのロックンロールは好きかい?」と叫んでいた。

佐野さんは、90年代に入って『Time Out!』っていうアルバムを作ったんですね。1曲目が「ぼくは大人になった」でした。彼も30代半ばになって父親を亡くしたり、10代では味わえない経験があって、それを経てこの「Sweet16」が生まれたんですね。大人になった彼が改めて10代をテーマにしたアルバム。アルバムの中で「レインボー・イン・マイ・ソウル」って曲が僕は好きだったんですね。いわゆる佐野元春とはちょっと違うソウルっぽい曲で、「Sweet16」は佐野さんの原点のバディ・ホリーをやってるってことでこの曲にしたんですが、尾崎さんが、36、46、年齢を重ねて「15の夜」の、年齢版を作るときが来て欲しかったなと、改めて思ったりもしております。

いろんなバンドやアーティストが成長と変化を繰り広げて、音楽面で実を手にした人たちが出てくるわけですが、そういう典型的な例でしょうね。93年6月発売、THE_BOOMのシングル「島唄」。

1993年6月発売、シングルで出ました。THE BOOMの「島唄」。アルバムは92年の『思春期』に入ってたんですね。THE BOOMはホコ天出身ですね。当時はスカバンドでした。THE BOOMの90年のアルバムが『JAPANESKA』。その後がこの『思春期』なんですね。日本の歌はなんだろう、自分たちが歌うべき歌は何だろうということで『JAPANESKA』を作って、その中で三味線とか和太鼓とか沖縄民謡に出会って、『思春期』の中にこの「島唄」が入ったんですね。

この「島唄」は当時レコード会社から大反対されたんです。THE BOOMのファンは女子中高生が多かったですからね。そういうファンにはおじさんに思われますよって言われて、やめてくださいっていう声がある中で、でも今これを歌いたいんだということで、こういうシングルになったんですね。沖縄の人たちも、この歌が泡盛のCMで流れたときに、まさかの内地のバンドとは思わなかったっていう反応がありました。

空前のメガヒットという光の中で、光が強ければ強いほど闇も濃いわけで、その闇に向き合ってしまった尾崎豊さん。その光に中でそれに抗いながら自分たちの音楽を求め続けた佐野さんとかTHE BOOM。THE BOOMの自己探求は、94年に『極東サンバ』という名盤になるんですが、これは来週ご紹介できるかなと思っております。

ぼくたちの失敗 / 森田童子

この年のシングル年間チャート20位。1993年1月発売、森田童子さんの「ぼくたちの失敗」。ちょっと涙腺が緩みそうになってる俺は何なんだという感じがしてますけど(笑)。これは元々は76年の曲なんですね。TVドラマ『高校教師』で使用されました。脚本家・野島伸司さん。これがテレビが流れたときは驚きましたね。なんでこれが今頃流れてんだ。それが90万枚も売れてしまって、年間チャート20位っていうのはもっと驚きました。

この90年代のバブル絶頂期のような華やかさとはもう対極、裏腹。光の当たらない青春。でもドラマの力ですね。先週もフジテレビ月9がラブソングを大量にヒットさせたという話がありましたが、今週おかけできないんですけど、浜田省吾さんの「悲しみは雪のように」が92年年間チャート2位なんですよ。しかも浜田さん初のシングルチャートの1位になって170万枚売れた。92年のフジテレビの『愛という名のもとに』、あのドラマは全編が浜田省吾っていう異例中の異例のテレビドラマだったんですね。それが浜田省吾現象というのを起こしてしまって、当の浜田さんは、これは一体何なんだっていうことで、かなり考えてしまったっていう時期でしたけども。テレビに出ない人の歌がテレビでヒットするようになった。

これはいろんな要因があって、視聴者が70年代の青春を迎えていた人で、そういう人たちに家庭が出来てコンサートに行けなくなってた。テレビの制作者たちもその年代になって、俺たちの好きな事をやりたい。70年代のテレビとは違うもの、80年代のテレビとは違うものを作りたいということでこうなりましたね。その中から、森田童子さんが改めて光を浴びた。そういう現象でありました。テレビに出なかった人の曲をお聴きいただこうと思います。93年1月発売、ZARDで「負けないで」。

1993年1月発売、ZARDの「負けないで」。ZARDは坂井泉水さんのソロユニットですね。今月は取材をしたことがあるとかライブが良かったとか、そういう人の曲をお送りするようにしてるんですが、ZARDは取材してませんね。誰もしたことないわけですから。ZARDは本当にいるんだろうかって言われた、そんな存在ですからね。

作詞が坂井泉水さん、作曲が織田哲郎さん、プロデュースが長戸大幸さん。ビーイングの総大将ですね。ビーイングは元々作詞家や作曲家の集団で織田哲郎さんは創立メンバーですね。85年デビューのTUBEの初期の曲とか、彼の功績が大きいですね。

TUBEは90年の「あー夏休み」、こっからメンバーのオリジナルを歌うようになったんですね。ロックバンドが日本の夏を歌ったという意味でも「あー夏休み」はやっぱりエポックだったなと思いますね。88年にB'zがデビューして、B.B.クィーンズが90年に1位になって、91年にデビューしたのがZARDですね。

90年代半ばに二つの旋風があって、これは来週の話にもなるんですけど、その一つがビーイングですね。先週キャリアの長いアーティストの代表曲には90年代のものが多いという話をしましたが、浜田さんのアルバム「悲しみは雪のように」が出た1981年にデビューした人たちの代表曲も、この93年に発売されました。

