ボーズ・オブ・カナダ(Boards of Canada:以下、BoC)が、前作『Tomorrows Harvest』から実に13年ぶりとなるスタジオアルバム『Inferno』を5月29日にリリースする。それに先駆け、世界7都市で開催された試聴会「Inferno Sessions」。
東京会場となったヒューマントラストシネマ渋谷 odessa シアター1には、抽選で選ばれた約200人のリスナーが集まった。

この13年のあいだ、BoCは完全に沈黙していたわけではない。リミックス、アーカイブ的な音源の公開、〈Warp Records〉30周年を記念したNTSでのDJミックス『Societas x Tape』などの動きが断続的に観測されてはいた。しかしオリジナルアルバムとしては、これまででもっとも長いインターバル。それにより、彼らの音楽がもともと備えていた神秘性はさらに増幅されたと言っていいだろう。

その「沈黙」は、今年の春になって暗号めいたティーザー配信やポスター掲示、謎のVHSテープ配布など、いかにもBoCらしいかたちで破られた。4月16日には、彼らの公式YouTubeに「Tape 05」と題された約3分の音源が突如アップされている。WarpのSNSにも連動して投稿されたが、それが新曲なのか、アルバムに収録される音源なのか、明確な説明はなかった。ファンのあいだでは、曲名からしてアルバム5曲目の「Father And Son」ではないかという憶測も流れたが(実際には「Deep Time」だった)、そうした推理や考察、憶測とともに、BoCの新作は少しずつ輪郭を現していったのである。

Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


BoCの音楽は、一聴して分かるほどのオリジナリティを保ちながら、アルバムごとに変化してきた。1998年の『Music Has The Right To Children』には、白昼夢のような牧歌性と、どこか得体の知れない不穏さが同居していた。続く『Geogaddi』ではカルト的な影が濃くなり、『The Campfire Headphase』ではエレキギターをより前面に出すことで、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやコクトー・ツインズなどにも通じるドリームポップ~シューゲイザー的な感触を獲得する。
そして2013年の『Tomorrows Harvest』では、ジョン・カーペンターやファビオ・フリッツィといったホラー/SF映画音楽からの影響を滲ませながら、終末的なムードを強めていた。

そんなマイケル・サンディソンとマーカス・エオインの兄弟デュオが、新たなアルバムに与えたのは「地獄」を意味するタイトルである。

「Inferno」という言葉から思い浮かぶものはいくつもあるが、個人的にまず連想したのはダリオ・アルジェントが1980年に発表した同名のホラー映画だ。『サスペリア』に続く「魔女3部作」の第2作であり、スタイリッシュで血塗られた映像美を特徴とするジャッロの代表作のひとつである。実際、『Inferno』のプログレッシブな楽曲展開や、陽気さと不穏さを1曲の中で共存させる手法には、アルジェント作品におけるゴブリンやキース・エマーソンの音楽にも通じる過剰な色彩感があると思う。

Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


前置きが長くなってしまった。いよいよ「Inferno Sessions」の当日、会場入口でハニカム型(正六角形を隙間なく並べた幾何学的な形状)のキーホルダーと小冊子、ポスターが手渡され、観客はスマートフォンの電源を切るよう促される。劇場内に入ると真っ暗で何も見えない。スマホの電源をオフにしているから、通路をライトで照らすこともできず立ち往生。しばらくすると、少しずつ暗闇に目が慣れてきたところでようやく席に座ることができた。「あと、どのくらいで始まるんだろう?」暗くて本も読めず、ただじっと座って待つしかない。だんだんと現実から切り離されていくような感覚になる。


やがて場内の照明が完全に落ち、BoCらしいシンセの残響とともに、架空の研究機関による案内風のナレーションが重なった。正確な文言までは聞き取れなかったが、僕たち観客は何らかのセッションに参加する「被験者」であり、これから聴く音は特別に設計された音響トリガーである、といった内容だった。続いて、宗教的な祈りとも童謡ともつかない、しかし明らかに不穏な詩の朗読が始まる(〈口にしてはいけない〉〈ママに叱られるから〉〈ヘルタースケルター〉等々……)。彼ら特有の悪戯めいた設定にノセられ、これから始まるセッションが、何らかの宗教的なイニシエーションのような気分になってくる。

いよいよ明らかになった『Inferno』の全容

スクリーンにはさっきのキーホルダーと同じ、ハニカム型の象徴的なマークが投影され、ゆっくりと回転するその窓の奥で炎がゆらめいている。アルバムは、ミサの冒頭に歌われる入祭唱を意味するタイトルの「Introit」からスタート。まさに儀式の幕開けとして完璧だ。BoC印ともいえるシンセのアルペジオに続き、トライバルなパーカッションが躍動しながらこれまでとは違う未知なる領域へと我々を誘(いざな)う。続く「Prophecy At 1420 MHz」では、アザーンのようなシンセに重いビートが乗り、コクトー・ツインズを思わせるギターが不穏な空間を広げていく。

Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


「Hydrogen Helium Lithium Leviathan」では、変調されたシンセの揺らぎがマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのグライドギターを彷彿とさせる。時空がぐにゃりと捻れた陶酔感に浸っていると、やがて重いビートが打ち鳴らされ、荘厳なホーンとともに奈落の底へと連れ去られてしまう。

アルバム中盤で特に印象深かったのは、サンスクリット語で「地下世界」「地獄」を意味する「Naraka」だ。
ゆったりとしたビートの奥で、高音のシンセが鼓膜をビリビリと振るわせ、冥界から這い出た低音が身体を包み込む。途中で繰り返される「ハレ・クリシュナ」のチャントは救済の祈りか、あるいは呪いの呪文か。ノイジーで美しく、不穏で夢見心地。『Inferno』というアルバムの性格をもっとも象徴する曲のひとつだろう。また「Into The Magic Land」では、シンプルなアルペジオの重なりと、くっきりと前に出たベースが耳を惹く。『The Campfire Headphase』収録の「Dayvan Cowboy」にあったシューゲイザー~ドリームポップ的な成分が、よりダークな色彩を帯びて蘇ったかのようだ。

心臓の鼓動のようなビートに裏寂しいシンセが覆い被さる「Blood In The Labyrinth」は、やがてメインリフを担うエレクトリックシタールと思しきサウンドがエンニオ・モリコーネのモンドな映画音楽を思わせる。ボコーダーとエコーで加工された男女の声、エレクトリックシタール、反復するビート。それらが徐々にエコーに飲み込まれ、カオスへと崩れていく様子は、まさに迷宮の中で血の跡を追っているようだった。

Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


アルバム後半で一段ギアが上がるのは「Arena Americanada」だ。ベースが曲を牽引し、禍々しいシンセが鳴り響く、本作中もっとも攻撃的でカオティックな曲。主にスペイン語圏で使われる”Americanada”という言葉には、誇張された、あるいはステレオタイプ化されたアメリカらしさを揶揄するニュアンスがあるようだ。
そこに”arena”という言葉が結びつくことで、空虚なほど肥大化したアメリカのエンターテインメントや、再び帝国主義的な様相を呈している現在のアメリカ政治まで連想させる。

プレスリリースには『Inferno』について、「現在この地球上で力を持つ闇の勢力や悪役たちの存在を明確に意識した作品」であり、「妄想や虚偽、そしてデジタル化された新たな悪魔学に覆われた世界への応答」でもあると記されている。もちろん、それはサンディソンとエオイン本人たちの直接の言葉ではない。しかしアルバムタイトルや「Naraka」「Arena Americanada」だけでなく、「The Word Becomes Flesh」「All Reason Departs」「I Saw Through Platonia」といった曲名からも、本作が現代の不穏さを強く意識した作品であることは伝わってくる。かつてBoCは、記憶の奥にある牧歌的な風景を歪ませてきた。しかし今作『Inferno』で歪んでいるのは、もはや記憶だけではない。濁ったプリズムの向こうに浮かび上がるのは、悪夢のように変質した現実そのものなのだ。

アルバム終盤の「You Retreat In Time And Space」では、のどかでチャイルディッシュなシンセが広がる。まるで地獄の業火によってすべてが焼き尽くされた後の地平で、少しずつ緑が芽吹いていくような──ここにきて初めて一筋の光が差し込むような感覚。曲の後半、スクリーンに投影されていたハニカムの窓に、炎の合間から8ミリで撮影されたようなホームムービーが浮かび上がる。そこに映る平和な光景は、すでに失われてしまった過去なのか。それとも、この地獄の先にある希望なのか。


最終曲「I Saw Through Platonia」で、再び炎の中へ引き戻される。アンビエントなシンセが降り注ぐなか曲は突然終わり、しばしの沈黙のあと拍手と歓声が起きた。

70分余りのあいだ、僕たちはハニカムの窓の奥で、太陽のフレアのように、あるいは地獄の業火のように揺らめく炎を見つめながら『Inferno』と対峙していた。それは業火に焼かれつつ見る走馬灯のように、禍々しくも美しい体験だった。そして映画館の外に出て明るい現実(という名の地獄)に引き戻された瞬間、軽い目眩とともに「もう一度あの業火の中に身を置きたい」と強く思ってしまう──その感覚が数日経った今も消えずにいることこそが、このアルバムのもっとも恐ろしい余韻だ。

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Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


Photo by Kaoru Goto

Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容

ボーズ・オブ・カナダ
『Inferno』
2026年5月29日リリース
Tシャツ付きセットも発売
詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=15790
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