音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。
2023年5月の特集は「田家秀樹的 90年代ノート」。「J-POP LEGEND FORUM」時代に放送した「60年代ノート」「70年代ノート」「80年代ノート」の続編として、ミリオンセラーが日常となった空前のヒット曲の時代「黄金の10年」を振り返る。PART1は、1990年、1991年のヒット曲9曲をピックアップ。

FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今月は「90年代ノート」と題して1カ月間お送りしようと思います。1990年から99年。
なんで90年代をやろうかと思ったかというと、2月にGLAYのTAKUROさんの特集をやりました。TAKURO令和と50代を語る。あのときに、90年代っていうのはもうかなり過去なんだなと思ったことが発端ですね。

日本のポップミュージックは60年代に種がまかれて、70年代に芽を吹きました。そして80年代に開花したんですね。その後に訪れた爛熟期、黄金期が90年代だった。
史上最大とか過去最多とかそんな言葉が日常的だったお祭りのような10年間を改めてたどってみようと思います。そして今、どんなふうに見えるのか再検証してみようという1カ月です。

「少年時代」は90年に発売になった曲です。70年代、80年代の陽水さんと曲調もイメージも一変したんですね。歌謡曲とかポップスとかっていう分け方ができない唱歌というんでしょうかね、ジャンル分けしにくい日本の歌が誕生した。しかもこの曲の入ったアルバムのタイトルが『ハンサムボーイ』。
ジャケットを覚えてらっしゃいますか? 井上陽水さんの満面の笑顔ですよ。70年代80年代のあの神秘的で、ちょっと神経質そうな陽水さんはいなかったですね。

そしてアルバムはミリオンセラーになりました。陽水さんは80年代に『9.5カラット』で2度目のピーク、2度目のミリオンというのを達成してるんですね。この曲と『ハンサムボーイ』で3度目のピークを迎えたんです。70年代80年代90年代、三つの時代でミリオンを記録した最初のアーティストになったんですね。


その事に敬意を表して、今週の前テーマにしました。90年代がいかにとんでもなかったか。CDという形態自体がですね、今や危うくなってる時代には幻のような10年間。3度目の100万枚が陽水さんだとしたら、今日の1曲目はダブルミリオンという扉を開けたアルバムからお送りします。

80年代はユーミンの時代だったというふうに言っていいでしょうね。その80年代の後半、『ダイアモンドダストが消えぬまに』『Delight Slight Light KISS』『LOVE WARS』という3枚を立て続けに出して、そこには純愛三部作っていうコピーがついてたんですね。
ダイアモンドダストっていうのはシャンペンの泡のことですから、80年代後半のバブル景気とともにあった。そしてその先を彼女は見てた。この「天国のドア」はバブルの向こう側を歌ってますね。このアルバムはレコード会社の発表で総出荷数が初めて200万枚を超えたんですね。100万枚は普通という時代のドアが開きました。

お聴きいただいているのは、90年5月発売のたまの「さよなら人類」。
デビュー曲ですね。ボーカル・ギター知久寿焼さん、ボーカル・パーカッション石川浩司さん、ボーカル・ベース滝本晃司さん、ボーカル・キーボード柳原陽一郎さん。89年2月に始まったイカ天、『三宅裕司のいかすバンド天国』でグランドチャンピオンだったんですね。

いつの時代もそうですけど、前の時代からの延長戦の流れの中のものと、ここから新しく始まったもの。90年代にも両方ありますね。90年の初めは空前のバンドブームでありました。ブームはいつもそうなんですが、功罪ありますね。罪というのはマンネリ化と商業化ですね。同じようなものばっかりが量産されていく。功っていうのは、こういうたまのような、ちょっとはみ出した個性派、これはバンドブームじゃなかったらきっと世の中には送り出されなかったでしょうね。

バブルの対極のような歌ですね。SFファンタジー、科学技術、文明の発達がもたらすもの。これがどこに行き着くのかをちょっと警告するようなファンタジーですね。映画『2001年宇宙の旅』とか『猿の惑星』の中にあるようなことを誰も見たことのないようなルックスの4人がポップスにしてくれました。これが90年の年間チャート4位なんですよ。それだけヒットした。社会現象になった。1990年代はそういう時代でもありました。

1990年にデビューした人の曲をお聴きいただこうと思います。90年10月発売、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』から2枚目のシングル。槇原敬之さん「ANSWER」。

