THE BOOMの「島唄」は、1992年に発表された楽曲。アルバム収録曲の1つだったが、93年に「オリジナル・ヴァージョン」がシングルカットされ、大ヒット。
その後THE BOOM自らいくつものヴァージョンを作り出し、さまざまな国のアーティストたちにカバーされてきた人気のナンバーだ。発表から20年がたち、3月には新録音の記念シングルがリリースされ、沖縄県読谷村を舞台に地域発信型映画として制作されたドキュメンタリー、『THE BOOM 島唄のものがたり』が「第5回沖縄国際映画祭」にて上映。大好評だった。ますます進化している「島唄」について、作詞・作曲を手がけた宮沢和史に話を聞いた。(写真は筆者撮影)
――あせることない名曲「島唄」。改めてこの楽曲に対する、宮沢さんの思いを聞かせてください。
“20年前の歌”と言ったら懐メロといってもいいぐらいの年月ですけど、そうじゃない。沖縄を始め日本各地、そして外国でもこの歌を歌い続けてきました。それだけではなくて、100組位の音楽家の方々がカバーしてずっと歌ってくださっている。そして一般の方も歌ってくださっている。だから懐メロにならないんだな、と思っています。自分が一生で歌う回数は数えられますが、僕らが伝えきれないことを、いろんな人がいろんな所で歌って伝えてくださっていると思っています。
例えばひめゆり平和祈念資料館のバスガイドさんは、毎日歌ってくださっている。「平和を祈る歌だと説明していますが、宮沢さん正しいですか?」とガイドさんに聞かれ、「その通りなのでお願いします」と答えました。大阪の大正区に行った時は、民謡酒場で「島唄」を年に300回演奏して歌っているという、10代の女の子に会いました。彼女は、俺より歌っているんです(笑)。そういう形で僕らだけではできないことを、たくさんの人がいろんな所で歌って演奏してくださっているので、命が止まることなく更に火が大きくなっている感じがしています。発表して20年たった「島唄」を、沖縄の人や全国の人とお祝いしたいと思って、新録音でシングルにしました。そして「沖縄の20年にとって、この歌はどうだったのだろう」と総括したい気持ちで、映画を作ることになりました。僕が語るのではなく、沖縄県出身の著名人の方に語っていただきました。
――「島唄」という奇跡の楽曲を創作し、これほどまでに沖縄と縁が深くなった意味を考えたりしますか?
沖縄に興味があってふらっと旅に来て、「島唄」ができて……過去に“もしも”ってことはありえないから分かりませんが、何事もなかったら違う所に旅に行っていたかもしれないですよね。だけどこの歌を作ってヒットし、多くの方がいい曲だねと言ってくれました。でも批判もありました。“ヤマトンチュ(大和の人=沖縄以外の人)がなに言ってるんだ”とか。
今の若い人は信じられないかもしれないけれど、“沖縄の三線(サンシン)を振り回すなんてもってのほか”だとか、“琉球音階を気安く使うな”とかお叱りもいただいた。“戦争も知らないくせに、なんで戦争の歌を歌うんだ”とか……たくさんありましたよ。こんなに沖縄のことが好きなのに、批判される自分がいるのは本当に悲しかった。沖縄のむごい戦争と、国の思惑に翻弄される姿。それらは歴史だけど許せないし、そういったことを訴えていきたい思いで「島唄」を作ったのに……なんでこんなに傷つかなきゃいけないんだ、という気持ちがありました。でもそこで、“もういいや”とは思わなかった。時間をかけて理解してもらうしかないという気持ちでずっと歌い、それで20年かかったんです。映画の中には、「島唄」を認めてないかのような発言も一部ありますが、一緒にライヴをやっている友達がそう言ってくれて、すごく嬉しかった。20年たっていろんな声が段々聞こえなくなり、いろんなことを言っていた方が歌の意味を改めて認めてくれたり、それで20年かかりましたよね。歌い続けてきたから理解してもらえたんだ、と思います。今の僕は沖縄にいて、一番自然で楽で、楽しくて気持ちがいい。これまではどこか構えていたし、どうしてこんなに好きなのにわかってくれないのかなと……恋と一緒ですよ。
今は愛し合っているかどうかは別として、理解してくれる人が増えたから、沖縄にいてとても楽しいです。
――これからも、沖縄との関係がますます深まりそうですね。
元々沖縄民謡が好きで、沖縄を好きになったんです。それが僕にとってのすべて。三線の音色と沖縄音楽の美しさにとりつかれました。もっといろんなことを知りたいから戦争について調べたり、食べ物のこと知ってカフェを作ったりとか。今でも僕にとっての愛の種火は、沖縄民謡です。でもこの20年を振り返ってみたら、登川誠仁さん・嘉手苅林昌さん・照屋林助さん・我如古盛栄さん・知名定繁さん・喜納昌永さんという、沖縄民謡界の宝といえる人たちが亡くなっています。失ってわかる喪失感や怖さ、そして東日本大震災の影響もあって、「人の命はいつ終わるのかわからない、俺の命も明日終わるかもわからない。何かしなければ!」という気持ちで、去年の春頃から沖縄民謡の記録を始めました。上は86歳から下は8歳までのプロの歌手に、三線で歌ってもらい、僕が映像を撮っています。離島も含めて110曲超えましたので、いつか映画にしたいと考えているんです。
そうすれば、いつかその方たちが歌えなくなる時が来たとしても、工工四(クンクンシー/三線を弾くための楽譜)ではわからない“歌ごころ”が残ります。ウチナー(沖縄)の子ども達や世界中にいるウチナーンチュ(沖縄の人)の教科書として永遠に残したい、と思っているんです。それをCDや映像にした時の売上げを沖縄民謡のために使いたくて、「くるちの杜100年プロジェクト」を立ち上げました。三線の棹の原材料である黒木(くるち)を植えて育てたくて、いろんな人に相談しました。そして琉球古典音楽の野村流と読谷村のみなさんと一緒に、実行できることになったんです。読谷は三線の創始者・赤犬子(アカインコ)のゆかりの地でプロジェクトに相応しく、村長さんが引き継いで管理してくださるとおっしゃってくれていますので、この活動を続けていきたいですね。沖縄民謡の未来が今よりも少しでも広い道でありますようにと願い、僕がやれることはやっていきたい。それはすべて、「沖縄民謡が好き」という気持ちからなんです。
今や沖縄の定番ソングとして、誰もが認める「島唄」。沖縄民謡の魅力を日本全国へ、そして世界各国へと広めた名曲だ。平和を求めるメッセージと沖縄への愛がこもったこの曲を、THE BOOMが歌って演奏し続ける限り、沖縄との絆は深まっていくだろう。そして沖縄県民を始め、沖縄を愛するすべての人々に永遠に歌い継がれていくことだろう。
(取材・文責:饒波貴子)