1993年発売、スターダスト・レビューの「木蘭の涙」。彼らのデビューは1981年、アルバム『STARDUST REVUE』とシングル『シュガーはお年頃』。シングルアルバム同時発売だったんです。でも売れなかった。デビュー42年経ちました。まだ全国ずっと回ってますね。円熟期を迎えてます。ジャズとかロックとか歌謡ポップスとかいろんな音楽を消化して、こんなにコーラスをたくさん対応して、なおかつステージサービス精神に富んでるバンドは彼らだけですね。

当時からライブでもショートストーリーとかミニドラマを入れたりしてたんですね。それがロックバンドとしては邪道ではないかって言われたりもしたんですけど。背水の陣で臨んでヒットしたのが、84年の『夢伝説』で、それも40位だったんです。「木蘭の涙」もオリコン半分に入らなかったんじゃないかな。

同じようにコンサートで地道にお客さんが入るようになってて、爆発的にブレイクしたのがチャゲアスでしたから、次はスタレビだっていう声があちこちで交わされたんですね。レコードの売り上げとコンサートの動員が同じだった。そういうバンドがチャゲアスとスタレビだったんです。でも、チャゲアスのようにはならなかったですね。

根本(要)さんがよく言ってますけど、俺たちはヒット曲がないからここまでやれてるんだ。この「木蘭の涙」もチャートやセールスでは残らないけども、一番カバーされてる日本のポップスになりました。チャートが全てじゃない。90年代はときを超えた名曲の宝庫だっていう例でしょうね。と言いながらですね、売れた曲をお届けしようと思います。バンドを解散してソロになった。ソロ・アーティストのデビュー曲としては記録的なヒットです。藤井フミヤさん、1993年11月発売、「TRUE LOVE」。

1993年11月発売、藤井フミヤさんの「TRUE LOVE」。チェッカーズ時代の、漢字の郁弥がカタカナになりました。3週間連続1位を続けてミリオンセラーになって、最終的には200万枚までいったという大ヒットですね。さっき80年代が終わったと思った92年の二つの出来事という話をしましたが、一つが尾崎豊さんの死で、もう一つがチェッカーズの解散だったんですね。

チェッカーズの解散、最後のツアー12月25日から28日まで武道館4日間。最終日。もう武道館中が泣き叫んでいるという、叫ぶどころか、もっとすすり泣いてるに近かった。もう泣き声がもう武道館中に溢れてるっていうライブでした。地下鉄の九段下の駅から武道館までずっとファンの人たちが「チケットください」っていうボードを掲げて泣いてる。そういう泣き叫ぶ客席に向かって郁弥さんは「お前ら、ガキだな」。最後に「エイズに気をつけろよ、じゃあな」と言って去っていったんですね。かっこよかったですね。

尾崎さんとチェッカーズは同じ1983年デビューで、音楽雑誌の看板でしたからね。同じ92年に幕を閉じました。同じバンドからソロになったということでいうと、この人に触れないわけにはいきませんね。今日最後の曲は、93年1月に発売になった氷室京介さんの4枚目のアルバム『Memories Of Blue』から「WILL 」にしました。なぜこの曲にしたかは後ほど。

1993年1月発売、氷室京介さんの4枚目のアルバム『Memories Of Blue』の最後の曲「WILL」。氷室京介、心の叫び。このアルバムは130万枚売れて、BOØWYをセールス的にも超えたんですね。先行シングルが「KISS ME」で、年間チャート11位。氷室さんにとって唯一のミリオンセラー。『Memories Of Blue』が紹介されるときは、「KISS ME」かアルバムのタイトル曲「Memories Of Blue」、どちらかで語られることが多い。でも一番BOØWYらしくない。氷室さんもこの曲について「アルバムの中で浮いてると思うよ。でも、入口が「KISS ME」で、出口が「WILL」なんだよね。自分の中で大切にしているものの対極なんだ」という話がありました。この曲があって、BOØWYと違う音楽性にたどり着いたという確信になった曲なんではないかということで、こういう機会ですから、この曲で締めてみました。

この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」が流れております。忘れられないインタビューがやっぱり何本も90年代にもあるわけですけど、さっきの「Memories Of Blue」のときの氷室さんのインタビューはその中の1本ですね。それまでBOØWYっていう言葉が禁句だった。彼の前で「BOØWYって言っちゃいけないよ」って言われてたのが、BOØWYについて語ってくれた。まだまだ負けてるって言ってた忘れられないインタビューですね。

ポップミュージック黄金期っていう言い方はセールス的な意味で取られることが多いですし、いろんなことが社会現象になるくらいにスケールが大きい出来事がたくさんあった。そういう時代ではあったんですが、でもそれだけじゃないですね。いろんな音楽が登場したって意味では、80年代の比じゃなかったんじゃないかと思いますね。業界も潤ってますし、CDも売れましたから。みんなの経済的な余裕があったり、体力があったということですね。いろんな試みをしてるんですね。どのアルバムにもそういう気概があふれてる。

今日ご紹介したアーティストや、その人たちの曲はそういうそれぞれの生き方を代表してる、物語っている。そんな曲をお聴きいただいたつもりではいるんですが、それぞれのアーティストがアルバムの話だけで1時間はすぐいってしまう、そういう時間でもあるわけでして。90年代ノート、ページ数が足りないぞ。あれもかかってないよ、この人の話もしてないよと悲鳴を上げながら、お送りしております。来週は、94年、95年。あっという間に半ばから後半に差し掛かります。あなたは当時どんな日々を送られていたんでしょうか?

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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