90年10月発売、槇原敬之さんのデビューアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』の中の「ANSWER」。2枚目のシングルでした。カップリングの「北風」はアルバムの中の曲だったんですが、開局二年目のFM802の猛プッシュでカップリングになりました。デビューシングルは「NG」という曲だったんですね。デビュー曲が「NG」っていうのはないでしょうって、今でも彼は冗談でよく使ってますけど、やっぱり印象はこの「ANSWER」でした。出だしうまいなって今聴いても思います。槇原さんの曲の中で好きな5本指に入るんじゃないかな。「あの日地下鉄の改札で急に咳が出て 涙にじんで止まらなくなった」っていう、この回想のリアリティのセンチメンタルな印象。地下鉄の改札で咳と涙ですよ。それだけで見えるものがあるなと。そして記憶の中にずっと沈み込んでいくようなメロディのたゆたう感じ。うまいですね。

アルバムのタイトルも、長いタイトルが流行り始めたのがこの後ですよ。『君が笑うとき君の胸が痛まないように』っていう感情の機微。君が笑ってるときになんで僕の胸が痛むのか、っていうことを考えさせる。2人の関係というのが、ここに投影されてる距離感のうまさ。槙原さんのデビューがいかに衝撃的だったかってことを物語ってますね。ただ「NG」も「ANSWER」もチャートは圏外だったんです。91年6月に3枚目のシングル「どんなときも。」が出て、いきなり1位になったんですね。今でも覚えてますね。91年の、ある音楽賞の審査をやったときに僕、90年代に登場した最も才能あるシンガーソングライターだと言った覚えがありますね。まだ1年しか経ってないのにね(笑)。でもそれぐらいやっぱり印象度が強かったっていうことですね。

もう1人、この年にデビューして、後に槇原さんと並んで、男性シンガーソングライターの数々の記録を塗り替える人がいました。90年3月に「追憶の雨の中で」でデビューした福山雅治さん。でも今日曲をかける時間がありませんね。「追憶の雨の中で」も売れませんでしたね。こんな理由で選んでいいのかと思うんですが同じ事務所のアーティストの曲をお送りします。90年7月に発売になったサザンオールスターズ、「真夏の果実」。

1990年7月に発売になったサザンオールスターズの「真夏の果実」。9月に公開された映画『稲村ジェーン』の主題歌でしたね。『稲村ジェーン』のサントラアルバムに入ってました。もう1曲「希望の轍」もサントラ的な曲でヒットしたわけですが、「希望の轍」は稲村ジェーンオーケストラって言ってましたね、こういうバンドとソロとユニットっていうのをうまく使い分けてきてる。これも90年代のサザンオールスターズの一つの特徴でしょうね。

このアルバムが年間のチャートで2位。1位がさっきの『天国のドア』で、2位が『稲村ジェーン』ですからね。映画のサントラアルバムはヒットしないっていう定評があったんですが、これは異例の大ヒットだった。1964年、東京オリンピックの年の鎌倉稲村ヶ崎のサーファーが主人公、湘南版の『ビッグウェンズデー』。監督桑田佳祐。映画の興行も、この年4位だったんですね。曲もヒットして、映画も評判になった。中にはきついこと言う人たちもいましたけれども、やっぱり音楽映画としては歴史的な1作だったんじゃないでしょうかね。

この「真夏の果実」を聴くと思い出すことがあるんですが、それは後ほど話をしてみたいと思います。

90年2月に発売になった、BUCK-TICKの「悪の華」。90年2月に出た5枚目のアルバムなんですね。「悪の華」っていうタイトルで、ボードレールの詩集を思い浮かべた。これはどなたもそうだったと思いますが。アルバムチャート1位になったんですね。90年代に台頭してくる新しい流れにビジュアル系があるわけですけど、BUCK-TICKはその元祖と言っていいでしょうね。デビューが86年、インディーズの太陽レコードからデビューして、87年に『HURRY UP MODE』でメジャーに登場した。このときのライブのタイトルが『バクチク現象』だったんですね。現象っていう言葉を自分たちのデビューに使ったという意味では初めてでしょうね。

でも当時はビジュアル系って言葉はまだなかったんです。髪立系って言ってましたからね。ビジュアル系って言葉は、89年にX JAPAN、当時Xでしたけども『BLUE BLOOD』っていうアルバムを出したときに、HIDEさんがビジュアルショックっていう言葉を使った。そっから始まってるというふうに言われてますけど、そのときもまだ「ビジュアル系」というところまでカテゴライズされてはいなかったと思います。92年とか93年頃、LUNA SEAじゃなかったかな。その話はまた来週ってことなんでしょうが、BUCK-TICKは89年12月に東京ドームやったんですよ。観に行きました。その後に「悪の華」を出して、このアルバムが年間チャート20位ですからね。X JAPANはハードロックとクラシックをミックスした。BUCK-TICKは、ポップスと近未来が一緒になってる感じがしたんです。そこにダークサイドの美意識みたいなものが彩られて独特の世界を作ってましたね。

