1911年10月10日、湖北省武昌で清朝打倒を目的とする武装蜂起(武昌起義)が発生した。

 中国では19世紀末ごろから、欧米列強や日本との戦争に負け続ける清朝に対する不信・不満と、異民族支配に反発する雰囲気が高まり、清朝打倒を目指す革命団体が発生していた。


 1895年からしばしば武装蜂起が発生したが、すべて鎮圧された。清朝官憲につかまり処刑された者も多い。

 「革命」の指導者のひとりで象徴的人物だった孫文は、しばしば国外に逃げた。しかし武昌起義は成功し、翌11日午前には武昌全域が決起軍の支配下に置かれた。革命軍が湖北省全域に進軍すると、中国南部を中心に多くの省で武装蜂起が発生し、清朝軍に勝利して、省ごとに清朝からの独立を宣言した。

 武昌起義勃発時、孫文は米国滞在中だったが、急遽帰国。革命派内部で深刻化しつつあった主導権争いを収拾することに成功した。1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が南京で成立した。

 清朝は反乱鎮圧のために袁世凱を抜擢したが、袁世凱は革命側と「皇帝(宣統帝=愛新覚羅溥儀)を退位させる代わりに、自分を中華民国大総統の座につける」との取り引きをした。清朝に袁世凱の意向を覆す力はなく、1912年2月12日、宣統帝が退位することで清朝は滅亡した。

 宣統帝は清朝最後の皇帝であるだけでなく、秦王・政が紀元前221年に中国を統一して以来、用いられた「皇帝」の称号を使った最後の中国支配者、いわゆる「ラスト・エンペラー」になった。

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●プラス豆知識

 台湾では孫文が「国父」と呼ばれ、尊敬の対象でありつづけている。
中華人民共和国でも孫文は高く評価されており、「近代革命の先行者」とされている。現在では台湾と同様に「国父」と呼ばれる場合もある。

 中華人民共和国が孫文を高く評価している背景には、孫文が晩年に共産党を容認し、1920年代には国民党と共産党が協力する第一次国共合作を成立させたことなどがある。

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●プラス豆知識

 清朝末期に発生した革命運動は当初、清朝支配者の満洲族を万里の長城の外に追い出し、「漢族の国」を築くことを目指していた。しかし、中華民国が成立すると清朝の領土を保全することを目指すようになり、漢族、満州族、蒙古族、回族(イスラム系民族全般を指す)およびチベット族の協調を指す「五族共和」を唱え始めた。

 中華民国は独立を目指すチベットやモンゴル地域に派兵して、武力で独立を阻止しようとした。チベットは独立に失敗。モンゴル民族は清朝期に「外蒙古」と呼ばれた北部だけが独立した。

 中華民国が派遣した軍隊は「革命軍」を名乗ったが、実際には略奪行為がはなはだしかった。そのため、モンゴル語では中国語の「革命(グーミン)」に由来する「ガミン」という言葉が、「盗賊」、「盗賊団」の意味で定着した。(編集担当:如月隼人)
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