この年の年間ランキングやっぱ面白いですね。シングルの年間チャート1位がB.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」ですからね。ちびまる子ちゃんのテーマ。近藤房之助さんと坪倉唯子さんのボーカル。京都のブルースバンドのボーカルギターと、桑名晴子さんのベーカーズショップの一員だった坪倉さん。渋い2人がこういう歌で年間チャート1位になった。BBというのはビーイング。事務所、レコード会社BMGの頭文字にBBキングをくっつけたという「勝手にシンドバッド」みたいなネーミングですね。それが年間チャート1位で、2位が「浪漫飛行」で、3位がLINDBERGの「今すぐKiss Me」。全部ドラマ主題歌なんですね。ポップスとメディアがもっとも蜜月だった10年が90年代でしょうね。そういう流れの中で、この曲が生まれました。小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」。

1991年2月発売、小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」。91年1月に始まったドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌ですね。オフコースの解散が89年2月で、小田さんのソロは86年から行われてましたけども、解散後の翌々年っていう時期ですね。90年の5月に解散後初めてのアルバム『Far East Cafe』を発売したんですね。フジテレビからは、オフコースの「Yes-No」みたいな曲をと依頼されたわけですが、小田さんは首を縦に振らなかったんですね。で、最初に書いた曲がフジテレビのOKをもらえなかった。いい顔をされなかったんですね。で、書き直したという話は有名ですね。

当初は小田さんはシングルのA面は、もう1曲の「Oh! Yeah!」の方を推していて、両A面シングルなりました。でもこのやり取りは小田さんらしいなと思いますね。最近はタイアップがないと曲が書けない、タイアップが自分のモチーフを刺激してくれるんだって言いますが、オフコース時代、そういうことしなかったですからね。それに対しての意地みたいなものがあったんでしょうね。でも、ノーが出たときに彼の職人性がメラメラと頭をもたげて、こういう曲になった。小田和正さんらしいエピソードじゃないでしょうか? 月9というのが90年代前半のキーワードですね。91年の夏に放送された月9ドラマの主題歌です。CHAGE and ASKA「SAY YES」。

SAY YES / CHAGE and ASKA

1991年7月発売、CHAGE and ASKAの「SAY YES」。月9ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌。オリコン1位を13週間続けたんですね。でも年間のシングルチャートの1位は「ラブ・ストーリーは突然に」。2位が「SAY YES」ですね。ただ売り上げは「SAY YES」が約280万枚、「ラブ・ストーリーは突然に」を上回ったんですね。ランキングの集計時期ってのがありますからね。2年にまたがってヒットしたものは1年に計算するとちょっと減ったりする。そういう例ではあるんですけども。

フジテレビの台風の目になっていく皮切りになったのが、年間チャート3位に入ったKANの「愛は勝つ」だったんですね。これも『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌だった。90年7月に出たアルバム『野球選手が夢だった。』の中の曲ですね。「愛は勝つ」は、FM802のヘビーローテーションだったんです。FM802が89年開局ですからね。開局した直後の、俺たちがヒット曲を作るんだっていう熱みたいなものがですね、こういう例に表れてますね。年間チャートの4位が「どんなときも」で、5位が「はじまりはいつも雨」、ASKAさんのソロです。ラブソングとシンガーソングライターの全盛期というのが90年代の前半なんですが、それを象徴してるランキングでしょうね。

メディアもいろいろ大きく変わっていく中で、街の中でも新しいムーブメントが生まれるんですね。東京の渋谷界隈のクラブのDJが過去の名曲を掘り起こしてクラブで流すようになったりして、そこにサンプリングっていう手法が加わって新しいポップスが生まれてくる。火付け役が、84年に結成されたピチカート・ファイヴ。そこにORIGINAL LOVEの田島貴男さんも参加した。88年の『Bellissima!』、89年の『女王陛下のピチカート・ファイヴ』、これが渋谷系の源流と言われてるんですが、今日はその後に登場したグループの曲をお聴きいただこうと思います。91年7月発売、フリッパーズ・ギターのアルバム『ヘッド博士の世界塔』から「Groove Tube」。

91年7月発売、フリッパーズ・ギターのアルバム『ヘッド博士の世界塔』から「Groove Tube」。このときは小山田圭吾さんと小沢健二さんの2人組。デビューしたときは5人組でした。送り出したのがポリスターの牧村憲一さん。「J-POP LEGEND FORUM」でも1カ月間彼の特集をしたことがありました。

デビューアルバムは、89年『three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった』。全曲英語だったんですね。90年の日本語のアルバム『CAMERA TALK』というのが出て、もっとポップになりました。初めて彼らを見たのが『CAMERA TALK』が出た後の渋谷のクラブクアトロですね。渋谷系。でも、そのときは渋谷系って呼び方がまだなかったんじゃないでしょうか。フリッパーズ・ギターもネオアコっていう括りでしたからね。ライブもかわいらしい、とってもおしゃれで、でもどっかクセあるようなこの2人っていう感じの若々しい雰囲気で、音楽雑誌「PATi・PATi」ではパーフリちゃんと呼ばれてましたからね。

この『ヘッド博士の世界塔-』は衝撃でした。サンプリングっていう言葉自体がやっと耳に入るようになった時代で、サンプリングのアルバム、これはどうやって作ったんだろうとか、この曲の権利関係はどうなってるんだろうってことを周りのメディアの人間が心配するような、そういう新しさがありました。

このアルバムが出たあとに、TOKYO FMホールを最後に解散しちゃうんですね。最後のコンサートを観に行ったんですけど、ライブの印象よりも、終わってからロビーで公衆電話で電話していたときに、2人が出てきてバラバラで帰ってくんです。その帰ったときも飄々とした何事もなかったような感じで別れて行った。解散コンサート、最後のコンサートだよなっていう拍子抜けをするような感じがあったんですが、そういう淡白さというのも、都会っ子ならではだったんだなというふうに改めて思ったりします。

街角でも、メディアでもいろんな変化が起きていた90年、91年。個人的にもとっても大きな出来事があったんで、そんな話をこの曲の後にしてみたいと思います。浜田省吾さんの「詩人の鐘」。

1990年6月発売、浜田省吾さんのアルバム『誰がために鐘は鳴る』から「詩人の鐘」。89年に中国で天安門事件がありました。そしてヨーロッパの独裁政権が、民主化の波に洗われて、次々と変わっていった。で、ベルリンの壁が崩れました。91年の12月にはソ連邦が消滅したんですね。それが2022年のウクライナ侵攻に繋がってるんじゃないかと思ったりしますが、世の中も大きく変わっておりました。

そのときに私は浜田省吾さんの「ON THE ROAD '90」に同行したんです。1990年7月から91年3月まで全83本。全行程がスタッフ移動。朝9時にホールに入ってセッティングをして、リハーサルを見て、本番も立ち会って、その後にバラしをして、スタッフと一緒にホテルに戻って飯を食いに行って、次の街に行くという全国の旅をしました。東京のコンサートを観て、終わってから楽屋に行って、いや良かったですよみたいな、これが日常だったんですが、それでいいのかなと思っちゃったんですね。コンサートツアーというのはいろんなドラマがあるわけですし、僕らが知らないところで動いてるんじゃないか。コンサートツアーとは何なのか知りたくなったんですね。そうやって旅をしていた。

さっき「真夏の果実」のことにちょっと触れましたけども、いろんな街に行っても「真夏の果実」が流れてたんですね。いろんな商店街の街頭放送とかラジオとかで、多分一番たくさんの街であの曲を聞いたのが僕ではないかと思ったりしますね。1人で街を歩いてるときに、東京は今何やってんのかなとか、業界はどうなってるのかなとか、いろんなことを考えながらこの曲を聴いてて、とっても切なくなったという、「真夏の果実」の記憶であります。

流れてるのはこの番組のテーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

90年代の事をやろうかなと思ったときに、とても自然にやれそうな気がしてたんですが、やり始めたら大きな壁にぶつかりました。曲をどうするんだ。音楽業界の規模が倍々ゲーム的に大きくなってた10年ですから、さっきの「ラブ・ストーリーは突然に」と「SAY YES」の差が280万枚対270万枚で、どっちが勝ったって言ってた時代ですよ。年間のミリオンセラーが10曲どころじゃなくなってくるんです。

来週からそういう話になるんですが、1位から20位までミリオンセラーだったりした時代があるんです。しかも、今も現役のアーティストの代表曲っていうのが大体この90年代に誕生してるんです。つまり、こんな曲がありましたとか、こんな曲が流行りましたとか、こういういい曲覚えてますか?って話をしてるだけで、あっという間に時間が経っちゃうんですね。さあ、どうやって曲を選ぶんだ、来週以降どうしようと思いながら話をしてるんですけども。おいつかないんですね。あまりにも規模が大きい。

ですから、何でこの曲が入ってないのとか、何であの曲が流れなかったんですかって言われることを覚悟しながら進めようとは思ってるんですけど、一つ決めたことがあって。取材したことのある人とかですね、ライブを見たことのある人の曲を流そうかなってことで、ヒットしたけれども流れない曲というのが出てくるのもしょうがないと思っていただけると嬉しいですが。つまり「90年代ノート」は、私的90年代ノートと思っていただけると嬉しいです。なんであの曲の話をしないというご不満はご容赦くださいということで、来週に伺いたいと思います。来週は92年93年です。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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